竹神社(たけじんじゃ)は 社伝に垂仁天皇の御宇 竹連の祖・宇加之日子の子 吉志比古が倭姫命〈皇太神を奉じて伊勢御巡幸〉に供奉して当地に子孫が定住し祖神 長白羽神を奉斎したのが始りとされる 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 竹神社(たけの かみのやしろ)です 明治44年旧斎宮村内の23社を合祀し現在の地に移されました
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
竹神社(Take shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県多気郡明和町斎宮2757‐2
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
〈竹川・金剛坂・麻生・上村・岩内・池村の諸社から合祀〉
長白羽神(ながしらはのかみ)
《合祀神》
〈斎宮野々宮・斎宮神社から合祀〉
天照大御神(あまてらすおほみかみ)
〈上村 津島神社・竹川 小倉社・斎宮 津島社から合祀〉
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
〈岩内 八王子・八柱神・上村 八柱神社・池村 八柱神社・斎宮 宇志葉神社・丑寅社・栃本社・楠森社・平尾 広橋社から合祀〉
八柱神(やはしらのかみ)
〈金剛坂 八幡社・八雲神社・岩内 八幡社・竹川 八幡社から合祀〉
応神天皇(おうじんてんう)
〈土地の神様〉
地主神(とこぬしのかみ)
〈岩内 火地神社から合祀〉
火産霊神(ほむすびのかみ)
〈斎宮 稲荷神社から合祀〉
宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)
〈上村 愛宕神社から合祀〉
大己貴命(おほなむちのみこと)
〈麻生 織糸神社から合祀〉
天棚機姫命(あめのたなばたひめのみこと)
〈機織の神様〉
八千々姫命(やちぢひめのみこと)
〈岩内 高ノ宮八幡社・斎宮 荒祭宮から合祀〉
瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)
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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
竹神社 – たけじんじゃ –
斎宮には第38代天智天皇のころより660年間、天皇に代って伊勢神宮に仕えた斎王がおられたが、斎王が住んでいた内院が当社の境内地に所在したのではないかといわれている。また「斎宮の世だめし」といわれ、馬が背追った稲束の色によって豊兇を占う「絵馬」が神宝として本殿に保管されている。
由 緒
第11代垂仁天皇の御代、竹連(たけのむらじ、竹氏という豪族)の祖 宇加之日子の子の吉日古が、天照大神を奉じて伊勢御巡行中の倭姫命のお供をしてこの地に留まり多気郡一円を領して斎宮に住む。
この竹氏の子孫が祖神 宇加之日子・吉日古を祀ったのが当社である。当社はもと旧参宮街道の竹川から北へ約300m進んだ松林の中(博物館南側駐車場前の奥の林)にあったが、明治44年旧斎宮村内の23社を合祀し現在の地に移された。
当社は旧斎宮全村はおろか多気郡全体の総祖神であるといえ延喜式神名帳その他古書にその名が載っている。三重県神社庁教化委員会HPより
http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/%e7%ab%b9%e7%a5%9e%e7%a4%be/
【由 緒 (History)】
由緒
垂仁天皇の御代、竹連・竹氏という豪族、連は姓の祖、宇迦之日子の子、吉日子が天照大神の奉行に供奉して、この地に留まり、孝徳天皇の御代に至って、竹郡創建の際に、その末裔が当社を創祀した。
竹吉日子については、「皇太神宮儀式帳」に、竹の首吉比古の名がみえ、神社は櫛田川の古流 祓川の東岸台地である竹川字中垣内(ふるさと地区)に祀られていた式内社である。
斎王制度が固まっていくとともに、地名も「竹の都」から「斎宮」に変わっていった。「斎宮」には「斎王」がおられ、天皇に代わって、伊勢の神宮に仕えた。その役所である屯倉斎宮寮には往時500余人を数える官人がおり、内院、中院、外院と17の社が祀られていた。斎王はこれらの社を参拝せられた。
「野々宮」もその一つであろう。天武天皇のとき、大伯皇女が斎王に麻績氏が頭に任ぜられた。この麻績氏の祖が、長白羽命で当社の主祭神として祀られている。
現在地の「野々宮」は「斎王の森」とともに斎王にゆかりの地であり、毎年6月「斎王まつり」が行なわれる。皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会HPより
https://jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=1911
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
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・拝殿
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・拝殿前 鳥居
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・英霊殿《主》護国の英霊
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・祓所
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・二の鳥居
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・八王子の宮の常夜灯
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石灯籠と礎石の由来
此自然石灯籠は池村氏神の其の一つ饗庭の森八王子の宮の常夜灯であった嘉永七年の遷宮に際し氏子が記念に造ったものである。
之を造るには当時伊勢の国で有名な自然石灯籠を各地に見学し、又伐石の採取には池村の山林中をくまなく探し求めた、殊に台石の立石に使われている石は運搬中誤って二ツ池底に転落したものを師走の寒中に池の堤に大割木を山と積み焚置いて温を取り氏子等が交代で池底にもぐり該石に縄をかけ、之を引き揚げたと撰者は祖父から聞かされている。斯様にして造りあげたという当時如何に氏子等の崇神思想の高かったことがうかがわれる。
昭和三十七年池村より此宮に移転した自然石燈籠としては県下で稀に見る大燈籠である。
礎石
以前石灯籠の基礎石積の裏面に大きなる礎石が使われている此礎石は丹生上田野の営明寺の礎石である。
丹生大明神の儀軌に曰わく
延暦二十一歳次壬午沙門空海今参詣天照皇大神宮之砌依法華常明寺、彼寺善記元年、歳次壬丑継体天皇天朝在天照皇大神宮後勅託、建立七間一宇瓦屋云々とあり。此常明寺の礎石なり。此礎石は撰者が田津田村大字津留岡山氏より譲り受けて此宮の御手洗場の側に景石として置きたるものを石工が何心なく使用せるもので幸にも礎石の表面を外部に出したは幸いというべし。
三重県下に於いての重要遺物である。
渡辺勝蔵 撰
現地案内板より
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・社頭
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・斎宮城跡(斎宮 字牛葉)
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・竹神社 御跡(明和町竹川)
〈竹神社の旧鎮座地〉もと旧参宮街道の竹川から北へ約300m進んだ松林の中(博物館南側駐車場前の奥の林)にあったが 明治44年旧斎宮村内の23社を合祀し現在の地に移された
史蹟 斎宮跡 ここは旧竹神社跡
旧竹神社
ここにはかって式内社(しきないしゃ)竹神社がありました。
現在は昭和16年(1941)に建立(こんりゅう)された石碑と、社殿があった平坦な土地区画がその名残をとどめています。神社は、明治政府の神社合祀政策により、周辺の25社が合祀され、明治41年(1908)に斎宮小学校の西側に移転し、その後 再び明治44年(1911)に現在の伊勢街道沿いに移転しました。この付近には小倉神社•若宮八幡神社の旧跡碑もあり、竹神社を含め台地の縁辺部に多くの神社が鎭座していたようです。
竹神社の「竹」は、古代の郡名である「多気(たけ)•郡」に関わるもので、式内社である当社の由緒(ゆいしょ)の深さを物語っています。
斎宮跡発掘調査の原点
斎宮跡の発掘調査は、昭和45年(1970)に 旧竹神社の北側一帯の古里(ふるさと)地区から始まりました。発掘当初は「古里遺蹟」と呼ばれていました。
調査当初、斎宮跡がどこにあるのか具体的にわかっていませんでした。しかし、調査で祭祀(さいし)用の大型赤彩土馬(せきさいどば)や宮廷(きゅうてい)用の硯(すずり)と考えられる蹄脚硯(ていきゃくけん)といった特殊な遺物(いぶつ)が見つかり、奈良時代の掘立柱建物(ほったてはしらたてもの)なども多数発見され注目されることとなりました。
こうした発見が大きなきっかけとなり、斎宮跡の範囲確認調査が進められ、昭和54年(1979)に東西2km、南北700m、面積137haの広大な範囲が史蹟斎宮跡として指定されました。斎宮跡解明のため、発掘調査はいまも進められ、斎宮跡の全容が明らかになりつつあります。
明和町
現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
竹神社(明和町斎宮)は 三つの式内社の論社となっています
①(伊勢國多氣郡 竹神社)
〈竹神社(明和町斎宮)〉
②(伊勢國多氣郡 天香山神社)
〈明治四十五年合祀 八柱神社(明和町上村)〉
③(伊勢國多氣郡 火地神社)
〈明治四十年合祀 火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)〉
①(伊勢國多氣郡 竹神社)
〈竹神社(明和町斎宮)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 竹神社
[ふ り が な ](たけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Take no kaminoyashiro)
②(伊勢國多氣郡 天香山神社)
〈明治四十五年合祀 八柱神社(明和町上村)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 天香山神社
[ふ り が な ](あまのかごやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amanokagoyama no kaminoyashiro)
③(伊勢國多氣郡 火地神社)
〈明治四十年合祀 火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 火地神社
[ふ り が な ](ひちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hichi no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
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延喜式内社 伊勢國 多氣郡 竹神社(たけの かみのやしろ)の論社
・竹神社 御跡(明和町竹川)
〈竹神社の旧鎮座地〉もと旧参宮街道の竹川から北へ約300m進んだ松林の中(博物館南側駐車場前の奥の林)にあったが 明治44年旧斎宮村内の23社を合祀し現在の地に移された
・竹神社(明和町斎宮)
竹神社(たけじんじゃ)は 社伝に垂仁天皇の御宇 竹連の祖・宇加之日子の子 吉志比古が倭姫命〈皇太神を奉じて伊勢御巡幸〉に供奉して当地に子孫が定住し祖神 長白羽神を奉斎したのが始りとされる 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 竹神社(たけの かみのやしろ)です 明治44年旧斎宮村内の23社を合祀し現在の地に移されました
竹神社(明和町斎宮)〈『延喜式』竹神社・火地神社・天香山神社〉
延喜式内社 伊勢國 多氣郡 天香山神社(あまのかぐやまの かみのやしろ)の論社
・天香山神社(松阪市保津町)
天香山神社(あめのがぐやまじんじゃ)は 宮吉右衛門宅内の小祠〈高崎(コウサキ)ノ宮〉が 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 天香山神社(あまのかぐやまの かみのやしろ)の論社で(1903年)宇氣比神社(八王子)境内に合祀 さらに明治42年(1909)大国玉神社に合祀 その後 昭和10年(1935)旧宇氣比神社の地に分祀再興されました
天香山神社(松阪市保津町)〈『延喜式』天香山神社・火地神社〉
・八柱神社(明和町上村)
明治四十五年五月二十三日 竹神社(明和町斎宮)に合祀 その後 氏子らの願いにより昭和四十五年 古社地の西方50mのカマクラ古墳上に小祠を設け分祀された
八柱神社(やはしらじんじゃ)は 付近に゛カゴ山と号する゛カゴ山古墳があり 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 天香山神社(あまのかぐやまの かみのやしろ)の論社で 上村の産土神゛八王子゛でしたが 明治45年(1912)竹神社(明和町斎宮)に合祀された後 昭和45年(1970)かまくら古墳の墳丘上に小祠を設け分祠されたものです
八柱神社(明和町上村)〈『延喜式』天香山神社〉
・竹神社(明和町斎宮)
竹神社(明和町斎宮)は 明治45年(1912)5月23日 八柱神社(明和町上村)を合祀 現在に至ります
昭和45年(1970)には 八柱神社を旧社地西方50m程の地にあるカマクラ古墳の墳丘上に 小祠を設け分祠しています
竹神社(たけじんじゃ)は 社伝に垂仁天皇の御宇 竹連の祖・宇加之日子の子 吉志比古が倭姫命〈皇太神を奉じて伊勢御巡幸〉に供奉して当地に子孫が定住し祖神 長白羽神を奉斎したのが始りとされる 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 竹神社(たけの かみのやしろ)です 明治44年旧斎宮村内の23社を合祀し現在の地に移されました
竹神社(明和町斎宮)〈『延喜式』竹神社・火地神社・天香山神社〉
延喜式内社 伊勢國 多氣郡 火地神社(ひちの かみのやしろ)の論社
・天香山神社(松阪市保津町)
〈火地神社を合祀〉
天香山神社(あめのがぐやまじんじゃ)は 宮吉右衛門宅内の小祠〈高崎(コウサキ)ノ宮〉が 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 天香山神社(あまのかぐやまの かみのやしろ)の論社で(1903年)宇氣比神社(八王子)境内に合祀 さらに明治42年(1909)大国玉神社に合祀 その後 昭和10年(1935)旧宇氣比神社の地に分祀再興されました
天香山神社(松阪市保津町)〈『延喜式』天香山神社・火地神社〉
・麻續神社(明和町中海)
〈麻續神社に合祀された 馬之上の宇気比神社(火地神社)〉
麻續神社(おおみじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 麻續神社(をみの かみのやしろ)の論社であった豊城入彦命を祀る中麻續神社に明治45年(1912)村内の佐賀茂神社・田中神社・粟須美神社・美里神社・宇気比神社・須賀神社の6社が合祀され その際に麻續神社と改称されたものです
麻續神社(明和町中海)
・〈二十五柱神社に合祀された宇気比神社の舊地〉極楽寺境内(松阪市乙部町)
・〈二十五柱神社に合祀された宇気比神社〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)
二十五柱神社(にじゅうごはしらじんじゃ)は 三重県令に依り旧東黒部村内25社の神社を明治41年(1907)9月30日に合祀して二十五柱神社が創建 合祀社の内 伊勢國多氣郡の8つの式内社〈・須麻漏賣神社・服部伊刀麻神社・林神社・服部麻刀方神社二座・流田神社・流田上社神社・火地神社・牛庭神社〉の論社を含みます
二十五柱神社(松阪市柿木原町)〈多氣郡の式内社論社8つを合祀〉
・八柱神社跡地(多気町油夫)
〈佐那神社に合祀された八柱神社の旧鎮座地〉
・佐那神社(多気町仁田)
〈佐那神社に合祀された八柱神社(多気町油夫)〉
・火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)
〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉
火地神社 古社地(ひちじんじゃ こしゃち)は 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 火地神社(ひちの かみのやしろ)の古社地で 光安寺の裏 城山の山腹に火地神社跡があり 第12代 景行天皇の御代に創建と云う 寛文二年(1662)再興された光安寺境内に火地神社が移転し 明治40年(1907)斎宮村の竹神社に合祀されました
火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉
・竹神社(明和町斎宮)
〈竹神社に合祀された火地神社(明和町岩内 光安寺境内)〉
竹神社(たけじんじゃ)は 社伝に垂仁天皇の御宇 竹連の祖・宇加之日子の子 吉志比古が倭姫命〈皇太神を奉じて伊勢御巡幸〉に供奉して当地に子孫が定住し祖神 長白羽神を奉斎したのが始りとされる 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 竹神社(たけの かみのやしろ)です 明治44年旧斎宮村内の23社を合祀し現在の地に移されました
竹神社(明和町斎宮)〈『延喜式』竹神社・火地神社・天香山神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄山田線 斎宮駅から東方向へ約500m 徒歩で5~6分程度
竹神社(明和町斎宮)に参着
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南向きの社頭に掲げられた 定書き です
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社頭の鳥居を一礼してくぐり抜けると境内には手水舎があり 清めてから良二の鳥居をくぐり抜けてから 境内の参道を進むことになります
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すると参道は左に折れていて 社殿は東を向いて建てられています
拝殿の前に白木の鳥居が建ち 拝殿の奥に 御垣に囲まれて 本殿があります
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拝殿にすすみます
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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拝殿の先には 白砂の敷かれた敷地があり その奥にある一段高い壇に
御垣に囲まれて本殿が鎮座しています
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 竹神社について 所在は゛竹川村に在す゛〈現 竹神社 御跡(明和町竹川)〉と記しています
【抜粋意訳】
竹神社
竹は多氣と訓べし
○祭神 竹田臣祖歟
○竹川村に在す、〔考証、俚諺〕
○倭姫世記云、五百刺竹田之國、〔儀式帳同〕同記云、多氣連祖、宇賀之日子吉志比女吉彦、』
姓氏録〔左京皇別上〕竹田臣、阿倍朝臣同祖、大彦命男武淳川別命之後也、また阿閉臣、阿倍朝臣同祖、」
さて此氏人は、三代実録、貞観十五年十二月二十七日戊午、伊勢國多氣郡人 從五位下 阿閉臣次子、從七位下 阿閉臣雄継等賜に姓朝臣、其先出に大彦命之後也、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
式内社 天香山神社について 所在は゛保津村に在す、服部機殿南也、゛〈現 天香山神社(松阪市保津町)〉と記しています
【抜粋意訳】
天香山神社
天香山は阿米乃加語夜萬と訓べし
○祭神詳ならず
○保津村に在す、服部機殿南也、〔考證〕今 飯野郡に属す、
○神名秘書曰、舊記云、神衣祭者、皇太神宮御に座 高天原之昔、人面等之遠祖天八千々媛、殖に桑葉於天香山、以に所蠶之御糸 織供に進御衣、
【原文参照】
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式内社 火地神社について 所在は゛岩内村に在す、゛〈現 火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉〉と記しています
【抜粋意訳】
火地(ヒチノ)神社
火地は假字也
〇祭神詳ならず
○岩内村に在す、〔俚諺〕
類社
伊賀國伊賀郡 比地神社の條見合すべし
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 竹神社について 所在は゛竹川村 稲木川の東道路の南に在り゛〈現 竹神社 御跡(明和町竹川)〉と記しています
【抜粋意訳】
竹(タケノ)神社
〔〇按 本書一本 竹を竹田に作〕
又 竹上社と云、〔延喜式〕
今 竹川村 稲木川の東道路の南に在り、〔神名帳考証、神名帳検録、儀式帳に、白枝刺竹田國、盖これなり〕盖 竹田臣 阿閉臣等の祖、大彦命を祭る、〔日本書紀、新撰姓氏録、三代実録、古老傳説〕
凡 其祭正月二日を用ふ、〔明細帳〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495
式内社 天香山神社について 所在は゛今 宇尓郷上村字南北香山の乾一町許に産神あり、即是也、゛〈現 八柱神社(明和町上村)〉と記しています
【抜粋意訳】
天香山(アマノカゴヤマノ)神社
今 宇尓郷上村字南北香山の乾一町許に産神あり、即是也、(伊勢國式内検録)
天香語山命を祭る、〔神代巻口訣〕
式内社 火地神社について 所在は゛今 乙部村の東南にあり、゛〈現 〈二十五柱神社に合祀された宇気比神社の舊地〉極楽寺境内(松阪市乙部町)〉と記しています
【抜粋意訳】
火地(ヒチノ)神社
今 乙部村の東南にあり、〔式内社検録〇按 本書に、貞治七年紛失日記云、飯野郡長田郷三條四里火所里とある火所火地共にホトと訓へし、条里を推考ふるに、乙部村に當れり、乙部は神宮雑例集に、外部御薗ともある地なりと云り〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 竹神社について 所在は゛三重縣多気郷竹川村 (多氣郡齋宮村大字竹川 )゛〈現 竹神社 御跡(明和町竹川)〉と記しています
【抜粋意訳】
竹神社 〔一本云竹田神社 齋宮式云竹上社〕
祭神 大彦命
今按 本社祭神は古老傳へて 竹田臣等の祖神と云ひ
姓氏錄に竹田臣 大彦命男 武淳川別命後也とみえ
三代實錄〔貞観十五年十二月二十七日〕伊勢國多氣郡人 從五位下 阿閉臣次子、從七位下 阿閉臣雄継等賜に姓朝臣、其先出に大彦命之後也とあれば 其族人多く此地に住て 大彦命を祭りけんこと知るべし 故今定めて記せり祭日 正月二日
社格 村社 (今郷社) (郷社)所在 三重縣多気郷竹川村 (多氣郡齋宮村大字竹川 )
【原文参照】
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式内社 天香山神社について 所在は゛今按るに保津村に在りと雖も證なし゛〈現 天香山神社(松阪市保津町)〉とはあるが 確証はない と記しています
又 所在について゛宇爾郷上村にかご山といふ山あり其麓に産神の舊社あり是ならむか゛〈現 八柱神社(明和町上村)〉とも記しています
【抜粋意訳】
天香山神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに保津村に在りと雖も證なし 檢錄に宇爾郷上村にかご山といふ山あり其麓に産神の舊社あり是ならむかと云へり
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
式内社 火地神社について 所在は決めかねています
゛明細帳飯野郡に乙部村゛〈現 〈二十五柱神社に合祀された宇気比神社の舊地〉極楽寺境内(松阪市乙部町)〉
゛多氣郡岩内村に火地神社ありて式社と稱す゛〈現 火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉〉
【抜粋意訳】
火地神社
祭神
祭日
社格
(明細帳飯野郡に乙部村なるものなし 區別牒に依るも火地神社と云村社なし 多氣郡岩内村に火地神社ありて式社と稱す區別牒になし 明細帳に村社とし十四年訓正無格なり)所在
今按 檢錄に貞治七年紛失日記云 飯野郡長田郷三條四里火所里とあり 火所火地共に ほと と訓すへし 條里の制を以て推すに三條四里は多氣と犬牙して 今 乙部村に當れリ 乙部は雑倒集には外部御園にも作れり おともそとも並にほとの通音にて 當社所在の地名なり 村の東南に産神社あり是ならむと云へり 又 享保中 紀伊家より岩内村の産神社に火地神社の標石を建たるは神名帳考證の臆断によれりとあるが如くなるべし
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇三重縣伊勢國多氣郡齊宮村大字竹川
郷社 竹(タケノ)神社
祭神 長白羽神(ナガシラハノカミ)
合殿 八柱神(ヤハシラノカミ)
地主神(ヂヌシノカミ)創建年代詳ならずと雖も、延喜の制式の小社に列し多氣郡五十二座の一たり、
神名帳考証に云く、「竹(タケノ)神社、卜部永本曰、竹田神社、竹川乾有稱に八王子社、大彦命、倭姫命世記に云く、多氣連等祖 宇加乃日子之子 吉志比女吉彦、儀式帳に云く、五百枝刺竹田乃國、姓氏録〔左京皇別上〕に云く、竹田臣、阿倍朝臣同祖、大彦命 男武淳川別命之後也、また阿閇臣、阿倍朝臣同祖、三代実録に云く、貞観十五年十二月二十七日戊午、伊勢國多氣郡人從五位下 阿閇臣次子、從七位下 阿閇臣雄継等賜に姓朝臣、其先出に大彦命之後也、」
神名帳考証再考に、「竹神社、延喜式印本の上層に云ふ、卜部兼永の本作ると竹田に、從ふべし、竹ノ上ノ社と有るは、上の字、田の字の誤也、此社今 竹川村産神と祀りて、稲木村路頭の南に在、
考証に、齋宮舊蹟の西に斎王の宮といふ森此歟と云、思ふに、此説不可なり、今の街道は中古よりの路にして、其昔西の方を往來しければ、齋王ノ宮と云ふ森は、即 齋宮正門の跡ならむ、假令不然とも、正門の傍に神社は有べからす、祀る神、世記に、多氣連等祖 宇加乃日子(ウカノコヒ)之子 吉比女(ヨシヒメ)吉彦(ヨシヒコ)と云ふ神、大神に参り合しとあれば、其祖の宇加乃日子を祀る成べし」と見え、
神社覈録には、竹は多氣と訓べし、祭神 竹田臣祖歟、竹川村に在すと云ひ、穂頭に齋宮式竹上兼永郷本竹田に作る」とあり、
又 神祇志料に、「竹神社〔按 本書一本竹を竹田に作る〕又 竹上社と云ふ〔延喜式〕今 竹川村稻木川の東道路の南に在り、蓋竹田臣阿閇臣等の祖、大彦命を祭る、凡其祭正月二日を用ふ」と見え、
神名秘書には風土記を引きて、「難波宮御宇天皇丙午年、伊勢多氣郡、竹連磯真建此郡、神宮雑例集に云く、斎宮寮、在に多気郡竹郷と見え、即ち齋王の御在所なるを以てろ 竹都(タケノミヤコ)の稱あり、
散木集「ときはなる竹の都の石なれば うれしきふしを数へてぞ見る」、
又 新勅撰集「呉竹の世々の都ときくからに 君が千とせのうたがひもなし」と即是なり、
類聚國史に云く、天長元年、多氣齋宮神宮に遠く便利ならざるを以て、度曾離宮を常斎宮とし、
続日本後紀に云く、承和六年、齋宮災に罹れるを以て、又 多氣宮をト定して齋宮とす云々、」
大日本地名辞書に云く、「竹神社延喜式に列し、一に竹上(タケノウヘ)神杜と曰ふ、今 齋宮村大字竹川の八王子と云ふ祠此なり、蓋 竹連の祖神ならん」と、
社傳によれば、垂仁天皇の御世、多氣連の祖 宇加乃日子の子 吉日子、皇大神宮の行幸に供奉して此地に留り、子孫世々郡領に任ず、依つて末裔の其氏祖を祀り竹神社と稱し、変世変ることなし、
明治二年三月十日今上天皇 御東幸の際、勅使北小路右京権大夫をして代拝奉幣せしめ給ふ、同八年十二月郷社に列せらる、同四十二年改称す、同四十一年村社八幡神社、同小倉神社、同織糸神社、同八柱神社三、同宇志葉神社、同廣橋神社及び無格社八社を合祀す。
社殿は一宇にして、境内坪数三百二十坪(官有地第一種)を有す。
【原文参照】
明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244
明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244
竹神社(明和町斎宮)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
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