菅田神社(すがたじんじゃ)は 古代 製鉄・鍛冶を営んだ菅田首(すがたのおびと)が 『新撰姓氏録〈弘仁6年(815)〉』に載る祖神「菅田首 天久斯麻比止都命之後也」を祀ったとされます この祖神゛天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)゛は 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛と同神とされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
菅田神社(Sugata shrine)
【通称名(Common name)】
〈古称〉・一夜松天神
【鎮座地 (Location) 】
奈良県大和郡山市八條町619
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》菅田比古命(すがたひこのみこと)
その他の説には
《主》天久斯麻比止都命〈天目一箇命と同神〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『奈良県史 第5巻 神社』〈1989年〉に記される内容
【抜粋意訳】
奈良県史 第5巻 神社 大和郡山市 2.昭和地区
菅田神社 (八条町字一夜松六一九)
近鉄二階堂駅の北方約六〇〇メートル、八条集落西端に鎮座する。『大和志』平群郡神廟に「菅田神社 在に八条村与に菅田長安寺共預に祭祀 式載に添下郡」とあって『延喜式』神名帳添下郡の項に登載されている菅田神社は当社だと記している。鎮座地は興福寺雑役免田平群郡一夜松南庄にあたり、神社は近世まで天満天神を祀って八条・菅田・長安寺村の氏神であったと天理市二階堂菅田区有文書にある (『奈良県の地名』 ) 。
祭神は天目一箇神で、『神祇志料』は「菅田首」の祖神 天目一命とあり (『姓氏録』天久斯麻比止都命か )、『神社覈録』には「菅田比古命」といっている。目一箇とは、目が一つの神で太玉命の隷属神として天孫降臨に金工として従ったという。筒井町の菅田比売神社と対をなす神社とみられる。
宮座に永正十年 (一五一三 )から大永三年 (一五二三 )に及ぶ『田地寄進状』など所蔵するが 永正六年の宮本日記に南講・北講があり、大行事・神主•弥宜三人あり、神楽田二段あったことを記している。例祭十月十五日。
天理市二階堂北菅田町の春日神社西方に当社の神宮寺があったと伝えるが、一夜松金琳寺と推定され、元和五年 (一六一九 )当社再建記念の石灯籠に「一夜松金琳宮」と刻まれている (『奈良県の地名』 )。
【原文出典】発行所:名著出版 編集:奈良県史編集委員会 発行日:1989年5月25日『奈良県史 第5巻 神社』より抜粋
【由 緒 (History)】
『大和志料』昭和19年(1944)に記される内容
「菅田首 天久斯麻比止都命之後也」とある゛天久斯麻比止都命゛は天目一箇命と同神とされています
【抜粋意訳】
大和志料 中巻 平群郡 神社 菅田(スガタ)神社
昭和村大字八條にあり、一に一夜松天神と稱す。
延喜式に「添下郡菅田神社」とある卽ち是。
祭神詳ならず、〔註〕姓氏錄に「菅田首 天久斯麻比止都命之後也」と見ゆ。
菅田氏の祖を祭れる者か。後考を俟つ。
筒井諸記に、當社及び近傍に係る地理の圖説を載す。錄して参考に供す。
【原文参照】
『奈良県名勝志』明治24年(1891)に記される内容
【抜粋意訳】
奈良県名勝志 巻中 神社 郷社 菅田神社
同郡平端材大字八條字一夜松に在り 境内二千四百十六坪 姓氏錄に曰く 菅田首は 天久斯麻比丘都の後なりと 延喜式添下郡に載し 今改めて本郡に移載す
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・菅田神社 本殿
・菅田神社 幣殿
・菅田神社 拝殿
・〈本殿向かって左隣(西側)境内社〉厳島神社
・〈本殿向かって左奥(西側)境内社〉春日神社
・〈社殿向かって左側(西側)〉皇大神宮
・〈境内西側の石碑〉祓戸大神
・〈菅田神社の東に伸びる参道〉・御旅所・一の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・菅田神社発祥地の碑
〈古老の口碑には 菅田神社は古くは 下ツ道(しもつみち)を南へ向かい南菅田町の菰池(こもいけ)辺りにあった と伝わる〉
・〈大和國 添下郡の式内社 菅田神社と対をなすとされる 式内社 菅田比賣神社(大和郡山市筒井町)〉
延喜式内社 大和國 添下郡 菅田比賣神社二座 鍬靫の論社
・菅田比賣神社(大和郡山市筒井町)
・八幡神社(大和郡山市筒井町)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和國 286座(第128座(な月次新嘗・就中31座預り相詳細)・小158座(波官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)添下郡 10座(大4座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 菅田神社
[ふ り が な ](すかたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sukata no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛について
天目一箇神は 鍛冶の神とされ
『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶であった゛天津麻羅(あまつまら)゛と同神ともされ 別名も多く 天目一命(あまのひとつめのみこと)とも呼ばれます
神名の゛目一箇(まひとつ)゛とは 鍛冶師は 製鉄の時 片目をつぶり 鉄の色を見て温度を見た事によるとも 鍛冶の職業病として 鉄を打つ火の粉によって片目を失明する゛一つ目(片目)゛の意味であろうとされます
式内社 天目一箇神社(あめのまひとつのかみやしろ)の論社が 多くある「多可町」には ゛鍛冶屋(かじや)と云う 地名があるのも頷けます゛
゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を祀る 播磨國の式内社について
播磨国は 古くから製鉄や鍛冶が行われていたと伝わり 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を信仰する製鉄・鍛冶の拠点に祀られたと考えられます
①播磨國 佐用郡 天一神玉神社(貞)(あめのひとつかんたま かみのやしろ)
・天一神社(佐用町東徳久)
天一神社(てんいちじんじゃ)は 社伝には゛今より約二千年前(彌生時代)に創立 日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」゛と記され 『六国史』天安元年(857)天一神に從五位下が奉授 その7日後に官社に列すと記され 『延喜式』播磨國 佐用郡 天一神玉神社(あめひとつかんだまの かみのやしろ)です
天一神社(佐用郡佐用町東徳久)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉
②播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社
式内社 天目一神社は 江戸時代には所在不明となっていました
所在地が不明であった天目一神社について 明治以降に多可郡内の数カ村の神社が名のりを上げました
・天目一神社(西脇市大木町)
天目一神社(あめのまひとつじんじゃ/てんもくいちじんじゃ)は 天正八年(1580)兵火にあい記録類を失い 江戸時代には社地も不明でした 明治維新の後 当時 惣堂天王社のあったこの地を式内社 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の跡地と定め 鎮守である平野神社も合祀され 大正12年(1923)復興されたものです
天目一神社・平野神社(西脇市大木町)〈天目一箇命を祀る古社〉
・青玉神社(多可町加美区鳥羽)
青玉神社(あおたまじんじゃ)は 伝承では 祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命で 初め三国岳の山頂に祀られていた ある時 鳥羽(とりま)の村人が三国山に狩りに行くと 急に背中が重くなり不思議に思いながら下山した 村はずれで急に背中が軽くなり「背中に乗った神様が降りられた」として社を建てたのが現在の社地と云う
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)〈祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命〉
・稲荷神社(多可町中区糀屋)
糀屋稲荷神社(こうじやいなりじんじゃ)は 創建は推古2年(594)に字「土井の後」に鎮座 天平時代 称徳天皇の崇敬厚く 慶雲3年(706)社殿の建立となり勅使を使わせられ 神託により天安元年(857)現在地に移ったと伝えられます 延喜式内社 播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社です
播州糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)〈創建は推古2年(594)〉
・天目一神社(多可町中区間子)
〈加都良神社 境内社〉
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)は 式内社 加都良神社の境内摂社として祀られています 天目一命は 多可町内では他に 青玉神社(山寄上やまよりかみ) ・青玉神社(鳥羽とりま)・西宮神社(清水きよみず)で主祭神として 大歳金比羅神社(鍛冶屋かじや)・加都良神社(間子まこ)では 摂社として祀られています
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)〈加都良神社の境内摂社〉
・荒田神社(多可町加美区的場)・天目一神社(的場 御田上)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います
荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉
〈参考論社〉
・大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
大歳金刀比羅神社(おおとしこんぴらじんじゃ)は 往古は 鍛冶の神 天目一命(あまのまひとつのかみ)を奉祀したと推測され 現在も本殿相殿・境内摂社に天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が祀られています 明治44年(1911)在来の大歳神社に〈摂社〉金刀比羅神社〈寛政6年(1794)讃岐琴平宮より勧請〉を合祀し 現社号に改称
大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
③播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)
『新撰姓氏録』に〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔として「菅田首」があり 「菅田氏」が祖神を祀った神社とされています
・菅田神社(小野市菅田町)
菅田神社(すがたじんじゃ)は 鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔とされる「菅田(すがたの)首(おびと)」が祀った神社と云われ 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり当社にも住吉神が祀られていきました
菅田神社(小野市菅田町)〈鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命を祀る〉
・住吉神社(小野市中番町)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 「菅田首(すがたのおびと)」が祀ったとされる 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)が分祀し 保安年間(1120~1123)今の地へ遷座したものとされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり 住吉大社の神領として 住吉三神を配祀し 住吉神社と改称されています
住吉神社(小野市中番町)〈延喜式内社 菅田神社(すかたの かみのやしろ)〉
・山王神社(加東市厚利)
山王神社(さんのうじんじゃ)は 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社である・菅田神社(小野市菅田町)・住吉神社(小野市中番町)は 東條川を挟んで その南北の岸に祀られています 同じく論社とされる当社は そこから東條川を上流に向かって4km程遡った辺りの北岸に鎮座しています
山王神社(加東市厚利)〈延喜式内社 菅田神社の論社〉
・八坂神社(小野市中番町)
八坂神社(小野市中番町)は 当地方に゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族〈砂鉄を採集して武器 農具を作成〉が祀った延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされ やがて農業に転換した里人は 農地に適した現在地〈その後 住吉大社神領となる〉に移住 神社も保安年間(1120~1123年)住吉三神を合祀し移転したと云う
八坂神社(小野市中番町)〈゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族の祭祀した神社〉
「菅田氏」が居住し 祖神を祀った式内社 菅田神社について
菅田神社(小野市菅田町)と同様に 祖神 天目一箇神を祀る式内社
菅田(すがたの)首(おびと)の一族は 大和国添上郡筒井郷(現在大和郡山市)と近江国蒲生郡桐原郷でも鍛冶を営んでいたとされ この両郡には 式内社の菅田神社が建立されています
菅田神社と号されるのは どちらも 菅田首が 播磨国加茂郡(のちの加東郡)東条の菅田を発祥地としたからであるとの説もあります
『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)815年(弘仁6年)には 「菅田首 天久斯麻比止都命之後也」とあり この゛天久斯麻比止都命゛は 天目一箇命と同神とされています
延喜式内社 大和國 添下郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社
・菅田神社(大和郡山市八条町)〈全国 鍛冶の神の総社〉
菅田神社(すがたじんじゃ)は 古代 製鉄・鍛冶を営んだ菅田首(すがたのおびと)が 『新撰姓氏録〈弘仁6年(815)〉』に載る祖神「菅田首 天久斯麻比止都命之後也」を祀ったとされます この祖神゛天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)゛は 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛と同神とされます
菅田神社(大和郡山市八條町)〈製鉄の神 天目一命を祀る 延喜式内社〉
延喜式内社 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社
・菅田神社(近江八幡市中小森町)
・竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄天理線 二階堂駅から西へ約900m 徒歩12~15分程度
菅田神社(大和郡山市八條町)に参着
参道はUターンするように進みます
社殿は南向きです
拝殿にすすみます
拝殿は 割拝殿となっています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿内から 境内方向を見ると 絵馬のような番付表が 奉納されています
名代 三笠山定右衛門 勧進元 鉢の木善治郎 と記されていて 番付が記載されていますが 何の番付表だろうか?
境内社にお参りをして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 菅田神社について 所在は゛八條村に在す、今平群郡に属す、゛〈現 菅田神社(大和郡山市八條町)〉と記しています
【抜粋意訳】
菅田神社
菅田は前に同じ
○祭神 菅田首祖歟
○八條村に在す、今平群郡に属す、〔大和志〕
○姓氏録、〔山城國神別〕菅田首、天久斯麻比土都命之後也、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 菅田神社について 所在は゛今 平群郡菅田村の南八條村にあり、゛〈現 菅田神社(大和郡山市八條町)〉と記しています
祭神について゛菅田首の祖神 天目一命を祀る゛としています
【抜粋意訳】
菅田(スガタノ)神社
今 平群郡菅田村の南八條村にあり、〔大和志、神名帳考証、〕
盖 菅田首の祖神 天目一命を祀る、〔参酌古事記、姓氏錄、延喜式、播磨風土記、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 菅田神社について 所在は゛八條村字一夜松林 (生駒郡平端村大字八條)゛〈現 菅田神社(大和郡山市八條町)〉と記しています
祭神について゛菅田比古(スガタヒコノ)命゛としています
【抜粋意訳】
菅田(スカタノ)神社
祭神 菅田比古(スガタヒコノ)命
祭日 九月八日
社格 郷社所在 八條村字一夜松林 (生駒郡平端村大字八條)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
菅田神社(大和郡山市八條町)が 郷社に列しています
【抜粋意訳】
〇奈良縣 大和國 生駒郎平端村大字八條
郷社 菅田(スガタノ)神社
祭神 菅田比古(スガタヒコノ)命
本社創立の年代詳かならず、然ども延喜式内の古社にして、
祭神 菅田比古命は菅田首 天久斯麻比都命の後裔なり〔延喜式、姓氏録〕菅田長安寺二村の氏神として往古より之を祭祀す〔大和志〕、
明治に至り郷社に列せらる。社殿は本殿、拝殿、及土蔵等の建物あり、境内二千四百十六坪(官有地第一種)にして、菅田村の南八條村にあり、佐保川其西方を流れ、菅田池畔にのぞむ、
堀河百首に「をとめ子が すがたの池のはちす葉は 心よげにも花さきにけり」と、以て景勝の地たるを知るべし。境内神社 巖島神社 春日神社
【原文参照】
菅田神社(大和郡山市八條町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)