玉依比賣命神社(たまよりひめのみことじんじゃ)は 勧請は 上世で年曆悠遠 その時代を詳かには出来ないが 社記及び地方古記録 村老等の旧聞によれば゛崇神天皇の御宇 科野國造の祖、武五百建命の創祭せし所なりと云ふ゛太古に阿曇氏が祀った 延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
玉依比賣命神社(Tamayorihime no mikoto shrine)
【通称名(Common name)】
・池田宮(いけだのみや)
【鎮座地 (Location) 】
長野県長野市松代町443
(長野市松代町東条字内田443)
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》玉依比賣命(たまよりひめのみこと)〈初代神武天皇の母神〉
《合祀神》天照皇太神(あまてらすすめおほかみ)
建御名方命(たけみなかたのみこと)
素戔鳴命(すさのをのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
玉依比賣命神社 由緒
<由緒>
神社創建の縁起によれば、「人皇八代孝元天皇十六年四月十六日東条斎川の地に勧請された」とあり、斎川は現在の岩沢である。その後磯並(現在の中川)に移り、磯並三社大明神と称した。現在の地に鎮座してのは寛喜二年(一二三〇年)と伝える。
延長五年(九二七年)左大臣藤原忠平らにより撰進された延喜式五十巻の中の神名帳に記載された信濃国四十八座の式内社の一つとして、その歴史は極めて古い。現社殿は天保四年(一八三三年)に改築された、八棟造りを模した荘厳な建築である。
<祭神>
主祭神 玉依比賣命(初代神武天皇の母神)
合 祀 天照皇太神・建御名方命・素戔鳴命
<主たる神事>
御田祭
正月六日の午後、神社拝殿において古くから 行われている豊作祈願の神事児玉石神事
御田祭の翌七日早朝より、神社の神宝で県宝にも指定されている古墳時代からの翡翠の勾玉・管玉などを主とした「児玉石」の数を改める。平成二十三年は八百二十七個。今も玉の数の増減でその年の吉凶を占う。五穀御判事
児玉石神事の横で氏子総代たちが集まり作物の神占いを行う。稲や大麦、小麦など九種類の穀物の作柄の上・中・下を占う。恒例祭
祈年祭、例大祭、新嘗祭、歳旦祭ほか平成二十三年六月 玉依比賣命神社社務所
現地案内板より
【由 緒 (History)】
『長野県町村誌』〈昭和11年(1936)〉に記される内容
【抜粋意訳】
長野県町村誌 第2巻 東條村(東條村) 社 【玉依比賣命神社】
郷社 延喜式内小社、社地東西四十八間、南北卅七間九分五厘、面積六反二十步本村中央字内田耕地、天王山南麓にあり。
祭神 玉依比賓命、
相殿、天照皇大御神、健御名方命、健速素煮嗚命を合齋す。祭日 四月二十二日、十月十一日。
勧請上世にありて年曆悠遠 其時代を詳かにする能はずと雖も、社記及び地方古記錄村老等の舊聞に由るに、
崇神天皇の御宇、科野國造の祖、武五百建命の創祭せし所なりと云ふ。
抑も當國神世に在ては經緯の山脈、相連なり、渓谷人跡の通ぜざるの處は都て大水を湛へ、之れが爲めに神人皆 山丘に寄て居住せるを、安曇の連等の祖、穂高見命、筑摩、安曇を始めとし、小縣、埴科、更級、水内、高井の諸郡に及ぼし、山脈を開馨し、彼の湛水を越後國に注ぎしに依て、平地を得、是れが爲 萬世人民繁殖の永基となれりと。是れ當國傳來の古説にして、今尚 其神恩の廣大なるを稱賛し、鴻恩を感謝するが如き緣故あり。
上世安曇郡に穂高見神を鎭齋し、叉更級郡に同神又の名 氷飽斗賣神を祭り 之れに次ぎて、同神の姉、玉依比賣命は特に皇祖神武天皇の母たるを以て、其最初當村字市川の地に鎭祭せり、〔市川は齋川の轉化にして、卽ち此神を祭りたるによる名なりと云ふ、尚遺跡を存す〕
爾來幾多の星霜を累ねて、盆水量退き川脈をなし、土壌漸く開くるに及びて神告あり、曰く『我劍を投げ降さんに、其留まる所に宮造りして遷し、齋ふべしと』茲に因て其實劍の所在を覓(モトム)るに、本村字磯並の地に留まりたるを以て、乃ち神悔に随て神殿を造建し、遷祭せしと云ふ〔遺跡今尚現在す。〕
尤も往古の傳記、近古の兵焚に罹り、今亡きを以て、草創以來轉遷の年月等を詳らかにし難しと雖も 其後 許多の歳次を經て、寬喜二年現今池田の社地に遷座せること等は社記に詳かなり。
蓋し耕地漸次に開け、民屋随て平地に増殖せるの故に依ると云へり。
上世爾來、玉依比賣命神社と稱せしは、延喜式式神名帳にも、埴料郡五座の一に列し、國祭に預り來しは明瞭なり。且つ古傳に謂ふ、本郡英多〔安加太〕の郷は本村以西の古名にして、往時郡領等を置かれし地なり。故に當神を齋きたりと。旦つ其昔は當社の西接近に自他村市驛相連なれり 卽ち可候峠より、地藏峠に通じて 當時北國往還のーなり。故に御所の町辸町〔上中下横数辸町なり。〕柳町等の古稱遺跡を傳へり。但し其市驛は松代築城の時に當り、漸次に彼地に移轉し、本城下に市街を開き、竝に往還の改轉することは、普く地方に傳説する所に於て明瞭なり。
故に松代城創築以來、廃藩に至るまで、本城の鎭守となし、殊に崇信敬祭し、多少の祭料を寄す。且該地の産土神として、人民の崇敬せる所にして、社格尤も著しきに依り、明治六年郷社に列せり。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/211147
・拝殿
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/233838
・社殿
・社務所・渡り廊下
・案内板
県宝(工芸品) 玉依比売命神社児玉石(たまよりひめのみことじんじゃこだまいし)
昭和四十四年拾月二日指定
昭和四十三年には総数七八六個、その中の五九一個が指定されている。
市指定無形民俗文化財 玉依比売命神社の御田祭(おたまつり)
児玉石神事・御判神事(ごはんしんじ)昭和六十年二月九日指定
市指定有形文化財 漆地彩色装神輿(うるしじさいしきそうみこし)(玉依比命神社の神輿)
平成十年八月一日指定
江戸時代初期の厨子様神輿で、松平忠輝寄進との伝承がある。ほぼ全面黒漆塗りで細部は朱漆、金箔などで丁寧な装飾が施されている。
平成二十四年十一月二十日 長野市教育委員会
現地案内板より
・〈境内社〉菅原社〈境内社〉三島社
・神歌奉納記念碑
・正面の石段
・〈境内社〉宗形社《主》多岐理比売命,多岐都比売命,市寸島比売命
・一の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈寛喜二年(1230年)より以前〉旧鎮座地「岩沢~磯並(現在の中川)」
神社創建の縁起によれば 「人皇八代 孝元天皇十六年(BC199年頃)四月十六日東条斎川の地に勧請された」とあり 斎川は現在の岩沢で その後 磯並(現在の中川)に移り 磯並三社大明神と称した 現在の地に鎮座してのは寛喜二年(1230年)と伝えます
延長五年(927年)左大臣藤原忠平らにより撰進された延喜式五十巻の中の神名帳に記載された信濃国四十八座の式内社の一つとして数えられた時は 旧鎮座地「岩沢~磯並(現在の中川)」に鎮座していました
写真の正面の山裾の左辺り〈神社からは東側となる〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)信濃國 48座(大7座・小41座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埴科郡 5座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 玉依比賣命神社
[ふ り が な ](たまよりひめのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tamayorihime no mikoto no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
信濃國と阿曇族について
酒井春人氏の研究に詳しいので ご紹介します
〔酒井春人 1949年 長野市生まれ 早稲田大学第一文学部卒 1993 年龍鳳書房を設立現在代表取締役〕2015年7月
知られざる日本古代史②『海人族安曇族と古代日本列島』安曇族研究会会員 酒井春人 より抜粋
【抜粋意訳】
安曇族の祖神は綿津見神
前号で福岡県の志賀海神社の祭神が、綿津見三神 (表津•仲津・底津 )の海神であることをご紹介した。安曇族はこの綿津見神を祖神とすると言われている。
・・・
・・・全国に刻された安曇族の足跡
安曇族の痕跡は、日本全国に三十数か所あると言われている。今のところ、地名あるいは綿津見系の神社の鎮座地、苗字、地域の伝説などからその関係地を割り出す作業が行われている。
・・・
・・・
その成果を紹介すると、安曇族の本拠地は福岡県の玄界灘を望む志賀島。前号で紹介したように、中国春秋時代の呉国の人々が、紀元前五世紀後半に越との戦争に負けて、海に逃亡し、北部九州、あるいは対馬、毫岐、さらには朝鮮半島の南部にたどり着いたと考えられる。この時、大海を渡る操船の技術を持つ海人族である呉の人々 (安曇族)は、呉の農民や各種技術者を古代日本列島に入植させ、生活の面倒をみたと前述した。
安曇族は、巧みな操船の技術を駆使して、日本海側を北上、日本各地にその痕跡をとどめる。前記米子市の上下安曇、石川県羽咋郡志賀町安津見、滋賀県高島市安曇川町、新潟県岩船郡関川村安角、山形県鶴岡市温海などがその関係地ではないかと考えられる。いずれもこれら関係地には、近くに大きな河川があり、日本海に注いでいる。
長野県の安曇族
こうした全国の安曇族関係地の中でも長野県は、本拠地福岡を凌ぐ第二の安曇族の故郷ではないかと言われているほど、その痕跡が色濃いところである。
まず、穂高神社のある安曇野市は多くの人が知るところだが、以外と知られていないのが、川中島平と佐久平。・・・
すると、安曇族はどのルートを使って、信州に入ってきたのだろうか。考えられるのは信濃川ルー卜である。信濃川から千曲川を経由して入り込むことは、そうむずかしいことではない。・・・
・・・【原文参照】詳しくは原文をお読みください
『千曲川地域の人と文化 2015年7月』より抜粋
https://ueda.zuku.jp/journal/2015.7.pdf
『小学国史教授用郷土史年表並解説』〈昭和12年(1937)〉に記される「阿曇氏の祖 早くより信濃に入る」より
信濃國に入った阿曇氏が 祀つた神社について記されています
【抜粋意訳】
阿曇氏の祖早くより信濃に入る。
阿曇氏は元來海部の頭梁であるから海岸にばかり榮えたやうに思はれるにも拘はらず、この信濃のやうな山國にも住したことが部名以外、地方神社名に依って想像することが出來る。
卽ちこの氏又は此の氏の率ゐし海部 若しくは其部曲である阿曇部の住したことは、安曇郡の明神大社、穂高神社が安曇氏の祖神として仰がれる穂高見神を祀つてゐること、同じく式内社である川會神社が亦海神を祀ってゐることに依っても明である。本郡内の式内社 氷鉋斗賣神社は阿曇氏の祖 宇都志日金拆命を祀ってゐる。これ又 阿曇氏の住したことを證するものであらう。又地名にも氷飽、斗賣二郷がある。これは二郷に住した阿曇族が其の奉齋神の名稱を二分して地名としたのであらう。本郡の隣 埴科都には阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命を祀ってゐる處の玉依比賣神社が東條村にある。小縣郡には海部郷がある。兎に角 阿曇氏の族は早くから阿曇・更級・埴科・小縣に分布したのであろう。(更科郡誌、)
【原文参照】
延喜式内社 信濃國 安曇郡 穗髙神社(名神大)(ほたかの かみのやしろ)
安曇氏の祖神として仰がれる穗高見命(ほたかみのみこと)(別名 宇都志日金拆命 うつしひかなさくのみこと)が 祀られます
・穗髙神社(安曇野市穂高)
穂高神社(ほたかじんじゃ)は 太古 安曇族は 海神系の宗族として遠く北九州に栄え 信濃の干拓に功をたて 安曇野の中心 穂高の里に祖神を奉斎したのが 当神社の創始とされます 延喜式内社 信濃國 安曇郡 穗髙神社(名神大)(ほたかの かみのやしろ)の本宮です 上高地には奥宮 奥穂高岳の山頂には嶺宮が鎮座しています
穗髙神社(安曇野市穂高)〈延喜式内社 名神大社〉
・穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)
穗高神社 奥宮(ほたかじんじゃ おくのみや)は 上高地 明神池のほとりに祀られています 上高地明神付近は古くから〈神合地 神垣内 神河内〉(上高地)とも呼ばれ 神々を祀るにふさわしい神聖な場所とされてきました 嶺宮は 安曇族の神・穂高大明神が降臨されたと云う 穂高連峰の最高点・奥穂高岳の頂上に祀られています
穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)〈上高地の聖地 明神池のほとりに鎮座〉
延喜式内社 信濃國 安曇郡 川會神社(かはあひの かみのやしろ)
海神として 海の底の神〈底津綿津見命〉を祀られています
・川会神社(北安曇郡池田町)
川會神社(かはあいじんじゃ)は 海の底の神〈底津綿津見命〉を祀り 遠い昔 ここ安曇野は山に囲まれた一面の湖だったと云う真実を 時を超えて 私達に伝えています 民話『泉小太郎』は 山を破り 湖の水を抜き あらわれた湖底が やがて里を潤う田となります 人々は遠い神代から 現在まで神に感謝を捧げています
川會神社(北安曇郡池田町会染)〈民話『泉 小太郎』ゆかりの里〉
延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)
安曇氏の祖神として仰がれる 宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)が 祀られます
・氷鉇斗賣神社(長野市稲里町下氷鉋)
氷鉋斗賣神社(ひがのとめじんしゃ)は 延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)で 鎮座地の氷鉋村は かつて上中下の三村に分れ各々氏神を祀り 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称し 本宮であろうとされます 鉋の文字は 材木の表面を削る「かんな」の意です
氷鉋斗賣神社(長野市稲里町大字下氷鉋)〈阿曇族の祀る延喜式内社〉
・更級斗女神社(長野市川中島町御厨)
更級斗女神社(さらしなとめじんじゃ)は 口碑には゛建御名方命が 境内に広い行宮(社務所)を建て 隋従の八人の乙女を配し滞在鎮座の地【八名祗の内】と称した゛と伝わり 斗女郷の中心地とされます 延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の論社でもあります
更級斗女神社(長野市川中島町大字御厨)〈斗女郷の冨部氏の氏神として創建〉
〈参考論社〉・氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)
氷鉋諏訪神社(ひがのすわじんしゃ)は 下氷鉋に鎮座する諏訪神社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社or諏方社と称したとあり 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)に関係があるのでしょう
氷鉋諏訪神社(長野市稲里町大字下氷鉋字入村)
〈参考論社〉・川中島斗賣神社(長野市川中島町上氷鉋)
川中嶋斗賣神社(かわなかじまとめじんじゃ)は 上氷鉋に鎮座した諏訪明神社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称したとあります 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の分祀と考えられます
川中島斗賣神社(長野市川中島町大字上氷鉋)〈元 上氷鉋村の諏訪明神社〉
〈参考論社〉・氷鉋神社(長野市稲里町中央)
氷鉋神社(ひがのじんじゃ)は 中氷鉋に鎮座した諏訪社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称したとあります 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の分祀と考えられます
氷鉋神社(長野市稲里町中央)〈式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉の分祀〉
延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)
阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命が 祀られています
・玉依比賣命神社(長野市松代町東条)
玉依比賣命神社(たまよりひめのみことじんじゃ)は 勧請は 上世で年曆悠遠 その時代を詳かには出来ないが 社記及び地方古記録 村老等の旧聞によれば゛崇神天皇の御宇 科野國造の祖、武五百建命の創祭せし所なりと云ふ゛太古に阿曇氏が祀った 延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)です
玉依比賣命神社(長野市松代町東条字内田)〈阿曇氏が祀った延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
上信越自動車道 長野インターから東南方向へ約2.8km 車6分程度
神社の東南方向に駐車場があり 鳥居が建っていて 参道が続いています
玉依比賣命神社(長野市松代町)に参着
尼巌城跡のある尼巌山への登山道にもなっているようです
参道の脇に゛筆塚゛あり 欅の大木の中を参道を進んでいきます
社頭の石段の前には 車道が横切っています 車道の先に見えている山が尼巌山です
石段の上に 拝殿 その上に本殿が祀られています
石段を上がります
拝殿にすすみます 扁額には゛玉依比賣命神社゛と刻字されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の後ろには 一段高い位置に本殿が祀られています
社殿に一礼をして 石段を下ると 祭典時などに車で境内に上れるように 車道が付けられています
参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 玉依比賣命神社について 所在は゛東條村に在す゛〈現 玉依比賣命神社(松代町東条字内田)〉と記しています
【抜粋意訳】
玉依比賣命神社
玉依は多萬與利と訓べし、比賣は假字也、
〇祭神明か也
〇東條村に在す
日本紀神代卷下、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、以に其嬢玉依姫爲妃、一云、、高皇産霊尊兒、萬幡姫兒 、玉依姫命、』
古事記、〔祟神段〕大物主大神、娶に陶津耳命之女 活玉依毘賣 生子云云、」
山城國風土記、〔釋日本紀引用〕云、賀茂建角身命、娶に丹波國神野 神伊可古夜日女、生子名曰に玉依日子、次曰に玉依比賣、〔連胤〕云、此玉依姫同名異神三神あり、當社に祭祀るは何れとも知りがたし、但し諏訪神の緣を以て考ふれば、葺不合尊の妃なる玉依姫ならんか、
〇伴信友云•松代人某が語に、當社神體は明玉也、又神寶に、青紅白三色の明珠数百順顆あり、其形くさぐさありて子を生む、其子になるべきものつぶ つぶとつきたるが、分れて小玉となり、やうやうに大きくなれり、いといと美しき玉也、と云りとぞ、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 玉依比賣命神社について 所在は゛松代の東條村に在り、池田宮と云ふ、゛〈現 玉依比賣命神社(松代町東条字内田)〉と記しています
【抜粋意訳】
玉依比賣命(タマヨリヒメノミコトノ)神社
今 松代の東條村に在り、池田宮と云ふ、明玉を以て靈形とす、〔神名帳考行鈔〕
盖 海神豊玉彦神の女 玉依比賣命を祀る、〔参酌古事記、延喜式大要、〕
凡 毎年正月七日、神寶二百餘顆の曲玉を出して、年の吉凶を占ふ、之を玉占神事と云、〔長野県神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 玉依比賣命神社について 所在は゛東條村 (埴科郡東條村大字東條)゛〈現 玉依比賣命神社(松代町東条字内田)〉と記しています
【抜粋意訳】
玉依比賣命神社
祭神 玉依比賣命
今按 本社の祭神は鸕鷀草葺不合尊の妃 玉依姫と聞ゆ 其は既に安曇郡穗高神社の條に云る如く 此國 綿津見神に由あれば其御所綠によりて祭られ玉へるなるべし
祭日 正月七日 八月二十九日
社格 郷社所在 東條村 (埴科郡東條村大字東條)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇長野縣 信濃國 埴科郡東條村大字内田池田宮
郷社 玉依比賣命(タマヨリヒメノミコトノ)神社
祭神 玉依比賣(タマヨリヒメノ)命
合殿 天照大御神 健速須佐男尊 建御名方命
創立の年代を詳にせずと雖も、元祿年間の神官小河原紀伊府藏の筆記に依れば、崇神天皇の御字 科野國造の祖 武五百建命の創建にて、初め宇一川に鎭座せしを、後神教によりて字礒並に移し、寛喜二年 再び此地に奉遷せりと、延喜式載する所の舊社にして東條村の産土神たり、祭神は•玉依比賣命にして、古事記「大物主大神娶に陶津耳命之女 活玉依毘賣 生子云々、」
日本紀神代卷下、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、以其嬢 玉依姫爲妃」舊事紀「事代主神通に活玉依姫」とある是欺、
神社覈録「玉依は多萬與利と訓べし、比賣は假字也、〇祭神明か也〇東條村に在す 日本紀神代卷下、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、以に其嬢玉依姫爲妃、一云、、高皇産霊尊兒、萬幡姫兒 、玉依姫命、』古事記、〔祟神段〕大物主大神、娶に陶津耳命之女 活玉依毘賣 生子云云、」山城國風土記、〔釋日本紀引用〕云、賀茂建角身命、娶に丹波國神野 神伊可古夜日女、生子名曰に玉依日子、次曰に玉依比賣、〔連胤〕云、此玉依姫同名異神三神あり、當社に祭祀るは何れとも知りがたし、但し諏訪神の緣を以て考ふれば、葺不合尊の妃なる玉依姫ならんか、〇伴信友云•松代人某が語に、當社神體は明玉也、又神寶に、青紅白三色の明珠数百順顆あり、其形くさぐさありて子を生む、其子になるべきものつぶ つぶとつきたるが、分れて小玉となり、やうやうに大きくなれり、いといと美しき玉也、と云りとぞ、」
神祇志料「玉依比賣命(タマヨリヒメノミコトノ)神社 今 松代の東條村に在り、池田宮と云ふ、明玉を以て靈形とす、〔神名帳考行鈔〕
盖 海神豊玉彦神の女 玉依比賣命を祀る、〔参酌古事記、延喜式大要、〕
凡 毎年正月七日、神寶二百餘顆の曲玉を出して、年の吉凶を占ふ、之を玉占神事と云、」
大日本史〔神祇志〕「玉依比賣命神社、〔〇今在東條村、曰池田宮、〕蓋祀に海神豊玉彦女 玉依比賣命以玉爲 神體云々、」
又 大日本地名辞書之を載す、かく當社は古社たるべしと雖も 其後の事歷を知るに足るものなし、舊松代城の鎮守として同藩の祟敬社たり、明治六年四月郷社に列す。
社殿は本殿•拜殿•神庫・石鳥居等を具備し、境内地千八百二十坪 (官有地第一種)あり。
境内神社 宗形社 菅原社 三島社
【原文参照】
玉依比賣命神社(長野市松代町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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信濃国(しなののくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 信濃国(しなののくに)には 48座(大7座・小41座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
信濃國 式内社 48座(大7座・小41座)について