匝瑳神社(そうさじんじゃ)は 香取神宮の9つある摂社の内 本殿に最も近い〈本殿西奥〉に鎮座し 香取大神の親神〈磐筒男神(いわつつをのかみ)・磐筒女神(いわつつめのかみ)〉を祀ります 一説には 匝瑳郡の祖 物部小事(もののべ の おごと)公を祀るとも云われます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
匝瑳神社(Sosa shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
千葉県香取市香取〈香取神宮境内〉
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
〈香取大神の親神〉
《主》磐筒男神(いわつつをのかみ)
磐筒女神(いわつつめのかみ)
※一説には
匝瑳郡の祖 物部小事(もののべ の おごと)公を祀るとも云われます
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・香取神宮 摂社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
匝瑳(そうさ)神社
神宮境内にあり 御祭神は磐筒男命・磐筒女命なり
明治十年三月二十一日 内務省より摂社に相定旨達せらる『香取神宮志』〈昭和13年(1938)〉より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
匝瑳神社は 香取神宮の境内に鎮座しています
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です
香取神宮(香取市)下總國一之宮
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
香取神宮(香取市)の境内社・境外社の記事をご覧ください
・香取神宮(香取市)の境内社・境外社
香取神宮(かとりじんぐう)の 摂社(せっしゃ)9社・末社(まっしゃ)21社・合計30社と境内・境外の要所について
香取神宮(香取市)の摂社(9社)・末社(21社)合計30社
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
下総国 香取郡(かとりのこおり)の位置について
古代 鎮座地の下総国 香取郡(かとりの こおり)は 〈南側〉に 匝瑳郡(さふさの こおり)・〈北側〉に 信太郡(しだの こおり)との中間にある地域でした
太古 其々を統治したのは〈匝瑳郡は 物部 匝瑳連〉〈信太郡は 物部 信太連〉でしたので 当然 香取郡も物部氏と考えられていて 香取神宮の御祭神も「フツヌシノミコト」であって 物部氏の本宮 石上神宮(天理市)の御祭神 布都御魂大神(フツミタマノオホカミ)との関連もあります
匝瑳郡(さふさの こおり)の起こりについて
下総の物部氏は 東国征圧の先兵であったとされます
用明天皇2年(587年)の丁未の乱(ていびのらん)〈大連・物部守屋が戦いに敗れ 物部氏の守屋宗家が滅ぼされた〉以後 物部氏は衰退していきますが 其の時には既に 東国には勢力を延ばしていて 〈6世紀前期〉には 物部小事(もののべ の おごと)公が 坂東に遠征して それを征したので 下総国に匝瑳郡(さふさのこおり)を建てることを許されています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される「匝瑳郡(さふさのこおり)の由来」伝承
【抜粋意訳】
鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)の
物部匝瑳 熊猪(もののべのそうさ の くまい)について 連(むらじ)姓から宿禰(すくね)姓に改姓したこと 同時に 本居〈下総国匝瑳郡〉を左京二条に移したこと
昔〈6世紀前期〉物部小事(もののべ の おごと)が 坂東に遠征し制圧して帰った功労によって 下総国に匝瑳郡(さふさのこおり)を建てることを許され その地名を氏の名に負ったこと 物部匝瑳 熊猪は 物部小事の子孫であると記されています【原文参照】
承和二年(八三五)三月辛酉〈十六日〉の条
○辛酉 下総ノ國人 陸奧ノ鎭守將軍外從五位下勳六等 物部ノ匝瑳ノ連熊猪 改テ 連賜宿禰ヲ 又改テ 本居ヲ貫シ附左京二條
昔シ 物部ノ小事ノ大連 錫(タマイテ)節ヲ天朝ニ 出征坂東ヲ 凱歌メ歸リ報 藉ス 此ノ功勳ニ 令得於テ 下総ノ國ニ始テ 建テ 匝瑳ノ郡ヲ 仍テ以テ爲ヲ氏 是レ則 熊猪等ガ祖也(ナリ)
鑄錢司言 被給俸料一分之人唯一千束 僅支朝夕 不足衣服 遷替之日 無糧還京 右大臣處分 班擧正税十六萬束於備後 安藝 周防 長門 豐前等國 各三萬二千束 以其息利 毎人倍給之 下総國言 民飢 賑給之
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
匝瑳神社(香取神宮 境内 摂社)の社殿の造り替えの決まりについて
社殿の造り替えは 古くは匝瑳郡(そうさのこおり)の役割とされていたともされます
匝瑳郡(さふさのこおり)の変遷について
令制国成立以前から 下総国(千葉県)にあった郡とされ その後 平安時代には荘園として分割されていき その後さまざまな変遷をたどり 平成18年3月に消滅しました
現在は 匝瑳市が残るのみ
もう少し広い範囲で 海上(うなかみ)郡と合わせた地域が海匝(かいそう)と呼ばれたり 香取郡も合わせて香取海匝(かとりかいそう)と呼ばれる場合があります
匝瑳(そうさ)の由来・語源について
匝瑳の由来・語源について
匝瑳という地名は、現存のものでは、奈良東大寺正倉院に伝わる庸調(ようちょう)(朝廷に納めた特産物)に見られる天平13年(741年)の記録が最も古いとされています。
匝瑳という地名の由来は、平安時代前期の歴史書「続日本後紀(しょくにほんこうき)」によれば、5世紀の終わり頃から6世紀のはじめにかけて、畿内(現在の近畿地方)の豪族であった物部小事(もののべのおごと)という人物が、坂東(ばんどう)(現在の関東地方)を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を与えられ、匝瑳郡(さふさごおり)とし、小事の子孫が物部匝瑳(もののべのそうさ)氏を名乗ったと伝えられています。
匝瑳の語源については、諸説あって定まっていませんが、発音での「さふさ」という地名があり、「さ」は「狭」で美しい、「ふさ」は「布佐」で麻の意で、“美しい麻のとれる土地”であったとする説や、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国11郡中で最大の郡であったことに由来するという説があります。匝瑳は、「さふさ」に縁起のよい漢字を充てたものと考えられています。
なお、漢和辞典によれば、漢字の「匝」は、訓読みで“匝(めぐ)る”と読み、一巡りして帰るという意味があり、「瑳」は、訓読みで“瑳(あざ)やか”あるいは“瑳(みがく)”と読み、あざやかで美しいという意味があります。
匝瑳市役所(企画課 企画調整班)HPより
https://www.city.sosa.lg.jp/sp/page/page000740.html
匝瑳郡(さふさの こおり)の氏神である老尾神社(おいおじんじゃ)について
匝瑳郡には 式内社として 老尾神社が鎮座します
祀官は香取氏で 香取神宮との関係が伝えられていて 香取神宮と物部氏との関係も説かれ 物部匝瑳連の祖 物部小事(もののべのおごと)を祭神とする説もあります
現在の祭神は 香取神宮の祭神・経津主大神の御子 神阿佐比古命を主祭神 磐筒男命・磐筒女命・国常立命を配祀神とします
・老尾神社(匝瑳市生尾)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
香取神宮の本殿のすぐ奥〈奥西側〉に祀られています
匝瑳神社(香取神宮 境内 摂社)に参着
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
香取海(かとりのうみ)を擁した 香取神宮「式年神幸祭(しきねんじんこうさい)」
香取神宮は 古くは航行を掌る神として祀られたという見方もあり 航海の神 海運の神ともされます 12年に一度「式年神幸祭(しきねんじんこうさい)」があり それは正しく香取海(かとりのうみ)で行われていた神事でした
この神事は 香取神宮の祭神である経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が 東国を平定したときの様子を表すものとされ かつて戦国時代以前までは 香取神宮で式年遷宮大祭として 20年に一度の遷宮・造替に伴って行われていましたが 江戸時代には途切れていたものを 明治8年(1875)に再興したものであるとされます
約4kmの大行列を組んで巡行する「式年神幸祭(しきねんじんこうさい)」は 香取神宮(かとりじんぐう)を出発して 御輿は 神宮の北 津の宮で船出します 華麗な御座船に移り 多くの供奉船を率いて利根川を保原沖までさかのぼります
この折 鹿島神宮(かしまじんぐう)からの船の出迎えを受けます 鹿島神宮にも同様の神事があって 鹿島大船津から船出した鹿島神の御座船を途中で香取神宮の御座船が出迎える習わしです
このように水神・海神としての御神威に深いかかわりが見られます
下総国 匝瑳郡(さふさの こおり)にあった 椿海(つばきのうみ)について
匝瑳郡(さふさの こおり)は現在は陸地ですが かつては 椿海(つばきのうみ)があり 又 水神・海神としての御神威に深いかかわりが見られます
椿海(つばきのうみ)は 現在の千葉県東庄町・旭市・匝瑳市の境界付近に 江戸時代初期まで存在した巨大な湖です
今から約330余年前に『椿の海』が干拓され 現在は『干潟八万石』と呼ばれる広大な田園地帯が広がります
『香取志』に
「古老の伝えるところでは、大古ここに大きな椿の木があった。花が咲いた時は天がまっ赤になり、散った際には地に赤い錦を敷きつめたようになった。この椿の大木が寿命尽き枯れて倒れ残った根の跡が湖水となり椿海といわれた。上枝の方を上総といい、下枝の方を下総という。」
つまり 太古は 匝瑳郡(さふさの こおり)から香取郡(かとりの こおり)には 舟で行き来が出来たことになります
椿海(つばきのうみ)
伝説の地(椿海「ちんかい」地区)
その(一)
昔々、大きな椿の木があった。その椿の木の樹令は、八十万八十年と言われ、春になって花が咲くと、紅(べに)の花のために、天がまっ赤になり、やがてその花びらが散ると、またそのあたり一面はまっ赤な錦(にしき)をしきつめたようになったと言われている。この老大木が枯れ果てて、残った根の跡がこの椿湖(つばきのみずうみ)だということだ。朝日新聞 S30・3・30
その(二)
遠い昔、海上(うなかみ)、匝瑳(そうさ)、香取(かとり)の三郡にまたがる枝をもった大きな椿の木があった。この木は、猿田彦命(さるたひこのみこと)が国を分ける時に、国境に植えたものだったと伝えられている。日本の三大木の一つにあげられているだけあって、いつも天上には雲や霞(かすみ)がかかり、昼でも夜のように暗かったそうだ。鬼満国(おにまんごく)の魔王は、日本の国を滅ぼして、自分の国にしようと、この椿の木に住みついて長い間狙っていた。そこで、海上の国におった猿田彦命は、香取の経津主命(ふつぬしのみこと)、鹿島の建御雷命(たけみかずちのみこと)の力をかりて、魔王を退治することにした。
さっそく、二神は魔王に戦いを挑んで、天の鹿島弓(かしまゆみ)という力の強い弓に、天の羽々矢(ははや)という羽の広い大きな矢をつがえ、魔王目掛けて
「ビューン」、「ビューン」と射った。不意をつかれた魔王は、初め慌てていたが、もともと力の強い奴
「ウォーツ」、「ウォーツ」
と唸(うな)りながら、椿の木を抱え込んで揺った。「わさ、わさ、わさ、わせ」
木が動くたびに、天と地が引っくり返りそうに揺れた。香取、鹿島の神様も負けてはいない。天の羽々矢を打ち続けた。魔王は、堪(たま)らず椿の木を根こそぎ引っくり返して、東の海へ飛び去ってしまった。
そして、椿の木が抜けた跡に水が溜まり、大きな湖となり、それが椿の湖と言われるようになった。椿の木が倒れた方向によって、上の方が上総(かずさ)、下の方が下総(しもふさ)と呼ばれている。現在の旭市に矢指(やさし)という地名があるが、魔王を退治した天の羽々矢が飛んでいった方向だと言われている。
見事に魔王を退治した香取、鹿島の二神は、これよりこの地方の守護神として崇(あが)められるようになった。
原話 千葉のむかし話、朝日新聞、八日市場市の沿革と人物
匝瑳市役所HPより
https://www.city.sosa.lg.jp/page/page001250.html
匝瑳神社(香取神宮 境内 摂社)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
・香取神宮(香取市)下総国一之宮 の記事
香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です
香取神宮(香取市)下總國一之宮
・香取神宮(香取市)の境内社・境外社 の記事
香取神宮(かとりじんぐう)の 摂社(せっしゃ)9社・末社(まっしゃ)21社・合計30社と境内・境外の要所について
香取神宮(香取市)の摂社(9社)・末社(21社)合計30社