高河原神社(たかがわらじんじゃ) は 豊受大神宮(外宮)の摂社です 『延喜式神名帳927 AD.』所載 伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)とされます その後 応永26年(1419)に焼失し 近世には社地不明となりましたが 寛文3年(1663)現社地(月夜見宮 域内)に再興されました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
高河原神社(Takagawara shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊勢市宮後一丁目3-19(月夜見宮 域内)
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》月夜見尊御魂(つきよみのみことのみたま)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈豊受大神宮(外宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
『神宮要綱』に記される内容
【抜粋意訳】
高河原神社
鏡座地 別宮月夜見宮宮域内
殿舎
正 殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉 垣 連子板打・・・壹重
鳥 居 神明造・・壹其高河原(タカガハラ)神社は延喜大神宮式に見えたり。而して彼の神名式に所謂 川原坐國生神社なるもの卽ち本社を指すならん。
類聚神祇本源所引の私記に造宮使造替の六社を學げ (月讀・草奈伎・大間・佐奈・櫛田・須麻留賣)月讀社の宮號宣下後は、高河原社を以て之に替られしことを記せり。神名祕書及び神祇本源所引の社記には、本社祭神を月夜見神の御玉と為す。月夜見宮の別宮に列せられ給へる後は、攝社の順位上、度會國御神社を以て造宮使造替の神社中に入れらるべきに特に本社の之に關られしものは、深き故あることなるべし。
本社がもと月夜見宮の東方に鎭座ましませることは、神名祕書及ぴ社記の記賊によりて明かなり。
寛文攝社再興記に、其の奮跡福島助六の所有地内にあり、山田奉行を經て交涉せしめん希望の由見えたれども、乏を其の地に再興する能はずして月夜見宮の宮域内に於てしたるは、交涉不調の結果なるべし。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
高河原(たかがわら)神社
月夜見宮社殿の右手後方にご鎮座する高河原神社は、外宮の摂社で月夜見尊御魂をお祭りしています。
『延喜神名式(えんぎじんみょうしき)』に「川原坐国生(かわはらにますくなり)神社」として『止由気宮儀式帳』には「高河原社」として、『止由気宮儀式帳』には「高河原社」として記載があり、儀式帳成立の延暦二十三年 (八〇四 )以前の創建とされ、古くからこのあたり一帯の守護神として信仰されて きました。
鎌倉時代後期の外宮祠官(しかん)であった度会(わたらい)(西河原)行忠(ゆきただ)(一二三六~一三〇六 )の選による『伊勢二所太神宮神名秘書』には、月夜見宮の所在地名は大河原村とあり、昔、この辺りを宮川の分流がめぐっていたことが想像できます。鎌倉時代編集の『神宮雑例集』によると、高河原はもと離宮のあった場所と考えられ、古い時代のご鎮座地については、須原大社旧地など諸説あります。
月夜見宮パンフレットより
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
高河原神社は 月夜見宮の域内に鎮座します
伊勢國 度會郡 月夜見神社(つきよみの かみのやしろ)
・月夜見宮〈豊受⼤神宮(外宮)別宮〉
月夜見宮(つきよみのみや)は 古くは 高河原(たかがわら)と呼ばれ 農耕の神を祀る神社であったと云います 延喜式〈927年12月編纂〉式内社 伊勢國 度會郡 月夜見神社(つきよみの かみのやしろ)の時は 外宮摂社の首位でした その後 土御門天皇の承元四年(1210)土宮の嘉例に淮じ豊受大神宮(外宮)の別宮に昇格しました
月夜見宮〈豊受⼤神宮(外宮)別宮〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・高河原神社の旧社地
・須原大社(伊勢市一之木)
須原大社(すはらおおやしろ)は 社号の須原は「州原」 宮川の支流静川の流域で このあたりが一面の河原であったことを意味すると云われ 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)の論社 高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉(月夜見宮の境内に祀られる)の旧鎮座地とされます
須原大社(伊勢市一之木)
高河原神社は 豊受大神宮(外宮)の摂社
・豊受大神宮(外宮)
豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市豊川町)〈伊勢神宮〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社
度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社右諸社,並預祈年、神嘗祭
以下略
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 川原坐國生神社
[ふ り が な ](かはらのます くなりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kaharanomasu kunari no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
・内宮・外宮の別宮・摂社・末社について
・お伊勢さん125社について
゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉
゛國生神(くなりのかみ)゛について
『延喜式』には「國生(くなり)」を号する式内社が五社(・狭田国生神社・坂手国生神社・川原坐国生神社・大間国生神社・国生神社)あります
何れも 伊勢國の式内社で 神宮と深く関わっています
しかし 御祭神は 神社ごとに別々で 特定の御神名ではありませんので 各々の地域の地主神に対する美称であろうと考えられています
すなわち 國生神(くなりのかみ)とは ゛国土に生まれでた神゛゛国を生む神゛の意で ゛國魂神(くにたまのかみ)゛の如く そこを支配し國土の生育を司っている神が 國生神(くなりのかみ)であろう とされます
式内社〈伊勢國〉の中で゛國生神(くなりのかみ)゛を号する五つの社
①伊勢國 度會郡 狭田國生神社(さたの くなりの かみのやしろ)
・狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
狭田國生神社(さたくなりじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 『倭姫命世記』に「倭姫命が皇大神を奉じ 寒川を遡った時 速河彦命が参り゛畔廣之狹田(アゼヒロノサタ)の國゛の神田を献上し 倭姫命が゛速河狭田社゛を祝定めた」と云う 延喜式内社 伊勢國 度會郡 狭田國生神社(さたの くなりの かみのやしろ)とされます
狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
②伊勢國 度會郡 坂手國生神社(さかての くなりの かみのやしろ)
・坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
坂手國生神社(さかてくなりじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 創建について『倭姫命世紀』に゛垂仁天皇の御時 倭姫命が皇大神を奉戴し この地に御遷幸の時 國つ神の゛高水神(たかみづのかみ)゛が この國は岳高田深坂手國(をかたかしたふかしさかてのくに)とお迎え申し゛田上御田(たのへのみた)゛を奉られたので 坂手社(さかてのやしろ)が祝い定められたと云います
坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
③伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)
・高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
高河原神社(たかがわらじんじゃ) は 豊受大神宮(外宮)の摂社です 『延喜式神名帳927 AD.』所載 伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)とされます その後 応永26年(1419)に焼失し 近世には社地不明となりましたが 寛文3年(1663)現社地(月夜見宮 域内)に再興されました
高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉(月夜見宮 域内)
・須原大社(伊勢市一之木)
〈高河原神社の旧社地〉
須原大社(すはらおおやしろ)は 社号の須原は「州原」 宮川の支流静川の流域で このあたりが一面の河原であったことを意味すると云われ 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)の論社 高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉(月夜見宮の境内に祀られる)の旧鎮座地とされます
須原大社(伊勢市一之木)
④伊勢國 度會郡 大間國生神社(をほまの くななりの かみのやしろ)
・大間國生神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
大間國生神社(おおまくなりじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大間國生神社(をほまの くななりの かみのやしろ)です 『倭姫命世記』に゛雄略天皇二十二年(478)の條に大若子(オホワカゴ)命の社を定む 大間社是なり゛とあります 中世に廃絶し 江戸時代に現在地に祀られました 玉垣内には 正殿が二殿〈大間社(祭神・大若子命)國生社(祭神・乙若子命)〉あります
大間國生神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
⑤伊勢國 多氣郡 國生神社(くなりの かみのやしろ)
・鳥墓神社(明和町簑村字鳥墓 )
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
豊受大神宮(外宮)の北御門〈裏参道〉から゛神路通(かみじどおり)゛を抜けて約550m 徒歩8分程度で 月夜見宮〈豊受大神宮(外宮)別宮〉に到ります
月夜見宮〈豊受大神宮(外宮)別宮〉に参着
・月夜見宮〈豊受⼤神宮(外宮)別宮〉
月夜見宮(つきよみのみや)は 古くは 高河原(たかがわら)と呼ばれ 農耕の神を祀る神社であったと云います 延喜式〈927年12月編纂〉式内社 伊勢國 度會郡 月夜見神社(つきよみの かみのやしろ)の時は 外宮摂社の首位でした その後 土御門天皇の承元四年(1210)土宮の嘉例に淮じ豊受大神宮(外宮)の別宮に昇格しました
月夜見宮〈豊受⼤神宮(外宮)別宮〉
月夜見宮の境内 祓所(はらえど)の横に゛楠の大木゛があります ここから 正殿の向かって右手を奥に進みます
高河原神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉に参着
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待つ〉
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 川原坐國生神社について 所在は沼木郷月讀宮地内東に在す〈現 高河原神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
川原坐國生神社
川原は加波良と訓べし、國生は前に同じ、
○祭神 月夜見神御玉
○沼木郷月讀宮地内東に在す、神名略記○式四、伊勢大神官 度曾宮所摂十六座の第十に載す、
○神名略記云、今號 高河原社祭祀之、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 川原坐國生神社について 所在は山木郷山田村 月讀宮東にあり〈現 高河原神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
川原坐國生(カハラニマスクナリノ)神社
又 髙河原社と云、延暦儀式帳、延喜式、神名秘書、
〇按 儀式帳に、髙河原社、川原社、川原淵社を挙げて延喜式に川原社を川原大社に作る時は、髙川原 即 川原國生神なる事 明らかなり、附て考に備ふ今 山木郷山田村 月讀宮東にあり、神名秘書、神名帳考証、神境紀談
國生神を祀る、延喜式〇按 神祇本源神名秘書
醍醐天皇 延喜の制、祈年神甞の祭に預る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 川原坐國生神社について 所在は山田宮後町 月讀宮域内〈現 高河原神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
川原坐國生神社
祭神
祭日 六月九月十二月 並十八日
社格 外宮所攝 十五所之一所在 三重縣(月讀宮域内)沼木郷山田宮後町 月讀宮域内
【原文参照】
高河原神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
お伊勢さん125社について
゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉
伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る
伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について