住吉神社(すみよしじんじゃ)は 延喜式神名帳に所載「筑前国那珂郡 住吉神社三座 名神大」とされ 筑紫国一之宮です 社伝には 伊弉諾尊が黄泉國から戻り祓い清めた地「筑紫の日向の橘の小戸の檍原の古蹟」〈住吉三神の御出生の地〉とされ神代より此地に鎮座 後に 神功皇后が三韓征韓の途中に祭祀を行ったので 住吉本社 又 日本第一住吉宮と伝えています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
住吉神社(Sumiyoshi Shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
福岡県福岡市博多区住吉3丁目1-51
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》底筒男命(そこつつのをのみこと)
中筒男命(なかつつをのみこと)
表筒男命(うわつつをのみこと)
《配》天照大御神(あまてらすおほみかみ)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・開運除災・航海安全・船舶守護の神・和歌の神
・文教、殖産、興業、開運、安産、予言、の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 筑前國一之宮
・ 旧 官幣小社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
住吉三神は遠い神代の昔に、伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラへ(禊祓)をされた時に、志賀島神社の御祭神・ワタツミ三神と警固神社の御祭神・直毘の神と共に御出現になりました。
したがって当社の御鎮座は遠い神代のことで、年代を定めることは出来ませんが、全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです。住吉大神をお祀りする神社が全国に2129社ありますが、当社は住吉の最初の神社で、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉」などと記されております。
また、平安時代に全国各地に「一の宮」が定められましたが、当社は筑前の一の宮として朝野の厚い崇敬をうけました。
約1800年前、神功皇后の三韓への御渡航に際し、住吉大神の荒魂は水軍をお導きになり、和魂は胎中天皇と申し上げた応神天皇の玉体をお守りになり、刃を用いずして御帰還遊ばすことが出来ました。よって皇后は住吉三神の御神徳を厚く敬迎感謝され、新羅の都に国の鎮護として住吉大神をお祀りになり、また摂津(大阪)、長門(山口)、壱岐に住吉神社を御創建になりました。
住吉大神のご神徳は、その御出現の由来に拝しますように、「ミソギハラヘ」の御霊徳によってわれわれに心身の清浄を保たしめ給い、そしてそれにより生ずる「開運と光明」をお恵みになるのであります。
更に、応神天皇の御代から国運大いに開けたこともあり住吉大神は文教、殖産、興業、開運、安産、予言、の神として信仰されております。
またツツノオ(筒男)のツツには星の意味があると言われ、筒男三神は航海安全、船舶守護にその神威をあらわされ、海運・漁業者の崇敬が極めて厚く「住吉丸」と名づけた船が多いのもそのためであります。
このように御神徳が広大でありますので、当社への朝廷の御崇敬はとくに篤く、神功皇后の勅祭(10月13日の例祭の起源)に始まり、聖武、清和、陽成、後一条、鳥羽、後花園の各天皇が奉幣あらせられ大正天皇は三度、昭和天皇は5度の奉幣がありました。
また当社は諸武将の崇敬も厚く、楠正成、源頼朝、足利尊氏は祈願文、寄進状を寄せ、一時は自国・他国を合わせ神領3000余町(ha)歩、神人300余人に及んだと伝えられます。江戸時代に入っては、黒田藩祖長政以来歴代藩主の崇敬は殊に篤いものがありました。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
住吉神社(すみよしじんじゃ) Sumiyoshi Shrine
祭神は、底筒男命(そこつつのをのみこと)、中筒男命(なかつつをのみこと)、表筒男命(うわつつをのみこと)。
全国に約2000社ある住吉神社の始源とされ、開運除災・航海安全・船舶守護の神として信仰を集め、和歌の神としても崇め敬われてきました。現在の本殿は、元和9年(1623年)福岡藩初代藩主 黒田長政(くろだながまさ)が再建したもので、古来の神社建築様式を現代に伝える「住吉造り」として国の重要文化財に指定されています。また、当社が蔵する銅戈(どうか)6口、銅矛(どうほこ)5口は県の文化財に指定されています。現地案内板より
住吉神社と文化財 Sumiyoshi Shrine and Its cultural propertis
住吉神社は『延喜式(えんぎしき)』(延長5(927)年に完成)の神名帳(じんみょうちょう)に明神(みょうじん)大社としてその名が見える式内社で、筑紫国の一の宮、旧官幣小社(かんぺいしょうしゃ)でありました。祭神は底筒男命(そこつつをのみこと)、中筒男命(なかつつをのみこと)、表筒男命(うわつつをのみこと)です。平安時代には朝廷からの奉献を受けたことが記録に残され、古代から国家鎮護や船舶守護の神として信仰されてきました。また、中世には和歌の神としても敬われ、著名な連歌師(れんがし)である宗祇(そうぎ)もここを訪れています。
このような長い歴史をもつ住吉神社には多数の貴重な文化財が残されています。まず、国指定重要文化財である「住吉神社本殿」(図1)は元和9(1623)年に初代福岡藩主 黒田長政が再建したもので、この建造物は、住吉造(すみよしづくり)と呼ばれる建築様式です。梁間(はりま)2間、桁行(けたゆき)4間の規模をもち、切妻造妻入(きりづまづくりつま)りの構造に、檜皮葺きの屋根を特徴としています。
また、社務所別館の南側には昭和13(1938)年に建築された福岡市指定有形文化財「住吉神社能楽殿」(図1・写真)があります。鎌倉時代以降の住吉神社の歴史を知る上で貴重な「住吉神社文書」や鎌倉時代末の歌集である「松花和歌集巻第五(しょうかわかしゅうかんだいご)」の古文書も同様に市の有形文化財指定を受けています。また、「銅戈(どうか)」六口や「銅矛(どうほこ)」五口(写真2)は福岡県指定有形文化財で、いずれも弥生時代に我が国で製作された青銅製の祭器ですが、出土した状態や場所は不明です。
なお、神社は現在、内陸に位置していますが、中世の終わり頃までは、博多湾がこの一帯まで大きく湾入しており、当時は河口に突き出した場所に立地していました。
2004年9月 福岡市教育委員会
【境内社 (Other deities within the precincts)】
摂社
・船玉神社《主》猿田彦命
・志賀神社《主》底津綿津見命,中津綿津見命,表津綿津見命
《合》武内宿禰,火産霊命
末社
・少彦名神社《主》少彦名命
・菅原神社《主》菅原神
・稲荷神社《主》宇賀魂命《合》大物主命
・人丸神社《主》柿本人丸
・天津神社《主》伊邪那岐命
・住吉三日恵比須神社《主》恵比須神
・天龍池〈別名 潮入りの池〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・下照姫神社《主》下照姫神、味耜高彦根命、衣通姫神
詳しくは
住吉神社 摂社末社(福岡市博多区住吉)をご覧ください
筑前国一之宮 住吉神社(すみよしじんじゃ)の・境内・摂社・末社 と境内・境外の要所についてご覧ください
住吉神社(福岡市博多区住吉)・境内・摂社・末社について
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道諸神とともに 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國无品勳八等伊佐奈岐命一品 備中國三品吉備都彦命二品
・・・・
中略
・・・・
筑前國
正三位勳八等 田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 並從二位
正五位下 竈門神 從五位下 筑紫神 並從四位下
從五位下 織幡神 志賀海神 美奈宜神 並從五位上
无位 住吉神 從五位下・・・
・・・
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
住吉神社 三座 筑前國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前国 19座(大16座・小3座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那珂郡 4座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 住吉神社 三座(並 名神大)
[ふ り が な ](すみよしの かみのやしろ みくら)
[Old Shrine name](Sumiyoshi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
”住吉神社”(すみよしじんじゃ)と住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉について
住吉神社は 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約2300社以上あると云われます
住吉三神とは 次の三柱神の総称 古来 航海の守護神として篤く信仰されてきている
・底筒男命〈底筒之男命〉(そこつつのをのみこと)
・中筒男命〈中筒之男命〉(なかつつのをのみこと)
・表筒男命〈上筒之男命〉(うわつつのをのみこと)
住吉大神と号する場合は
住吉三神と息長帯姫命〈神功皇后〉を併せ祀ります
住吉三神は 日本神話に登場する航海の神
伊奘諾尊が 黄泉の国の穢れを清めるために 筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたとき 水底で身をすすぐと底筒男命 水中では中筒男命 水上では表筒男命が このとき顕われたとされる
『古事記』では 水の底にもぐって 身を洗い清められる時に成った底筒之男命 水の中程で洗い清められる時に成った中筒之男命 水の表面で洗い清められる時に成った上筒之男命が それぞれ生まれます
その後『日本書紀』には 神功皇后の段に新羅征討の際に 神託・守護・先導などに深くかかわったと記されています
三柱〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われる理由について
福岡の現人神社〈博多 住吉神社と大阪 住吉大社の元宮とされる〉には 三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われるようになった理由を社伝で伝えています
「元々は 現人神〈筒男三神〉であったが 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所が現人神社である
神功皇后が 大和への御帰還に際し 霊験な現人神〈筒男三神〉をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)〈摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます」
住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説
「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説
①航海の神 ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ 夕方の月 宵の明星 星を指し 星は航海の指針に用いられることから
②海神を示す説
➂「津の男」に見る説
④「ツツ」を船の呪杖に見る説
➄船霊を納める筒に見る説
⑥対馬の豆酘(つつ)に関連し「豆酘の男」に見る説
➆航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説
住吉神社の発祥について
現在 住吉神社の総本社は 一般的には 大阪府大阪市住吉区の住吉大社とされますが
下関の住吉神社は 住吉三神の荒魂(あらみたま)
大坂の住吉大社は 住吉三神の和魂(にぎみたま)は 神功皇后が三韓征伐の帰途に祀られた事が『日本書紀』に記されています
実際には 神功皇后の「三韓征伐」伝承とともに 西から順に 壱岐・対馬〈長崎県〉から博多・下関・瀬戸内海を渡り 大坂の住吉大社へと分祀されたものとおもわれます
このため・壱岐の住吉神社・博多の住吉神社 や現人神社などは 住吉神社の発祥の地と称しています
『日本書紀』には 神功皇后の新羅征討の段に 次のように記されています
仲哀天皇の御代 熊襲 隼人など大和朝廷に反乱蜂起した時 神功皇后が神がかりして「まず三韓を征討せよ」との神託を得た しかし 仲哀天皇はこの神託に従わず 翌年崩御された
その翌月 再び神託を得た神功皇后は 自ら兵を率いて三韓へ征伐に向かう このとき 住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り 荒魂は突風となり 神功皇后の船団を守護し 三韓をおおいに苦しめた
神功皇后は 三韓を平定し 凱旋の折 住吉三神の神託を得て 大神の荒魂(あらみたま)を穴門(山口県)山田邑(下関市)に奉斎します また 和魂(にぎみたま)を大津〈大きな港〉の渟中名倉の長峡〈現 大阪・住吉大社のある場所〉で 行き交う船を見守ると鎮めて 住吉大神を祀った
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社”(すみよしのかみのやしろ ななやしろ)について
『延喜式神名帳』所載の七国〈対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥〉各々に七社の住吉神社が鎮座します
これを住吉七社(すみよしななしゃ/すみよししちしゃ)とも総称します
格式の高さが際立つ 住吉七社
内訳は次の通り
住吉七社の内 一之宮が三国〈筑前・長門・摂津〉
住吉七社の内 五社が名神大社〈対馬・壱岐・筑前・長門・摂津〉
『古事記』では「墨江之三前大神(すみのえのみまえのおほかみ)」と総称され
住吉の地名については 古くはスミノエと呼ばれ「住吉」「墨江」「清江」などと表記されましたが 平安時代以降は スミヨシとも呼ばれるようになったとされます
外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけていて 大和朝廷にとって特別な意義を有する神社でした
遣唐使時奉幣の祝詞や六国史には 遣唐使出発の際にこの神を祭ったことが見えています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』〈927年12月編纂〉に記される 住吉七社と その論社について
①對馬嶋 下縣郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)
・住吉神社(対馬 鴨居瀬)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 九州から対馬島へと渡る゛鴨(かも)と云う名の小舟゛が着く゛鴨居瀬(かもいせ)゛に鎮座 山幸彦命と 豊玉姫命の出産故事 日本の皇室の歴史の始まりを造った神の生誕を祀る霊地です 後世になり 神功皇后が その故事に倣い 行宮とされて 住吉三柱神を祀ったのが 神社としての始まりとされています
住吉神社(鴨居瀬)(対馬市美津島町鴨居瀬字住吉)
・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 住吉神社 名神大」の論社です 式内社の「住吉神社」は もともとは 鴨居瀬(カモイセ)に鎮座し それを後に 鶏知(ケチ)に遷座したのは確かです しかし 遷座の時期は古く 一説には〈延喜式(927年)制定の前とも伝わり 制定時はすでに鶏知(ケチ)に遷座していた〉ともあり 双方が式内社であるとしています
住吉神社(対馬 鶏知)
➁壹岐嶋 壹岐郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)
・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝によれば 神功皇后が住吉神の護神により三韓を征伐し 凱旋の時〈郷ノ浦に上陸 足形を石面に残した時〉住吉三神を祀られたと云う 後に 住吉神の神託により「波の音の聞こえぬ地」をお選びになり 現在地に遷座したと云う 式内社 住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)で 住吉神社 発祥の地と伝えています
住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
➂筑前国 那珂郡
住吉神社 三座(並名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)
・住吉神社(博多区住吉)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 延喜式神名帳に所載「筑前国那珂郡 住吉神社三座 名神大」とされ 筑紫国一之宮です 社伝には 伊弉諾尊が黄泉國から戻り祓い清めた地「筑紫の日向の橘の小戸の檍原の古蹟」〈住吉三神の御出生の地〉とされ神代より此地に鎮座 後に 神功皇后が三韓征韓の途中に祭祀を行ったので 住吉本社 又 日本第一住吉宮と伝えています
住吉神社(福岡市博多区住吉)
・若久住吉神社(福岡市南区)
若久住吉神社(わかひさすみよしじんじゃ)は 「御鎮座は 遠い遠い神代のことで年代を定めることは出来ませんが 全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです」と由緒にあり 式内社 住吉神社 三座(並 名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)とする説 筑前国福岡藩初代藩主 黒田長政によって江戸期前期頃の創建造営とする説もあります
若久住吉神社(福岡市南区若久)
・現人神社(那珂川市)
現人神社(あらひとじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所 大和への御帰還に際し 霊験な現人神〈筒男三神〉をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)〈摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます
現人神社(那珂川市仲)
④長門国 豊浦郡
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしのあらみたまの かみのやしろ みくら)
・住吉神社(下関市)長門国一之宮
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『日本書紀』に記される 神功皇后が三韓征伐より凱旋の折 神託を得て 住吉三神の荒魂(あらみたま)を穴門 山田邑(現在地)に奉斎したとこれが住吉神社の起こりとされます 式内社 住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしにゐますあらみたまの かみのやしろ みくら)・長門国一之宮です
住吉神社(下関市一の宮住吉)長門国一之宮
➄播磨国 賀茂郡
住吉神社(すみよしの かみのやしろ)
・上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 創立は不詳ですが 厳格な宮座制度を脈々と守り続け 約700年間受け継がれてきた神事舞〈国指定 重要無形民俗文化財 住吉神社神事舞〉が有名です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社です
上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)
・住吉神社(加東市下久米)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『播磨鑑』に白雉2年(651)の創立と記されているが 甚だ疑わしく猶それ以前に勧請せられたものと推測されています 續左丞抄住吉神領年紀によると 久米庄(当地方)が神功皇后(201~220)の御代 既に摂津 住吉大社の神領地であったとあり 式内社 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社でもあります
住吉神社(加東市下久米)
・小野住吉神社(小野市垂井町)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝には 人皇10代の時とも養老6年(722)とも云われ もと河内山田に鎮座していたが 市場村喜多島に奉遷鎮座し 後に現在の地に奉遷したと伝わります 式内社 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社です
小野住吉神社(小野市垂井町)
・秋津住吉神社(加東市秋津)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 神功皇后の勅願社の伝承が残り 摂津 住吉大社の別宮であったと考えられ 創始は古墳時代後期とされています 奈良時代後期に現在の鎮座地・秋津字清水に遷座し 水田に由来して恒田明神と称され今日に至るので 二つの式内社〈住吉神社・垣田神社〉の論社となっています
住吉神社〈恒田大明神〉(加東市秋津)
⑥摂津国 住吉郡
住吉坐神社四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(すみよしの かみのやしろ)(すみのえにます かみのやしろ)
・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮
住吉大社(すみよしたいしゃ)は 『日本書紀』に神功皇后が三韓征伐の帰路 住吉三神の神託を得て 住吉大神の和魂(にきみたま)を鎮めて祀ったのが創建と記される 全国に2000社余ある住吉神社の総本社で 摂津國一之宮です 延喜式内社 住吉坐神社四座(並 名神大月次相嘗新嘗)(すみのえにます かみのやしろ しくら)です
住吉大社(大阪市住吉区住吉)〈摂津國一之宮〉
➆陸奥国 磐城郡
住吉神社(すみよし かみのやしろ)
・住吉神社(いわき市小名浜住吉)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝に第12代 景行天皇の時に武内宿弥が勅命を奉じて東北を巡視した折 海陸共に要害の地であったこの地を東北の関門 総鎮守として航海安全と国家鎮護として祀ったとあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社”の一つ 式内社 陸奥国 磐城郡 住吉神社(すみよし かみのやしろ)であり 東北一社とも称しています
住吉神社(いわき市小名浜住吉)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
博多駅から住吉通りを南下 約900m 徒歩13分程度
住吉通り沿いに 南門があり 社号標には 官幣小社 住吉神社 と刻されています
住吉神社(福岡市博多区住吉)に参着
南門から続く南参道は 下図の14現在地〈社殿の東南東〉に位置します
社殿から伸びる表参道は西を向いていることがわかります
三日恵比寿神社 能楽殿 相撲場などを経由して 表手参道へと通じています
一度 表参道 一の鳥居へ戻り一礼をしてくぐります
表参道 神門の前 一礼をして二の鳥居をくぐります
参道の左手に手水舎があり 清めます
続いて 神門が構えています
神門に掲げられた扁額には 住吉宮 とあります
一礼をして 隋神が坐す 神門をくぐります
神門の裏は御神紋の提灯
石畳みの参道を
拝殿にすすみます
拝殿の前には 狛犬が座します
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
節分祭などでは 境内に土輪円に恵方より 豆まきが出来るようになっています
拝殿の奥には 透塀に囲まれて 幣殿 住吉造りの本殿が鎮座します
境内社をお参りします
住吉神社 摂社末社(福岡市博多区住吉)をご覧ください
筑前国一之宮 住吉神社(すみよしじんじゃ)の・境内・摂社・末社 と境内・境外の要所についてご覧ください
住吉神社(福岡市博多区住吉)・境内・摂社・末社について
社殿に一礼をして 神門を抜けて参道をを戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
かつて博多の海に面していた 住吉神社(福岡市博多区住吉)
住吉三神は 海に深く関わる神ですが 博多古図には 住吉神社(福岡市博多区住吉)が かつては冷泉津にあった岬に鎮座していたことが記されています
博多古図解説
この博多古図は当住吉神社蔵の絵馬で鎌倉時代に描かれたものを江戸時代に筆写し明治になって奉納されたものであります。
西公園は古から「荒津山」といい現在の荒戸の地名は荒津の変化したものと云われ「草香江」は現在の大濠公園や草香江の地名に当時の面影をとどめています、また「袖の湊」は平清盛が築いたものと云われ対中国貿易の重要な港で今の呉服町付近にあたります。
この時代では天神・中洲はもちろん博多の大部分はまだ海中にあったことになります。現地案内板より
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 住吉神社 三座(並 名神大)の所在について 住吉村〈現 住吉神社(福岡市博多区住吉)〉と記しています
【抜粋意訳】
住吉神社 三座(並 名神大)
住吉は 須美乃依と訓べし
〇祭神 底筒男命 中筒男命 表筒男命 社伝
〇住吉村に在す式三巻 臨時祭 名神祭 二百八十五座 中略 住吉神社 三座 筑前國
〇日本紀、神代巻 一書曰、底筒男命 中筒男命 表筒男命、是則 住吉大神矣
續風土記云、住吉村は博多の南六町ばかりにあり、住吉明神御座故に村の名とせり云々、御社は松の一村志げれる中に在、西に向かひて立給ひたるは、異賊降伏の相を成し給ふなるべしと云へり
類社
摂津國 住吉郡 住吉神社の條見合うべし神位
三代実録 巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 奉授 筑前國 无位 住吉神 從五位下修理
中右記、元永二年四月二十六日、・・・・社職・・・・
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 住吉神社 三座(並 名神大)は 住吉村に在り、住吉大明神と云ふとあり 現 住吉神社(福岡市博多区住吉)と記しています
【抜粋意訳】
住吉(スミヨシノ)神社 三座
今 那珂郡住吉村に在り、住吉大明神と云ふ
即 筑前一宮也 底筒男 中筒男 上筒男三柱大神を祀る
〇按 日本書紀一書に、底土命、赤土命 磐土命あり、日本書紀號に、之を以て住吉神同神とす、據あるに似たり、姑附て考に備ふ、
息長帯姫命 韓国を伐給ふ時、厳き大威霊を題し給ひて、海表金銀の国を胎中に坐す誉田天皇に授奉れるは、即この大神也、
聖武天皇 天平九年四月乙巳、使を遣わし幣を奉て、新羅無禮の状を申し、
平城天皇 大同元年、神封三十六戸を充奉り
清和天皇 貞観元年正月甲申、無位 住吉神に従五位下を授け
陽成天皇 元慶二年十二月乙酉、兵部少平朝臣季長を遣わして、幣を奉らしむ、櫃日神の神教に、新羅景を窺ふと云ふを以て也
醍醐天皇 延喜の制、三座並に名神大社に列る
後醍醐天皇 延元元年三月乙卯、源尊氏 豊前河崎荘を本社に寄して、天下の安寧を祈りき凡住吉祭、正月七日鬼平祭、二月七日田植祭、三月二日潮干祭、八月四日新嘗祭、九月十三日、神輿博多に幸し、流鏑馬を行ふ、十一月七日歩射祭あり、然れども其の儀 今多くは絶えたり
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 住吉神社 三座(並 名神大)の所在について 神代より住吉村〈現 住吉神社(福岡市博多区住吉)〉と記しています
【抜粋意訳】
住吉神社 三座(並 名神大)
祭神 底筒男命 中筒男命 表筒男命
今按〈今考えるに〉
本社祭神は 神代巻 黄泉段に伊弉諾尊「伊弉諾尊既還、乃追悔之曰、吾前到於不須也凶目汚穢之處。故當滌去吾身之濁穢、則往至筑紫日向小戸橘之檍原、而秡除焉。遂將盪滌身之所汚、乃興言曰、上瀬是太疾、下瀬是太弱、便濯之於中瀬也。因以生神、號曰八十枉津日神。次將矯其枉而生神、號曰神直日神。次大直日神。又沈濯於海底。因以生神、號曰底津少童命。次底筒男命。又潛濯於潮中。因以生神、號曰表中津少童命。次中筒男命。又浮濯於潮上。因以生神、號曰表津少童命。次表筒男命。凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣。底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣。」
とある即是にて神代より此地に鎮座とみえたり神位 清和天皇
三代実録 巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条奉授 筑前國 无位 住吉神 從五位下
祭日 九月十三日
社格 縣社(官幣小社)
所在 住吉村
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
住吉神社(福岡市博多区住吉)について 神功皇后の時に顕はれたことから 崇敬厚く祀られてきた由緒が語られています
【抜粋意訳】
〇福岡縣 筑前國 筑紫郡住吉村大字住吉
縣社 住吉神(スミヨシノ)社
祭神 底筒男命(そこつつのをのみこと)中筒男命(なかつつをのみこと)
表筒男命(うわつつをのみこと)天照大御神(あまてらすおほみかみ)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)当社は 延喜式神名帳に「那珂郡住吉神社三座 名神大」とありて、
日本紀私記に「此神荒魂者猶在筑紫、但和魂独在墨江耳案神功皇后紀云、元年三月皇后親爲神主、於是審神者曰、今不答而更後有言乎、則対曰、於日向国橘小門之水底、所底而水葉稚之出居神、名表筒男、中筒男、底筒男神之有也、時得神語随教而祭、然則此神本在筑前小戸、即神功皇后初遷居於摂津墨江耳」とあり、(筑前小戸とあるは誤なるべく、初めより日向国にませしが、神功皇后の御時顕はれ給ひて功をなし給へるによりて、筑前にも祭給へることと説くべきなり)、
又 続日本紀に、天平九年四月乙巳、遺使於云云筑紫佳吉八幡二社及香椎宮奉幣、以告新羅無礼之状と見え、
三代實録に「貞観元年正月廿七日、奉授筑前國無位住吉神從五位下」とあるによる時は、當社の古社にして、朝廷の崇敬淺からざりしを知るに足る、
社領に就ては、源頼朝深く此の社を信仰し.神領等の寄附あり、建武三年には尊氏九州下向の時寄進の義あり、右の文書當社に存せり「寄進筑前國一宮豊前國河崎庄地、右此度之義兵遂本望祈天下之安寧家門繁昌、所寄進如件、建武三年四月八日」とあり、文中に一宮とあるは、今は箱崎宮を云ふ、蓋しこの社を云ひしものなるべし、其他烏羽天皇永久四年、及び後醍醐天皇建武四年、後村上天皇貞和七年等に、各神領を寄進せられたり、當時の文書今尚保存すと云ふ、
されば上古は、宮殿等頗る壮観を極めたる大社なりしなるべし、されど嘉吉応仁間の兵乱に遭ひて、全く荒廃するに至りぬ、そは文明二年宗祇法師の筑紫下向の時の文に「住吉の楼門破れ社殿亦全からず、社中を廻り見れば、大木の松、齋垣して故有と見ゆるなり云々」とあるにてしられ、
また福岡郷土誌中に「神田あり、世々同村字川口住横田家の領する所たり、世に横田領と称し、今尚横田と名づく、又天文の比、佐伯の宗能、秦の正道と云もの、住古宮殿の破損を歎じ、造営を主唱し、山口に行き云々」と見えたり、
又當社祭礼頗る賑はしく、神輿渡御、流鏑馬等あり、祠官百五十余人と記録に見ゆ、尚當社の事に就ては、筑前続風土記等に委しくものせられたり、かくて明治五年十一月縣社に列す。
社殿は本殿、渡殿、拝殿、瑞門、楼門、髪門、御炊門、社務所を備へ、境内四千三百八十坪官有地第一種を有す、社内に老松あり、住吉の松とて古來著名のものたり。
特有の祭事として、正月七日鬼平と唱へ、人を搦めて、鬼と號けて追討つ神事ありしも今に絶えたり。境内神社 志賀神社 少彦名神社 船玉神社 火産霊神神社 菅原神社
稲荷神社 事比羅神社 人丸神社 天津神社・・・・
【原文参照】
『福岡県神社誌(Fukuokaken Jinjashi)〈昭和20年(1945)〉』に記される伝承
『福岡県神社誌』上巻 官國幣社の条に記されます
【抜粋意訳】
官幣小社 住吉神社
福岡市大字住吉 若久字住吉大明神
祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命、三座
配祀 天照皇大神、息長足姫命由緒 社説に曰く、当神社は伊弉諾命の予母都国より帰りまして、禊祓給ひし筑紫の日向の橘の小戸の檍原の古蹟にて、住吉大神御出生の地なるが故に、神代より御鎮座あらせられたるものと推察せらる。下りて神功皇后神教を奉じて御征韓の途に上らせ給ふに先立ち依綱吾彦男垂見をして祭祀を行はしめ給ひしは当神社にして、当時既に此地に御鎮座有りたるものなる可く、住吉本社又日本第一住吉宮と旧記に見えたり。皇后御征韓の時大神の和魂は玉体を荒魂は御舟を守護して御神徳を垂れ給ひ、御凱旋の日荒魂は長門に、和魂は摂津に鎮り給ひぬ。かくて当社は住吉本社として歴朝御崇敬極めて篤く、中にも、後一条天皇は一代一度の大神宝使をして奉幣せられ、後花園天皇は当宮一夜の松の奇瑞を御叡感、勅撰松花和歌集を奉らる。其他頼朝を始め武将国主より神領金穀の奉納枚挙に遑あらず。
貞観元年従五位下叙し奉る、延喜の制には名神大社に列せられ、建武、延元、正平及び文明の頃には筑前一の宮たり、境域方一里、神領三千町、神人社僧百十余人に及び、本殿三宇廻六十六間二階造楼門を首め、境内外に数多の摂末社佛堂等を有し壮大を極めたるも、元弘建武嘉吉応仁以降海内乱れ、殊に博多の地は戦争の巷となり、遂に当社も荒廃に帰しぬ。慶長五年黒田長政入国以来、名社の荒廃を歎き、元和九年現在の神殿拝殿を再建し、天明中随身門、玉垣門、玉垣、神楽殿等を再建せり。明治五年十一月三日県社に大正四年十一月十日官幣小社に列せられ、神威日々に発揚し、漸次往時の盛大に復しつつあり。特殊祭事 潮干祭 四月三日
神功皇后御出船の故事を偲び奉る祭典にて、敵国降伏、海上平安の祈願をなす。夏越祭 七月三十日、三十一日
御祭神御出現の故事に起因し、古来の六月の大祓にて、当日那珂河畔斎場にて大祓神事。芽の輪潜等あり。心身の清浄災厄消除の祈願をなす。相撲会祭 十月十二日、十三日
神功皇后住吉大神の御神勅によりて三韓を征し給ひ、御凱旋の砌報賽祭執行の時大神の宣旨によりて兵士に力競べせしめられたるに始まれり。現今相撲司家吉田追風翁臨場、盛大なる式相撲を行ふ。歩射祭 十一月七日
皇紀千三百九十七年聖武天皇の天平九年、新羅我が国に無礼なりしかば、当宮に勅使を遣はし奉幣して告げ給ひしに、新羅ほどなく叛意を翻へし、王子金泰廉等を質として奉り、後我が朝に帰化しけるを以て其の罪を免し給ひきと。
夫れより凡百四十年を経て陽成天皇の元慶二年(紀元千五百三十八年)新羅復我が国を窺ひしかば、勅使兵部少輔従五位下兼行、伊勢権介平朝臣李長を遣はし、当宮に奉幣して祈らせ給ひしに、遂に其の寇無くて罷みにきとぞ。
干時鳴弦蟇目なんどの行事もありしならん。爾来歩射祭と称する神事を存して、左庁の人等境内に集ひ、未申の方に向ひて歩射を行ふを例とせり。是即世は泰平に属すと雖、武備を忘れず、斯道を鳴吹すると共に国難を除き、海内静寧万民豊楽の祈祷なり。例祭日 九月十三日
神饌幣帛料供進指定 大正十五年七月一日
主なる建造物 本殿、幣殿、拝殿、社務所、神門、神徳館、能楽殿、墨の江館、神楽殿、通夜堂
主なる宝物 古代銅鉾十一口(筑紫鉾)黒田長政奉納信国作独鈷剣一。後花園天皇勅撰松花和歌集。南朝寄進状、御託宣扁額、御社領目録、神功皇后御物御矢の根、古文書、刀剣類。
境内坪数 五千八百ニ十六坪九合
氏子区域及戸数
春吉校区内三十ニ箇町、住吉校区内二十四箇町、
東住吉校区内十二箇町、八幡校区内九箇町、
冷泉校区内九箇町、計八十六箇町、
春吉校区内三千百六十戸、住吉校区内三千三百三十六戸、
東住吉校区内千八百三十戸、八幡校区内千百六十三戸、
冷泉校区内九百五十三戸。計一万四百四十ニ戸摂社 船玉神社(猿田彦命)
志賀神社(底津綿津見命、竹内宿禰、中津綿津見命、火産霊神、表津綿津見命)末社 人丸神社(柿本人丸)
菅原神社(菅原神)
稲荷神社(宇賀魂命、火産霊神)
少彦名神社(少彦名命)
天津神社(伊弉諾命)境外末社 下照姫神社(下照姫神、味耜高彦根命、衣通姫神)
【原文参照】
住吉神社(福岡市博多区住吉)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
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筑前国(ちくぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 筑前国(ちくぜんのくに)には 19座(大16座・小3座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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