実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

高負彦根神社(吉見町田甲)

高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)は 吉見丘陵の東 ポンポン玉鉾石〉に鎮座します 創建は和銅三年(710)と伝えられ 宝亀三年(772)の太政官符には 武蔵国の班幣対象社四社の内として「横見郡 高負比古乃社」記される古社 延喜式内社 武蔵國 横見郡 高負比古神社たけふひこかみのやしろ)されています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

高負彦根神社(Takaohikone shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

埼玉県比企郡吉見町田甲1945

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》味耜高彦根(あじすきたかひこねのみこと)
   大己貴(おほなむちのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

ポンポン山(高負彦根神社 たかおひこねじんじゃ
 

延喜式内社で昔は玉鉾氷川明神(たまほこひかわみょうじん)とも称した。
 祭神は、味鉏高彦根尊(あじすきたかひこねのみこと)大己貴尊(おおなむちのみこと)ともされるが素戔嗚尊(すさのうのみこと)ともいわれる。
 社記によれば、和銅三年(七一〇年)創建と伝えられる古社で、宝亀三年(七七二年)十二月十九日の太政官符に「案内ヲ検スルニ、去ル天平勝宝七年(七五五年)十一月二日ノ符ニアグ。武蔵国幣帛ニ預ル社四処」として、その一つに「横見郡高負比古乃神」と記してある。
 社殿の後方の巨岩に近い地面を強く踏むとポンと音を発する。そこでこの山をポンポン山とも言う。巨岩の直下二十メートルの平地は古代荒川の流路であった。吉見丘陵の東端をめぐった荒川流域に式内三社が存在したのはこの地域が早くから開発が進んでいたことによるものと思われる。
平成十年三月 吉見町・埼玉県
現地掲示板より

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【由  (History)】

髙負彦根神社

吉見町田甲一九四五(田甲字岩下)

田甲は 旧荒川の水利とともに 交通条件に恵まれ、古くから開けていた。
東南の丘陵部には旧荒川筋が残り、そこへ突き出るかのように望める岩山が玉鉾山である。その頂上に鎮座するのが当社である。

 岩山の下にかつては湊石があり、船の綱を結んだ石と伝えられ、船着き石とも呼ばれていた。
上流の八ツ林には船木神社があり、その付近には冑山古墳や埼玉古墳群が存在することから、やはり古代の水運の要所と考えられている。そして、下流の川越市吉野地区からは縄文後期の丸木舟が出土しており、当地の発達も同時期に比定されている。

 当社の周辺は、奈良時代の集落地跡「高負彦根神社周辺遺跡」として有名である。また、吉見町は安閑天皇元年(五三四)に置かれた横渟屯倉の推定地であり、大化前代に集落地が既に存在していたとみてよいであろう。
 屯倉管理のための吉志氏の当地派遣が考えられ、正倉院の調庸墨書に「横見郡御坂郷日下部」とあり、神護景雲二年(七六八)には橘樹郡の「飛鳥部吉志五百国」が朝廷に白雉を献上した記事がある。
後の承和十二年(八四五)、国分寺の七層塔焼失に当たり、男衾郡の郡司大領(長官)の「壬生吉志福正」が再建している。これら吉志氏は摂津を本拠として海洋貿易などで膨大な経済基盤を持つ豪族である。一族は政治・経済はもとより祭詞においても重要な地位を占めていた。ちなみに大嘗祭に奏上される吉志舞は、吉志一族に伝承されていた歌舞である。

 当社は『延喜式』神名帳に載る式内社である。朝廷から幣帛を受ける官社となったのはかなり早く、宝亀三年(七七二)の太政官符に天平勝宝七年(七五五)の官符が引かれており、武蔵国の班幣対象社四社の内に「横見郡高負比古乃社」とみえる。
郡内の式内社は後に三社となるが、奈良時代に官社に預かったのは当社のみであった。
 これは重要な意味を有しており、律令国家が班幣制度により在地の祭祀権を保証することは、中央政府の地方行政権把握と結びついていたのである。官社列格には、在地の有力支配者と民衆の厚い信仰が背景になければ不可能であったから、奈良時代以前における武蔵国の中心的な役割を担う発達した勢力の存在を示している。
 こうした班幣社は、国家大事の際に神験が期待されたが、宝亀三年官符は、入間郡の正倉が火災に遭ったため、武蔵国内四社に奉幣したことを記している。

 このように、当地一帯は大化前代から中央との結びつきが強く、有力豪族が領しており、当社は殊に国家崇敬の重要な官社として、律令祭祀に組み入れられたのである。
 平安時代末から鎌倉時代には、源頼朝の弟の範頼が当地方を領有しており、その子孫が四代にわたり吉見氏を称している。強大な支配権を持っていたとみられ、その城館は「吉見の御所」と呼ばれる中世遺跡となっている。
しかし、永仁四年(一二九六)以降、吉見氏は勢力を失い、その後は有力支配者が入った形跡もないことから、郡内の有力農民層に分割領有されたものと考えられている。字名に地頭方が残っているのも、そのような土着の地頭たり得る名主などの存在をうかがわせる。

 中世の支配体制の推移の中で、当社は次第に衰微していったのであろう。その間の当社の様子はわからないのであるが、天明三年(一七八三)に再興され、社頭が整備されている。
また『風土記稿』に「村内福聚寺の持」とみえ、別当の管理下にあった。福聚寺は新義真言宗の寺で天正十九年(一五九一)に秀伝阿闍梨が本尊を当地に遷座し、鎮護国家の大法を修したことで知られる。このころは当社がかつて国家護持の有力社であったことは既に忘れ去られていたとしても、当地の信仰上の重要性を物語っている。

 当社の社号は、中世には玉鉾氷川明神社と改められていた。玉鉾とは、岩山の頂上の岩盤を踏み鳴らすと鼓のようにポンポンと響くところから名付けられたという。俗に「ポンポン山」とも呼ばれている。氷川明神となっているのは、氷川社の社家である西角井家に伝わる「武蔵国造系図」に、遠祖天穂日命の六代の五十根彦命、一名を高負比古命とあり、当社との関わりが認められるからであろう。
 祭神は、味鉅高彦根命と大巳貴命、もしくは素盞嗚命となっている。いずれも出雲系の神であるが、素盞嗚命との混乱は牛頭天王信仰の流行が当地に入ってきたことによると思われ、当社で天王様の祭りが夏祭りとして行われていた。

埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

ポンポン玉鉾石)〈社殿の後方の岩盤

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ポンポン玉鉾石吉見丘陵の東から眼下の荒川流域見る

「岩山の下にかつては湊石があり 船の綱を結んだ石と伝えられ 船着き石とも呼ばれていた」
『埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋

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三峰神社その脇に稲荷の石祠

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獅子封じ塚

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獅子封じの塚

 昔、高生(たかお)郷(現在の田甲)には、獅子舞の古い行事がありました。
 今から、数百年前ごろの旧暦六月の某日、悪疫退散のため、獅子頭を冠り、戸毎(こごと)を訪問する行事が行われておりました。
しかし、ある年、痢(り)病が著しく発生し、死者も多く出たので、村人たちは、これは産土(うぶすな)神のお咎(とが)めではないかと恐れ、獅子頭を境内に埋没し、その上に (ひいらぎ)(昭和十二年に大柊は、県指定文化財となるが、現在は二代目)を植えて、獅子封じをしました。それ以来、痢病もおさまり、平和になったと言われています。

※痢(り)病・・・腹痛や下痢の激しい伝染病の類。
※産土(うぶすな)神・・・その生まれた土地を守護する神、鎮守の神。
※高負彦根神社の三鉾(さんぽこ)・・湊石(御神体)・大柊・菊水(湧水)

現地案内板より

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)横見郡 3座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 髙負比古神社
[ふ り が な ]たかおひ〈たけふ〉ひこかみのやしろ)
[Old Shrine name]Takaohi〈Takefu〉hiko no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

宝亀三年(七七二)「太政官符」〈天理大学付属図書館所蔵〉に記される 高負比古神社

宝亀三年(七七二)「太政官符」〈天理大学付属図書館所蔵〉に 入間郡の正倉が火災に遭ったため 武蔵国内四社〈・多磨郡 小野社・加美郡 今城青八坂稲實社横見郡 高負比古乃社・入間郡 出雲伊波比神社に奉幣したことを記しています

 太政官は、二宮八省の頂点に位置づけられ、すべての行政事務を総括した役所である。

符とは、上級官庁から下級官庁へ出された文書をいう。太政符には執行と書記官とが署名するが、この官符には藤原百川(ももかわ)自署が見られる。百川は藤原氏式家宇合(うまかい)の子で不比等の孫にあたる。

当時衰微しつつあった藤原一族の再起を図り、光仁(こうにん)天皇(桓武天皇の父)の擁立に奔走するなど、かなりの策士家だったと言われている。

 この官符には、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市付近)で起きた、租税である米を貯蔵する正倉が焼亡した事件と、それへの対応が記されている。
 こうした火事騒ぎは「神火事件(しんかじけん)」と呼ばれ、奈良時代の半ばすぎから各地で度々発生した。初めは、天の神が怒って火をつけたと信じられていたが、国家の財政の損失が大きいことから政府の調べが進み、その真相が次第に明らかになっていった。

 一つは、古くからの郡司と新興豪族との争いで、互いに相手をけおとすために放火し、罪をなすりつけるものである。
 もう一つは、郡司だけでなく国司の悪事もさかんで、正倉から稲を横取りしていたが、中央からの役人が調べに来る前に証拠隠しのために焼くのである。このように神火は、農村での新旧二つの実力者の争いと、政治の乱れを物語っている。

 奈良時代の太政官符が伝存するのは大変珍しく、奈良正倉院にさえ残っていない。現存は四通のみ知られている。

(天理図書館 三村 勤)天理図書館「陽気」2008年6月号より抜粋

天理図書館「陽気」2008年6月号より抜粋

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

東武東上線 東松山から県道66経由北東方向へ6.3km 車15分程度

吉見丘陵の上 北東端に位置します
社号標には 高負彦根神社 と刻字されています

高負彦根神社(吉見町田甲)に参着

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一礼をして鳥居をくぐり 参道を

拝殿にすすみます

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拝殿の扁額には 高負彦根神社と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の向かって 左手には 境内社 三峯社
拝殿の奥には 幣殿 本殿の覆屋が建ちます

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社殿の裏手は ポンポン山なっていて 確かにポンポン音がします
ここは 吉見丘陵の上 その東北端にあたり 崖の際まで行くと 眼下に荒川流域が見渡せます

「岩山の下にかつては湊石があり 船の綱を結んだ石と伝えられ 船着き石とも呼ばれていた」とも伝わり

現在 崖のすく下辺りを横見川流れていますが 太古は荒川が流れていたとの事 ここに神が祀られるのがわかるような眺めです

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

ポンポン山伝承

 吉見町田甲の高負彦根(たかおひこね)神社の境内裏には、見晴らしのよい岩山があります。この山の中腹に登って足を踏み鳴らすと、ポンポンといい音がします。
 そこには、こんな言い伝えが残っています。
 その昔、ある長者が財宝の隠し場所を捜していました。長者はある日、高負彦根神社に詣で、「いちばんいい財宝の隠し場所を教えてください」とお伺いをたてました。すると神様のお告げがあり、「この岩山に埋めろ。私が守ってやろう」というものでした。そこで長者は大変安心して、財宝をこの山に埋めたそうです。

 それからしばらくして、長者の隠した財宝を盗もうと盗人が山に入り込みました。すると突然、山がポンポンと山鳴りを起こしたので、盗人は恐れおののき、震えながら山をおりました。それ以降だれも、財宝を盗み出しに行くものはいなかったということです。このようにして財宝は永い間、安全に埋まっていたということですが、あまりにも古い話なので、その後の財宝の行方は、近在の人たちの間でも知る者はいなくなったということです。
 今では、こうした話の名残として、岩山はポンポン山と呼ばれており、山には神霊がいるといわれています。

吉見町役場HPより
https://www.town.yoshimi.saitama.jp/soshiki/chiikishinkoka/1/610.html

『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承

高負彦根神社(吉見町田甲)について 玉鉾氷川明神称して来ており 式内社 高負比古神社であるかどうかは未詳
巌石の丘踏み鳴らす鼓の如く響き 玉鉾石玉鉾山〉(現 ポンポン山)と呼んでいるので 玉鉾氷川明神呼ばれているのであろう と記しています

【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之一九七 横見郡 巻之二 下吉見領 田甲村

高負比古根神社

村の鎮守なり 例祭九月十九日
當社は 延喜式神名帳に載る所の高負比古神社にして 祭神は 眛鉅高彦命 或は 素戔嗚尊なりとも云
中古以来 玉鉾氷川明神称し来りて式社たる事も定かならざりしに 後 高負比古神社と稱せし由なれど 果して古の式社なりしや未詳にせ
社の後背は 高十一間許なる巌石の丘にて その内 社によりたる邊 踏鳴せば 鼓の如く響きある處あり そこを玉鉾石と稱す  通じて玉鉾山とも號せり 玉鉾神靈の寓すると云意なる歟 よりて玉鉾氷川といひしとみゆ  社傍に ヨモキの松と云あり 圍み一丈餘 社前に湊石と云あり 共に由来詳ならず 村内福聚寺の持

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 高負比古神社の所在について 田甲村〈現 高負彦根神社(吉見町田甲)〉とし 高負は多介布(たけふ)と読む と記しています

【抜粋意訳】

高負比古神社

高負は多介布と訓べし、比古は假字也、和名鈔、(郷名部)高生、仮字上の如し
○祭神明か也
○田甲村に在す、(地名記)例祭  日、
○姓氏録、(左京諸蕃上)武生宿彌、文宿彌同祖、王仁孫阿浪古首之後也、
地名記、所祭 味鋤高彦根命、
○式社考、瓊矛大明神、大己貴命

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 高負比古神社について 所在は 田甲村〈現 高負彦根神社(吉見町田甲)〉とし 高負比古(タケフヒコノ)神社読むと記しています

【抜粋意訳】

高負比古(タケフヒコノ)神社

今、田甲村にあり、瓊矛大明神と云ふ、神名帳考土代、神社覈録

【原文参照】]

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 高負比古神社について 所在は 田甲村〈現 高負彦根神社(吉見町田甲)〉とし 祭神については 味耜高彦根とされるのは 高負比古高彦根付会されたものだろう と記しています

【抜粋意訳】

高負比古根神社

祭神
武蔵式社道法命附に祭神 味耜高彦根命とあれど 高負比古高彦根付会せしならん

祭日 六月九月 十八日
社格 村社

所在 田甲村(比企郡西吉見村大字田甲)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

高負彦根神社(吉見町田甲)に (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

一緒に読む
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

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