高城神社(たかぎじんじゃ)は かつては社地の内 北の方 御蔵屋敷と云処にありました 天正18年(1590)石田三成の軍勢が忍城(現行田市)攻略の際 社殿が焼失 その後 寛文十一年(1671)忍城主 阿部豊後守忠秋公により現在地に遷座再建され 高城大明神と崇敬され現在に至ります 延喜式内社 武蔵国 大里郡 髙城神社(たかきの かみのやしろ)の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
髙城神社(Takagi shrine)
【通称名(Common name)】
・明神様(みょうじんさま)
・高城大明神(たかぎだいみょうじん)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県熊谷市宮町2-93
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
御祭神 高皇産霊尊から
・「むすび」の神として信仰
・「産」から安産の神として信仰
・「生産」「産業」「建築建設」の神として信仰
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
高城神社略記
御祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
鎮座地 埼玉県熊谷市宮町二丁目由 緒
平安時代 延喜五年(905年)約1,070余年前、宮中において延喜式、式内社に指定された、大変古い神社です。
現在の社殿は、寛文十一年(1671年)に忍城主、阿部豊後守忠秋公が厚く崇敬され遷宮された建物です、「えんむすび」「安産」の神であり「家内円満」「営業繁栄」に導く神として崇敬されている。祭 事
元旦一月一日
追難祭 二月(節分)
春祭 四月十日
大祓 六月三十日
秋祭 十月一、二、三日
七五三 十一月十五日
酉の市 十二月八日宝 物
熊谷絵地図、青銅常夜灯 蹴まり、絵馬、古文書等。宮司 福井守久
境内案内板より
【由 緒 (History)】
高城神社の由緒
御祭神 高皇産霊尊を祀る高城神社は 創祀奉斎の年代は定かでありませんが、奈良朝以前であろうとうかがわれる。
延喜式神名帳に「大里郡一座高城神社」とある。
旧社殿は 豊臣秀吉が小田原城を攻めた折、豊臣軍勢の石田三成、浅野長政の兵士等が忍城(現行田市)攻略するに当り、当神社も災を被り焼失した。天正18年(1580年代)のことである。
現社殿は 寛文11年(1671)忍城の閤老 阿部備後守忠秋公が式内社であることを認め、伊藤伊織、野沢忠兵衛を奉行とし、甲良豊前を棟梁として造営された社である。
大正5年4月に(旧)県社に昇格し、これを記念して建築された神楽殿・社務所及び神主の住宅は昭和20年8月14日(終戦前夜)熊谷大空襲により焼失した。
昭和37年には拝殿の屋根葺き替え工事、昭和47年には高城記念館(社務所)、そして昭和55年には幣殿改築を行い、昭和58年には境内東側の玉垣、平成2年には正面から西側の玉垣改修を行う。
御祭神の御神徳については、神道の古典、古事記の上巻の冒頭に「天地のはじめておこりしとき高天原に成りませる神の御名は天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神なり」とあり、この三柱の神は天地創造の神として知られている。
「むすび」の神として信仰、「産」から安産の神、「生産」「産業」「建築建設」の神として信仰を集めている。
又境内には6百年以上の樹齢の欅が数本あり、御神木も欅である。
宝物として天国剣刃、鎧、蹴まり一式、オランダ鏡、神道流古文等々がある。境内には摂社、末社9社があり、天神社の特殊信仰をもつ社がある。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・末社 天神社《主》少彦名神(すくなひこなのかみ)
末 社 天神社
御祭神 少名産名大神(すくなひこなのおおかみ)
御祭神「少名産名大神」は、医療、子育ての守護神として、厚く崇敬され特に当社玉垣内の赤石は御神徳・御神威のやどった御石として、往古よりこれを拝借し「丈夫な歯がはえますように」との願いをこめてお喰い初めの儀式を行い、赤石は二個 (倍にして)返納する風習が受け継がれております。
現地案内板より
・熊野社《主》伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
熊野神社の由緒
永治年間、此の付近一帯に猛熊が往来し庶民の生活を脅かし悩ました。熊谷次郎直実の父直貞この猛熊を退治して、熊野権現堂(現在 箱田に熊野堂の石碑あり)を築いたと伝えられる。
明治維新の後、熊野神社と称し、その御祭神 伊邪那岐命を祭り、明治四十年一月十四日に当高城神社境内地に遷し祭られた。
また、同年四月二十日に熊野神社社地六十二坪(現 熊野堂敷地)を高城神社に譲与された。
この熊野神社(熊野権現)と千形神社(血形神社)そして圓照寺の関係は深く、直実によって築かれ、熊谷の地名を産んだとも伝えられる。
現地案内板より
・石祠〈熊野神社の手前〉
・〈六社合殿〉(・白山大神・琴平大神・大国主大神・鹿島香取大神・伊奈利大神)
・白山神社《主》伊弉諾命,水波女命
・琴平神社《主》大物主命
・八幡神社《主》品田別命
・大国主神社《主》大己貴命
・鹿島香取神社《主》武甕槌命,経津主命
・伊奈利神社《主》倉稲魂命
・御神木`欅`
此社の傍に小楢の木の年經りて高さは八丈五尺、周りの太さは一丈五尺はかりにて 枝は十四五間もはひこれるあり 地をさること三尺はかりに空なる穴あり 其口は七寸はかり 其内はいと廣くして洞穴のことし 其中より清水わき出てて絶る事なし 若内外清淨をこたらすして此水を用ひ諸々の病を治すれは 必感應の效を得るとなし 此近國に聞へて日々むれむれに集りつとひて 此水を以て洗へは諸病にしるしあり 殊にあやしく聞へしは 年頃盲目なりし者 七日の内に明快を得たりとなん 其の外聾たるを治し 蹇たるをおこすときこゆ かかりけれは遠方まてもかくれなく 春より夏に至るまて 參詣る彌夥たしく 幾千萬人に及ひ 晝となく夜となく 肩をつらね足をはこひ 我かちに靈水を受けさるはなし 空穴より湧き出る流れ 漸く乾きぬへけれは 傍なる井萃の朝に生するを汲て彼靈水を加へ 普く施しけるに 病を治するに驗あり されは神徳の著きを仰き功徳を求め願ひを立る輩 靈驗を得て賽する人の まきちらせる鵝眼麞牙 掛ならへたる繪馬 いくはくといふ事をかそへかたし
・青銅常夜燈
熊谷市指定有形民俗文化財
常夜灯 じょうやとう
指定年月日 昭和四十五年十一月三日
所 在 地 熊谷市宮町この燈籠(とうろう)は高さ二百七十五cmという青銅製の大きなもので、天保十二年(1841) に建てられました。燈籠の台座には県内はもとより、江戸・川崎・桐生・高崎・京都など、広範囲に及ぶ一五〇名もの紺屋(こうや)(藍染業者 あいぞめぎょうしゃ)の名前が奉納者(ほうのうしゃ)として刻まれて います。このうち熊谷の奉納者は約四十名に及んでいます。
当地では、江戸時代中頃から藍染業が活況を呈していたことが知られており、明治時代後半は紺屋の全盛期であったといわれております。
常夜灯は高城神社が藍染業者から厚い信仰を受けてきた事実を語る資料として、また、 藍染業の盛況を知る記念碑ともいえる貴重なものです。
平成十四年十一月 熊谷市教育委員会現地立札より
・熊谷 酉の市 起原碑〈境内社 天神社と熊野神社の中間〉
・酉の市 とび職からの奉納゛扁額゛゛絵馬゛
・かつての参道の第二鳥居
由来碑
この石は、小松石(安山岩)で、
この石は、小松石(安山岩)で、参道の第二鳥居のものである。一六七〇年(寛文十年)に旧忍城主 阿部豊後守忠秋が献納したものであり、原寸は高さ4.97メートル 横6.6メートルで、基礎は根巻きを含め三段になっていた。一九八八年(平成十年)十月七日に事故により破損した。この由を後世に伝えるために、ここに第二鳥居の柱と笠木を置き、由来碑とする。
平成十一年一月吉日 高城神社 宮司 福井千秋現地石碑より
・手水鉢〈寛文拾一年五月十五日 奉納〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)大里郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 髙城神社
[ふ り が な ](たかきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takaki no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 大里郡 髙城神社(たかきの かみのやしろ)の論社について
・高城神社(熊谷市宮町)
高城神社(たかぎじんじゃ)は かつては社地の内 北の方 御蔵屋敷と云処にありました 天正18年(1590)石田三成の軍勢が忍城(現行田市)攻略の際 社殿が焼失 その後 寛文十一年(1671)忍城主 阿部豊後守忠秋公により現在地に遷座再建され 高城大明神と崇敬され現在に至ります 延喜式内社 武蔵国 大里郡 髙城神社(たかきの かみのやしろ)の論社です
髙城神社(熊谷市宮町)
・高城神社(熊谷市高本)
高城神社(たかぎじんじゃ)は 二つの式内社の論社となっています 一つは 武蔵国 大里郡 髙城神社(たかきの かみのやしろ)とされ 又 別称を御霊の宮(ごれいのみや)と呼ばれ ここから武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社ともされています 昭和45年に和田吉野川の河川改修に際して 現在地〈最初の鎮座地〉に遷座しました
髙城神社(熊谷市高本)
・高城神社(熊谷市高本)旧鎮座地跡地
高城神社 旧鎮座地跡(たかぎじんじゃ きゅうちんざちあと)は 当初 高本村の北方〈現 髙城神社(熊谷市高本)〉の鎮座地から南側に遷座した場所 あるいは 和田吉野川の流れが変わり 社が下流に流されて祀られていた場所とされます その後 昭和45年に和田吉野川の河川改修に際して 現在地〈最初の鎮座地〉に再び遷座しました
髙城神社 旧鎮座地跡(熊谷市高本)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR高崎線 熊谷駅から北西へ約1.0km 車5分程度
社殿 参道は南南西に向いていて R17号に面して 一の鳥居が建ち 筒状の社号標に 髙城神社と刻字され 参道には二の鳥居が建っています
高城神社(熊谷市宮町)に参着
玉垣に囲まれた境内の入口には 注連縄の懸かる三の鳥居が建ち 正中に車止め の立札があります
一礼をして 鳥居をくぐり 境内に進みます
右手には手水舎があり 清めて石畳みを進み
拝殿にすすみます
参道 石燈籠の脇に 波に乗る海亀 の石像があります
東日本大震災の復興祈願と第62回式年遷宮の奉祝事業として 平成26年に建てられた石像ですが カワイらしい
拝殿の扁額は 高城神社 と刻されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 大変立派で 拝殿の奥には 長い幣殿 その奥に本殿が鎮座し 周囲は瑞垣で囲まれています 瑞垣内にも樹木が植えられています
境内社にお詣りをして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 高城神社の所在について 熊谷駅 高城大明神〈現 高城神社(熊谷市宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
高城(タカキ)神社
旧事記 高皇産霊尊 亦名 髙魂尊 亦名 高木命 この国 秩父国造 高皇産霊尊之息思兼命之孫也
式社考 熊谷駅 高城大明神タカミムスヒ命 神領除地七段
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
高城神社(熊谷市宮町)について 延喜式内社であるとし 神木の榎の傍に池があり この水が眼病に霊験があったので゛目洗水゛と呼んでいた と記しています
【意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之二二〇 大里郡 巻之二 熊谷町
髙城明神社
延喜式神名帳に 武蔵国大里郡高城神社と掲る者にして
祭神は 高皇産霊尊なりと云
元は 社地の内北の方なる御蔵屋敷と云処にありしが 寛文11年新に宮社を造りて 今の地に移し祀ると云末社
天神 稲荷 神楽堂
霊水 神木榎の側なる池なり 眼疾を患るもの此水にて洗へは 立所に平癒せるとて 目洗水と号す社宝
麾一 軍配二 鏃一 柳葉の形にて 銘に奉寄進高城大明神国重と鐫る以上阿部豊後守忠秋の寄附する処なり
鉾一 貞享3年阿部志摩守正明 奉納の由を銘す
刀一 天文18年戌3月吉日 廣国作と銘あり 寄附人の名を傳へず
天国刀 寛延妙玄龍と云僧の寄附せしなり 天国寶刀記と云添状あり 其略に 余太曽祖村山次郎入道清久 当武州八王子の北に居城し 家世店国寶刀を蔵す 清久没し子清武の時 羽生城に依り居こと数年の後 寇兵の為に戦死す 二子あり 長は其名を失ひ 次を清昌と云 城の陥に及て 長男は家譜由緒を収て去て 清昌は此太刀を蔵して熊谷驛に隠棲し 其子清春 清春の子清次は 乃余が父なり 余出家して世嗣を絶しを以て 寶刀を高城大明神に奉る云々と載たり
神主 福井喜太夫 吉田家の配下なり
別当 石上寺 社地には住せず 宿の南にあるを以て 別に末に出す
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 高城神社の所在について 中山道熊谷驛〈現 高城神社(熊谷市宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
高城神社
高城は多加芸と訓べし
〇祭神 高皇産霊尊、(地名記式社考)
〇中山道熊谷驛に在す、(地名記、参考)
例祭 月 日
〇古事記、(神代段)是高木神者、高御産巣日神之別名、
社頭 除地七反
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 高城神社の所在について 熊谷郷〈現 高城神社(熊谷市宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
高城(タカキノ)神社
今 熊谷郷にあり、高城大明神といふ 神名帳考土代、巡拝舊祠記
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 高城神社の所在について 高木村〈現 高城神社(熊谷市高本)〉と記しています
【抜粋意訳】
高城神社
祭神 高皇産霊尊
祭日 三月九日 並び十五日
社格 村社
所在 高木村(大里郡市田村大字高本)(高木は高本の誤なり)
【原文参照】
高城神社(熊谷市宮町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について