実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

月日磐(氷室神社の祭祀の始まり地)

月日磐(ツキヒノイワは 和銅3年(710)3月10日〈旧暦〉に藤原京から平城京に遷都した時 若草山「吉城川」上流日と三日月陰刻がある「月日磐(ツキヒノイワ)」に「氷神(ヒノカミ)」をお祀りして 氷池(ヒイケ)製造氷室(ヒムロ)氷を夏まで保存〉を設け 貴重な氷として夏に平城宮献上しました これが氷室神社の祭祀の始まりとされています 又 朝廷の食膳を司る家柄「高橋(タカハシ)」の氏神「高橋神社」の旧鎮座地とも云われています

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1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

月日磐Tsukihi no iwa) 
(つきひいわ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

奈良県奈良市春日野町

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

不詳

《主》氷室神Himuro no kami) か ?

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

氷室と氷池と氷室社

奈良の氷室社は、平城京とともに和銅三年(七一〇)に御笠山麓に創建されたと伝えられています。しかしその所在は、はっきりとはわかっていません

冊子「なら氷室」発行所 氷室神社社務所より

【由  (history)】

なら氷室神社の由来と歴史

当社は、『遠弘神主記』によれば、和銅二年(七〇九)元明天皇の勅書によって氷室を御笠御料山に移し、闘鶏大神を祀り、諸国に製氷技術を教えたことにはじまるといいます

冊子「なら氷室」発行所 氷室神社社務所より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座
      …大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数大和国 286座
      (大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)添上郡 37座(大9座・小28座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 髙橋神社
[ふ り が な ](たかはしの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Takahashi no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂) 大和国 添上郡 髙橋神社Takahashi no kamino yashiro)の論社3つ

① 和爾下神社(天理市櫟本町)の境内社 若宮社(Wakamiya sha)

一緒に読む
和爾下神社(天理市櫟本町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古くは祭神を「櫟井臣(イチヒイノオミ)和珥臣(ワニノオミ)」〈大和国添上郡 春日郷を本拠地とした古代氏族〉の祖神「第5代 孝昭天皇の皇子=天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」「第6代 孝安天皇=日本帯彦国押人命(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)」の2柱を祀っていたとされます 明治初年には 延喜式内の和爾下神社に当たると考証があり 社名を和爾下神社と変更します 現在は 本社に3柱 若宮に1柱の神が祀られています

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➁ 高橋神社(奈良市八条町)

一緒に読む
高橋神社(奈良市八条町)

高橋神社(たかはしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 内膳司(うちのかしわでのつかさ)として 朝廷の食膳を司る家柄「高橋氏(たかはしうじ)」が 当地「高橋邑(たかはしのむら)」に居住し 祖神を祀ったと考えられています

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③ 月日磐(氷室神社の祭祀の始まり地)

一緒に読む
月日磐(氷室神社の祭祀の始まり地)

月日磐(ツキヒノイワ)は 和銅3年(710)3月10日〈旧暦〉に藤原京から平城京に遷都した時に 若草山に近い「吉城川」上流の石〈日と三日月の陰刻がある〉「月日磐(ツキヒノイワ)」に「氷神(ヒノカミ)」をお祀りして 氷池(ヒイケ)〈冬に氷を製造〉と氷室(ヒムロ)〈氷を夏まで保存〉を設け 貴重な氷として春~夏に平城宮へ献上しました これが氷室神社の祭祀の始まりとされています 又 朝廷の食膳を司る家柄「高橋(タカハシ)氏」の氏神「高橋神社」の旧鎮座地とも云われています

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建保5年(1217)11月に「月日磐(ツキヒノイワ)」から 遷座した現在の神社

・氷室神社(奈良氏春日野)

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄奈良駅から 大宮通りを東へ約2.3km  奈良公園を抜けて吉城川沿いに上流へ 徒歩30分程度
吉城川(ヨシキガワ)沿いの春日山遊歩道を東へ 道路脇に「右:月日磐 左:鶯の瀧」と刻まれた石碑が立ちます
少し行くと料亭の反対側 道路の右下の川岸にあります

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月日磐Tsukihi no iwa)に参着

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川の反対岸から
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『大和志料(Yamato shiryo)』大正3年(1914)に記される伝承

「添上郡(ソエガミノコオリ)吉城川(ヨシキガワ)附 高橋(タカハシ) の条」と氷室神社(ヒムロノカミノヤシロ)の条には
月日磐(ツキヒノイワの地は 延喜式の高橋(タカハシ)神社の旧蹟であるとしています

意訳

吉城川(ヨシキガワ)附 高橋(タカハシ) の条

一に宣寸 宣木(ノリキ)に作る

源(ミナモト)を春日山(カスガヤマ) 水谷(ミズヤ)社の後ろを通り 東大寺南大門(トウダイジナンダイモン)の前を流れ 氷室(ヒムロ)社の北を過ぎ 法蓮(ホウケン)の東に至り 佐保(サホ)川に入る

但し 舊跡幽考(キュウセキユウコウ)に
「宣木(ノリキ)川・東大寺南大門の南のほとりを橋をわたせる川あり 俗に高橋(タカハシ)というこれなり」と見え
今の東大寺南大門前の石橋を高橋(タカハシ)と称するが おそらくは非なり

案ずるに〈考えるに〉
氷室(ヒムロ)社は『廣大和名勝志(コウヤマト メイショウシ)』で所の引用には
「元明帝〈第43代元明(ゲンメイ)天皇〉平城京遷都の時 氷室(ヒムロ)を春日山(カスガヤマ)の北麓に新造して構えた 水屋氷室(ミズヤヒムロ)がこれである・・・・・

守護神となり 吉城川氷室(ヨシキガワヒムロ)あるいは 高橋氷室神社(タカハシヒムロ)と号す
而(シカルニ)建保5年(1217)に遷座し 今の社地・・・」とあり

これに據(ヨ)れば
古(イニシエ)の吉城川高橋(ヨシキガワタカハシ)は 上流の水谷川(ミズヤカワ)水谷(ミズヤ)社の辺りに架かる橋梁にして その地 兩(フタツ)崖高く峙(ソバダ)ち 水流(ミズノナガレ)深く 陥(オチイ)り
高橋(タカハシ)の名寶(メイホウ)に相合えり〈相応しい〉

氷室社(ヒムロノヤシロ)は 嘗(カツ)て その傍(ソバ)に在(ア)り

故に 高橋氷室社(タカハシヒムロノヤシロ)と称す このこと かの社の下に述べるべし 南大門の前にある石橋は 地勢と共に 平坦にして 高橋(タカハシ)と称すべきものにあらず

『大和志料』1

意訳

氷室神社(ヒムロノカミノヤシロ)の条

建保5年(1217)11月朔日 今の社地に遷座せしは明らかなるも その吉城川上の氷室の址(アト)何(イズレ)れにあるべきや
その址(アト)の在る所が 即ち旧社地なり
天平勝宝8年(756)勅定の東大寺古図を案ずるに〈考えるに〉
三笠山(ミカサヤマ)神地の北 水谷川(吉城川の上流)の辺りに 一つの池を図し これに氷池(ヒイケ)の二字の記入あり
また氷室社記に ・・・・・(中略)

又 元明(ゲンメイ)天皇の御宇 氷室の巌窟を三笠山麓の吉城川上の崖に遷造 毎歳6月朔日に氷を朝廷に献ず
今は 日月磐(ヒツキノイワ)という 即ち これなり この地に神殿を造営し 守護神を斎祀し 氷室神社(ヒロロノカミノヤシロ)と号す

所謂(イワユル)日月磐(ヒツキノイワ)は
名所図会に日月磐氷室(ヒツキイワノヒムロ)の旧地「平城趾跡考に曰く 水谷川上 6町余り東山の間にあり・・・・磐面に 日月星の三光の形を彫付ける 俗に その地を呼んで日月といふ」と伝へる所にして 水谷(ミズヤ)川上にあり 故に当時 これを水谷氷室(ミズヤヒムロ)とも吉城川上氷室(ヨシキカワカミノヒムロ)とも称せり

而(シカルニ)して 社殿の位置は 均しく一社の記録であり 一つは水屋(ミズヤ)に祭ると云ひ 一つは川上の南崖 日月磐(ヒツキノイワ)の地に造営すと云ふも

要するに 水屋(ミズヤ)に祭れるものは 古図にみえたる氷池(ヒイケ)の風神なるべく 日月磐(ヒツキノイワ)に祭りけるものは 氷室神(ヒムロノカミ)にして 即ち当社の根本なるべし

然(シカ)らば すなわち
氷池(ヒイケ)の堅い氷を打ち これを 今の日月磐(ヒツキノイワ)なる氷室(ヒムロ)に蔵(キス)めたるものならん

氷池(ヒイケ)に風神を祭り 氷室(ヒムロ)に氷室神(ヒムロノカミ)を祭ることは 延喜式(エンギシキ)に見ゆ
又 山辺郡 氷室社の下に引用せり すべからく参照すべし

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

『大和志料』2 『大和志料』3

奈良市春日野氷室神社Himuro Shrine)献氷祭」について

祭日 5月1日
祭の由来

和銅3年(710)吉城川(ヨシキガワ)の上流 春日山のふもと月日磐(ツキヒノイワ)の地に 氷池(ヒイケ)と氷室(ヒムロ)〈氷の貯蔵〉を設けて 神を祭り 冬の寒さで造り上げた氷〈氷池〉を〈氷室〉で保存して 春から夏にかけて平城宮(宮中)に氷を献上するという儀式に由来する伝統行事

現在は 全国の製氷販売業者・氷売り業者が参列し 午前11時から祭典が始まります 神前に「鯉の滝のぼり」などの 花氷や氷柱を奉献します 午後から神社伝来の舞楽が奉納されます

氷室神社 公式 フェイスブックより

https://www.facebook.com/photo?fbid=1635716509981597&set=a.1437866729766577

月日磐Tsukihi no iwa) (hai)」(90度のお辞儀)

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氷室神社(奈良氏春日野)記事をご覧ください

大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

一緒に読む
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)

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