椿名神社(つばきなじんじゃ)は 口碑には 第2代 綏靖天皇 御宇(BC581~549)宇摩志摩遅命の御子 元湯彦命が 東国平定の時 行前(ゆくまえ)に社を建て 所持していた石剣・石玉を神体として祀ったことが創建 天正の頃(1573~1592)兵火により焼失 文禄年間 (1593〜96)当地に遷座しました 延喜式内社 椿名神社〈つばきなの かみのやしろ〉であると伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
椿名神社(Tsubakina shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
群馬県高崎市倉渕町権田60
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》元湯彦命(もとゆひこのみこと)
埴山姫命(はにやまひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・五穀豊穣 殖産の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-』より
神社編 62 椿名神社(つばきなじんじゃ)
創立・沿革
『倉淵村のあゆみ』によれば、綏靖天皇御宇、宇摩志摩遅命の御子、元湯彦命が東国平定の時に権田村地内に留まりここに社を建て、祭ったのが始まり。その後何度も野火で焼失した為、火災にあっても古称を失わないという事から1744年(廷享元年)石宮建立した。
由来および沿革
綏靖天皇御宇、宇摩志摩遅命の御子、元湯彦命が東国平定の時に権田村地内に留まりここに社を建て、命が持っていた石剣・石玉を神体として祭ったのが始まり。この時東国鎮護の神として埴山姫命を祀られたという。
当時、この地には多くの社家があったが、安土桃山時代、天正の頃に上杉と武田の戦いにより兵火にあい,焼失したという。また、神社の社殿や家屋も焼失し、更に社家が武田家に属して後に古文書、宝物等も全て失ってしまったそうだ。その後,神社を移したが野火にて数度焼失したという。
このように幾度となく焼失を繰り返した為、境内社には石宮が祀られ、焼失した建物の存続を後世伝えるに至り、当時の人々の篤い思いが伝わってくる。
ここに祀られている祭神は、土の神の埴山姫命であるが、五穀豊積をも守られる。この地域における人々はこの神様に守られ,大正6年から続く太々神楽は今もなお年に2回奉納されているという。
【由 緒 (History)】
高崎市指定天然記念物
椿名神社の大イチョウ・大ケヤキ
指 定 昭和五十七年四月一日
所在地 高崎市倉渕町権田字広町六〇椿名神社の祭神は元湯彦命(もとゆひこのみこと)、埴山姫命(はにやまひめのみこと)で、五穀豊穣、殖産の神である。元宮は上ノ久保北方の行前(ゆくまえ)にある。
行前の地は、元湯彦命が東国平定の折、この地にとどまって社を建て、石剣・石玉をご神体としてまつったと伝えられる。戦国の頃、この元宮の社殿などが戦火にかかり焼失したので、文禄年間に現在の地に移転した。
大イチョウ・大ケヤキは、その当時から生茂っていたもので、樹齢四百年をこえていると思われる。
◇大イチョウ 目通り太さ 六、八メートル 樹高 三十四メートル
◇大ケヤキ 目通り太さ 六、四メートル 樹高 三十二メートル
なお、社殿脇に根まわり十二メートル余りの「折り懸けの杉」といわれるご神木があった、この神木は落雷でまっ二つに裂けてしまったが、その一部は今も余命を保っている。
平成八年三月 高崎市教育委員会現地案内板より
椿名神社の大ケヤキ
当社は、元湯彦命が、東国平定の折に行前(ゆくまえ)に社を建て、所持していた石剣・石玉を神体として祀ったことに始まります。野火で焼失したので文禄年間 (一五九三〜九六 )に当地に遷座し、明和三年 (一七六六 )社殿を新築に合わせ、五穀豊穣の神である榛名山満行権現を勧請したと伝えられます。
このケヤキはそれ以前から自生していたものと思われます。太さは目通り 7 m、樹齢は四百年以上と推定され、県内屈指の大ケヤキで高崎市の天然記念物に指定されています。現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・社殿から社務所 神楽殿への渡橋
・神楽殿・社務所
・大イチョウ
・石祠・石仏〈双体道祖神〉
〈社殿の向かって左 大イチョウの脇〉
・大ケヤキ
・手水鉢
・石碑
・境内全体
〈社殿の向かって左が・大イチョウ 右後ろが・大ケヤキ〉
・参道の石灯籠
・一の鳥居
・参道入り口
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・元宮の旧鎮座地〈上ノ久保北方の行前(ゆくまえ)〉
行前(ゆくまえ)の地は
第2代 綏靖天皇(すいぜいてんのう)御宇(BC581~549)宇摩志摩遅命〈物部氏の祖〉の御子 元湯彦命(もとゆひこのみこと)が 東国平定の時 権田村地内〈行前(ゆくまえ)〉に留まり 社を建てて 所持していた石剣・石玉を神体として祀ったことが始まりと伝えられ この時 東国鎮護の神として埴山姫命を祀られたという
天正の頃(1573~1592)上杉と武田の兵火により社殿が焼失し 祠を建てたが これも野火で焼け 文禄年間 (1593〜96)現在地に遷座しました
行前(ゆくまえ)の旧鎮座地には 石祠があったとされるが 現在 元宮の跡地が有るか無いか ?
しかし この辺りには 石器時代の住居跡があり 太古から人々が生活をしていた地であることは確認されています
村の伝承では
この地に留まった元湯彦命(もとゆひこのみこと)は 山の上で 東国鎮護の神として埴山姫命を祀られた際に「ここより先には 行くまい」と云われたと この゛いくまい゛が゛ゆくまえ゛と訛ったとされます
確かに 第2代 綏靖天皇(すいぜいてんのう)御宇(BC581~549)は 東国は蝦夷の土地であり ここより先に進まない判断をされたと思えるような云い伝えです
゛倉渕村長井石器時代住居跡゛
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野國 12座(大3座・小9座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)群馬郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 椿名神社
[ふ り が な ](はるなの かみのやしろ)〈つばきなの かみのやしろ〉
[Old Shrine name](Haruna no kamino yashiro)
【原文参照】
『上野国神名帳(kozuke no kuni jimmeicho)』〈寛政5年(1793)〉に記される伝承
上野国神名帳に 正一位 榛名大明神として記されています
【抜粋】
上野国神名帳
上埜国捴五百七十九座 鎮守十二社 正一位
抜鉾明神
赤城大明神
伊香保大明神
榛名大明神
甲波宿祢大明神
小祝大明神
火雷大明神
・・・・・
・・・・・
【原文参照】
『上野名跡志(kozukemeisekishi)』〈嘉永6年(1853)刊〉に記される伝承
箕輪の項には〈現 椿名神社 旧鎭座地(高崎市箕郷町西明屋)〉を゛延喜神名式に群馬郡三座の内 椿名神社是なり゛と 式内社 椿名神社であると記し さらに゛其所 椿名とあり゛゛箕輪故城の東南 椿山と云に古祠あり゛゛箕輪の城跡より東ノ方八丁許に 椿名大神宮ませり゛と詳細を記しています
あるいは 式内社゛榛名の里宮゛ではないだろうかとも 記しています
【抜粋意訳】
上野名跡志 二編 群馬郡 名義東西二郡ノ事
〇箕輪
後上野志ニ箕輪ハ明屋村也ト云
・・・
・・・〇箕輪故城の東南 椿山と云に古祠あり 天照皇大神 三輪大明神 西宮大神 三社合殿と云 額には三輪大明神とあり
延喜神名式に群馬郡三座の内 椿名神社是なりと云
神名帳頭注に椿名神社 其所 椿名とあり
もと椿名は 榛名を冩〈写〉ひかめくるにはあらずか 字形よく似たり
名跡考に云 如く斯は もと榛名の里宮などにはあらぬか山吹日記に 箕輪の城跡より東ノ方八丁許に 椿名大神宮ませり
石室の上に 宮居立りと見ゆ 式には椿名とあれど 椿名の方まさらんか
神名帳の頭注にて 榛名 椿名一山と聞ゆと云
名跡考にも 此あたり迄 榛名の地内ならんといえり
【原文参照】
権田村の項には 式内社 椿名神社として〈現 椿名神社(高崎市倉渕町権田)〉の記載はありません
榛名山の項には 式内社 椿名神社として〈現 榛名神社(高崎市榛名山町)〉が 詳細が記されています
又 榛名山は 上古は伊香保山と呼ばれ ・伊香保・椿名の両式内社は一か所に在ったのであろう
今の榛名神社〈現 榛名神社(高崎市榛名山町)〉は゛式内社 伊香保ノ神社゛であり 式内社 伊香保神社は〈現 若伊香保神社(渋川市有馬)〉であろう とも記しています
さらに 古代の参道は 箕輪の方から登っていたので 今 箕輪椿山にある〈現 椿名神社 旧鎭座地(高崎市箕郷町西明屋)〉は 里宮であったのだろうとも記しています
【抜粋意訳】
上野名跡志 二編 群馬郡 名義東西二郡ノ事
〇権田村
・・・・
・・・・〇榛名山
・・・・
・・・・後 上野志に舊事大成經を引いて 舊事紀 天孫本紀の彦湯支命にます也
是は 伊香保ノ神社にまして 伊香保ノ湯前明神は 若伊香ノ神社なるへしと云山吹日記に 榛名大明神は 元湯彦命とも満行將軍とも埴安大神とも云
元湯彦命と申御名は 大成經に出たる説にて正しきものにはふつに見えねば用いがだし 満行將軍の名も なえて聞えされば おぼつかなし 埴安大神と申そ まづはうへしきよう也と云
上野名跡考に 伊香保ノ神社は 今云榛名にして 伊香保ノ湯前明神は 若伊香保ノ神社ならんと上野志にいえる予か 按する所と符を合たるが如し
伊香保ノ神社は 延喜式に名神大とありて月次奉幣にあづかる大社也 椿名ノ神社は 小社也 然てー山を榛名山とし 温泉ノ地のみ伊香保と思は誤也
萬葉ノ歌等によりて見れば榛名山は なべて上古は 伊香保山と云しなるべし
さて 伊香保 椿名ノ両社は ー所に有しなるべし 椿名の椿ノ字は 椿名(ハル)と よむべきを 椿名とよむは誤也 然て後に いつしか榛名と文字をも書替たるなり
さて古道は 箕輪の方より登しにて 今 箕輪椿山にますは 里宮なるへし
榛名山満行宮は元湯彦大神 此山往古は 繁昌ノ地にて三千百坊あり云々)
西遊行嚢抄にも 春名山は延喜式の伊加保ノ神社也と云)かく三書ともに 今の榛名は伊香保ノ神社なりといえど たしかなる證もなし
名跡考に 大社小社をいえるもあたらぬ事なり
神の御上にも盛衰ありて 式に見え玉へる御神も 今は八播 天神 牛頭天王などに成玉ひしもあり 亦は其御跡さえ定かなをぬもあるに 式外ノ神の今栄え玉ふもある也今 温泉の地のみ伊香保と思は誤也と言わざる事也
伊香保ノ沼も榛名に近ければ 伊香保ノ根呂は廣かりけんかし されど榛名ノ山は なべて伊香保山と言しならんとは 榛名を伊香保ノ神社と思うからなり 椿名と書替たる也といえど 蘇比乃波里波良とよめりしを思うに 榛ノ字よしあり
亦上野國ノ神名帳に 榛名明神は群馬西郡に四座 勢多郡に二座 片岡郡に一座見え玉えと 椿名明神は一所も見え玉わぬにても 椿は榛の字の誤写なる事あきらか也
伊香保 椿名の両社は 一所に有しなるへしと言は 神名帳の頭注に椿名とあれど 實は榛名の書損也とは 下心には思玉えと さも註しがたければ 其所 榛名と書れしなるべし すなわち榛名は 式の椿名ノ神社にて 上野國ノ神名帳に 正一位 榛名大明神と見え玉う大神也
箕輪の椿山は 此の榛名ノ里宮なとなるべし
後按 一宮に傳し 古写本の写しなりと云 上野國ノ神名帳には 西群馬郡に従一位 椿名木戸明神と見えて 搞本外一本に片岡郡西群馬郡に榛名木戸明神とあるをも椿名木戸明神と書り名跡考の説の如く 椿名は ハルナにや猶可考・・・
・・・
・・・
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 上野国 群馬郡 榛名神社(はるなの かみのやしろ)〈椿名神社(つばきなの かみのやしろ)〉の論社
・榛名神社(高崎市榛名山町)
榛名神社(はるなじんじゃ)は 第2代 綏靖天皇〈即位 BC584~582年頃〉の御代 饒速日命の御子 可美真手命 父子が山中に神籬を立て天神地祇を祀ったのが始まりと云う 第31代 用明天皇 元年(586)に祭祀の場が創建と伝わります 式内社 椿名神社(はるなの かみのやしろ)〈つばきなのかみのやしろ〉であるとされ 社号の゛榛名゛と゛椿名゛の文字の違いについても諸説があります
榛名神社(高崎市榛名山町)
・榛名社(高崎市箕郷町西明屋)跡地
〈旧登山道東口の里宮 or 旧鎭座地 跡地〉
榛名社 跡地(はるなしゃ あとち)は 箕輪城の南東部に出城〈砦〉があった場所 ゛椿山(つばきやま)゛に榛名社or椿名社が祀られていました 箕輪城の南東に突き出た尾根上の前方後円墳(椿山古墳)を利用した椿山の砦の跡地です ここは 古は榛名山への旧登山道東口にあたり 榛名神社の里宮とも式内社 椿名神社(つばきなのかみのやしろ)の旧鎭座地 跡地とも伝わっています
榛名社 跡地(箕郷町西明屋)〈旧登山道東口の里宮 or 旧鎭座地 跡地〉
・諏訪神社(高崎市箕郷町東明屋)
〈榛名社(高崎市箕郷町西明屋)跡地の合祀先〉
諏訪神社(すわじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 永禄9年(1566)武田信玄が箕輪城を落城させ その後 戦難を免れるために 武田氏の守護神 諏訪神社が勧請されたと伝わります 太平洋戦争後には〈貞観16年(874)創建〉石上神社(村内北に鎮座)と 式内社 椿名神社の里宮とも元宮とも云われる榛名社〈満行宮〉(椿山鎮座)を合祀しています
諏訪神社(高崎市箕郷町東明屋)
・椿名神社(高崎市倉渕町権田)
〈旧登山道西口の里宮〉
椿名神社(つばきなじんじゃ)は 口碑には 第2代 綏靖天皇 御宇(BC581~549)宇摩志摩遅命の御子 元湯彦命が 東国平定の時 行前(ゆくまえ)に社を建て 所持していた石剣・石玉を神体として祀ったことが創建 天正の頃(1573~1592)兵火により焼失 文禄年間 (1593〜96)当地に遷座しました 延喜式内社 椿名神社〈つばきなの かみのやしろ〉であると伝わります
椿名神社(高崎市倉渕町権田)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR高崎線 高崎駅から県道29号 と 国道406号 経由で北西へ約28.5km 車45分程度
岩窟観音堂
〈熊谷直実[源平の武将]の愛馬 権太栗毛は 戦で傷つき 生まれ故郷に戻されたが 既に生家はなく 周囲を彷徨い 権太栗毛が落とした母衣[馬具]に包まれていた観音像[仏像]を祀った場所〉
ここから権田方面へ300mほどの所に゛椿名神社゛(つばきなじんじゃ)の看板があります
その対面に参道入り口があります
朱色の明神鳥居が建ち 扁額には゛式内 椿名神社゛と記されています
一礼をして 鳥居をくぐると 田の中を一本道の参道が社に通じていて
石灯籠と石碑があります
参道を進みます 神社の裏手が低くなっているのは 烏川が流れているためです
椿名神社(高崎市倉渕町権田)に参着
記念石碑が並びます
一礼をして 境内へと進みます
午後の参拝でしたが 二月の節分でしたので 手水鉢からあふれた水は凍っていました
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿内の写真は 気が引けましたが
扁額の文字は ゛延喜式内 椿名神社゛と記されています
天上絵も見事でした
権田村では 古より 式内社の椿名神社(つばきなのかみのやしろ)は 此処であると伝承されていて
明治期には 榛名神社(はるなじんじゃ)に対して 式内社の訴訟も検討されていたそうです
社殿の向かって左には 大イチョウと石祠が祀られています
社殿の向かって右の社務所と神楽殿への渡り廊下の下をくぐると
社殿の背後に 大ケヤキとその根元に石祠が祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 椿名神社について 所在は榛名山に在す〈現 榛名神社(高崎市榛名山町)〉 祭神はよくわからないと記しています
【抜粋意訳】
椿名神社
椿名は 波留名と訓べし
〇祭神 分明ならず
榛名山巌殿寺縁起記、元由彦友命、又名 彦由支命、」
地名記云、埴安姫命荒魂四座、和魂三座、〇榛名山に在す、地名記 今 満行大権現と称す
〇萬葉集十四上野歌に、
伊可保呂乃 蘇比乃波里波良 和我吉奴尓 都伎与良之母与 比多敝登於毛敝婆
〈いかほろの そひのはりはら ねもころに おくをなかねそ まさかしよかば〉連胤按るに、西野撮土云、 いかほの沼は里より二里半はかり山をへて、はんなの方にありと云へり、萬葉に、蘇比乃波里波其とある蘇比は添にて、沼に近き處と見えたり、地名記、椿名神社と伊加保神社は其間 二里と云へり、
神位
國内神名帳云、正一位 榛名大明神
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 椿名神社について ゛榛を椿に作る誤れり゛とし 所在は榛名山に在り〈現 榛名神社(高崎市榛名山町)〉と記しています
【抜粋意訳】
榛名(ハルナノ)神社
〇按 本書 榛を椿に作る誤れり、今 上野國神名帳に據て之を訂す、
今 榛名山に在り、満行権現と云ふ、上野國志、山吹日記、巡拝舊祠記、神名帳考、
即 六宮也、神道集
今 四月八日、十五日、九月九日祭を行ふ、熊谷縣注進状
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 椿名神社について 祭神を゛稲田姫命゛とし 所在は榛名山〈現 榛名神社(高崎市榛名山町)〉と記しています
【抜粋意訳】
椿名神社
祭神 稻田比賣命
祭日 四月八日 十五日 九月九日
社格 郷社所在 榛名山 (群馬郡室田町大字榛名山 )
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
榛名神社(高崎市榛名山町)について 式内社 椿名神社であると記しています
【抜粋意訳】
〇群馬縣 上野國 群馬郡室田町大字榛名山
縣社 榛名(ハルナノ)神社
創立年代詳ならず、舊と満行権現と称し、延喜の制式内の小社に列せられ、 (式には榛を椿に作ると雖も、榛の誤字なること先人既に説なり)國帳に 正一位榛名大明神と見え、當國六の宮たり、往古は社頭甚だ盛大にして、社家三千百坊と稱せられしが、後衆徒戰爭に加はりて敗を取りし以來社運衰頽し、加ふるに後 村上天皇 正平六年二月兵燹に罹り 神寶 古記錄 古器を失ひ、社運益々衰頽に傾きしが、德川慕府 社領五十石を寄進し漸く社運回復するに至れり、境内に建久、文永、元亨年間の金石の銘あり、元文五年萬年泉の銘に云く、山有祠廊奉祠天由彦命(〇中略)緩靖後入山之窟隠者(〇中略)用明時始架構於前卽今廟堂也」、と元より俗説に過ぎすと雖も、亦以て當社の古社なりし一證として見るべし、明治の初、縣社に列す地方有数の大社とす。
社殿は本殿・拜殿・其他神饌所・神庫・神樂殿、額殿、雙龍門、神門、神輿殿、社務所、随身門等あり、境内は四萬五百五十坪 榛名山中に在り、岩石の間を切開きて社地とす、渓流として其麓を饒り頗る幽邃の境たり、石磴を昇れば、雙龍門の側に天柱の如く聳ゆる巨巌あり、鉾ケ岳といふ、社背亦怪岩の峭立するあり、御姿石といふ、形狀人體に似たり、里俗其の頂に白幣を立て、之を崇敬す。
境内神社
杵築神社 熊野神社 八幡宮 抜鉾神社 養蚕神社 竈神社
塞神社 御祖霊神社 氷室神社 貴船神社 龍田神社 東照宮
諏訪神社 岩長神社 稻荷神社 三輸神社 菅原神社 大山祇神社
天津神社 國津神社 宇豆女神社 五柱神社 鈿神社 三島神社
【原文参照】
『上野國志(Kozukekokushi)』〈明治43年(1910)〉に記される伝承
榛名神社(高崎市榛名山町)について 式内社 椿名神社であり 榛名山満行大権現と呼ぶとし 祭神は゛元湯彦命゛であると記しています
【抜粋意訳】
群馬郡 〇神社
榛名山満行大権現と云、
延喜式曰、群馬郡 椿名神社、
神社本紀曰、背野國 ,秦名神祠、高丘宮天皇時、元湯建大神至這國、鏡坐、先是、橿原宮天皇時、與父神 美眞道(うましまちの)大神、伏夷賊、亦戦大力之惡神、咸殺之、咸伏之、依之此神主勝軍道
大成經皇孫本紀曰、元湯彦命は、眞道見命子、石長媛命、葛城高商丘宮の御宇天皇時、元(はじめ)爲足尼(たりあま)也、次爲申食國政大夫、奉斎(いつき)大神、俱父命神、前征(すすみて)東夷、至 尾張國、戰猛力雄(たけちからをの)神、此神力至強、常食以神兒、元湯彦神、競戈相闘(せめあひたたかふ)猛力雄神遂屈請服、赦之尚撃 至参河國、伏隠飡(かけくひ)彦鬼、尚至科野國、殺 綠長祇鬼(あなたけすみのをに)、還上(のぼりて)佐萬、機壽百十萬七千五百八十五歳、登廿瀨峯、刺山而入、双槻(なみつき)宮御宇天皇之御代、出毛上国榛名山峯、形人(あらひと)神名云 満行権現、
謹按神史、元湯彦命者、天照太神五代之孫也、(天照皇太神、天忍穂御水尊、饒速日尊、熟美眞味命、元湯彦命、)物部之遠祖也、十巻き舊事本紀、天孫本紀、湯彦命と同神なり、
圭田山中方三里、
別當岩殿寺満行院、天台宗東叡山兼帶、社壇は盤石に作掛てあり、其巖、宮の上に蓋ふ社の四邊、奇石怪岩、重畳環峙て、實に仙境と云べし、其宮上を蓋ふ高岩を、御姿と云、本地堂勝軍地藏 東西堂、攝社九十九所 三重塔,境地、
覚満窟 行道窟 行者谷 護摩壇洞 弘法大師所修護摩處、常時鈴今猶存焉、日天嶽 月天嶽影向石 神馬蹄石 牛頭石 天狗腰掛石 宮社傍不許人往 醫王閣左 役行者殿右 大山府君中 袖摺嚴 神社へ行路 萬年泉 碑銘あり榛名山萬年泉銘井序
上野有榛名山、層峰重積、險阻而盤回、西北嶺口、窪爲ー泓、池潤数千畝、池之左路通信州、一大山乎、山有祠廟、奉祀元由彦命、命宇摩志麻治命之子、相神武緩靖、後入山之窟隠去、乃共薨矣、其窟窈冥、浅深莫測焉、用明時、始架構於前、即今廟堂也、相距十三四步許、路左出檻泉焉、湧自巌、雖旱獠、弗溢弗涸、名曰萬年泉、緣崖穿爲洞、爲・・・・・・・・
・・・・
【原文参照】
『群馬県群馬郡誌(Gunmaken gunmagunshi)』〈大正14年(1925)〉に記される伝承
榛名神社(高崎市榛名山町)について 榛名山巖山にあり 式内社 椿名神社であり 榛名山満行大権現と呼ぶとし 祭神は゛土御祖埴山毘賣神・火御祖火産神゛であると記しています
【抜粋意訳】
群馬県群馬郡誌
第五章 第一節 神社
第二項 縣社二、榛名神社(室田町)
【由緒】
室田町大字榛名山巖山にあり、創立は社傳に據れば神武・緩靖両朝の御宇 饒速日命の御子 可美眞手命・及び孫 彦湯支命父子東國裁定の任果てて、榛名山中に薨ぜりと言ひ傳へ、山上に神籬を立てて、天神地祇を祭り皇孫を壽き奉り、永く東國五穀の豊穰を祈り國家鎭護の霊場なりしといふ。用明天皇元年四月八日始めて齋祀を行はれ鎭魂祭の遺法に因り十月中の寅の日を以て皇祖の無窮皇孫の天壽を祝福し奉るといふ、祭神は土御祖埴山毘賣神・火御祖火産神なり。
社格は維新前迄は満行宮大椎現と称し來り、明治元年榛名神社と復稱し、同五年郷社に列し、同十七年三月縣社に昇進す。當社は醍醐天皇の御宇錄せられたる延喜官帳上野十二社の中にして祈年班幣に預れり、又上野國神名帳に正一位榛名大明神とあり、建久元年の廳宣には檢非違使健兒両使を榛名山に於て停止すべき事、及本地といひ垂跡と云ひ特殊の神域に坐せば國家鎭護の霊地にて、天長地久の仙苑なわと明鑑あらせ給ふ、仙覚萬葉集抄 (鎌倉時代 )には榛名山は古來より、雨乞の勅使を立てさせられし霊山とあり、文永五年の鐘銘に榛名山巖寺とあり、鎌倉二位尼政子は源家繁昌の爲め當社へ祈願を籠めしといふ、南北朝の際 榛名山座主領の爭奪戰等ありて遂に鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の社務執行兼帶してより俗別當職の管掌となる、以來山中社家神主の統一なく英雄の割拠に任せ法印山伏の各所に蟄居せるありて反覆常なかりき、徳川家康天海僧正を引きて駿河或は仙波に論議を構ふるに方りて本多佐渡・井伊直政の斡旋に預り徳川家康の黑印の法度と天海の掟制に應じて天台宗上野寛永寺に属せり、家光の朱印より代々書替をなし來りしが茲に維新の変革に際し徳川氏大政奉還ありてより榛名山朱印十一通は太政官に返上せり、實に明治元年三月の事なりき。
榛名山神領は上古はいかほ山と呼び上毛野始祖豊城入彦命の御子孫代々の御料地なり、中古山中三里四方榛名山神領と稱し來り天台・眞言修驗の霊地にて王法守護國家鎮護の道場なり、早く比叡山延暦寺に属し榛名山座主と唱へ藤原道長の後胤世襲し之が庄園となり南北朝時代に至るまで二十餘代に及べり、山麓十餘里にかけて昔より御分霊の多きこと數ふるに遑あらず、神地・神田も各所に黙在し、榛名山寺領内は武家時代より檢非違健兒両使の停止守護不入の地にて山中朱印に於ては無高なり、
徳川時代より輪王寺宮大王廳の御料地にして殺生禁断なり、天下安穏の大祈禱場として東叡山宮門跡の護寺別當下知の神社地なり、故に社寺法度の下に諸役免除の地にて維新以降境内社地を除くの外帝室御料地・官有地・民有地に區別せり、東叡山輪王寺の官領として榛名山巖殿寺は里見山光明寺の兼攝する所其の住職を以て榛名山學頭兼別當とし神領宮殿寺院並衆徒社家を管督せしめ総て上野寛永寺門跡に隷属せしむ、後西院天皇の皇子大明院公辨法親王には満行宮の御染筆ありて東山天皇の皇子崇保院公寬法親王には榛名山の御染筆扁額を奉進せらる。
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【原文参照】
椿名神社(高崎市倉渕町権田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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上野国(かみつけのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 上野国には 12座(大3座・小9座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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