橘樹神社(たちばなじんじゃ)は 『古事記』に「日本武尊の后・弟橘比賣命が走水の海に身を投じて 七日の後 后の櫛が海辺に依りき その櫛を取りて御陵を作り治置きき」と記され 社伝では 尊が后の櫛を納めた御陵を作り 橘の木を植えたのが創祀と伝える 延喜式内社 上総國 長柄郡 橘神社(たちはなの かみのやしろ)です
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
橘樹神社(Tachibana shrine)
【通称名(Common name)】
・橘様(たちばなさま)
【鎮座地 (Location) 】
千葉県茂原市本納738
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》弟橘比賣命(おとたちばなひめのみこと)
《配》日本武尊(やまとたけるのみこと)
忍山宿禰(おしやまのすくね)〈弟橘比賣命の父〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
「まもろう 茂原のいいとこ、すばらしさ」
茂原市景観資源 No.3 本納橘樹神社(ほんのうたちばなじんじゃ)
橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、県内屈指の由緒ある古社で、格式も高く荘厳な雰囲気の上総国二宮であり、主祭神は弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)である。日本書紀によれば、景行天皇(けいこうてんのう)の時代にその皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征に出て、相模から上総へ向かう途中 暴風雨に遭いこれを静めるために后(きさき)の弟橘媛(おとたちばなひめ)が身を投げて海を静め、日本武尊(やまとたけるのみこと)が無事 上総の地に上陸したとされる。橘樹神社(たちばなじんじや)の社伝によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が流れ着いた弟橘媛(おとたちばなひめ)の櫛(くし)をまつって陵墓(りょうぼ)をつくり、二本の橘(たちばな)の木を植えたのが、橘樹神社(たちばなじんじゃ)の始まりと言われている。現在の本殿の後方にあるのが、弟橘媛(おとたちばなひめ)をまつった古墳と言われており、また境内の形が舟に似ていることから帆丘(ほのおか)とも言われ、本納の地名の由来と考えられている。
茂原市都市計画マスタープラン推進市民会議
現地案内板より
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【由 緒 (History)】
由緒
社伝に日本武尊のご創建と伝え、
陽成天皇元慶元年5月17日、授上総国勲五等正五位の下。
光孝天皇8年7月15日、授上総国勲五等正五位の上、橘神、日本武尊、忍山宿祢二神を合祀すと記す。
延喜式内小社。
正慶2年9月、寛政13年5月にそれぞれ改築。
明治6年5月30日県社に列す。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・橘樹神社 本殿
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・橘樹神社 長い幣殿
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・橘樹神社 拝殿
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・〈本殿向かって左横〉手水舎(御陵のお参り用か?)
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・弟橘比賣命の御陵と云い伝わる古墳
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茂原市指定史跡
宮ノ下遺跡
所在地 茂原市本納七三八
昭和五十三年十二月二十八日指定橘神社境内東側及び裏側の崖(がけ)や水田から縄文土器や石器が出土することは明治のころから知られていたが、昭和二十五年本納中学校社会科研究部により、深鉢(ふかばち)土器(加曽利(かそり)E式)が発見された。
宮ノ下遺跡は、標高十メートル地点であり、周辺の水田は地下一メートルで葦の根の腐食した土質となり、近年まで沼地であった。
橘神社の祭神は弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)であり、延喜式(えんぎしき)にのる社(やしろ)であることからも、単に縄文土器出土地のみでなく、その資料的価値は大きい。
平成二十一年三月二十六日 茂原市教育委員会現地案内板より
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・〈境内社が三社〉窟戸神社・子安神社・稲荷神社
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向かって右から順に
・〈境内社〉窟戸神社《主》天手力雄命
本納城落城とともに遷座
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・〈境内社〉子安神社《主》木花開耶媛命
永禄年間に勧請
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・〈境内社〉稲荷神社《主》保食命
創建以来鎮座
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・〈吾妻池の中央の境内社〉秋葉神社《主》伊弉冉命、火産霊命
天正年間勧請
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・〈参道途中向かって右手の境内社〉粟嶋神社《主》少彦名命
文禄年間勧請
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・〈参道向かって右手〉社務所
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・〈参道向かって左手〉手水舎
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・境内参道
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・〈参道向かって右手〉案内板
茂原市指定天然記念物
本納橘神社社叢所在地
所在地 茂原市本納七三八
昭和五十五年二月二十六日指定神社裏側の森林は、高木、亜高木、低木からその下に生える下草まで全部そろつていて自然の姿に森林を放置した時どうなるかを学習するのに最適な自然林である。 境内にこれだけの大木が自然の形に繁茂しているところは市内では他に見られない。
樹木の種類は、エノキ、タブノキ、ケヤキ、クスノキ、ムクノキ、スダジイ等が多い。神社裏の高所は人工の塚か 自然の丘陵の一部かは明らかでないが神社の境内ということもあつて 手を加えられていないので自然林の様相をよく残している。
平成二十三年三月十五日 茂原市教育委員会現地案内板より
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千葉県指定有形文化財
橘木社(たちばなきのやしろ)文書(一〇通)二巻附 長谷川有則文書請取状控(1通)
所在地 茂原市本納七三八
所有者 橘樹神社
平成元年三月一〇日指定鎌倉時代初期の建久五年(一一九四)から嘉禄(かろく)元年(一二二五)にかけての文書で橘樹神社に伝来のものではなく、大正一五年に所蔵となつたものである。明治一九年修史局の調査のときは、山城国(京都府)紀伊郡竹田村長谷川景則蔵となつていた。
しかし、内容は一通を除き、「北条義時書状」「蓮西(れんせい)年貢支配状」等いづれも橘木社を中心とする中世の荘園橘木荘の寄進所領安堵等に関する文書である。
中世における郷土の歴史を知り得る貴重な資料である。附である長谷川有則文書請取状控は、荘園の所有者であつた京都の醍醐寺に伝来していた橘木社文書が宝暦四年(一七五四)に京都府の長谷川家に譲与された経緯を示すものである。
平成三年九月三十日 千葉県教育委員会 茂原市教育委員会現地案内板より
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・鳥居〈4連の鳥居〉
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・社頭
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
橘樹神社(茂原市本納)の社伝では 日本武尊が弟橘媛の御陵を作り 弟橘媛の櫛を納めて 橘の木を植えて祀ったことを創始と伝え
『古事記』には「日本武尊の后・弟橘比賣命が海に身を投じて難を救ってから 七日の後 その后の櫛海辺に依りき すなはちその櫛を取りて御陵を作り治置きき」と記されています 〔内房と外房のことではありますが〕これが当社のことであると云われます
【抜粋意訳】
其處〈焼津〉からおいでになり 走水海(はしりみずのうみ)をお渡りになつた時
渡神(わたりのかみ)が波を立て 御船がただよい 進めず渡ることができませんでした
ここに その后(きさき)弟橘比賣命(おとたちばなひめのみこと)が申されるには「私が 御子の代わりに海に入ります 御子は 遣わされた政務(まつりごと)を遂行されてお帰りになられて 御報告をなさるべきです」と言い海に入る時 菅(すが)を八重(やえ)に重ね 皮畳(かはたたみ)を八重に重ね 絁畳(きぬたたみ)を八重に重ねて 波の上に敷き その上に座られた すると 暴浪(あらなみ)は おのずから 凪(な)いで〈静まり〉船は進むことができました
その后(きさき)が 詠まれた歌は
佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
〈相模の野に燃える炎 その燃える火の中に立たれて 私を問うた君よ〉それから七日後に その后(きさき)の御櫛(おくし)は 海辺に流れ依りました その櫛を取られて 御陵を作り治置(おさめおき)なられました
それより入幸(いりいでまして) 悉(ことごと)く 荒夫(あらぶる)蝦夷(えみし)どもを平らげ また山河(やまかわの)荒神(あらぶるかみ)などを平和(やわらげ)て 再び帰り上幸(のぼります)時に 足柄の坂本に到りました 食事をされる場所において その坂神(さかのかみ)が 白い鹿に化身して立っていた そこで 残っていた蒜片端(ひるのかたはし)をもって 待ち構えていた者を打つと 目にあたり 打殺(うちころされ)ました
故に その坂に登り 三度ため息をついて詔を述べた
「阿豆麻波夜」 〔自阿下五字以音也〕
〈吾(あ)が妻(つま)よ〉
そのため その国を阿豆麻(あずま)と呼ぶことになった
【原文参照】
『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
橘樹ノ神と記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷卅一 元慶元年(八七七)五月十七日丁巳
○十七日丁巳
授に
上総國
從四位上勳五等 玉埼ノ神に正四位上
從五位上勳五等 姉前ノ神 嶋穴ノ神 飯富ノ神 橘樹ノ神に 並に正五位下
從五位下 神氏神に從五位上を
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
【抜粋意訳】
卷四十六 元慶八年(八八四)七月十五日癸酉
○十五日癸酉
授に
武藏ノ國
正五位下勳六等 畦切神に從四位下
從五位上 小野ノ神に正五位上上総ノ國
正四位下勳五等 玉崎ノ神に正四位上
正五位下勳五等 姉前ノ神 〔福〕橘神 飯富ノ神に 並に正五位上
正六位上 建市ノ神 田原ノ神に並に從五位下を
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上総國 5座(大1座・小4座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)長柄郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 橘神社
[ふ り が な ](たちはなの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tachihana no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
日本武尊と弟橘比賣命の゛走水(はしりみず)゛の伝承に ゆかりの式内社について
房総半島には 日本武尊と弟橘比賣命の伝承が 数多く残っていますが ゆかりある式内社もありますので ご紹介します
・姉埼神社(市原市姉崎)と島穴神社(市原市島野)は 同じ創建の由緒を持ちます
姉埼神社と島穴神社の共通の創建由緒について
日本武尊が東征の折 走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭い 走水の海が荒れたのは龍神の怒りであると悟った妃の弟橘姫は 大和国 龍田大社の風鎮めの神に 船の安全航行を祈願し 成就した時には この地に神社を建立することを約束し 海原に身を投じた この犠牲によって 日本武尊は 無事に上総に上陸することができたと『記紀神話』に述べられています
この弟橘姫を慈しみ 日本武尊は 弟橘姫をしのび 風の神を祀ったのが 姉埼神社と島穴神社の創建と伝わります
姉埼神社と島穴神社の御祭神について
かつては 神輿が 両社を行き来していたと云われてています この関係の深い両社の御祭神は
島穴神社の祭神は 志那津比古尊(しなつひこのみこと)
姉崎神社の祭神は 支那斗辨命(しなとべのみこと)
両神は 夫婦神(姉弟神とも)とされています
姉埼神社には 夫婦神としての伝承があります
この事にまつわる伝承の一つとして 姉埼神社(市原市姉崎)の境内には 松(マツ)が一本も植えられていません
これは祭神 志那斗弁命が 夫神である島穴神社(市原市島野)の祭神 志那都彦命に大変待たされ「待(マツ)つ身はつらい」と言ったと伝わり この゛待(マツ)゛の音が通じている゛松(マツ)゛を避けたためと云われます
姉埼神社(市原市姉崎)の氏子は 正月に門松を立てず 竹と榊を用いた飾りを立てる風習があり 又 かつては 松(マツ)を薪(まき)としなかった これらは皆 神の忌給うによると伝わっています
姉埼神社と島穴神社は 両社ともに 上緫国 海上郡の延喜式内社です
延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)
・姉埼神社(市原市姉崎)
姉埼神社(あねさきじんじゃ)は 社伝には 日本武尊が御東征の際 走水の海で暴風雨に遭い お妃の弟橘姫の犠牲によって無事上総の地に着かれ この地 宮山台でお妃を偲び 風神 志那斗弁命を祀ったのが創建と云う その後 景行天皇が日本武尊を祀った 延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)です
姉埼神社(市原市姉崎)〈『三代實録』姉前ノ神『延喜式』姉﨑神社〉
延喜式内社 上緫国 海上郡 嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)
・島穴神社の旧鎮座地〈島穴社原地碑〉
島穴神社が 現在地に遷座する天長3年(826)までの旧鎮座地
島穴社原地碑(しまあなしゃげんちひ)は 社伝には日本武尊が東征の時 風神 志那津比古命を祀り創建 景行天皇が日本武尊・倭比賣命を合祀 昔 この地〈この丘〉にある深坎(しんかん)から常に清風が起り 島穴の社名の由来となった 延喜式内社 上緫国 海上郡 嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)の旧鎮座地で天正3年に現在地に遷座
島穴社原地碑(市原市島野)〈式内社 島穴神社の旧鎮座地〉
・島穴神社(市原市島野)
島穴神社(しまあなじんじゃ)は 第12代 景行天皇の御代 日本武尊が東征の時 走水の海で暴風に遭われ 弟橘姫命が大和国の風鎮神 龍田の神を拝み 海中に身を投じ暴風が止んだ 無事に上陸ができた尊は 妃のご祈誓に従い ここに風鎮の神 志那都比古尊を祀られたと云う『延喜式』嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)です
島穴神社(市原市島野)〈『三代實録』嶋穴ノ神『延喜式』嶋穴神社〉
延喜式内社 下緫国 千葉郡 蘇賀比咩神社(そかひめの かみのやしろ)
荒れた走水の海に弟橘姫と共に入水した゛5人の姫達を祀る 式内社 蘇我比咩神社゛について
日本武尊が東征の折 走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭い 走水の海が荒れたのは龍神の怒りであると悟った妃の弟橘姫は 大和国 龍田大社の風鎮めの神に 船の安全航行を祈願し 成就した時には この地に神社を建立することを約束し 同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じました
身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比咩がおり この方がこの地(現在の千葉市中央区蘇我)の海岸に打ち上げられました 里人等の手厚い看護で蘇生することが出来 無事に都に帰りました
この里人等の行為に深く感激した第十五代応神天皇は 特別の命により蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治をおこなわせました 蘇我一族は 代々「春日神社」「比咩神社」を守護神として 両神社の御分霊をいただき「蘇賀比咩神社」を建立したと伝わります
・蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)
蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)は 日本武尊が東征の際 走水海で暴風雨に遭い 后の弟橘姫が同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じ それを鎮めました 社伝には その一人 蘇我大臣の娘 蘇我比咩は浜に打上げられ 里人により蘇生し都に帰った これを知り応神天皇が国造に任命した蘇我氏により 春日神・比咩神を祀り創建と云う
蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)〈『延喜式』 蘇賀比咩神社〉
延喜式内社 上総國 長柄郡 橘神社(たちはなの かみのやしろ)
弟橘比賣命の櫛が 流れ着き 弟橘媛のの櫛を納めて御陵が作られた橘樹神社(茂原市本納)
橘樹神社(茂原市本納)の社伝では 日本武尊が弟橘媛の御陵を作り 弟橘媛の櫛を納めて 橘の木を植えて祀ったことを創始と伝え
『古事記』には「日本武尊の后・弟橘比賣命が海に身を投じて難を救ってから 七日の後 その后の櫛海辺に依りき すなはちその櫛を取りて御陵を作り治置きき」と記されています 〔内房と外房のことではありますが〕これが当社のことであると云われます
・橘樹神社(茂原市本納)
橘樹神社(たちばなじんじゃ)は 『古事記』に「日本武尊の后・弟橘比賣命が走水の海に身を投じて 七日の後 后の櫛が海辺に依りき その櫛を取りて御陵を作り治置きき」と記され 社伝では 尊が后の櫛を納めた御陵を作り 橘の木を植えたのが創祀と伝える 延喜式内社 上総國 長柄郡 橘神社(たちはなの かみのやしろ)です
橘樹神社(茂原市本納)〈『三代實録』橘樹ノ神『延喜式』橘樹神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR外房線 本納駅から線路沿いに北方向へ約1km 徒歩14分程度
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県道226号を進むと正面に鳥居が見えてきます
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鳥居の手前に 参拝者駐車場があります
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橘樹神社(茂原市本納)に参着
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社頭の鳥居から その次に3連鳥居があり 計4連の鳥居になっています 一礼をしてから くぐり抜けます
二番目の鳥居の足元には゛下乗゛ 支柱には゛上総國長柄郡一座 氏子中 天明五巳年 世話人゛の文字が刻まれています
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四番目の鳥居をくぐると境内です
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参拝日は10月29日でしたので 境内のイチョウの木が色付き始めていました
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銀杏の木の根元には〈境内社〉粟嶋神社が祀られています
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社頭は南向き 境内参道も社務所までは南向き 社務所前で参道は少し折れて東南向き 社殿は東南を向いています
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拝殿にすすみます
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当社は 日本武尊が弟橘媛の御陵を作り 弟橘媛の櫛を納め 橘の木を植えて祀ったのに始まると伝えていて その由来からか 拝殿の左右に二本の橘の木が奉納されています
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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拝殿の奥には 細長い幣殿があり その先に本殿が坐します
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本殿の背後には 弟橘比賣命の御陵と云い伝わる古墳があります
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御陵の前には 手水舎が設けられています
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゛弟橘比賣命御陵゛と刻字された石碑が建てられています
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社殿に一礼をして 参道を戻ります
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参道の脇にあるのは神輿殿でしょうか
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参道は南向きで 右手か西側となり 陽が傾いてきました
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 橘神社について 所在は゛二宮庄本納村に在す、゛〈現 橘樹神社(茂原市本納)〉と記しています
【抜粋意訳】
橘神社
橘は太知波奈と訓べし、和名鈔、〔菓菰部〕橘、〔假字上の如し〕
○祭神 弟橘姫命、日本武尊、忍山宿禰、〔地名記〕
○二宮庄本納村に在す、〔同上〕〔〇玉手韻に、當社は橘比賣命の御櫛を納めし處と、慥に語り傳ふと云り〕例祭 月 日、
〇日本紀、景行天皇四十年十月、日本武尊、進に相摸欲往に上総、望海高言曰、是小海耳、可に立跳渡、乃至に于海中暴風忽起、王船漂蕩而不可渡、時有に從王之妾、曰くに弟橘媛、穂積氏 忍山宿禰之女也、啓王曰く、今風起浪泌、王船欲没、是必海神心也、願以に妾之身贖に王之命而入海、言訖乃披瀾入之、暴風即止船得着岸、故時人號に其海曰に馳水也、
〇惣國風土記残缺云、橘神社、圭田二十五束七畝田、所祭住吉大明神也、舒明天皇四年壬辰九月、始奉に圭田加に神體、有に神家巫戸等、連胤按るに、風士記 住吉神を祭るの説は、橘小戸に顯れます由緒に依れるか、されば取捨し難きところあり、猶よく考ふべし、
神位
三代實録、元慶元年五月十七日丁巳、授に上総國從五位上勲五等橘樹神正五位下、同八年七月十五日癸酉、授に上総国正五位下福神正五位上(福當作橘)
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 橘神社について 所在は゛今 二宮庄本納村 帆岳にあり、吾妻大明神と云ふ、゛〈現 橘樹神社(茂原市本納)〉と記しています
【抜粋意訳】
○長柄(ナガラノ)郡一座
橘(タチハナノ)神社、
〔〇按 三代實錄 元慶元年、橘を橘樹に作る、共に異なる事なし 八年に福神とあるは誤れり、今 神階を以て之を考ふるに橘神なる事しるければ之を訂せり、〕
今 二宮庄本納村 帆岳にあり、吾妻大明神と云ふ、〔南留別志、巡拝舊祠記、房総志料、神名帳打開、〕
盖 日本武尊の后 弟橘比賣命を祭る、〔日本書紀、古事記、橘神社傳記、〕
初 日本武尊 東國に幸して、相武園 走水海を渡坐時、渡神 浪を興て御船漂蕩て、得進み渡り坐さず、爾 其后白し給はく、妾御子に易て海に入なむ、御子は所遣の政遂て復命奏(カヘリコトハマウ)し給ふべしと白して、海に下(オリ)坐時に、其暴浪(アラナミ)自伏(オズカラナギ)て、御船得進みき、故七日ありて後に、其后の御櫛 海邊に依しを取て、御陵と造て治置(オサメオキ)き、〔古事記〕今社地即是也、
〔〇按今 神社の地、土人傳云ふ、橘姫の櫛を収めて墓を作りし所也、其形 山稜の如しと云ふ、姑附て考に備ふ〕陽成天皇 元慶元年五月丁已、從五位上勲五等橘樹神に正五位下を授け、八年七月癸酉、正五位上を賜ふ、〔三代実録〕
凡 正月十七日 三月七日、八月十三日祭を行ふ、〔千葉縣神社調〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 橘神社について 所在は゛本納村〔字御船形〕(長生郡本納町大字本納)゛〈現 橘樹神社(茂原市本納)〉と記しています
【抜粋意訳】
橘神社
祭神 弟橘比賣命
神位 陽成天皇 元慶元年五月十七日丁已 授上総國從五位上動五等橘樹神正五位下 八年七月十五日癸酉授上總國正五位下勳五等福神正五位上〔福尚作橘〕
祭日 正月十七日 三月七日 八月十三日
社格 縣社所在 本納村〔字御船形〕(長生郡本納町大字本納)
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
○千葉縣 上總國 長生郡本納町大字本納
縣社 橘(タチバナノ)神社
祭神 弟橘比賣(オトタチバナヒメノ)命
相社 日本武(ヤマトタケルノミコト)尊 忍山宿禰(オシヤマスクネ)創建は景行天皇四十年、日本武尊 東征の際、尊の爲め 妃 弟橘比賣命 海に投ぜらる、尊深く哀悼し給ひ、遺物を納めて御墓を作り、祠を建て祭らせらる、即ち當社是なり、
後ち同五十三年、景行天皇 東幸の際、更に日本武尊 及 忍山宿禰を合祀せらる、爾來 本納、法目二村の鎮守にして、當國五大社の一なるが、明治の始年縣社に列す。
社殿は本殿、拝殿、境内は千六百四十八坪(官有地第一種)及近く編入せられし 二反二畝廿三歩の上地林より成る、老樹鬱蒼とし境池清洒、社殿の荘厳と相俟て近地稀に見る勝地たり、古来伝云ふ、祭神 鷹を忌み給ふと 故に徳川幕府時代、狩の事ありといへとも、鷹を携へて當村を過ぎず、若し誤て過ぎんか、其處逃逸するか若くは暴死すと云ふ。境内神社 秋葉神社 岩戸神社 粟島神社 稲荷神社 子安神社
例 祭 日 舊八月十三日
【原文参照】
明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244
橘樹神社(茂原市本納)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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上緫国(かずさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 上緫国には 5座(大1座・小4座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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