谷保天満宮(やぼてんまんぐう)は 社伝に 延喜三年(903)父君〈菅原道真公〉薨去の報に 道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りと伝わり 東日本における最も古い天満宮とされます 『巡礼旧神祠記』〈宝暦十四年(1764)〉には 府中領谷保村 別當 安楽寺の穴沢天満宮は 延喜式内社 武藏國 多磨郡 穴澤天神社(あなさは あまつかみのやしろ)と記されています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
天満宮(Tenmangu shrine)
【通称名(Common name)】
・谷保天満宮(やぼてんまんぐう)
・谷保天神(やぼてんじん)
・谷保天(やぼてん)
【鎮座地 (Location) 】
東京都国立市谷保5209
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》菅原道真公(すがわらみちざねこう)
《配》菅原道武公(すがわらみちたけこう)
《合》石土毘古神(いしつちひこのかみ)
天之日鷲命(あめのひわしのみこと)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・厄除け、交通安全祈願
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
谷保天満宮(本殿・拝殿)
所在地 国立市谷保五二〇九番地
谷保天満宮 は「醍醐(だいご)天皇 延喜(えんぎ)三(九〇三)年二月、菅公(かんこう)筑紫(つくし)に薨去された折、道武朝臣(みちたけあそん)は思慕の情に堪えず、手づから父君の酵容を刻んで廟殿に鎮祀し、旦暮如在の礼を盡された。
延喜二十一(九二一)年十一月、道武朝臣が此地で逝去されるに及んで、神霊を相殿に配祀して三郎殿と称した」と伝えられている。(天満宮略縁記・谷保天満宮所蔵)
江戸時代には、朱印領十三石を寄せられ、明治十八(一八八五)年には「府社」となった。
谷保天満宮の主な社宝には、国指定重要文化財工芸品の木造扁額、建治元(一二七五)年藤原経朝筆の額文「天満宮」があり、同じく国指定重要文化財彫刻、鎌倉時代後期の作と見られる木造狛犬一対がある。社叢は、都指定文化財天然記念物の指定を受けている。
主な行事としては、一月一日の元旦祭を始めとして、一月の筆供養、九月秋分の日の例大祭、十一月三日の庭燎祭(おかがら火)等がある。例大祭には、 市無形(技芸)文化財指定の獅子舞 が奉納される。
本殿は流造(ながれづくり)、六坪(約二〇平方メートル)で寛永年間(一六二四~一六四三)の造営と伝えられる。
この流造とは、今日の日本の神社本殿の大部分を占める形式である。桁行三間(五・四メートル)梁間二間(三・六メートル)の母屋の前に一間(一・八メートル)通りの庇をつけたもので、庇は角柱で、土台上に床板が張られ、そこから階段を上って母屋床に達する。屋根は母屋の切妻造がのびて庇に続き、長くゆるやかに流れるような曲線となる。流造の名は、ここから起ったのである。
中世以降の流造は、たいてい三間とも扉口にしている。谷保天満宮の本殿もこの形式をもったものである。
拝殿は、入母屋造二二坪(約十三平方メートル)で、江戸末期の造営とみられる。
谷保天満宮の境内は、梅林 (香雪園)を含めて約六、三〇〇坪(約二〇、七九〇平方メートル)である。
甲州街道 (国道二〇号線)から表参道を降ると本殿、拝殿等がある。普通、神社は高台に鎮座しているものであるが、下へ降る神社は珍らしい。拝殿等が街道に背を向けているのは、かつて甲州街道が境内の南側を通っていたためである。
平成元年三月 国立市教育委員会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
神社名 谷保天満宮
主祭神名 菅原道真公・菅原道武公
由 緒
昌泰四年 菅公太宰府に遷らせ給う所、第三子道朝臣この地に配流され給う。父君薨去の報に朝臣思慕の情に堪え給はず父君の尊容を刻み、天神島(現 府中市本宿)に鎮座す。
養和元年十一月三日裔孫津戸三郎為守霊夢を蒙り現在の地に遷座す。天暦元年京都北野天満宮造営の折、勅使の下向ありて官社に列せられ、関左第一の天満宮と称せられ、明治十八年府社に列せられる。御宇多天皇勅額
「天満宮」一面(国指定重要文化財)
村上天皇寄進
狛犬 一対(国指定重要美術品)
源義経・弁慶・亀井六郎・伊勢三郎書写
「大盤若経」四巻例大祭日 九月二十三日~二十五日
北多摩神社青年会
現地掲示板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
境内図
・本殿
・幣殿
・拝殿
・境内社 厳島神社
《主》市杵島姫命
・弁天池
・境内社 五社神社
《主》天照皇大神,倉稲魂命,大山咋命,妙義大神,伊邪那岐命,伊邪那美命
・北の鳥居
・社務所 宝物殿
・座牛
谷保天満宮座牛について
牛と天神様の関係は、仁明天皇の承和十二年(845)乙丑六月二十五日に菅公が生誕。又、公薨去の際、筑紫の国三笠郡四堂に墓を築き葬ろうと轜車(喪の車)を引出したが、途中牛車が動かなくなったのでその場所に埋葬した等、菅公と牛に関する神秘的な伝説が数多く残っている。
座牛は、この悲しみに動かなくなった牛を表現したものである。
昭和四十八年九月二十五日
・神楽殿
・手水舎
・二の鳥居
・蒼守稲荷・淡島稲荷神社
《主》祭神不詳,淡島大神,倉稲魂命
・第六天神社
《主》面足命,惶根命
・一の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多磨郡 8座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 穴澤天神社
[ふ り が な ](あなさは あまつかみのやしろ)
[Old Shrine name](Anasaha Amatsukami no yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載「武藏國 多磨郡 穴澤天神社(あなさは あまつかみのやしろ)」の論社について
・穴澤天神社(稲城市矢野口)
穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)は 社伝によれば 第6代 孝安天皇4年(紀元前389年頃)の創建 主祭神は少彦名命を御祀りした社と伝わり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社と比定されている大変由緒ある神社です
穴澤天神社(稲城市矢野口)
・谷保天満宮(国立市谷保)
谷保天満宮(やぼてんまんぐう)は 社伝に 延喜三年(903)父君〈菅原道真公〉薨去の報に 道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りと伝わり 東日本における最も古い天満宮とされます 『巡礼旧神祠記』〈宝暦十四年(1764)〉には 府中領谷保村 別當 安楽寺の穴沢天満宮は 延喜式内社 武藏國 多磨郡 穴澤天神社(あなさは あまつかみのやしろ)と記されています
谷保天満宮(国立市谷保)
・穴澤天神社〈将門神社境内社〉(奥多摩町棚澤)
・羽黒三田神社(奥多摩町氷川)
羽黒三田神社(はぐろみたじんじゃ)は 社伝によると「貞観二年(860)出雲国の人 土師連行行基が東国に下向し 御嶽山に詣り神告を得て 当地に高皇産霊神 少彦名神の二神を祀り 穴澤天神と号した」と伝わり式内社の論社です その後 永禄九年(1566)六月 穴澤天神の社内に羽黒権現が合祀されましたが 今は 羽黒権現を本殿とし 穴澤天神が合殿となっています
羽黒三田神社(奥多摩町氷川)
・穴澤天神社(あきる野市深沢)〈参考〉
穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)は 式内社「武藏國 多磨郡 穴澤天神社」の論社「棚澤天神」ではないかとの誤説もあるようですが 棚澤天神は 奥多摩町棚澤に鎮座しています この神社は 深澤村の各神社を合祀した同名の参考神社として ご紹介します
穴澤天神社(あきる野市深沢)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR南武線 谷保駅から南へ約260m 徒歩5分程度で 甲州街道に面した社頭
社頭の社号標には゛天満宮゛と刻字
参拝者が正中を進まぬように 参道中央には 格子柵が置かれています
谷保天満宮(国立市谷保)に参着
一礼をして 鳥居をくぐります
写真ですと 少しわかりにくいのですが 参道は少し下っていて 下り参道となっています
これは 現在の甲州街道は 神社の北側を通りますが もともとは 甲州街道は 神社の南側を通っていたとのこと こちらは 古くは裏参道であったようです
参道の右手には 稲荷社が祀られています
二の鳥居をくぐり抜けます
ここから更に石段を下る 下り参道となっています
手水舎があり 清めます
下の境内は広く 東南側には社殿の方向を向いて 神楽殿が建ちます
振り返ると 真っ直ぐ先に社殿が建ちます
拝殿にすすみます
奉献酒゛澤乃井゛の樽酒
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 透塀に囲まれて 幣殿 本殿が鎮座します
こちら側から 小山の上にある境内社 五社神社へお参りができます
又 北側の鳥居の先には 弁天池の中に 厳島神社もあります
境内に戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『巡礼旧神祠記(じゅんれいきゅうかみほこらき)』〈著者:下總國相馬郡 蛟蝄神社 神職 宮田泰好 宝暦十四年(1764)〉に記される伝承
下総国相馬郡の蛟蝄神社の神職 宮田泰好が 関東・奥羽・甲斐・駿遠諸国の式社を巡拝し 自序の巡拝記「巡礼旧神祠記」を著しているなかで
式内社 穴澤天神社について 府中領谷保村 別當 安楽寺の穴沢天満宮〈現 谷保天満宮(国立市谷保)〉であると記しています
【抜粋意訳】
巡礼旧神祠記 第一 武蔵國式内社 多磨郡八座 並小
穴沢天満宮 穴澤(アナサハノ)天神社
祭神 未考
同郡 府中領谷保村 別當 安楽寺
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
穴澤天神社(稲城市矢野口)を延喜式内社に比定しています
【意訳】
穴澤(アナサハ)天神社
惣風〈惣国風土記〉 天神 圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭
□少彦名神也 地考 當郡 向ガ丘のほとり 小沢の原に洞の如なる深潤あり 長さ1里に近し 潤水湧き出して 玉川〈多摩川〉に落ちるままに谷口天神と云へる古祠あり 古木多し 父老に問うに ここを穴澤と云うよし云へる洞口に臨めば 深慮いうべからず これ穴澤神社疑いべかす
〇土人云う 菅村にこの社あり 故ありて溝村口村氏神とす 当村 今 橘樹郡に属すと云えり
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
谷保天満宮(国立市谷保)について 社伝を記しています
式内社との関連性については 記していません
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿巻之九十一 多摩郡 巻之三 府中領
上谷保村 附持添新田 天満宮
社地一町三段村の東の方にあり本社二間に三間拝殿二間半に三間南向御朱印社領十三石五斗を附せらる
神體木の坐像長二尺五寸許束帶
社傳に菅神太宰府へ左遷の時三男道武玉川の邊へ遷され星霜を送らる菅公薨じ玉ふを聞泣哀の餘り此像を彫刻せられしといふ道武當地の縣主貞盛と云るもとにありてその女を妻として一子をまうけらるこれを菅原道英と號す後孫津戸三郎爲守僧法然に歸依して無常を感じ自殺せしと云此社傳いふかしといへども此邊津戸三郎の因みあることはたしかなるべし本宿彌勒寺に津戸勘解由左衛門尉菅原規嗣の古碑あるを観てしるべし當社古へは本宿にありしが後この地に遷せりとぞ縁起には養和元年六月三日遷れりと云ふかし今其舊地を天神島といふ遷座のとき假屋を設けし處を假屋坂といへりとなん
例祭毎年正月廿日 二月廿五日七十五膳の供具あり又八月廿四日より廿六日まで獅子舞及角力神楽等あり
本地堂
三間四方拝殿の東にあり十一面観音木像長二尺五寸ばかり立身胎蔵に黄金佛ありと云末社辨天社
小社本社の北にあり神明熊野稲荷合殿
本社の後背にあり小社稲荷淡島合殿
小社本地堂の南にあり三郎殿社
小社本社の南にあり菅神の三男道武の社といふ例祭十一月三日の夜新毅を供し又七十五膳の供具あり此日は此地に遷座ありし日とも又は三郎薨去の日なりともいへり神寳天満宮額一面
背に建治元年乙亥六月乙丑廿六日書之正三位藤原朝臣経朝とあり
社傳に後宇多帝勅定の扁額ありとは此事なり別に水府の館より元禄三年納められし模刻あり背に祈祷のため寄進するの由を記せり狛狗二疋
村上帝の寄附したまへるよしをいへど詳ならず別當安楽寺・・・・・
什寶大般若経四巻・・・・
甲薬師一躯・・・・
八幡社・・・・
石神社・・・・
御嶽社・・・
【原文参照】
『江戸名所図会(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承
矢野口村の鎮守 延喜式神名帳所載の多摩郡8座の穴澤天神社に比定して 神社は丘の中腹に鎮座し その麓に巌窟があって その前に清水が流れているので「穴澤」の名の由来だと 昔の巌窟は崩れ 現在の洞窟は新たに掘ったものだと記しています
【意訳】
穴澤天神社(あなさわてんしんのやしろ)
谷口邑(やのくちむら)威光寺(いこうじ)より 東北の方3町斗を隔てて 同じ往還 右の方 小道を入りてあり 社(やしろ)は山の中腹にありて この辺を小澤(こさは)の原と唱える 今 祭神詳らかならず 後世に菅神を合祭せり 祭礼は7月25日なり 又 同日 神楽を修行(しゅうきゅう)し 9月25日に獅子舞を奥行(こうきゅう)す 別當は真言宗にて威光寺と号す
延喜式神名帳曰 武蔵國 多摩郡 穴澤天神社 云
谷之口(やのくち)穴澤天神社(あなさわてんしんのやしろ)
この辺傍らを小澤の原(おさはのはら)と号し
当社の陵の山頂は小澤これ 重政の住まいし城跡なり
文明の頃も金子棒部助 この城に云々武蔵國風土記残編曰 武蔵國 多摩郡 穴澤天神 圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭少彦名神也 云々
当社の麓を潤水流ありき 多麻川に合せ その流れを隔てて山岨に一つの巌窟(がんくつ)あり 故に穴澤(あなさわ)の名あり 昔 巌洞(がんどう)は崩れたりとて 今 新に掘穿(ほりうが)ちる洞穴(ほらあな)ありて 洞口は1幅にして 内は2つに分けてあり 内に神仏の石像を造立す
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
矢野口村の穴澤天神を延喜式内社と比定しています
【意訳】
穴澤天神社
穴澤は 阿奈佐波と訓ずべし
〇祭神 少彦名命 風土記
〇矢野口村に在す 地名記
〇惣国風土記 七十七残缺云 武蔵國 多摩郡 穴澤天神 圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭 少彦名神也土人云 菅村にこの社あり 故ありて隣村 村の氏神とす 今 橘樹郡に属す
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
矢野口村の穴澤天神を延喜式内社と比定しています
【意訳】
穴澤天神社
祭日 9月15日
社格 郷社
所在 矢野口村(南多摩郡稲城村大字矢野口)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
矢野口村の穴澤天神を延喜式内社と比定しています
【意訳】
東京都 武蔵國 南多摩郡 稲城村 大字 矢野口 字小澤峯
郷社 穴澤(アナサハノ)神社
祭神 少彦名(スクナヒコナノ)命
勧請年代詳らかならずと雖も
式の神名帳に 穴澤天神社とあるは 当社なりといふ新編武蔵風土記稿に拠るに「除地 凡六千三百坪 村の巽 城山の中腹にあり 多摩名所図会 今 穴澤天神は社地90間に70間餘 白田二段餘 別當威光寺 新義真言宗」と見ゆ
惣国風土記 残缺云「圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭 少彦名神也」とあり 後人あやまりて 妄に社を尊くせんがために 天満宮と称す
又 何者か縁起をつくりて云 頼朝の時 稲毛三郎重成 当国 小澤七郷を領せし比 一童の俄に狂気し 口はしりて云 此山に一社を建て天満天神を祀らば 百日の間に験あらんと よりて正冶元年7月一社を創建せり云々 新編武蔵風土記明治6年11月 郷社に列す
社殿は 本殿 拝殿を具え 境内438坪あり境内社 稲荷神社 山王神
【原文参照】
谷保天満宮(国立市谷保)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について