実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

玉諸神社(甲府市国玉町)〈甲斐国三之宮『延喜式』玉諸神社〉

玉諸神社(たまもろじんじゃ)は 社記に 甲斐国の上代 酒折宮の北方 三室山の山上に祀られ 日本武尊が東征の帰路 酒折の宮に滞り国中の反乱を鎮め 景勝の地に国玉神を祀られたのが創始と云う 又 一つの珠を埋め 上に杉一株を植ゑられた これを玉室杉と称し玉諸の名起ると云う 式内論社 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

玉諸神社(Tamamoro shrine

通称名(Common name)

甲斐三ノ宮かいさんのみや

【鎮座地 (Location) 

山梨県甲府市国玉町1331

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》国玉大明命(くにたまだいみょうじん)

あるいは

《主》大己貴命(おほなむちのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

甲斐国三宮 玉緒神社由緒
神社名と鎮座由来

 社記によると甲斐国の上代には 酒折宮 北方 三室山山上に社が祀られていたが、約二千年前 景行天皇の御世、日本武尊 東征の御帰路の折、山々に囲まれた盆地は水路開けず大雨あればたちまちに氾濫、湖水となり洪水に苦しむ様を見て、酒折宮 前方の国中央の佳き地を選び、水害防止の為 一つの珠を土中に納め、上に一株の杉を植え、神籬木(神の魂の宿る木)とし 土地の守神である国玉大神を一国鎮護の神として祀ったこの後、洪水は静まり神徳顕著なるにより、社を祀り国魂神・国玉社と特に社号を賜った この杉は玉室杉と呼ばれ そこから玉緒の名が起こったとも伝えられている。地域に凶変ある時は、この御室山が鳴動して里人に告げるという伝説がある。

甲斐国三之宮について

 甲斐源氏の祖、清和天皇貞観年(863)神前に官弊(神前への天皇の特別な供え物)を賜り、勅願所(天皇の命に依り地域無事の為の祈願を行う)となり延喜式(当時の法律の施行細則)に所載(甲斐国中で二十社その内、盆地内の山梨筋は九社のみ)され、式内社に列せられた
 この頃より中央から任命される国司の巡拝する順により一宮、二宮の称号が生じ 当社は三番目、甲斐国三宮と称され篤く崇敬を受け、三社で竜王三社神社まで盆地全体の水防祈願のみゆき祭を斎行、
 その後、武田家も代々祈願所とし崇敬を深めたが、天正年(1582)武田家滅亡時に織田方の兵火にかかり社殿全て焼失の惨鍋に遭う
 後、徳川家の朱印を受け、神領は保護され、慶長十四年(1609)徳川家康の命で現在の本殿と旧拝殿が造営されたので、旧拝殿東西の棟木下には、徳川家の家紋である葵の御紋を戴いていた
 その後幾度かの修繕を経たが老朽化したため、多くの方々のご協力をいただき平成十六月玉緒地域全体の総氏神様としての新拝殿が竣工した
 大正十一年県社に列格、その時までみゆき祭は代官所の命により三社揃って斎行されていたが維新後一時中断、平成十五 百三十年余ぶりに三社みゆき祭が復活した。

 平成十六十一月吉日
現地案内板より

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■由緒沿革:

 社記によると日本武尊 東征の御帰路、酒折の宮に滞り国中の反乱を鎮められて、景勝の地に国玉神を祀られたに始まるといふ。
 又、一つの珠を埋め上に杉一株を植ゑられたが、後にこれを玉室杉と称し玉諸の名起るとも伝へてゐる。
 桓武天皇 延暦十六年神位従五位上を賜り、淳和天皇の天長三年従三位を賜り、清和天皇の貞観五年官幣を賜り勅願所ともなって、延喜式所載の式内社に列せられた。
 武田氏も代々祈願所として崇敬を深めたので、天正十年には滅亡の兵火にかかり焼失したが、慶長十四年再建 家康より神領六拾壱石三斗余を寄進され、代々の将軍も朱印状を賜り甲州三の宮と崇敬された。
 又、板垣村御室山にありいつの頃かこの地に御遷座ともいふ。天長の頃より一宮、二宮、三宮と共に竜王村三社明神まで水防祭に神幸されたが、いつしかそれも絶えて久しいが平成十六年より関係者の協力により復興している。
 大正十一年十二月県社に列せられ、境内に秋葉神社、五条天神社を祀り、年と共に古社の風格を備へてきてゐる。

山梨県神社庁HPより
https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/1087

【由  (History)】

『三宮玉諸神社御由緒』〈昭和10年〉に記される内容

【抜粋意訳】

三宮玉諸神社御由緒

編者 磯部正佐

第一章 神社名稱起因

一、玉諸神社

 甲斐國上代府治の跡、酒折宮の北方、御諸山の上に、宮室を建て始て祀る。延喜式、山梨郡九座の内也。山下南七町計にして平地を選み、国の中央勝地とし、一顆の玉を埋納し、一株の杉を栽へ、神籬木(ヒモロギ)とし、國造 大己貴命を祭る。山上を山宮とし、山下を里宮とす。毎年例して春秋二季、山宮幸祭あり、御室山の麓 御前塚に於て祭典す。蓋し社名 玉諸(タマムロ)は魂室(タマムロ)にて、玉は御魂(ミタマ)なり、諸(モロ)は室なり、神室なり、神靈の龍る宮室なり、玉諸の文字は假文字なり、古典に其例尠なからず、神名神社名等顔る多し、何玉命 何玉神社等、皆 神魂を云ひたるなり。
左に其例を掲ぐ、近著國民教養に
『本邦に於て人の心を稱して、「こころ」と訓む、之れ心魂より起れる義なり、心魂は玉の義に基く、玉の玲瓏として清きが如く、心魂も亦に清くして圓寶なること、玉の如くなるを望みし意なり、心玉の回轉する景狀、之を「こころ」と謂ふ、「ころころ」の意に基く』
とあり、故に玉を神の御靈魂に、充てたる例尠からず、後文國玉の稱號の處に述べし。諸の文字はもろもろにて、室とし神室を指すなり、是れ亦 假文字にて、古書 皆諸を室とす、御諸山を神室山とも書し、三諸山、又 三室山とも記さる、故に御諸は神室なり、
萬葉集三丹生女王の御歌に
 杖つきもつかずも、ゆきて夕け問ひ、石下(イシウラ)もちて、吾やとに、御諸(ミムロ)をたてて、枕邊に、齋戸居(イハヒヘス)云々
〔註に御諸乎山は、神の御室を齋ひ立るなり。〕
とあり、故に御室は神室なり。
國史に曰く
 大和國城上郡御諸山、神座日向神社ニ、大國主大神ノ幸魂奇魂ヲ祀リ、山下大神(ミハ)大物主神社アリ、同ク和魂ヲ祭ル 此の御諸山は、神の宮室の存在せる山なり、又 大國主大神を祀る、我 玉諸神社と御同体にして、大和の例に倣ひたるか。

山下の宮 大神(ミワ)神社は、大已貴神にして、同じく御同神なり。則ち山上の宮、御諸山は、大國主神の幸魂奇魂神(サチミタマクシミタマ)にして、山下大神神社は、大物主神にして、同神の和魂(ニキミタマ)なり。則本社御諸山の上に、玉諸社の舊趾山宮あり、山下に國玉(クグマ)の社玉諸の本社あり、同じく大巳貴命にして大和國御室山の神と御同神なり。尚御諸と云ふ事に付き、古書に其例少からず。

橘守部の、鏡廻響の一に、左の如くあり。
 神籬(ヒモロギ)は、生諸樹(オヒモロキ)の、於の省つつまりたるにて、云々又 比母呂岐を、常には上下を略き、御(ミ)の言をそへて、御諸(ミモロ)と云ひ云々

故に御諸(ミモロ)と云事は、神の宮室なる事、更に疑ふべき餘地なし。又 大和の御室山の神は、大已貴神にして、亦 大國魂神なり、
左の如し。
 家牒曰、腋上池心宮御宇天皇、〔考昭〕元年秋七月甲寅朔、遷ニ都於倭國葛城 丁卯天皇夢有ニ一貴人、對ニ立關戶、自稱ニ大已貴命、曰我和魂自ニ神代、鎭ニ三諸山、而助ニ器之昌運也、荒魂服ニ王身、在ニ大殿内而、為ニ實基之護衛、即得ニ神教 而天照大神 倭大國魂神、並祭ニ於天皇大殿之内

と見え、三諸山の神は、國家を守り、天下を経営し、大造の御神徳を以て、大國魂神と稱へ奉る。
大倭神社注進狀に、左の文あり。
 傳聞、倭大國魂神者、大已貴神之荒魂與和魂、震力一心、經ニ營天下之地、建ニ得大造之績、在ニ大倭豊秋津國、守ニ國家、因以號、曰ニ倭大國魂神、亦曰 大地主神以ニ八尺瓊 為ニ神体、奉齋焉

如上の例證に依れば、三諸山の神は、大己貴神にして、國家を造り給ふ御神徳に依り、國魂神と稱へ奉るを證するに足る。故に、古昔は無事長久を祈るに、必ず大和國御諸山の神に向つて祈り、又 誠心を誓盟せしむるを、常とせしものの如し。萬葉集杯に、其歌情多く見へたり。上古人情風俗の如何に、御諸山の神社を崇敬せしかを知るに足る。是れ我國神社の原始時代とも稱すべし。

 蝦夷人も、泊瀬の中流に至り、三諸岳に向ひて、子々孫々清き明き心を以て、朝廷に仕へ奉らむと、盟誓す、

右は、聖徳太子傳暦に見へたり。去れば、本社玉諸神社舊趾は、御諸山に在りて、年々夏冬兩度の神幸祭あり、里宮を國魂社とも稱し、國玉大神を祀る、即ち一、二、三、社神幸祭あり。尚又 甲斐國殘簡風土記にも、左の如く記さる。
 山梨郡東限ニ神部山、西限ニ玉諸川 南、限ニ鹿泊 北限ニ田基
とあり、
玉諸川は本社の舊趾
 御諸山の前を経て、本社の西を流れ笛吹川に入る、今の濁川の古名なれば、玉諸神社の處在  疑ひを入るる余地なし。

抑も、本社は甲斐國鎭護の為に鎭め祭りしなり、蓋し、國家に事有る時は、御諸山鳴動すと云傳説と、國の中央に國魂として鎮め祭る所以にて、明なれども、
尚大和御諸山の縁起を見れば
 大神(ミハ)神社は、大己貴命、朝廷鎭護のため、其和魂を特に、三諸山に鎮め祭り給ひしなり、云々

彼れは、朝廷の守護、是れは甲斐一國の鎭護にして、大小の別ありと雖、祀る所に於て、異なる所なし。

玉杉は、本社創設の時、國の中央勝地を撰み、玉を埋め一株の杉を裁へ、神籬木とし、國家鎭護の祭祀を行はせ給ふの靈地にして、古代の杉、巨木を存し、玉杉と稱へ、夏冬兩度一、二、三、社國祭の節、先以て一宮二宮の神輿を、此地に停むるを例とす。上代は神籬木を拵へ、祭祀を行ひし例最古し、其後 此處に神社を建設せしなりと云ふ。本社記に據れば、今の社地は屢水に浸さるるを以て、成務天皇御宇、御諸山の上に、宮室を設け、國家の祭祀を営みたりと云ふ。

 神祇史に左の記事あり。
 上古は、神籬を建てて、祀りしもの多かりしかと、應神天皇以後、多くは社殿を営みて奉祀し、神籬式を用ふるもの、大に減少せり。云々

神籬に杉を裁へたる、例尠からず、萬葉集歌第四に
味酒乎(ウマサケヲ)、三輪之祝我(ミワノハフリガ)、忌杉(イツスギ)云々
又、
三幣取(ミヌサトリ)神之祝我(ミワノハソリガ)、鎭齋(イハフ)杉原(スキハラ)云々

右等の、忌杉、杉原も、三輪山の比母呂岐を指せる也。而して、本社三輪社と御同神にして、同じく古趾を御諸山と云ひ、凡て其の例に、依りたるものなるべし。

彼の神籬より、上下を畧きたる御諸と、玉を埋めし玉杉と合せて、玉諸の稱へ出たり。橘守部の鐘廻響の一に

 又其御話を、神南備と云ふも、神之森の義、又其母理は、隠(コモリ)の義にて、只いひなしの、少しづつ異れるのみ、本は皆 同語に侍るなり。

右玉杉の舊蹟に、杉の舊根周數丈のもの、長さ壹丈五尺位の片々数十本、存在せしを、枠木を以て之を纒め置かれたり。里人其片々たる殘木の倒れたる方向に、災異ありとて、大に恐れ手を觸るものなかりしが、明治初年 社地 上地の時に、之を取除きて、今は其土地のみ残れり。然れども、里人 玉杉様と唱へ、其杉の古木の朽根の現存せしを知るもの今尚存命せり。時々書き上たる由緒、並古圖面等保存せるも、今茲に之を畧す。寛暦九年諸國神社、京都に於て御用に付き、社號取調方、幕府代官川田役所より達せられ、當時書上たる控書、左の通りなり。

甲斐國國玉村 三之宮
一 國玉大明神 壹ヶ所

甲斐國二十社之內玉諸神社

右外舊號ハ無御座候

右者私持來侯社之分相違無御座候 以上
國玉村神主 磯部隼人

 寶曆九巳卯年九月 岩佐藏殿御役所
(右之通九月廿日川田役所へ差出ス)

右川田役所は、現時の西山梨郡甲運村大字川田に在りたる、代官役所なり。

又 甲陽茗話と云書に左の如くあり。

玉諸社

 善光寺の東の山、酒折の社の間の上に森有,正一位玉諸大明神 神名帳にも有よし、女人参詣する事ならず、正一位勅許之時、吉田よりゆるしにて九月九日斗、女人参詣すといふ、國に大なる變有時も、此山大きに鳴といふ、輕き時に

は少しなるといふ。

甲斐國名所和歌集に古歌あり。

三室山
 千早ふる、みむろの山の、なる時は、秋山油は、ちしを成らん
 みむろやま、谷にや春の、かよふらん、雪の下水、岩たたくなり
みむろは、玉諸の又の名にや、外に三室といふ所なし、いふかし

此但書の三室(ミムロ)、即 御室(ミムロ)にて、前に委く述たる如し。玉諸社の舊趾,御諸山なるとは、確たる説にして一点の疑ひなし。

又 甲陽茗話の説と、古歌と対照せば、國家事有る時は、必ず鳴動して、國人に告げしむると云は、古き傳説にして、國家鎭護の御神徳を顕彰せしむるを、証するに足る。

 上代國家災害ある時に鳴動し、神意を知らしむる例多し。本社と御同神 大巳貴命の、御魂を祀らるる、大和國 大神(ミワ)神社に就て、日本記畧に曰く、長保二年六月本社鳴動に依りて、幣を二十一社に奉らしめ給へり。本社の域内に杉の巨木あり、之をしるしの杉と云ふ。専ら和歌に詠ずることとなりしは、云々
 こひしくは、とぶらひきませ、わが宿は、三輪山本、杉たてるかと

以上鳴動と云ひ、巨木の杉(神木トス)と云ひ、本社の玉杉、又 御諸山鳴動と云ひ、其祭神の大巳貴命なる事など、全く大和御諸山と、合致せるを見るべし。

甲斐國志古蹟部青沼郷
 巨摩郡ニ属シタル所以ヲ,按ルニ、殘簡風土記、巨摩郡東限小田谷、山梨西限玉諸河トアリ、小田ハ西保ノ小田ノ山ナリ、玉諸是ナリ、酒折ノ山ニ玉諸神社ノ舊址アリ、山液滴リ小流トナル、里人大円川、高倉川ト呼ベリ、蓋シ、玉諸河ナルベシ、自是小田山へ山脉聯ナリ、上古郡界タラン、事臨其察スベシ。

因之て視れば、玉諸神社の舊址とあり、則ち、本社舊址なることは、論なし。
〔玉杉址跡 近傍に大正年間 中込治郎左衛門の建てたる石碑あり、此石碑より東南十數尺の處が共眞跡とす。〕

祭神の由來

一 大巳貴命

景行天皇御宇 東夷多く叛く、日本武尊 勅を奉し、征東甲斐國に至り、酒折宮に止り、國中鎭平すと雖、地勢四山閉塞し水路開けず、時に霧雨洪水あれば、忽ち湖水となり、國民常に水災を愁ひ、民多く住居を山に移す。故に酒折前面國の中央の勝地を撰み、一顆の玉を以て、水去土成る玉となし、土中に納め一株の杉を栽へ、神籬木とし、國造 大己貴命を祀り、一國領護の神となす。

因に云ふ、或る古書に因れば
・・・・・
・・・・・〈略〉

【原文参照】

磯部正佐 編『三宮玉諸神社御由緒』,中込果樹園,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1233605

磯部正佐 編『三宮玉諸神社御由緒』,中込果樹園,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1233605

磯部正佐 編『三宮玉諸神社御由緒』,中込果樹園,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1233605

磯部正佐 編『三宮玉諸神社御由緒』,中込果樹園,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1233605

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・秋葉神社《主》火明命

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

玉諸神社(甲府市国玉町)の現在地と旧鎮座地

・玉諸神社 拝殿跡〈御室山の遥拝所〉(甲府市善光寺)

一緒に読む
玉諸神社 拝殿跡(甲府市善光寺)〈゛御室山゛山頂 石祠(玉諸社)の遥拝所〉

玉諸神社(たまもろじんじゃ)拝殿跡(はいでんあと)は 御室山の遥拝所とされます この御室山は゛國に大なる変が有る時 此山大きに鳴といふ 輕き時には少しなるといふ゛と伝わる御神体の゛御室山゛〈月見山の別名〉です 山頂の祠は 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の当初の鎮座地とも云われています

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・御室山〈月見山 別名を゛御室山゛〉(甲府市酒折町)〈玉諸神社(甲府市国玉町)甲斐国三之宮旧鎮座地〉

この月見山は 別名を゛御室山゛とも云い 現在は 酒折宮〈現在地〉の北側 月見山中腹には 磐座などが点在し 酒折宮の旧跡「古天神」があります

玉諸神社(甲府市国玉町)の旧跡地は ゛御室山゛の山頂に鎮座していたとされています

玉諸神社 拝殿跡(甲府市善光寺)は 御室山の遥拝所とされ この遥拝所は 月見山 別名を゛御室山゛の方向を向いています

御室山〈大蔵経寺山〉は 延喜式内社〈(甲斐國山梨郡 物部神社)(甲斐國山梨郡 山梨岡神社)〉の旧鎮座地とされていますが この御室山〈大蔵経寺山〉御室山〈月見山 別名を゛御室山゛は 別の山です

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)甲斐國 20座(大1座・小19座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)山梨郡 9座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 玉諸神社
[ふ り が な ]たまもろの かみのやしろ
[Old Shrine name]Tamamoro no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の論社について

・玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)
〈玉諸神社(甲州市塩山竹森)の奥宮(
御神体)〉

一緒に読む
玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)〈『延喜式』玉諸神社〉

玉諸神社 奥宮(たまもろじんじゃ おくみや)は 社伝によれば かつて高さ7尺 周囲6尺8寸の水晶の玉が神体として祀られおり この神体が神社名の由来と云う 玉諸神社(甲州市塩山竹森)の北東約600m竹森山(水晶山)中腹に奥宮として鎮座する 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の論社です

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・玉諸神社(甲州市塩山竹森)

一緒に読む
玉諸神社(甲州市塩山竹森)〈『延喜式』玉諸神社〉

玉諸神社(たまもろじんじゃ)は 創建勧請の年代は不祥ですが 祭神は 天羽明玉命〈八坂瓊五百箇御統玉(やさかにのいほつみまるのたま)を造った神〉を祀り 高さ七尺余(約212cm)周囲六尺八寸(約206cm)許りの水晶を御神体としていると伝わる 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の論社です 

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・玉諸神社(甲府市国玉町)〈甲斐国三之宮〉

一緒に読む
玉諸神社(甲府市国玉町)〈甲斐国三之宮『延喜式』玉諸神社〉

玉諸神社(たまもろじんじゃ)は 社記に 甲斐国の上代 酒折宮の北方 三室山の山上に祀られ 日本武尊が東征の帰路 酒折の宮に滞り国中の反乱を鎮め 景勝の地に国玉神を祀られたのが創始と云う 又 一つの珠を埋め 上に杉一株を植ゑられた これを玉室杉と称し玉諸の名起ると云う 式内論社 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)です

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・玉諸神社 拝殿跡(甲府市善光寺)
月見山 別名を゛御室山゛の遥拝所〉

一緒に読む
玉諸神社 拝殿跡(甲府市善光寺)〈゛御室山゛山頂 石祠(玉諸社)の遥拝所〉

玉諸神社(たまもろじんじゃ)拝殿跡(はいでんあと)は 御室山の遥拝所とされます この御室山は゛國に大なる変が有る時 此山大きに鳴といふ 輕き時には少しなるといふ゛と伝わる御神体の゛御室山゛〈月見山の別名〉です 山頂の祠は 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の当初の鎮座地とも云われています

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御室山の山頂 石祠(玉諸社)(甲府市酒折町)
〈月見山 別名を゛御室山゛玉諸神社(甲府市国玉町)の当初の鎮座地〉

・柴宮神社(甲府市善光寺)〈御室山の山頂 石祠(玉諸社)の合祀先〉
〈月見山 別名を゛御室山゛の山頂 石祠(玉諸社)を合祀〉

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR中央本線 甲府駅から東方向へ約4.1km 車で12分程度

神社の北側にあたるR411号線の゛玉諸神社北の交差点゛に「甲斐三之宮 玉諸神社50m」の案内板があります

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社殿 境内 社頭は南を向いています 玉諸神社と刻字のある社号標と朱色の両部鳥居が建ちます

玉諸神社(甲府市国玉町)に参着

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一礼をして両部鳥居をくぐり抜けると 二の鳥居として石鳥居が建てられています

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 透塀に囲まれて本殿が鎮座します

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 玉諸神社について 所在は゛甲斐名勝志云、竹森村 玉室明神゛〈現 玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)〉と記され

別の説として゛國玉村 国玉明神、゛〈現 ・玉諸神社(甲府市国玉町)〈甲斐国三之宮〉
この゛國玉村 国玉明神、゛の旧鎮座地は゛往昔 酒折の御室山に鎮坐あり゛〈現 御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉〉と記しています

【抜粋意訳】

玉諸神社

玉諸は多麻毛呂と訓べし

○祭神 在所等詳ならず

 甲斐名勝志云、竹森村 玉室明神、祭神 玉屋命也、叢記云、天羽国玉命也、

 相傳 延喜式所載 玉諸神社也、社壇の中に大なる水精(すいしょう)あり、周廻五尺許高七尺許、地中より出たり、社中に水精(すいしょう)数多あり、
傳聞 陸奥國金華山に大なる水精あり、高十余丈、然れども色黒しと云、其水精の大なるは、此社より大なるはなしと云傳ふ、』

又云、國玉村 国玉明神、三宮と称す祭神 大國魂神也、参考亦同
相伝 延喜式所載 玉諸神社也、往昔 酒折の御室山に鎮坐ありしを、何れの頃か此地に遷し祭る、今 御室山に玉諸明神の小祠あり、』蓮胤云、両説未執れかしらず、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 玉諸神社について 所在は゛ 竹森村に在りて玉室大明神といふ゛〈現 玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)〉と記されます

【抜粋意訳】

玉諸(タマモロノ)神社

  竹森村に在りて玉室大明神といふ、神殿に地中より生出た高七尺 徑六尺八寸の白玉あり、祀て以て神体とす、〔甲斐名勝志、甲斐國志、神名帳考土代、〕

 十一月 甲酉の日、島乞神事を行ふ、〔甲斐國志〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 玉諸神社について 所在は゛竹森村〔字鳥坂〕(東山梨郡玉村大字竹森)゛〈現 玉諸神社(甲州市塩山竹森)〉と記し その奥宮について゛奥宮の 高七尺中より突出たる水精゛〈現 玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)〉と記されます

その他二説を挙げて
゛國玉村の國玉明神゛〈現 玉諸神社(甲府市国玉町)〈甲斐国三之宮〉
板垣村なるは御山゛〈現 御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)
この二説は付会であり 式社ではないであろう と記しています

【抜粋意訳】

玉諸神社


祭日 六月十四日 十一月中旬
社格 郷社

所在 竹森村〔字鳥坂〕(東山梨郡玉村大字竹森
 按 この社を玉宮明神として天明玉命を祭ると云ひ
 奥宮の 高七尺中より突出たる水精(すいしょう)なるを以て 玉諸神社なることも知られ  社中一面に大小の玉石あり 皆 六角なりと云も いとよしありて聞るを

 國玉村の國玉明神 板垣村のなる神社ともいへど 國玉村なる祭神 大國魂命のと云より玉諸神社と唱へ 又 板垣村なるは御山のより 玉諸と付会せしにて 其は明和寛政の頃頻りに式社を争ふこと起りしよりのことなりと云へば 何れも式社ならぬこと顯然なり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

玉諸神社(甲州市塩山竹森)ついて 式内社であり 郷社に列したことが記されています

【抜粋意訳】

〇山梨縣 甲斐國 東山梨郡玉宮村大字竹森組字烏尾坂

郷社 玉諸(タマモロノ)神社

祭神 天明玉(アメノアカルタマノ)

 創立年代詳ならざれども、廷喜式に山梨郡九座並小とある中の一座なる玉諸神社是れなり「今 竹森村に在りて玉室大明神といふ、神殿に地中より生ひ出たる径六尺八寸の白玉あり、祀つて以て神とす、
 十一月甲酉の日、鳥乞神事を行ふ、社中に水精(すいしょう)数多あり、

傳へ云ふ、陸奥國金華山に大なる水精あり、然れども色黒し、水精の大なるは此社より大なるはなしと、神祇志料 神社覈録
又「玉諸神社、今云 竹森村玉太明神是也、城入彦命孫 御諸別(ミモロワケノ)命、土佐国 天石門別安國玉主(アメノイハトワケヤスクニタマモリ)神社、萬葉四云 玉主(タマモリ)」神名帳考証とも見え、現に竹森福生両村の産土神たり、
後冷泉天皇の康平年癸卯 新羅三郎義光、及 文安元甲子年 武田刑部太輔信重、及 後孫昌昭 社造営の梁牌あり、
降つて徳川氏に至りても、黒印状を以て社領高一石一斗の寄附あり、更に慶安中 徳川家光 朱印状に改め社領二石を寄附せり、社記、甲斐国志、甲斐叢記、同名勝記霜月甲酉の日 社中二所に神幸す、之れを鳥乞神事と云ふ、申の刻に至り白鳥飛び来つて、供御を哺み去る、土人 之れを見て來歳の鼻款物價 の貴賤を占ふと云ふ、武田の歌とて社記に録せるあり、
「神垣にかがやく國の光をぞ身の行くすゑにかけて頼まん」
「あとたれし神の恵もよにしるく國の光のかずもそひゆく」
 寳物としては、武田信重の奉納に係る太刀一口を藏せり、寛永十一月社殿再営明治年社領を上地し同乙未年月郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、渡殿等を有し、境内六百八坪(官有地第一種)にして風色絶佳なり。

境内神社
 大神宮 八幡社 天神社 疱瘡神社 秋葉神社 子安神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

玉諸神社(甲府市国玉町)ついて  式内社であり 郷社に列したことが記されています
別の説として゛然れども竹森なる玉明神゛〈玉諸神社(甲州市塩山竹森)〉についても式内論社であると記しています

【抜粋意訳】

〇山梨縣 甲斐國 西山梨郡國里村大字國玉村

郷社 玉諸(タマモロノ)神社

祭神 大國玉(オホクニタマノ)大神

 本社は国三ノ宮と称す、創建年代詳ならざれども古社たること著し、「延喜式 山梨郡 玉諸神社は 即ち当社なり社記
 國主建立の社にして、武田信玄の時、尤も崇敬を極めたり、往昔は酒折の御室山に鎭座ありしを、何れの頃か此に遷し奉る、今 御室山には小祠を置き、社の旅所と爲せり、名勝志社記 甲斐国志
又「座の義は年久敷義にて、篤と相知不申候、甲斐國惣鎭守一國の中央にて國の魂納め候と申傳候、」〔甲斐国寺社由緒書抄
天正年の乱に兵火に罹りて赤地となれり、翌年二十四 徳川家康、國玉、巨世、上阿原、部、酒依にて百三貰文を先規の如く社領として寄附ありて、に復する事を得たり、其後國主より数度造替へ修復等ありしと云ふ甲斐国志 甲斐叢記

社領は「三宮神領、甲斐國山梨郡国玉村之内、六拾一石三斗事、並社中 竹木諸役等、任天正十一二十四日、寛永十九年七月十七日両先判之旨 永不可有相違者也、年月日」〔諸社朱印寫〕
日本寺社領員数記には六十六石とも見ゆ、当時の社運の隆昌なりしを推して知る可し「年中祭禮七十五度、総て公祭にして 夏冬両度の神幸、一ノ宮、二ノ宮同様なり、但し此神は古より馬に乗つて御幸する例なり、官兵杖を給ふと云ふ、」〔甲斐国志是れ蓋し徳川氏の崇敬に依りてなり
相傅ふ、淳和天皇御宇天長825、白根嶽崩壊、洪水国中を浸し、国再び湖水に化す、依つて詔を奉じ、本社並に一ノ宮 二ノ宮と倶に鎮水祭を行ふ、是れ此祭の起源なりと社記に見ゆ、神庫に蔵する所に貫文朱印状を始めとし、古文書宝物数十種あり、

さて社を式内社と認むるものは、巡神祠記に「玉諸神社同郡國玉村」とあり、又地名辞書に「趾は酒折の御室山に在りしを、中世 に移したりと説く、或は然らん、玉諸とは玉村、若しくは玉森の義にて、の御魂の社に因める地名なる事想ふ可し」とありて、社に賛せるあり、

然れども竹森なる玉明神の條に、萬葉玉主(タマモリ)を引る神明帳考の説に近きは、竹森村の明神なるが如し、諸書 疑を存すれば暫く後勘を侯って決すべきなり、而して三ノ宮の號を綬けられしは、一條天皇なりと云ふ、明治初年社領を上地し、尋いて郷社に列す。

社殿は本殿、拝殿、幣殿、参籠所、神樂殿(徳川家康造立の社殿なりと云ふ)等を有し、境内千四四十六坪(官有地第一種)にして、古樹鬱蒼、假山あり、地邊に紫藤を植ゑ、風趣多く、四時の詣者絡繹たり。

 

境内神社
 神明社 浅間神社 美和神社 諏訪神社
 琴平神社 疱瘡神社 天満宮 秋葉石尊神社
 山神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

玉諸神社(甲府市国玉町) (hai)」(90度のお辞儀)

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甲斐國 式内社 20座(大1座・小19座)について

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