実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

高御魂神社(対馬 豆酘)

高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)『日本書記』顕宗天皇3年条に「対馬の日神の託宣(タクセン)により 高皇産霊神に磐余(イワレ)の田14町を献上し その祠官として対馬下縣直がつかえた」という記載があり 『延喜式』名神大社として大変立派な由緒を持つ古社です 元々は 豆殿浦の東側の海岸に鎮座しましたが 昭和32(1957)豆酘中学校の建設により 現在の多久頭魂神杜の境内に遷座ました 

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

高御魂神社Takamimusubi Shrine)
(たかみむすびじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

長崎県対馬市厳原町豆酘2424

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》高皇産霊尊Takamimusubi no mikoto)

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋

原初の神・タカミムスビ と カミムスビ

【日本神話】 国生み
 古事記はその冒頭において、原初の17柱の神々の誕生を描きます。最初に、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビという特別な神が現れました。なかでもタカミムスビは、天皇家の祖先神であるアマテラスに天孫降臨を指示したり、初代天皇である神武天皇の東征を助けたりするなど、天皇家・朝廷にとって非常に重要な神です。
 やがて、17柱の神々の最後に誕生したイザナギ(男神)とイザナミ(女神)により日本の国土と他の神々が誕生することになりますが、両神が生んだ淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、本州は、「大八島(おおやしま)」と呼ばれ、当時の国土意識を示しています。(北海道・沖縄は含まれず、「本州」も実質的には西日本を指しています)
 その後もイザナミは多くの神々を産みますが、火の神ヒノカグツチを産む際に大火傷を負い、死者として黄泉(よみ)の国に降ります。妻を追って黄泉の国に向かったイザナギですが、妻との約束を破ってしまい、永遠の別離が訪れます。イザナギが黄泉の穢れを祓うために禊(みそぎ)を行うと、アマテラス、ツクヨミ、スサノオなどの主要な神々が誕生しました。

【対馬の伝承・異伝】
 原初の神々のうちもっとも重要なタカミムスビが、対馬南部の厳原町豆酘(いづはらまちつつ)の海岸沿いに鎮座し、対馬から磐余(いわれ。奈良県桜井市・橿原市)に遷座しています。磐余は、初代天皇である神武天皇の名「カムヤマトイワレビコ」(大和の磐余の尊い日子)に表れているように、大和朝廷の起源とされる土地であり、対馬が古神道の源流のひとつとされる所以(ゆえん)です。
 また、同様に上県町佐護(かみあがたまちさご)にはカミムスビが鎮座しており、対馬固有の神であるタクズダマは、両神の子神とされています。豆酘、佐護はそれぞれ、河口の平野部に位置する集落であり、遺跡・由緒ある神社が多く、古代の占いの技術・亀卜(きぼく)を伝承していた、など共通点が多い集落です。豆酘は対九州の、佐護は対朝鮮半島の港として、古くから開けていたことも関係しているようです。
 また、国土創造における対馬の別名はアメノサデヨリヒメ(天之狭手依比売)という女性名で、魏志倭人伝に描かれた荒々しい男性的なイメージとは対照的です。島の中央に、船乗りに安心を与える穏やかな内海・浅茅湾(あそうわん)が広がっており、海の女神のイメージが重ねられているのかもしれません。 アメノサデヨリヒメは数社で主祭神として祭られていますが、対馬そのもの=「国魂」が出雲(いずも)地方の大国主(オオクニヌシ)を連想させるためか、祭神が出雲系の神々にすり替わっている場合もあるようです。

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋1〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉
https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社(名神大)

【創  (Beginning of history)】

高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)

御祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)

由緒
橿原(かしはら)の朝高皇産霊(たかみむすびのかみ)の五世の孫
津島県直(つしまあがたのあたひ)建弥己々命(タケミココノミコト)に詔ちて 祀(まつ)らせたまう社(やしろ)にして

津島上縣(つしまかみあがた)の神皇産霊(かみむすびのかみ)を鋤宮(じょぐう)とし、

本宮(ほんやしろ)を靭宮(じんぐう)として 
上古(じょうこ)より由緒正しく、国内に稀(まれ)な社(やしろ)である、又、延喜(えんぎ)式神名帳に所載されるところの名神大(めいじんだい)の社(やしろ)でもある。

日本書紀の顕宗天皇三年四月の条に、下縣直(しもあがたのあたひ)の祀(まつ)る 高皇産霊(たかみむすびのかみ)へ神田(しんでん)十四町を献上せらるる記述が見え日本神話根源にあたるであり、国主崇敬篤い社(すうけいあついやしろ)である。

例祭 正月三日

宮司(供僧)本石正久

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【由  (History)】

高御魂(たかみむすび)神社 (延喜式 名神大社)

多久頭魂(たくづたま)神社 (式内社 名神大社)


「日本書紀」に対馬(つしま)下県直(しもあがたのあたい)が祭る高皇産霊神(たかみむすびのかみ)に、神田を献上した記事がある。
この神は 日本神話の名神で、当社の起源は 悠久の古代に発する。

多久頭神社は 承和4年(834)高御魂神社などと伴に 従五位下を授けられ官社となった。
中世、神仏習合(しんぶつしゅうごう)により「豆殴御寺(つつおてら)」と称し、明治に現社号に復したが社殿は旧観音堂を使用している。

平成214 対馬市教育委員会

境内案内板より

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『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋

たかみむすびじんじゃ
高御魂神社

周辺の雰囲気・環境など
対馬の南西部に位置する豆酘は、亀卜など独特の民俗が伝わる集落です。南は対馬海峡に面し、北東には龍良山(たてらやま)原始林が広がっています。
神社の近くには古代米・赤米の神田があり、敷地内には多くの神社が鎮座し、豆酘だけで1つの神話世界を形成しています。社殿の奥には、対馬最大といわれるクスノキの巨木がそびえています。

神社のプロフィール
元々は現在の豆酘中学校に位置していましたが、学校建設にともない、現在地(多久頭魂神社境内)に遷座しました。
式内社のなかでも特に霊験あらたかとされる名神大社(対馬には6社)のひとつです。日本書紀によると、5世紀、遣任那使の神託により、タカミムスビが磐余(奈良県)に進出しています。

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋2〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉
https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf

【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿の向かって右横に旧 村社
師殿神社(イクサドノジンジャ)《主》宗盛世〈豆酘の郡主〉

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旧 鎮座地 (Old location)】

・旧 鎮座地は 現在の豆酘中学校の辺りとされています  整地されていて 確かな場所はわかりません

【現在の 鎮座地(Current location)】

多久頭魂タクヅタマ神社 (式内社 名神大社)境内地

・多久頭魂神社(対馬 豆酘)

一緒に読む
多久頭魂神社(対馬 豆酘)対馬特有の天道信仰の中心地

多久頭魂神社(たくづだまじんじゃ)は 天神地祇を祀る神体山「龍良山」の遥拝所〈豆酘の里人が遠くからお祈りをする処〉で 古くは『延喜式神名帳』所載の由緒ある古社です 平安期より 神仏習合時して 対馬特有の天道信仰の中心地でした 中世以降は 豆殴御寺と称しましたが 明治に現社号に復しています しかし 境内には未だに神仏混合の名残りがあり 社殿も旧観音堂を使用しています

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦) 

大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに 
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺 
絲(イト)1絇を 布1端に代える

高御魂(タカミムヒノ)神社 一座  と記されています

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)県郡 13座(大4座・小9座)
[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 高御魂神社(名神大)
[ふ り が な ]たかみたま かみのやしろ)めいじんだい)
[Old Shrine name]Takamitama no kamino yashiro)(Meijin dai)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

赤米の頭受け神事(アカゴメノトウウケジンジ)

豆酘の祭祀習俗の中でも 赤米を神として祀る行事として有名です この世話役(頭)の新旧交替の儀式を「頭受け」といい 毎年旧暦1月10日の深夜に多久頭魂(タクズタマ)神社にて行われて 御神体〈赤米〉が前年の頭主の家から次の頭主の家へと「神渡り」する 豊作を祈願する「受取り渡し」の儀式が行われます

https://www.city.tsushima.nagasaki.jp/material/files/group/3/2.pdf

『日本書紀(Nihon Shoki)』23代 顕宗天皇の御代 3年〈487年頃〉2月・3月・4月の条に記される 式内社の論社について

神託により 阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ) 壱岐の「月ノ神」を山城へ 対馬の「日ノ神」を大和へと奉ります

壱岐の「月ノ神」を山城国〈京都 葛野〉へ

壱岐の「月ノ神」「壹岐嶋 壹岐郡 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ) 」の論社は3つ

・月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)

一緒に読む
月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)

月讀神社(つきよみじんじゃ)は 延寶4年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉により 里人が鎮座地の「清月(きよつき)」を「ふかつき」〈深淵 ふかふち〉とも呼んでいたことに因り 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)と比定されましたが この比定は誤りとする説が有力視されます 延寶の調以前は「山の神」と称されていた云われます

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・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)

一緒に読む
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)

箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります

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・男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)〈(月讀宮)箱崎八幡神社旧鎮座地〉

一緒に読む
男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)

男嶽神社(おんだけじんじゃ)は 天比登都柱(あめのひとつばしら)・月讀命(つくよみのみこと)が 降臨された地との伝承があり 元の月讀宮とされます すなわち式内社 月讀神社(名神大)〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉の当初の鎮座地です 現在の境内には御祭神 猿田彦命にちなみ並ぶ石猿群が有名です

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山城国〈京都 葛野〉「山城国 葛野郡 葛野坐月読神社 名神大」の論社は1つ

月読神社(京都市左京区)

一緒に読む
月読神社(京都市西京区松室山添町)

月読神社(つきよみじんじゃ)は 『日本書紀』顕宗天皇の段 三年(487)に 壱岐島から月神(つきのかみ)を勧請したと 創建について記されます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 山城國 葛野郡 葛野坐月讀神社(名神大 月次 新嘗)(かとのにます つきよみの かみのやしろ)に比定され 現在は 松尾大社の境外摂社となっています

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・対馬の「日ノ神」を大和国〈奈良 磐余〉へ

対馬の「日ノ神」対馬島県郡 高御魂神社 名神大 」の論社は1つ

・高御魂神社(対馬 豆酘) 

一緒に読む
高御魂神社(対馬 豆酘)

高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)は『日本書記』顕宗天皇3年条に「対馬の日神の託宣(タクセン)により 高皇産霊神に磐余(イワレ)の田14町を献上し その祠官として対馬下縣直がつかえた」という記載があり 『延喜式』の名神大社として大変立派な由緒を持つ古社です 元々は 豆殿浦の東側の海岸に鎮座しましたが 昭和32年(1957)豆酘中学校の建設により 現在の多久頭魂神杜の境内に遷座しました

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大和国〈奈良 磐余「大和国 十市郡 目原坐高御魂神社二座 並大 月次新嘗」の論社は3つ

・天満神社(橿原市) 

・耳成山口神社(橿原市) 

・山之坊山口神社(橿原市) 

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の内 高御魂と号した式内社は 合わせて五座〈厳密には 六座 大和の目原は二座〉

・大和の宇奈多奢(うなたり)・大和の目原(めはら)・山城の羽束師(はつかし)と対馬の豆酘(つつ)にあり それを宮中の高御産日神を合わせて五座〈厳密には 六座 大和の目原は二座となります

①「宮中神 御巫等祭神八座 並大 月次新嘗 中宮 東宮御巫亦同

御祭神 (八座) 
神産日神 高御産日神 玉積日神 生産日神 足産日神 大宮賣神 御食津神 事代主神

大和國 添上郡 宇奈太理坐高御魂神社 大 月次新嘗」の論社は3つ

宇奈多理坐高御魂神社(奈良市) 

一緒に読む
宇奈多理坐高御魂神社(奈良市法華寺町)

宇奈多理坐高御魂神社(うなたりにいますたかみむすびじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 奈良時代中期〈天平17年(745)〉法華寺(ほっけじ)が創建されるとその後 鎮守社になったと云われていて 江戸時代には楊梅神社とも云われていました 境内一帯は 第51代 平城天皇〈在位806~809年〉の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もあります

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井栗神社(春日大社 境内) 

一緒に読む
井栗神社・穴栗神社〈春日大社境内社〉(奈良市春日野町)

井栗神社(いぐりじんじゃ)・穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は もとは奈良市横井町付近〈横井村〉に鎮座していた 井栗神社は 雨多利(ウタリ)と云う田畝にあり 式内社の宇奈太理坐高御魂(うなたりにますたかみむすひ)神社とされていました 保延元年(1135)八月三日 穴栗(穴吹)・井栗の二社を現在地の春日大社境内へ遷座したと伝わります

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穴栗神社(奈良市) 

一緒に読む
穴栗神社(奈良市横井)

穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は 元々は 横井村の北西に鎮座していたが 江戸時代初期の寛文年間〈1661~1673年〉に現在地〈古市村〉に遷座したと伝わります 二つの式内社「宇奈太理坐高御魂神社(うなたりにますたかみむすひの かみのやしろ)」「穴次神社(あなつきの かみのやしろ)」の論社とされています

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大和国 十市郡 目原坐高御魂神社 二座 並大 月次新嘗」の論社は3つ

・天満神社(橿原市) 

・耳成山口神社(橿原市) 

・山之坊山口神社(橿原市) 

山城国 乙訓郡 羽束師坐高御産日神社 月次新嘗」の論社は1つ

羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区)

一緒に読む
羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)

羽束師坐高御産日神社(はづかしにます たかみむすひじんじゃ)は 社伝によれば 創建〈雄略天皇21年丁己(477)〉と伝わり 京都でも古社となります 高皇産霊神(たかみむすひのかみ)を祀る 延喜式内社 山城國 乙訓郡 羽束師坐高御産日神社(大月次新嘗)(はつかしにますたかみむすひの かみのやしろ)です

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対馬島県郡 高御魂神社 名神大 」の論社は1つ

・高御魂神社(対馬 豆酘) 

一緒に読む
高御魂神社(対馬 豆酘)

高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)は『日本書記』顕宗天皇3年条に「対馬の日神の託宣(タクセン)により 高皇産霊神に磐余(イワレ)の田14町を献上し その祠官として対馬下縣直がつかえた」という記載があり 『延喜式』の名神大社として大変立派な由緒を持つ古社です 元々は 豆殿浦の東側の海岸に鎮座しましたが 昭和32年(1957)豆酘中学校の建設により 現在の多久頭魂神杜の境内に遷座しました

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壱岐島(いきのしま)に祀られる 髙御祖神

神社考ニ日、顯宗天皇3年2月、天月神命ノ神託二依リ壹岐縣主先祖押見宿禰ノ祭ル所ニシテ月讀神社ニハ高皇産靈尊ノ裔天月神命ヲ祀リ高御祖神社ニハ天月神命ノ祖高皇産靈尊ヲ祀ル云々

髙御祖神社(たかみおやの かみのやしろ)

・高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)

一緒に読む
高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)

高御祖神社(たかみおやじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁2年(811)に建立とあります 紀州田邊の熊野権現を勧請したとされ 延寶の調(1676)〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉により 式内社 高御祖神社と改められました

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・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)

一緒に読む
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)

箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

厳原フェリー港から 県道192号 24経由 約22km 車35分程度
豆酘の町から 多久頭魂神杜へと向かいます
多久頭魂神杜の境内入り口に着きます

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一礼をして 多久頭魂神杜の鳥居をくぐります すると一の鳥居と二の鳥居の中間に 左手に鐘楼があり 右手に高御魂神社への参道石段があります 境内案内図の中の現在地の手前右 ➄の位置です 

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木漏れ日のある緩やかな上り参道の先に 鳥居が建っています
参道は 鳥居の手前で 二手に分かれ 右手は豆酘観音堂へ続いています
高御魂神社Takamimusubi Shrine)に参着

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鳥居は2連になっていて 一礼をして 鳥居をくぐります 二の鳥居には扁額があり「高御魂神社」と刻まれています

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社殿にすすみます 社殿右手の祠は 師殿神社(イクサドノジンジャ)

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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向かって 右横は 先程二股に分かれていた参道の先で 豆酘観音堂があり お詣りをします

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参道を戻り 多久頭魂神杜へと向かいます

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

高御魂神社(対馬 豆酘)伝わる伝承

【意訳】

高御魂(たかみむすび)神社

 『延喜式』神名帳には、対馬下県郡一三座の筆頭に高御魂神社 名神大」があり対馬の式内社二九座中の名社であった。
全国の式内社で高御魂と号した神社は大和の宇奈多奢(うなたり)、同 目原(めはら)、山城の羽束師(はつかし)と対馬にあり、それを宮中の高御産日を合わせて五座。

『神名帳考証』はこれを「タカミムスピノ神社」と訓み、祭神を高皇産霊尊と考証している。

この高皇産霊尊という神名は『日本記』に見え、『古事記』には高御産巣日神とある日本神話の名神で、この神が対馬豆殷にあったことは重要な史実である。

 『日本書記』の顕宗天皇三年条に、(対馬に在る)日神の託宣(タクセン)により、高皇産霊神に磐余(いわれ)の田一四町を献上し、その祠官として対馬下県直が侍(つか)えたという記載がある。
この磐余は 大和国十市郡にあり、神武天皇の本名「神大和磐余彦(かむやまといわれひこのみこと)」に所縁(ゆかり)の地で、大和朝廷発祥の地と伝えられた所である。
そこで この顕宗紀の所伝は、対馬に祀られていた高御魂神を大和に遷し、その祠官として対馬下県直が 上京したものと解されている。

 この下県直というのは、対馬下県の県主で、その姓が直(あたひ)であったと観られ、また上県にも県直がいて、この両者が対馬直と称し、対馬の祭祀古族であったことは『先代旧事本配』や『新撰姓氏録』などから確められる。

また このとき上京して高皇産霊の祠官となった対馬直の後裔(コウエイ)津島朝臣(ツシマアソン)が、養老四年(七二〇)から天平勝宝七年まで、三代にわたって伊勢神宮の大官司になっていることも、日本神道の形成に、対馬流の祭祀が大きく寄与したことを語っている。(大宮司のことは『二所大神宮例文』の「大宮可次第に見え、『続日本紀』に同一人名の授位がある)

 ムスビとは、産霊または産日と書くように、穀霊(チンジュ)して神をつくる神事に通じ、産日には日神(天童)を産む神話的意義がある。
古典神話の高皇産霊・神皇霊二柱の神は、多くの神霊を産んだ主神であり、宮中の高産霊は大嘗祭(だいじょうさい)の主神であるが、新嘗祭が豆醗の天童祭と似ていることは前述した。対馬では豆殿に高御魂が鎮座して、穀霊を神とする呪術に関わり、上県の佐護には神御魂が鎮座して、日神(天童)の母神とされている。

 ムスビ・ムスブには結婚の意味もあり、産んだ子をムスコ・ムスメと言う。また握り飯をオムスビというのは、握るという作法のなかに、穀霊を結ぶ意味があったのであろう。それは餅も同じである。豆酘の年神の餅が、赤米を蒸して、臼の形に造り、これをテンドウと称して 年神の神体とする習俗は、年神の本体が、穀霊であったことを教えてくれる。

 この日本神道の名神タカミムスビが、豆殿浦の東側の海岸にあったのが、昭和32年、豆酘中学校の建設により、多久頭魂神杜の境内に遷座した。この中学校建設の際、土師器(はじき)、須恵器と陶質土器採集されている。

境内案内書より

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『日本書紀(Nihon Shoki)』養老4年(720)編纂に記される伝承

23代 顕宗天皇の御代 3年〈487年頃〉2月・3月・4月の条に 神託があり 
壱岐の「月ノ神」を山城国〈京都 葛野〉 
・対馬の「日ノ神」を大和国〈奈良 磐余〉に奉ります
その後 顕宗天皇が崩御されたことが記されています
この対馬の「日ノ神」は 具体的にどの神を指すのかは 不明ですが 人にのり移り「我が祖(オヤ)の高皇産霊(タカミムスヒノミコト)奉れ」と云われます 

【意訳】

顕宗天皇3年2月・3月・4月の条

3年春21 阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ) 命令を受け 任那(ミマナ)使者としてました
このとき 人につきあらわれて 謂われるのには 
「我が祖(オヤ)の高皇産霊(タカミムスヒノミコト) 溶けていた天地をお造りになった功があります 民地(カキトコロ)を我が月神に奉りなさい
もし 請われるままに献上すれば 福慶〈福と慶事〉があるであろう

事代(コトシロ) それで〈大和〉に帰って 詳しく申し上げまし
それで 歌荒樔田(ウタアラスダ)〈山城国〈京都府〉の葛野郡(カズラノコオリ)(葛野郡のウタ村)奉りました
壱岐(イキノアガタヌシ)の先祖にあたる 押見宿禰(オシミノスクネ)が祠(マツリ)仕えました

33 後(ミソノ)にお出ましになり 曲水宴(メグリミズノトアカリ)を催されまし

45 人につきあらわれて 阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)に謂われるのには
「磐余(イワレ)〈大和〉の田を 我が祖(オヤ)の高皇産霊(タカミムスヒノミコト)奉れ」

事代(コトシロ) すぐに〈天皇に〉奏上しました 神の乞われるままに 14町を奉りました
対馬の下(シモツアガタノアタイ)を (マツリ)〈ホコラ〉に仕えさせました

13 福草部(サキクサベ)を置かれまし
25 天皇は 八釣宮(ヤツリノミヤ)にて崩御されまし

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

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『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806)~(906)頃の成立〉に記される伝承

神武天皇の御代〈在位 BC660~BC585年頃〉対馬の直(アタヒ)〈国造〉として 髙魂尊(タカミムスヒノミコト)5世の孫 建弥巳巳命(タケミココノミコト)を任命したと記されています

【意訳】

第10巻「国造本紀」より

〈今の對馬島〉

津島縣直(ツシノノアガタノアタヒ)

橿原の朝〈神武天皇の御代〉 髙魂尊(タカミムスヒノミコト)5世の孫 建弥巳巳命(タケミココノミコト)を改めて 直(アタヒ)と為す

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『先代旧事本紀』刊本(跋刊) ,延宝06年 校訂者:出口延佳 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用

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『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869)に記される伝承

遣唐使の祈りを捧げた2月に 対馬の神々(上縣・下縣)とともに 神階無位から昇叙が記されています

【意訳】

承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条

伯耆国(ホウキノクニ)川村郡 无〈無〉位 伯耆神 大山神 国坂神

及び

對馬嶋(ツシマノシマ)の

上縣郡(カミツアガタ)の 无〈無〉位
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶御子神(ヤナクイノミコノカミ)

下縣郡(シモツアガタ)の无〈無〉位
高御魂(タカミムスミカミ

住吉神(スミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
多久都神(タクツノカミ)
大調神(ヲオツキノカミ)

並びに 奉(たてまつ)り 従5位下 を授(サズ)く

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

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『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承

對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに 神階の昇叙が記されています
高御魂神(タカミタマノカミ)と記されています

【意訳】

貞観元年(859)正月27日の条

・・・・・
對馬島(ツシマノシマ)従5位下 
和多都美神(ワタツミノカミ)
高御魂神(タカミタマノカミ)
住吉神(スミヨシノカミ)
並びに 従5位上

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【意訳】

貞観12年(870)3月5日 丁巳の条

詔(ミコトノリ)を授(サズ)くに

對馬嶋(ツシマノシマ)の

正5位上 多久都神(タクツノカミ)に 従4位下

従5位上
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶神(コロクノカミ)
御子神(ミコノカミ)
嶋大國魂上(シマオオクニタマノカミ)
高御魂神(タカミタマノカミ)
住吉神(スミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
太祝詞上(フトノリトノカミ)
平神(タイラノカミ)
並びに 正5位下

大吉刀神(オオヨシカタナノカミ)
天諸羽神(アマノモロハノカミ)
天多久都麻神(アマノタクツマノカミ)
宇努神(ウノノカミ)
吉刀神(キトノカミ)
小枚宿祢神(ヲヒラノスクネノカミ)
行相神(ユキアイノカミ)
奈蘇上金子神(ナソカミカネコノカミ)
嶋御子神(シマミコノカミ)
国本神(クニモトノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
敷嶋神(シキシマノカミ)
並びに 従5位上

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

神階の昇叙国造本紀と日本書紀記述が 記されています

【意訳】

高御魂(タカミタマノ)神社 名神大

神位 承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条・・・従5位下
   貞観元年(859)正月27日の条・・・従5位上
   貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・・正5位下

国造本紀 神武天皇の御代〈在位 BC660~BC585年頃〉対馬の直(アタヒ)〈国造〉として 髙魂尊(タカミムスヒノミコト)5世の孫 建弥巳巳命(タケミココノミコト)を任命した

日本書紀 23代 顕宗天皇の御代 3年〈487年頃〉2月・3月・4月の条に 神託があり 
壱岐の「月ノ神」を山城国〈京都 葛野〉 
・対馬の「日ノ神」を大和国〈奈良 磐余〉に奉ります

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承

神階の昇叙と 山城乙訓羽束師坐高御産日神社との関連を示唆しています

【意訳】

高御魂神社 名神大

高御魂は 多賀美牟須比(タカミムスヒ)と訓ずべし

豆酘豆酘村に在す 玉勝間
〇式三の臨時祭 名神祭285座の對馬島 高御魂(タカミムヒノ)神社 一座 

類社 山城乙訓羽束師坐高御産日神社 の條を見合うべし

神位 続日本後紀 承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条・・・従5位下
   三代実録  貞観元年(859)正月27日の条・・・従5位上
   三代実録 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・・正5位下

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』明治9年(1876)に記される内容

式内社所在は 現在の「多久頭魂神社(対馬 豆酘)」の境内に遷座する前 旧鎮座地「豆酘下村 字 東神田」を示しています

【意訳】

高御魂神社 名神大

祭神 高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)
   建弥巳巳命(タケミココノミコト)

今 按〈今 考えるに〉
明細帳 式内社記ともに 祭神を記すこと 右の如し 高皇産霊尊は 事もなけれど 建弥巳巳命は 国造本紀に「神武天皇の御代〈在位 BC660~BC585年頃〉対馬の直(アタヒ)〈国造〉として 髙魂尊(タカミムスヒノミコト)5世の孫 建弥巳巳命(タケミココノミコト)を任命した」という文によりたるなれば 據(ヨリドコロ)なきにあらねど

古事記に「天菩比命の子 建比良鳥命 云々 津島縣直云云 等の祖なり」とあるに合わされば ここに祭るべきにあらずとも云るけれど

この神社は 縣直(アガタノアタヒ)の祭れる神ならんも知るべからず
国造本紀の説にも由あれば 今は相殿として記せり

神位 明天皇 承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条・・・従5位下
   清和天皇 貞観元年(859)正月27日の条・・・従5位上
   清和天皇 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・・正5位下

祭日 1月3日
社格 村社
所在 豆酘下村 字 東神田

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2

高御魂神社Takamimusubi Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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