実践和學 Cultural Japan heritage

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多久神社(京丹後市峰山町丹波小字涌田山)〈延喜式内社〉

多久神社(たくじんじゃ)は 丹後國風土記 逸文奈具社の条に「天女よく酒を噛み造り その酒を一杯(ひとつき)飲めばすべての病が治る」「その酒を村人に分け与えると皆が吉兆の恵みとおかげを授かる」とある言い伝えに由来する神社です 社記「いつも祭に酒を置いて縁起を祝う云々」と伝わり 後世に天酒大明神と称されています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

多久神社(Taku shrine

通称名(Common name)

・天酒の宮(あまさかのみや)

【鎮座地 (Location) 

京都府京丹後市峰山町丹波小字涌田山

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》豊宇賀能咩命 (とようかのめのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

多久 たく神社 略記(訳文)

   豊宇賀能咩命 (とようかのめのみこと)
鎮座年記 不詳
   十月八日

  延喜式(九二七年制定式内社の小社です。(まない)伝説による天女を祭神としています。
天女は豊受大神伊勢外宮の豊受大神宮に祀られる穀物女神の化身で、当地に天下り農業を興されました。社記によると「植えたその秋に稲の穂が垂れてたわわに実った様を見られて大神は大変お喜びになり、『ああ嬉しい! まことに立派に実った田庭(たにわ)だね云々』と申された。丹波の地名はここから発し、このことを以て祭神をお祭りするわれております。

 又、丹後古風土記逸文に「天女よく酒を噛み造り、その酒を一杯(ひとつき)飲めばすべての病が治る」といわれ、「その酒を村人に分け与えると皆が吉兆の恵みとおかげを授かる」とわれています。このことが後世に天酒大明神(あまさかだいみょうじん)と崇められているゆえんであり、天酒祭は前述の言い伝えに由来するものです。そこで社記に「いつも祭に酒を置いて縁起を祝う云々」と伝わっています。

 このお宮は、丹波、荒山、内記、矢田の総鎮守でお祭りには神輿練込の神事がありましたが寛永年中(一六二四年頃)に無くなりました。当時の御旅所が、昔の盛んであった神事の跡を残しています。

 藩主の京極様は代々このお宮にいつも崇敬の念をもたれ、寄進は数度に亘ってございました。

 昔から、多くの人々の口に、もてはやされている里歌に「矢田や丹波の郷の天酒さまのお下通もありがたい」と謡われています。おそらく徳を崇め讃えてのことでしょう。

 この社は、元天女が鎮座されていた神座尾(かんざのお)(笠の尾にありましたが嘉吉年間(一四四一年頃)に現在の神山に鎮座しました。現在の本殿は、この地方の名匠吉岡嘉平冶の作で、文化九年(一八一二年)に造営されたものです。
明治六年二月十日に村社に列格されました。

 紀元二千六百年(一九四〇年)春祭日掲之

平成二十年(二〇〇八年)十月吉日作成

現地案内板より

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【由  (History)】

多久神社(たくじんじゃ)

 多久神社は峰山町丹波小字涌田山に鎮座する。祭神である豊宇賀能(とようがのめのみこと)は『丹後国風土記』にいう比治山(ひじやま)の天女とされ、万病を治す酒をつくったことから、明治期まで天酒大明神(あまさかだいみょうじん)とも称した。

 当社の祭礼で行われる神事芸能の芝むくり(ちゃあ)は、京都府無形民俗文化財に登録されている。境内(けいだい)は南西から北東にかけて広がり石段を上がった高台に神饌所(しんせんじょ) 神輿庫(みこしこ)、拝殿、本殿覆屋(おおいや)及び境内社が建ち並ぶ。

 現在の本殿は文化八年(一八一一)に火災に遭(あ)った 再建されたと伝わり、文化一一年(一八一四)には完成したことが擬宝珠銘(ぎほしめい)より判明する。一間社(いっけんしゃ)隅木入(すみきいり)春日造(かすがづくり)、こけら葺(ぶき)、建物を彫刻で飾り、軒桁(のきけた)を持ち出して屋根を大きく見せ、正面に唐破風(からはふ)をつける。大工は丹後を中心に活躍した吉岡嘉平で、また細部を飾る彫刻が優れている神社本殿遺構(いこう)として重要であり、京都府登録文化財に登録されている。

 本殿背後には、全長一〇〇メートルに及ぶ前方後円墳を盟主(めいしゅ)として約四〇基の古墳が集中しており、うち一号墳から四号境が京都府史跡「湧田山(わくたやま)古墳群」に指定されている。

 山腹に鎮座する多久神社の社叢(しゃそう)と背後に広がる森林約一・七六ヘクタールは、芝むくりが奉納(ほうのう)される本殿を中心に、それらを取り囲む杜(もり)が歴史的景観を形成し、また約四〇基の古墳が集中する貴重な保全すべき地域であるとして、京都府文化財環境保全地区に決定されている。

 丹波の芝むくり

 芝むくりは『丹後史料叢書(そうしょ)』所収の文化一三年(一八一六)録の丹後峯山(みねやま)領「風俗問状」にも記述されている丹波地区の氏神(うじがみ)多久神社の秋祭り(十月)の祭礼(神輿祭)に行われる由緒(ゆいしょ)ある神事芸能である。

 先導一人、太鼓打六人、猿(さる)役二人の構成で巡行する神輿(みこし)に先行し、所定の要所で演じられる。組み合って連続回転技をみせたりする猿役の演技が印象的である。その際かけられる「ちゃあ」という掛声によって芝むくりは「ちゃあ」ともよばれている。

 丹後に広く流布(るふ)した、笹ばやしの一つであるが、笹ばやしに伴った棒降芸(ぼうふりげい)が特異な展開をみせたものであり、民俗芸能として貴重である。
京丹後市教育委員会

現地案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

多久神社 社殿〈本殿・本殿覆屋・拝殿〉

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多久神社 拝殿

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〈社殿向かって左〉5社合殿と社日碑

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楯縫神社 祭神 〈「兀」を上下に重ねた文字〉天鷲命

〔旧社号 立地荒神  祭日 旧九月二十六日
〔造営沿革 元本区小字笠ノ尾に鎮座なりしも明治四十一年二月五日許可を得て 八幡神社 愛宕神社 八重垣神社 大宮宜神社と共に多久神社境内に見世棚式社殿を建て合併祭祀す

八幡神社 祭神 譽田別命

〔旧社号 八幡宮  祭日 旧九月十五日
〔元本区小字丸山鎮座〕

愛宕神社 祭神 軻遇槌命

〔祭日 旧七月二十三

八重垣神社 祭神 進男命

〔祭日 旧九月二十八

大宮宜神社 祭神 大宮賣命

〔旧社号 大宮宜荒神〕
〔祭日 旧九月二十八日

現地社号札より

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〈社殿向かって左〉2社合殿

稚宮神社鹽竈神社

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・神門〈割拝殿?

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・二の鳥居・右脇に境内社

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・一の鳥居

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・旧鎮座地 笠ノ尾辺り〈丹波城址の周辺 ? 〉

旧鎭座地は神座の尾(現在は笠ノ尾)、池は七夕池として殘つている。(式内社調査報告に記載あり)

現在 池はありません

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

丹後國風土記 逸文奈具社の条に記される゛和奈佐老父(わなさおきな)和奈佐老女(わなさおみな)゛の伝承

「丹後國風土記曰、丹後國丹波郡。郡家西北隅方 有比治里。此里比治山頂有井 其名云眞名井。今既成沼 此井天女八人 降來浴水干時 有老夫婦 其名曰和奈佐老夫和奈佐老婦…」とあり 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)という老夫婦が 天女を欺いた話が記されています

【抜粋意訳】

丹後國風土記 逸文 比治真奈井 奈具社

丹後国風土記に云う

丹後国(たにはのみちのしりのくに)丹波郡(たにはのこほり)群家の西北の隅の方に比治里(ひぢのさと)が有る

此の里の比治山(ひぢのやま)の頂に井が有る その名を云うに麻奈井(まなゐ) 今は既に沼と成る

此の井に 天女が八人 降り来て 水浴びをした この時 老夫婦が有った その名は 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)と云う
この老等は 井に至っていた

密かに一人の天女の衣裳をかすみ取 隠した それから衣裳の有る天女は皆 天に飛び上った ただし 衣裳が無い天女は一人留まり それから その身を水に隠して 獨(ひとり)恥じて居た

ここに老夫が 天女に言うに「私が請うに 天女娘(あまつをとめ) お前を我が子としたい」
天女は答えた「私は独り 人間(ひとのよ)に留っている どうして従わないでしょうか 請うに衣裳を下さい」
これに老夫は曰く「天女娘よ なぜ欺く心があるのだ」
天女が云う「およそ天人の志は信じることに為っている 何に多く疑って衣裳をくださらないのか」
老夫は答えた「多くを疑い信じ無い これが地上の常だ だから疑心でわたさない」 そこで遂に衣裳をゆるし 一緒に自宅に連れ帰る そのまま十年あまり一緒に住んだ

ここに天女は善(よい)酒を醸し 一杯飲めば 病は除かれて悉く治った その一杯は 直(あたひ)が財を車に積んで送るほど価値があった この時 その家は土形(つぢから)豊かに富んだ 故に土形里(ひぢかたのさと)と云う ここから中間 今に至るまで 比治里(ひぢのさと)と云う

この後 老夫婦は 天女に曰く「お前は我が子にあらず しばらく仮住まいさせたが 早々に出て去れ」
天女は天を仰いで慟哭(なげき)地に伏して哀(かなしみ)そして老夫らに言った「私は自分の意志で来たのにあらず 老夫の願いに従って天を去ったのだ なぜ悪心を起こし すぐに出て去れ と言えるのか」 すると 老夫は増々憤慨し 去るように願った

天女は涙を流した わずかに門の外に出て 郷人(さとびと)らに曰く「久しく人間(ひとのよ)に沈んで 天に還れない 親も無く 居る所も知らない 私はどうしたよいのか いかんともしがたい」と涙を拭き嘆き 天を仰いで 歌った

「天の原 振放見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも」

遂に退去して 荒鹽村(あらしほのむら)に到り 天女は 村人たちに云う「老夫婦の意を思うと 我が心は荒鹽(あらしお)と異なることはない」 よって比治里の荒鹽村と云う また 天女は丹波里の哭木村(なききのむら)に到り 槻木に哭(なげき)故に哭木村と云う

また 天女は竹野郡(たかぬのこほり)船木里(ふなきのさと)の奈具村(なぐのむら)に到り そこで村人たちに云う「此処で 私の心は奈具志久(なぐしく)〈平穏〉になった」 この村に留り これが いわゆる竹野郡の奈具社(なぐのやしろ)に坐す 豊宇加能賣命(とようかのめのみこと)です

【原文参照】

栗田寛 纂訂『古風土記逸文』上,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993824

栗田寛 纂訂『古風土記逸文』上,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993824

 

栗田寛 纂訂『古風土記逸文』上,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993824

天女が酒を造ったという伝承が残る 多久神社について

詳しくは別記事を参照ください

延喜式内社 丹後國 丹波郡 多久神社(たくの かみのやしろ)

・多久神社(京丹後市峰山町丹波)

一緒に読む
多久神社(京丹後市峰山町丹波小字涌田山)〈延喜式内社〉

多久神社(たくじんじゃ)は 『丹後國風土記 逸文』奈具社の条に「天女よく酒を噛み造り その酒を一杯(ひとつき)飲めばすべての病が治る」「その酒を村人に分け与えると皆が吉兆の恵みとおかげを授かる」とある言い伝えに由来する神社です 社記に「いつも祭に酒を置いて縁起を祝う云々」と伝わり 後世に天酒大明神と称されています

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丹後國の式内社には 加佐郡と竹野郡の二ヶ所に゛奈具神社(なくの かみのやしろ)゛が所載されています

延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)の論社について

奈具社は現在 船木奈具に鎮座します その旧鎮座地は奈具村で 嘉吉三年 (1443)の大洪水によって全村流失した〈遺跡地は未詳と伝えられ 奈具社祭神は 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)に移され 谷神社相殿 船木奈具神社が遷座されました
船木村が 天保三年 (1832)式内号 霊石〈靈爾〉の返還を求め 明治六年 (1873)返還命令が出され 奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)は 霊石を奉り現在地に再建されたものです

船木奈具神社の御神体は 現在も谷神社相殿に鎮座しています

・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)

一緒に読む
奈具神社(京丹後市弥栄町船木小字奈具)〈播磨國風土記所載社・延喜式内社〉

奈具神社(なぐじんじゃ)は 嘉吉三年(1443)旧鎮座地 奈具村が大洪水により流失〈遺跡地は未詳〉した時 船木奈具神社は溝谷神社の相殿に遷座しました 天保三年(1832)船木村が霊石の返還を求め 返還命令が出され 明治六年(1873)延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)として再建されたものです

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・溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉

一緒に読む
溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉

溝谷神社(みぞたにじんじゃ)は 社伝には 四道将軍の丹波道主命が神夢を受け 山麓の水口に新宮を建て天下泰平を祈念 この水の流れるところを溝谷と云う その子 大矢田宿禰〈神功皇后に使えた新羅の鎮守将軍〉が 帰朝の無事を素戔嗚尊の神徳に願い 帰朝後に新羅大明神として祀ったと云う 相殿には〈相殿 船木奈具神社〉を祀ります

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延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)の論社

・奈具神社(宮津市由良)

一緒に読む
奈具神社(宮津市由良宮ノ上)〈豊宇賀賣命を祀る延喜式内社〉

奈具神社(なぐじんじゃ)は 『丹後国風土記』にある天女の言葉「ここに来て わが心 奈具志久(なぐしく)なれり」とある この心が奈具(なぐ〈なごむ〉)が由来です 丹後國の式内社には 加佐郡と竹野郡の二ヶ所に゛奈具神社゛が所載されますが 当社は 延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)です

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・八幡大神市姫神社(舞鶴市市場)

一緒に読む
八幡神社〈八幡大神市姫神社〉(舞鶴市市場)〈延喜式内社の論社〉

八幡大神市姫神社(はちまんおおかみ いちひめじんじゃ)は 古老の口伝には 創立の年代等不詳だが 白糸浜は北海鎮護の要港で 往昔 厳島より市杵姫大神 白糸浜の御碕に鎮座され 海鎮明神と尊称された 中世 市杵姫大神の御神託により 宇佐八幡大神を合殿に奉祀して いつしか諸人は 八幡神社と称するようになったと云う

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『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)丹波郡 9座(大2座・小7座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 多久神社
[ふ り が な ]たくの かみのやしろ
[Old Shrine name]Taku no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『出雲國風土記733 AD.』に所載される゛多久社(たくのやしろ)゛について

今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した『出雲國風土記』に 多久神社 が記されています

『出雲國風土記733 AD.』には「多久社(たく)のやしろ」が二ヶ所掲載されています

各々の論社を紹介します

①島根郡 不在神祇官社「多久社(たく)のやしろ」の論社

・多久神社

一緒に読む
多久神社(松江市鹿島町南講武)& 一夜神社(松江市鹿島町名分)

多久神社(たくじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の島根郡 不在神祇官社「多久社(たく)のやしろ」とされていた宮廻 鎮座「多久上下明神」が 明治4年(1871)現社地に遷座したものです もともと現社地に鎮座していた「熊崎神社」を改めて合祀して 社名を「多久神社」としました

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➁楯縫郡 神祇官社「多久社 (たく)のやしろ」の論社

延喜式内社 出雲國 楯縫郡 多久神社(たくのかみのやしろ)の論社

・多久神社
・〈多久神社の旧鎮座地〉烏帽子岩

一緒に読む
多久神社(出雲市多久町)&拝田神社〈多久神社に合祀〉

多久神社(たくじんじゃ)は 神名樋山「大船山」の南麓に鎮座 大船山嶺の西に 阿遅鉏高日子根命と天御梶姫命の御子神「多伎都彦命(たきつひこのみこと)の魂」と伝える「石神」が旧鎮座地 神名の通りタキ〈水の神〉で 雨乞いをすれば必ず雨を降らすと『出雲国風土記』楯縫郡に記される「多久社」で〈合祀〉拝田神社は「山口社」の論社です

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・田中神社

一緒に読む
田中神社(出雲市多久谷町)&西多久神社〈田中神社に合祀〉

田中神社(たなかじんじゃ)は 由緒不詳ですが 古くは「宇土権現」「別所権現」と言われたと云う 〈田中神社に合祀〉西多久神社は『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載の楯縫郡 神祇官社「多久社 (たく)のやしろ」・延喜式内社 出雲國 楯縫郡 多久神社(たくのかみのやしろ)の論社とされます

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京都丹後鉄道宮豊線 峰山駅から北東へ約1.5km R482号沿い 車で3~5分程度

竹野川西岸 国道482号沿い湧田山古墳群(京都府指定文化財)の下

『丹後国風土記』にある 比治山の天女が 万病を治す酒を醸したとして 明治期まで天酒大明神と称したと云う
延喜式には 多久神社です

多久神社(京丹後市峰山町丹波小字涌田山)に参着

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一の鳥居に一礼をして すすむと 二の鳥居があります

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二の鳥居をくぐり 石段を上がると中段に狛犬が座します

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石段の上には 神門〈割拝殿か?〉が建ちます

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神門〈割拝殿か?〉をくぐり

拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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本殿は 拝殿奥の覆い屋の内に祀られています

拝殿の向かって左側には 境内社が祀られています

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境内社は 明治時代に近隣の神社が合祀されたものです

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お参りをすると 色々な種類の鬼瓦が置かれていましたので おそらく合祀される以前の社のものだと想います

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境内から 南側を見下ろすと 竹野川が南から北へと流れています

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社殿に一礼をして 石段を下ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 多久神社について 所在は゛丹波國に在す゛とあり 丹波国の国内と云った大まかな所在を告げて 祭神も゛不明゛としています

【抜粋意訳】

多久神社

多久は假字也

祭神詳ならず

〇丹波國に在す〔舊事記〕

類社
 出雲國 縦縫郡 多久神社

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 多久神社について 所在は゛今 竹野郡 丹波村にあり゛〈現 多久神社(京丹後市峰山町丹波小字涌田山)〉と記しています

【抜粋意訳】

多久(タク)神社

今 竹野郡 丹波村にあり、

凡 九月八日祭を行ふ、〔神社覈録、神社明細帳

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 多久神社について 所在は゛今 竹野郡 丹波村にあり゛〈現 多久神社(京丹後市峰山町丹波小字涌田山)〉と記しています

【抜粋意訳】

多久(タクノ)神社

祭神
 今按 明細帳に祭神 多久豆玉命とあれど 多久の字より思ひ付きて云る説なるべし 故今とらず

祭日 九月八日
社格 村社

所在 丹波村〔字宮山〕(中郡丹波村大字丹波)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

多久神社(京丹後市峰山町丹波小字涌田山) (hai)」(90度のお辞儀)

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丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る

一緒に読む
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について

丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています