菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)は 宮中でお祀りしていた神様を用明天皇ご即位元年(五八六)この地にお遷ししたことが創始 六国史『日本三代実録』に菅生神・『延喜式』には菅生石部神社(すかふのいそへの かみのやしろ)と所載される由緒ある古社で 加賀國二之宮とされています
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
菅生石部神社(Sugo isobe shrine)
【通称名(Common name)】
・菅生社(すごうのやしろ)
・菅生天神(すごうてんじん)
・敷地天神(しきじてんじん)
【鎮座地 (Location) 】
石川県加賀市大聖寺敷地(だいしょうじ しきじ)ル乙81
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》菅生石部神(すがふいそべのかみ)
社伝には
・天津日高日子穂々出見命(あまつひたかひこほほでみのみこと)
・豐玉毘賣命(とよたまびめのみこと)
・天津日高日子波限建鵜葺草不合命(あまつひたかひこ なぎさたけうがやふきあえずのみこと)を齋き奉ると云う
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・初宮詣、七五三詣、安産祈願、厄除祈願、病気平癒祈願、交通安全祈願、各種安全祈願など神前結婚式、結婚奉告祭など
【格 式 (Rules of dignity) 】
・ 国史見在社(こくしげんざいしゃ)〈六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載されている神社〉
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈加賀國二之宮〉
【創 建 (Beginning of history)】
菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)
【御創祀】
用明天皇元年(西暦五八五年)
【御祭神】
菅生石部神(すごういそべのかみ)
日子穂穂出見命(ひこほほでみのみこと)
豊玉毘賣命(とよたまひめのみこと)
鵜葺草葺不含命(うがやふきあえずのみこと)【御由緒】
当社は、敏達天皇の願いにより、宮中でお祀りしていた神様を用明天皇ご即位元年(五八六)に この地にお遷ししたことにはじまります。
延喜式内社で、中世 越前國三ノ宮のちに加賀國二ノ宮(一ノ宮は白山比咩神社)となります。明治期には國幣小社に列せられました。
中世には この地(福田庄)が京都・北野天満宮領となることから天神信仰も盛んとなり、別名 菅生天神や敷地天神とよばれるようになり、加賀や越前に住む人々から篤い崇敬を受けていました。
中でも斎藤氏(全国の斎藤氏の祖)は、当社を氏神として大変崇敬しておりました。後に美濃の目代として赴任する際、自らの氏神として美濃各地に当社天神様をお祀りしました。美濃國の天神社、天満宮 全十七社は当社より勧請された社です。この後 斎藤氏は、美濃からさらに全国へと広がっていきます。
このほか、京都市北区 敷地神社(わら天神)、鯖江市河和田の敷山神社など関係の社が多くあります。
朝廷のご崇敬も篤く、伏見天皇(一二八七~一二九八)の頃より正親町天皇(一五五七~一五八六)の頃まで春秋年二回の居入祭(おりいさい)に朝廷より御衣・神宝がお供えになりました。現在、居入祭に遅れた際の詫状や皇子ご降誕の祈禱礼状が残っています。
木曾義仲、足利義持、豊臣秀吉や前田利家はじめ前田家による寄進や奉納も多くありました。現在その多くが宝物として残り、珠姫(天徳院、徳川家康の孫)のお輿入れ道具など一部国重要文化財となっています。
【特殊神事】
・・・・
・・・・
・・・・神社配布 由緒書より
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菅生石部神社(Sugo isobe shrine)
この神社は式内社で、加賀地方では白山比峰神社に次ぐ大社であり、古来の由緒を物語る史料や文化財などが多く残されています。また、毎年2月10日には竹割りの奇祭として知られる「御願神事」が行われます。
現地案内板より
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【由 緒 (History)】
『国幣小社菅生石部神社由緒記』に記される内容
【抜粋意訳】
国幣小社菅生石部神社由緒記
石川縣江沼郡大聖寺町鎭座
祭神並に鎭座
越前の國境を越えて、東に白山の靈峰を望み、加賀の平野に入るところ、大聖寺川の清流のほとりにある天神山の神奈備に、千木高知り、宮柱太敷立て、北陸道一圓鎭護の大神と鎭まり坐すは、菅生石部神社である。
祭神
祭神は菅生石部神(すがふいそべのかみ)にまします。
社傳には天津日高日子穂々出見命(あまつひたかひこほほでみのみこと)・豐玉毘賣命(とよたまびめのみこと)・天津日高日子波限建鵜葺草不合命(あまつひたかひこ なぎさたけうがやふきあえずのみこと)を齋き奉るといへり。日子穗々出見命は天孫 瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御子にして、神武天皇の御祖父神にましまし、豐玉毘賣命は日子穂々出見命の御妃にて、神武天皇の御祖母神にまします。豐玉毘賣命が、海邊の汀に鵜の羽を葺草にして産殿を造り、其の産殿の未だ葺き合へぬ間に御出生あらせ給へる御子は、鵜葺草不合命にして、卽ち神武天皇の御父神にあたらせ給ふ。
鎭座
當社の御銀座について社記に
「敏達天皇禁裏御所に御勧請御鎭祭あらせられし大神を、用明天皇の御宇、越の江沼(えぬま)の土俗、禮節なく、剽掠を好みて農桑を務めざりしかば、御卽位元年九月當國鎭護の神として此の地に遷祀せしめ給ひ、五穀豐登萬民富堯鐃を御立願あらせられを創祀とす」
といへり。當北陸地方は遠く崇神天皇の御代 大彦命の御巡遊ありしを始めとし、景行天皇二十五年(紀元七五五 )武内宿禰をして巡察せしめ給ひしことあり、朝廷にては夙に皇化に意を注がせ給ひし地方にして、成務天皇より雄略天皇の間 (紀元七九一~一一一六)江沼(えぬま)、賀我(かが)、羽咋(はくい)、能等(のと)に國造配置され地方行政整備の緒に就きしも、越後の渟足磐船(ねたりいはふね)に柵(き)を築き蝦夷に備へられしは當社鎭座より六十年餘り後年、孝德天皇 (渟足一三〇七、磐船一三〇八 )の頃にて、これによりても、禮節なく、剽掠を好み、農桑を務めずといへる當地方の狀態を窺ひ得られ、以って當社御鎭祭の高き御叡慮を仰ぎ奉り、由緒の深重を思ふべきである。
社號
社號は往古より菅生石部(すがふいそべ)神社(延喜式神名帳)と稱へ、又單に菅生神(日本紀略、平家物語、義経記)とも、石部神(舊社記)とも稱へ、中世以降 民間に於ては敷地天神と申し奉れり。
【原文参照】
『国幣小社菅生石部神社由緒記』,国幣小社菅生石部神社々務所,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1096520
『国幣小社菅生石部神社由緒記』,国幣小社菅生石部神社々務所,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1096520
御本殿御扉のこと
御本殿御扉は古來如何なる祭典にも御開扉せざる事一社古傳の秘事である。
一、疫病(オコリ)落しの事
疫病を病む者暁に鳥居の下にて草履をぬぎ參拜祈願の上、うしろを振向くことなく女坂(東參道)を下りて歸宅すれば疫病落つと傳ふ。
一、鯛を供へざる事
御祭神日子穂々出見命の故事により古來鯛を神饌とせず。
一、御神使の事
蛇、龜は御神使にして祭禮豐玉毘賣命の眷屬なれば之を殺すことなかれ、若し之を食せば一生諸願滿足なしと旧記に傳ふ。
一、富樫かくれ道の事
昔富樫の先祖が宮地のとほりに來掛りし時、馬すくみて進み得ざりしを富樫は、我領内に坐す神にして我に咎めあることなし、馬に咎めあるなりとて、馬の首を切り拜殿に投げ込みしより、富樫一家は末末迄社前の通行かなはず、遂に山の後の小道を通路とせしかば、後世これを富樫のかくれ道といひ高き御神威を畏みまつれり。
創祀
用明天皇の御宇、越の江沼の土俗、禮節なく、剽掠を好みて農桑を務めざりしかば、御即位元年九月當地方鎭護の神として宮中より遷祀せしめ給ひ、當國の五穀豐登萬民富饒を御立願あらせられしを、創祀とする。
御神徳
古來武運守護神と崇め奉り後西天皇皇子御降誕の砌安産御守献上の事古文書に見ゆる如く安産御守護の神として又疫病解除、五穀豐饒、養蠶守護、漁業守護の大神として普く高き御神徳を仰ぎ奉れり。
社号と社格
古より菅生石部(すがふいそべ)神社と稱へ、中世以降民間にては敷地天神と申す。延喜式内社、加賀二宮にして、明治29年3月19日國幣小社に列せらる。
崇敬のあらはれ
陽成天皇の御代正五位下に、朱雀天皇天慶3年正四位下に陞叙せられ、用明天皇御代諸國に疫病流行せし時疫病解除、五穀豐饒を祈らせ給ひ、天武天皇御願神事を始めさせられ、往古より正親町天皇の頃まで一年兩度の居入祭には勅使參向御衣神寶を奉らしめ給ふなど朝廷の御崇敬篤く大正3年攝政宮殿下北陸行啓の御砌には侍従御差遣奉幣あらせらる。又、木曾義仲・富樫昌家・足利義持・豐臣秀吉・山口玄蕃等武門武將深く尊崇し、前田藩に及び氏神として神地寄進社殿造營調度の修造等絶えず、夏祭を藩祭となし藩の四民を參拜せしむる等崇敬の誠を捧げ奉れり。
特殊神事
一、御願神事諸國に類例なき勇壯な神事で、毎年2月10日例祭に行はれ、天武天皇の御代、賓祚長久國家安全を祈り治世尚ほ亂を忘れざらしめんとの御立願により行はせ給へるにより御願神事と稱し、氏子崇敬者より奉納の青竹數千を潔齋せる氏子青年數十名、短き白衣一枚、白鉢巻姿で一齊に拜殿に上り喊聲を擧げて打ち割る。其の音耳も聾し、齋庭に焔々と燃ゆる齋火と共に壯絶を極む。竹を悉く打碎くや、更に青年は大縄を拜殿より持ち出して積雪の境内をエイエイと互に曳き合ふこと數度、社前の橋上より之を河中に投じて神事を終る。旧記に大縄を曳き合ふは祭神日向の鵜戸宮にて神軍ありし御學びなりといひ、この縄は大漁に竹は悪事災難除け、豐蠶に靈験ありと信ぜらる。神事前10日間は神社に於て一切の鳴物を禁ず。
一、夏祭夏越祓(7月24日)疫神祭(7月25日)湯の花神事(7月26日)の3日間の祭典は災厄を拂ひ清めて四民の安穩と、當年の五穀豐登とを祈願し、敷地祭或は天神講と稱して、年中最も賑々しき祭典である。
神域と社殿
大聖寺川の清流のほとりなる、天神山(一名敷地山)に御鎭座、御社殿四圍の御山よりは今も土器等の出土多く御創立年代の古さが考察される。社殿は本殿以下昭和13年8月、10ケ年の日子と十數萬圓の工費とを以つて新改築工事完成せるものにして、畏くも御内帑金下賜の恩命に浴し、御木の香も高き御社頭は千古の神奈備と共に尊嚴愈々加へさせらる。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・菅生石部神社 社殿
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・〈本殿向かって右奥 境内社〉菅原社・春日社・八幡社・白山社・事比羅社
・〈本殿向かって左奥 境内社〉稲荷社・藤森社
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・随神門
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・社頭
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈鳥居を出て右手150m 境内社〉愛宕神社
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
加賀國 菅生神として 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷四十四 元慶七年(八八三)十二月廿八日庚申
○廿八日庚申
紀伊國 從四位下勳八等丹生比売神・伊太祁曾神 並に授に從四位上を
阿波國 正五位上 天日鷲神に從四位下
加賀國 從五位下 菅生神に正五位下參河國 從五位下 石鞍神
阿波國 從五位下 埴生女屋神・八桙神に 並に從五位上河内國 正六位上 栗栖神・堺神
越中國 正六位上 新治神
因幡國 正六位上 蟲井神
伯耆國 正六位上 天照高日女神・天乃神奈斐神・天高神
安藝國 正六位上 風伯神に 並に從五位下以て從五位下 橘朝臣貞樹を爲に豐前守 去める二月丁に 母の憂に罷職を 今以て本官を起しむ之
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)加賀國 42座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)江沼郡 11座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 菅生石部神社
[ふ り が な ](すかふのいそへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sukafu no isohe no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
加賀國に鎮座する「いそへのかみのやしろ」」の社号を持つ式内社とその論社について
加賀國 江沼郡 宮村部神社(みやむらいそへの かみのやしろ)
・宮村部神社(加賀市宮町)
宮村岩部神社(みやむらいそべじんじゃ)は 創建年代 祭神ともに不祥 祭神は 天神 或いは櫛日方命とも云う 現在も本殿はなく 瑞垣(土塀)にて囲む内に磐座が祀られる謎多き古社で 古へに社地の南方2km程に遙拜所があった所に 今は鳥居のみが残っています 延喜式内社 加賀國 能美郡 石部神社(いそへの かみのやしろ)です
宮村岩部神社(加賀市宮町)〈『延喜式』宮村いそ部神社〉
加賀國 江沼郡 菅生石部神社(すかふのいそへの かみのやしろ)
・菅生石部神社(加賀市大聖寺敷地)〈加賀國二之宮〉
菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)は 宮中でお祀りしていた神様を用明天皇ご即位元年(五八六)この地にお遷ししたことが創始 六国史『日本三代実録』に菅生神・『延喜式』には菅生石部神社(すかふのいそへの かみのやしろ)と所載される由緒ある古社で 加賀國二之宮とされています
菅生石部神社(加賀市大聖寺敷地)〈加賀國二之宮〉
加賀國 能美郡 石部神社(いそへの かみのやしろ)
・石部神社(小松市古府町)
石部神社(いそべじんじゃ)は 加賀国の誕生にかかわる古社で 弘仁14年(823)3月 越前国から分割して加賀国ができた際には 国府庁の南に すでに当社が「府南社」と称して祀られていたと伝えられます ここから加賀国の一之宮であるとも 加賀国総社であるともされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社です
石部神社(小松市古府町)加賀国 総社〈惣社〉
『延喜式神名帳』所載「いそへのかみのやしろ」の社号を持つ式内社とその論社について
『延喜式神名帳』に所載される各々の「いそへのかみのやしろ」は 古代の氏族・「石邊公」「石部氏」に関係する神社 又は 海人族の「磯部氏」に関係する神社とも云われ 数多く分布しています
音は「いそへ」と同じでも その要因は 様々な要素から成り立っていて 特定は非常に難しく その為 各々の神社を検証してみます
『延喜式神名帳』に所載される各々の「いそへのかみのやしろ」は 古代の氏族・「石邊公」「石部氏」に関係する神社 又は 海人族の「磯部氏」に関係する神社とも云われ 数多く分布しています 又『延喜式神名帳』所載の「いそへのかみのやしろ」の社号(いそへ)の読みに充てる字は 「石部」「石邊」「部」「磯部」などがあり 様々です
『延喜式神名帳』所載「いそへのかみのやしろ」の社号を持つ式内社とその論社について
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
IRいしかわ鉄道線 大聖寺駅から県道145号経由で北方向へ大聖寺川を越えて約1.8km 車での所要時間は7~10分程度
大聖寺川を渡り 越えたらすぐで
この辺りの地名を「敷地」と呼び 菅生石部神社も別称を「敷地天神」と呼びます
ここは敷地です
大聖寺川に架かる敷地天神橋北詰から菅生石部神社の間にある町人町。本来、敷地村の一部であったが、永町から同社の前を右折して敷地村へと抜ける北国街道に沿うため、茶店などができて、次第に菅生石部神社の門前町としては発達した。なお、菅生石部神社は近世期は敷地天神とも称された。
町名の由来は、この神社の敷地、すなわち宮地であったことからついたものと考えられている。『加賀志徴』では、敷地はもとは菅生村領内であったが、菅生石部神社の「敷ます地なる故に、やがて地名とは成たるべし」とある。天明六年 (1786)の大聖寺給図には、道の両側に木綿や菓子を扱う商店や茶店などが立ち並び、特に茶店は「敷地茶屋」と呼ばれ、名物は団子と幾世餅であったという。
社頭の案内板より
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社号標には「國幣小社 菅生石部神社」と刻字されています
菅生石部神社(加賀市大聖寺敷地)〈加賀國二之宮〉に参着
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一礼をして鳥居をくぐり抜けると 石段があり 立派な隋神門があります
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有名な竹割まつり「御願神事」の看板が設置されています
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隋神門を抜けると 境内があり 石畳みの先に一段高い壇があって正面に拝殿があります
拝殿の両脇には それぞれ境内社の鳥居が建てられています
拝殿にすすみます
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿に一礼をして 参道を戻ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 菅生石部神社について 所在は゛菅生郷大聖寺城下敷地村に在す、今敷地天神と稱す、゛〈現 菅生石部神社(加賀市大聖寺敷地)〉と記しています
【抜粋意訳】
菅生石部神社
菅生は須賀布、」石部は伊曾倍と訓べし、
〇祭神 彦火々出見尊、豊玉姫命、葺不合尊、〔社傳〕
〇菅生郷大聖寺城下敷地村に在す、今敷地天神と稱す、〔社家説〕例祭 月日
〇當國能美郡石部神社もあり、東寺所藏文書に、加賀國人 富樫昌家至德二年の執行狀に、加賀國云々、菅生社造營云々とあり、
類社
伊勢國 朝明郡 石部神社の條見合すべし、神位
三代實錄 元慶七年十二月廿八日庚申、加賀國菅生神授ニ正五位下、
日本紀畧、天慶三年正月十五日、奉レ授ニ加賀國 從四位上 菅生神 正四位下、雑事
朝野群載云、康和五年六月十日、奏龜卜御體御卜、〔中略〕坐ニ加賀國 管生石部野間神云々、社司等依レ過ニ穢神事 祟給、遺レ使科ニ中祓、可レ令ニ祓清奉仕事、〔下略〕宮主從五位下行少祐卜部宿禰兼良、中臣從五位上行權少副大中臣朝臣輔清 、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 菅生石部神社について 所在は゛今 敷地村、敷地橋の地にあり、菅生天神と云、゛〈現 菅生石部神社(加賀市大聖寺敷地)〉と記しています
【抜粋意訳】
菅生石部神社、
〔〇按 三代實録、日本紀略、石部二字なくして、菅生神に作る、〕
今 敷地村、敷地橋の地にあり、菅生天神と云、〔神名帳打聞、行舊鈔〕
陽成天皇 元慶七年十二月庚申、從五位下 菅生神に正五位下を授け、〔三代実録〕
朱雀天皇 天慶三年正月辛巳、從四位上 菅生神に正四位下を加ふ、〔日本紀略〕
堀河天皇 康和五年六月 御卜に菅生石部神の社司神事を過ち穢せる崇あるを以て、使を遣して中祓を科せ祓清め仕奉らしめき、〔朝野群載〕凡 每年正月十日、六月廿四日、廿五日祭を行ふ、〔石川縣式社調帳〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497
栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 菅生石部神社について 所在は゛敷地村 (江沼郡福田村大字敷地 )゛〈現 菅生石部神社(加賀市大聖寺敷地)〉と記しています
【抜粋意訳】
菅生石部神社 稱 菅生天神又數地天神
祭神
今按 祭神未詳 今 穂々手見尊 豐玉毘賣命 鵜草葺不合尊の三座とすれど信がたし 石部神と云ふに因らばとも天日方櫛日方命にはあらざるか
神位
陽成天皇 元慶七年十二月二十八日庚申 加賀國菅生神授正五位下
朱雀天皇 天慶三年正月十五日 奉授 加賀國從四位上 菅生神正四位下〔天慶以下 日本紀略〕祭日 正月十日 六月二十四五六日
社格 縣社(国弊小社)所在 敷地村 (江沼郡福田村大字敷地 )
今按 本社舊記に加賀國二宮社傳に云 往古菅生村に鎭座後 敷地村に遷座すと云り されど菅生敷地の二邑もと一地にて 上古己來の社地なるべし 敷地とは此神の敷坐す地なる由と聞ゆれば也
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
菅生石部神社(加賀市大聖寺敷地)〈加賀國二之宮〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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加賀国 式内社 42座(並小)について に戻る
加賀国(かがのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 加賀国には 42座(並小)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
加賀國(かがのくに)の 式内社 42座(並小)について