住吉神社(すみよしじんじゃ)は 創立は不詳ですが 厳格な宮座制度を脈々と守り続け 約700年間受け継がれてきた神事舞〈国指定 重要無形民俗文化財 住吉神社神事舞〉が有名です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
住吉神社(Sumiyoshi shrine)
【通称名(Common name)】
・上鴨川住吉神社(かみかもがわ すみよしじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県加東市上鴨川571
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》上筒之男命(うわつつをのみこと)
《配》中筒男命(なかつつをのみこと)
底筒男命(そこつつをのみこと)
息長足姫命(じんぐうこうごう)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
主祭神 表筒男命 ウワツツノオノミコト
配祀神 中筒男命 ナカツツノオノミコト
底筒男命 ソコツツノオノミコト
気長足姫命 オキナガタラシヒメノミコト由 緒
創立は不詳。上鴨川村を中心とする付近の総氏神としての位置を占めたが、江戸時代に氏子が分離し各村に住吉神社が創建された。以来、上鴨川村の氏神として今日に至る。
厳格な宮座制度を脈々と守り続け、約700年間受け継がれてきた神事舞がある。
本殿は昭和45年に解体修理され、朱緑の鮮やかな色彩が施された。外観は普通にみる三間社流造り桧皮葺であるが、床下転用古材などから創建当時は四間社であったと見られる。棟木墨書銘によると
一番造営(創建)鎌倉時代正和5年(1316)
二番造営(修理)室町時代永享6年(1434)
三番造営(修理)室町時代明応2年(1493)本殿 昭和35年6月9日
国指定重要文化財明治7年(1874)2月 村社に列せられた。
祭記事
10月4日(宵宮)5日(本宮)の両日、約700年の永きに渡り厳格な宮座制度に支えられ伝え続けられてきた神事舞を奉納する。
かつて、宮座には24軒株があり左右両座に分れて交互に祭儀を務めた。現在では株制も両座制もなく氏子のどの家からも宮座に加われるが、しかしながらそれは長男に限られる。他から養子に来た者や、二男・三男は宮座に加わることは許されず、別のギオン座にて祭儀の末端的奉仕役を務める。女人も一切の関与を許されない。
神事舞にはリョンサンの舞(太刀舞)・獅子舞・田楽の舞・扇の舞(入舞)・高足などがあり、五穀豊穣や無病息災を祈願する。古式をよく残し芸能の成立を探る貴重な存在となっている。
昭和52年5月17日
国指定重要無形民俗文化財
【由 緒 (History)】
国指定 重要文化財 住吉神社本殿
(加東市上鴨川 住吉神社 昭和35年6月9日指定 三間社流造 桧皮葺)銘木墨銘によると、正和5年(1316)に創建、永享6年(1434)に再建、ついで明応2年(1493)に再々建したことがわかる。また、内陣小脇板裏面と天上梁下端にも明応2年の墨書があって、現本殿はこの時のものであることがあきらかである。以後、貞享3年(1686)に向拝部の修理がおこなわれた。外観は普通にみる三間社流造であるが、床下の転用古材などからみて、創建当時は四間社であったと考えられる。手挾、木鼻、繋虹梁などの形態と渦文、勾欄親柱の形式などには時代と地方の特徴を示すものがあり、貴重な遺構である。
国指定 重要無形民俗文化財 住吉神社神事舞
(加東市上鴨川 住吉神社神事舞保存会 昭和52年5月17日指定)上鴨川住吉神社神事舞は、毎年10月第一土・日曜日両日にわたって、宮座が奉納する古式ゆかしい祭儀である。この神事舞は、御神楽、太刀舞、獅子、田楽の舞、扇の舞、髙足と、いど、万歳楽、宝もの、扇、冠者、父の尉がある。「翁」を中心とした中世神事能の姿をはじめ、田楽能、猿楽能の成立過程を究明するのに貴重な資料である。これらは鎌倉期から伝わるといわれているが、その発祥はあきらかでない。なおここには、厳格に守られてきた宮座制度があって、中世以来の郷村組織をみることができるのも貴重である。
県指定文化財 神事能面
(加東市上鴨川 住吉神社神事舞保存会 昭和43年3月29日指定)上鴨川住吉神社には能面が12面現存する。このうち、黒色尉面、冠者面、父の尉面、翁面、王鼻面の五面は今でも神事舞に使われているが、のこりの冠者面、尉面、媼面、陵王面の七面はなにに使われていたか不明である。
加東市・加東市教育委員会
現地案内板より
・国指定 重要文化財 住吉神社本殿
・住吉神社神事舞殿
【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿の向かって左〈北側〉に西向きの2つの祠
・國常立命の祠
・上筒男命 中筒男命 底筒男命の祠
本殿の向かって右〈南側〉に西向きの2祠
・天照皇大神 神功皇后
・伊邪那岐命 伊邪那美命
本殿の向かって左〈北側〉に南向きの合殿祠
・八幡大明神 祇園牛頭天王 愛宕山大権現 若宮大明神
本殿の向かって左〈北側〉に南向きの四つの祠
・亥の神大明神
・大歳大明神
・春日大明神
・稲荷大明神〈二連の朱色の鳥居あり〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
豊城入彦命の東国の六腹(むつのはら)の子孫が 居住地を氏の名とすることが記されています
【抜粋意訳】
延暦十年(七九一)四月〈乙未〉(辛卯朔五)の条
○夏四月乙未
近衛将監従五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東国六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之。
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨国 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 住吉神社
[ふ り が な ](すみよしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sumiyoshi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
”住吉神社”(すみよしじんじゃ)と住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉について
住吉神社は 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約2300社以上あると云われます
住吉三神とは 次の三柱神の総称 古来 航海の守護神として篤く信仰されてきている
・底筒男命〈底筒之男命〉(そこつつのをのみこと)
・中筒男命〈中筒之男命〉(なかつつのをのみこと)
・表筒男命〈上筒之男命〉(うわつつのをのみこと)
住吉大神と号する場合は
住吉三神と息長帯姫命〈神功皇后〉を併せ祀ります
住吉三神は 日本神話に登場する航海の神
伊奘諾尊が 黄泉の国の穢れを清めるために 筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたとき 水底で身をすすぐと底筒男命 水中では中筒男命 水上では表筒男命が このとき顕われたとされる
『古事記』では 水の底にもぐって 身を洗い清められる時に成った底筒之男命 水の中程で洗い清められる時に成った中筒之男命 水の表面で洗い清められる時に成った上筒之男命が それぞれ生まれます
その後『日本書紀』には 神功皇后の段に新羅征討の際に 神託・守護・先導などに深くかかわったと記されています
三柱〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われる理由について
福岡の現人神社〈博多 住吉神社と大阪 住吉大社の元宮とされる〉には 三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われるようになった理由を社伝で伝えています
「元々は 現人神〈筒男三神〉であったが 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所が現人神社である
神功皇后が 大和への御帰還に際し 霊験な現人神〈筒男三神〉をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)〈摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます」
住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説
「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説
①航海の神 ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ 夕方の月 宵の明星 星を指し 星は航海の指針に用いられることから
②海神を示す説
➂「津の男」に見る説
④「ツツ」を船の呪杖に見る説
➄船霊を納める筒に見る説
⑥対馬の豆酘(つつ)に関連し「豆酘の男」に見る説
➆航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説
住吉神社の発祥について
現在 住吉神社の総本社は 一般的には 大阪府大阪市住吉区の住吉大社とされますが
下関の住吉神社は 住吉三神の荒魂(あらみたま)
大坂の住吉大社は 住吉三神の和魂(にぎみたま)は 神功皇后が三韓征伐の帰途に祀られた事が『日本書紀』に記されています
実際には 神功皇后の「三韓征伐」伝承とともに 西から順に 壱岐・対馬〈長崎県〉から博多・下関・瀬戸内海を渡り 大坂の住吉大社へと分祀されたものとおもわれます
このため・壱岐の住吉神社・博多の住吉神社 や現人神社などは 住吉神社の発祥の地と称しています
『日本書紀』には 神功皇后の新羅征討の段に 次のように記されています
仲哀天皇の御代 熊襲 隼人など大和朝廷に反乱蜂起した時 神功皇后が神がかりして「まず三韓を征討せよ」との神託を得た しかし 仲哀天皇はこの神託に従わず 翌年崩御された
その翌月 再び神託を得た神功皇后は 自ら兵を率いて三韓へ征伐に向かう このとき 住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り 荒魂は突風となり 神功皇后の船団を守護し 三韓をおおいに苦しめた
神功皇后は 三韓を平定し 凱旋の折 住吉三神の神託を得て 大神の荒魂(あらみたま)を穴門(山口県)山田邑(下関市)に奉斎します また 和魂(にぎみたま)を大津〈大きな港〉の渟中名倉の長峡〈現 大阪・住吉大社のある場所〉で 行き交う船を見守ると鎮めて 住吉大神を祀った
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社”(すみよしのかみのやしろ ななやしろ)について
『延喜式神名帳』所載の七国〈対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥〉各々に七社の住吉神社が鎮座します
これを住吉七社(すみよしななしゃ/すみよししちしゃ)とも総称します
格式の高さが際立つ 住吉七社
内訳は次の通り
住吉七社の内 一之宮が三国〈筑前・長門・摂津〉
住吉七社の内 五社が名神大社〈対馬・壱岐・筑前・長門・摂津〉
『古事記』では「墨江之三前大神(すみのえのみまえのおほかみ)」と総称され
住吉の地名については 古くはスミノエと呼ばれ「住吉」「墨江」「清江」などと表記されましたが 平安時代以降は スミヨシとも呼ばれるようになったとされます
外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけていて 大和朝廷にとって特別な意義を有する神社でした
遣唐使時奉幣の祝詞や六国史には 遣唐使出発の際にこの神を祭ったことが見えています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』〈927年12月編纂〉に記される 住吉七社と その論社について
①對馬嶋 下縣郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)
・住吉神社(対馬 鴨居瀬)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 九州から対馬島へと渡る゛鴨(かも)と云う名の小舟゛が着く゛鴨居瀬(かもいせ)゛に鎮座 山幸彦命と 豊玉姫命の出産故事 日本の皇室の歴史の始まりを造った神の生誕を祀る霊地です 後世になり 神功皇后が その故事に倣い 行宮とされて 住吉三柱神を祀ったのが 神社としての始まりとされています
住吉神社(鴨居瀬)(対馬市美津島町鴨居瀬字住吉)
・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 住吉神社 名神大」の論社です 式内社の「住吉神社」は もともとは 鴨居瀬(カモイセ)に鎮座し それを後に 鶏知(ケチ)に遷座したのは確かです しかし 遷座の時期は古く 一説には〈延喜式(927年)制定の前とも伝わり 制定時はすでに鶏知(ケチ)に遷座していた〉ともあり 双方が式内社であるとしています
住吉神社(対馬 鶏知)
➁壹岐嶋 壹岐郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)
・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝によれば 神功皇后が住吉神の護神により三韓を征伐し 凱旋の時〈郷ノ浦に上陸 足形を石面に残した時〉住吉三神を祀られたと云う 後に 住吉神の神託により「波の音の聞こえぬ地」をお選びになり 現在地に遷座したと云う 式内社 住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)で 住吉神社 発祥の地と伝えています
住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
➂筑前国 那珂郡
住吉神社 三座(並名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)
・住吉神社(博多区住吉)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 延喜式神名帳に所載「筑前国那珂郡 住吉神社三座 名神大」とされ 筑紫国一之宮です 社伝には 伊弉諾尊が黄泉國から戻り祓い清めた地「筑紫の日向の橘の小戸の檍原の古蹟」〈住吉三神の御出生の地〉とされ神代より此地に鎮座 後に 神功皇后が三韓征韓の途中に祭祀を行ったので 住吉本社 又 日本第一住吉宮と伝えています
住吉神社(福岡市博多区住吉)
・若久住吉神社(福岡市南区)
若久住吉神社(わかひさすみよしじんじゃ)は 「御鎮座は 遠い遠い神代のことで年代を定めることは出来ませんが 全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです」と由緒にあり 式内社 住吉神社 三座(並 名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)とする説 筑前国福岡藩初代藩主 黒田長政によって江戸期前期頃の創建造営とする説もあります
若久住吉神社(福岡市南区若久)
・現人神社(那珂川市)
現人神社(あらひとじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所 大和への御帰還に際し 霊験な現人神〈筒男三神〉をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)〈摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます
現人神社(那珂川市仲)
④長門国 豊浦郡
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしのあらみたまの かみのやしろ みくら)
・住吉神社(下関市)長門国一之宮
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『日本書紀』に記される 神功皇后が三韓征伐より凱旋の折 神託を得て 住吉三神の荒魂(あらみたま)を穴門 山田邑(現在地)に奉斎したとこれが住吉神社の起こりとされます 式内社 住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしにゐますあらみたまの かみのやしろ みくら)・長門国一之宮です
住吉神社(下関市一の宮住吉)長門国一之宮
➄播磨国 賀茂郡
住吉神社(すみよしの かみのやしろ)
・上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 創立は不詳ですが 厳格な宮座制度を脈々と守り続け 約700年間受け継がれてきた神事舞〈国指定 重要無形民俗文化財 住吉神社神事舞〉が有名です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社です
上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)
・住吉神社(加東市下久米)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『播磨鑑』に白雉2年(651)の創立と記されているが 甚だ疑わしく猶それ以前に勧請せられたものと推測されています 續左丞抄住吉神領年紀によると 久米庄(当地方)が神功皇后(201~220)の御代 既に摂津 住吉大社の神領地であったとあり 式内社 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社でもあります
住吉神社(加東市下久米)
・小野住吉神社(小野市垂井町)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝には 人皇10代の時とも養老6年(722)とも云われ もと河内山田に鎮座していたが 市場村喜多島に奉遷鎮座し 後に現在の地に奉遷したと伝わります 式内社 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社です
小野住吉神社(小野市垂井町)
・秋津住吉神社(加東市秋津)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 神功皇后の勅願社の伝承が残り 摂津 住吉大社の別宮であったと考えられ 創始は古墳時代後期とされています 奈良時代後期に現在の鎮座地・秋津字清水に遷座し 水田に由来して恒田明神と称され今日に至るので 二つの式内社〈住吉神社・垣田神社〉の論社となっています
住吉神社〈恒田大明神〉(加東市秋津)
⑥摂津国 住吉郡
住吉坐神社四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(すみよしの かみのやしろ)(すみのえにます かみのやしろ)
・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮
住吉大社(すみよしたいしゃ)は 『日本書紀』に神功皇后が三韓征伐の帰路 住吉三神の神託を得て 住吉大神の和魂(にきみたま)を鎮めて祀ったのが創建と記される 全国に2000社余ある住吉神社の総本社で 摂津國一之宮です 延喜式内社 住吉坐神社四座(並 名神大月次相嘗新嘗)(すみのえにます かみのやしろ しくら)です
住吉大社(大阪市住吉区住吉)〈摂津國一之宮〉
➆陸奥国 磐城郡
住吉神社(すみよし かみのやしろ)
・住吉神社(いわき市小名浜住吉)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝に第12代 景行天皇の時に武内宿弥が勅命を奉じて東北を巡視した折 海陸共に要害の地であったこの地を東北の関門 総鎮守として航海安全と国家鎮護として祀ったとあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社”の一つ 式内社 陸奥国 磐城郡 住吉神社(すみよし かみのやしろ)であり 東北一社とも称しています
住吉神社(いわき市小名浜住吉)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR加古川線 比延駅から県道566号を東へ約8.3km 車12分程度
上鴨川の交差点を過ぎます
道路沿いに駐車場があり 住吉神社の案内板があります
上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)に参着
上鴨川住吉神社と神事舞 の石碑があります
そのすぐ脇に石段があります
石段を上がって行きます
境内に上がると 茅葺きの舞殿があり その先の一段高い社地に 茅葺きの割拝殿 長床が見えます
境内の奥 一段高い社地の上に割拝殿 長床 朱色の本殿があり 反り両脇に2つずつの祠が祀られていて 下の社地にも境内社が祀られています
舞殿は 社殿と前庭を挟んで配されています
一礼をして 鳥居をくぐり 割拝殿にすすみます
割拝殿は長床となっていて 囲炉裏が設けられています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 住吉神社の所在について 賀東郡 喜多島村〈現 小野住吉神社(小野市垂井町)〉
別説には 宮脇村と記されています
【抜粋意訳】
住吉神社
住吉は 須美乃江と訓べし
〇祭神 詳ならず 住吉朝臣の祖神歟
〇賀東郡 喜多島村に在す
例祭 六月丗日、九月九日
〇旧事記 国造本記 針間鴨国造、上毛野同祖、姓氏録、住吉朝臣、上毛野朝臣同祖、豊城入彦命 五世孫多奇波世君之後也式社記に、宮脇村にありと云り、國圖を見るに、奇多島、宮脇両村相隣れり、さて同社の事か國人に尋ねて憶に定むべし
類社 摂津国住吉郡 住吉坐神社の條すべし
社領 高十石
氏人
續日本紀
延暦十年(七九一)四月〈乙未〉(辛卯朔五)の条
○夏四月乙未
近衛将監従五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東国六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之。
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 住吉神社の所在について 喜多村 住吉明神〈現 小野住吉神社(小野市垂井町)〉と記しています
【抜粋意訳】
神祇志料 巻十八 播磨國 賀茂郡八座 並小
住吉神社
今、加東郡 垂井庄 古は河内庄と云ふ 喜多村にあり、住吉明神と云ふ 盖 住吉大神を祭る
〇按 播磨風土記云、昔 住吉大神 河内里に到坐時、御伴の神等 人の苅置る草を敷物とせるを、草主愁訴へけるに、大神汝か田苗は草を敷ねと、敷が如くに生なんと詔ひき、故今も此村は草を敷ずして苗代を作る、と云ふ事みたり、是に拠りて思ふに、蘆上古大神経歴の地なるを以て之を祭る歟、姑附て考に備ふ
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 住吉神社の所在について 宮脇村 喜多島村 垂井村〈現 小野住吉神社(小野市垂井町)〉
久保木村 西寺内村にも同名の社があると記しています
【抜粋意訳】
住吉神社
祭神
底筒之男神
中筒之男神
表筒之男神今按〈今考えるに〉
播磨風土記 賀毛郡 河内里 上中下 右田川焉名 此里の田不敷草下苗子所以然者 住吉大神上坐之時 食於 此村両従神等 人苅置草解散為坐両時大患訴於大明判云 汝田苗者必 雖不敷草如敷草生 故其村 田干 今不敷草作苗代とある所縁によりて此 大神を祭れるものなる事著し祭日 四月三日
社格 郷社所在 宮脇村(明細帳に垂井村字宮の上)(加東郡下東條村大字垂井)
今按〈今考えるに〉
播磨事始 神社覈録 共に喜多島村とあり 注進状に元和中の文書に此村を垂井村と記せり 今の社地は宮脇村 島村 太郎大夫村 三村の境にて 垂井住吉神社と唱来りしを明治六年より宮脇村地所となる 今に山田村を河内の山田と云ふ 播磨鑑に 上古 此地を河内庄と云しか 近代 垂井庄と改むとあり 上に引る風土記の文と合せ考べし 久保木村 西寺内村にも同名の社ありと云へども證なければとらず
【原文参照】
上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について に戻る
播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について