静火神社(しずひじんじゃ)は 『六国史』に゛靜火神゛『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)と載る名社ですが 永仁以前(~1293年)には既に廃絶して社伝・創建年代等は不詳 『国造家記』の記録には「日前神宮・國懸神宮」境内「草ノ宮」で「静火祭」の神事祭祀が 暦応~應永年間(1338~1428年)も継続していたと記されます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
靜火神社(Shizuhi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県和歌山市和田855
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》静火大神(しずひのおほかみ)
或は 火結神(ほむすびのかみ)〈『鵜飼氏文書』〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『紀伊続風土記(KizokuFudoki)』〈天保10年(1839)完成〉に記される内容
創建年代は不詳ですが 永仁(1293年)以前に神社は既に癈絶していて社伝もわからないが 祭祀はその後も継続し『国造家記』には「日前神宮・國懸神宮」の境内の「草ノ宮」で「静火祭」の神事が行われたと暦応年間(1338~1342年)應永年間(1394~1428年)の記録にあると 記されています
社名の靜火神社についても 地名由来であろうと推測考証されています
【抜粋意訳】
巻之十五 名草郡第十 神宮郷下 和田村 ○靜火(シヅヒノ)神社
境内周百六十四間 禁殺生
延喜式神名帳 名草郡 靜火神社
本國神名帳 名草郡 正一位 靜火大神
天霧山にあり 舊地は是より東一町半許田中字靜火といふ地にありといふ 今の地に遷座の年暦詳ならす
中世 大に衰癈して殆滅に至りしに 享保九年(1724)國命ありて造営し神鏡を納め社地顕示等を定められ 又 其ノ舊地に碑を建て靜火社舊地の五字を鐫(キザ)む 抑 此神の和田郷に鎭り坐せること國造家舊記等に著明なれとも 永仁(1293年)以前に 社既に癈絶して 其傳詳ならず
〔國造家記曰 境内に草ノ宮といふあり 九月十五日草ノ宮の廰にて靜火祭といえる神事あり 暦應應永(1394年~)の神事記に見えたり 若は往古 靜火大神 草ノ宮へ神幸の時の祭式にて 右社退轉ノ後も 草ノ宮にては九月十五日の儀式は残れるにや〕祀神或曰 火雷(ホノイカツチノ)命 或 曰火結(ホノムスヒノ)神 又曰(イワク)常州久慈郡 靜(シツノ)神社と同神なりといふ
皆 神名の文字によりて説をなす 他に稽據なし 按するに 靜火は地名と思はる 是よって東南二十町
許に朝日村〔五箇荘〕あり 阿左韋(アサヰ)と稱ふ 靜火は此に對せる名にて 志豆韋(シツヰ)と稱ふへし 朝日村より和田村まて 平野の中に溝渠を穿ちて南北二所に樋あり 樋地中に入る事 淺く露(アラハル)を以て 淺樋といふ文字を朝日と書て村名とす 樋地中に在を以て下樋(シツヒ)といふ
〔下と志豆(シツ)と訓むるを下枝(シツエ)なるの例なり下樋を 今 伏樋(フセヒ)といふ是なり〕文字と静火を書きて神名とするならん
應永検注帳に樋免(ヒメン)といひ樋ノ提數(ヒノツツミシキ)なといふものあり 今も此邊 溝渠を穿ち樋を作る所多し 古の形状(サマ)思ひ合すへし 然して此神 伊達(イダテ)志摩(シマ)二神と合せて 紀三所神と名付く
承和以後(834年~)位階を授けられるゝことあるに 必 三神相連る
〔位階を授けらるゝ事 貴志荘園部村伊達神社の條に載せたれは 此に贅せす〕 是を以て考ふるに伊達(イダテ)を一ノ宮とし 志摩(シマ)を二ノ宮とし 靜火(シツヒ)を三ノ宮とすと見えたり祀神 都摩都比賣命なるへし 或は 大屋津姫ならんか
【原文参照】
【由 緒 (History)】
静火神社(しずひじんじゃ)
『延喜式』にその名が記されてはいますが、創祀の時期は不明です。
祭神は『鵜飼氏文書(うかいしもんじょ)』によれば火結神(ほむすびのかみ)とされています。式内社の社格は名神大社(みょうじんたいしゃ)(官幣大社)であり、『延喜式』が作られた頃は竈山神社よりも社格は上でした。もともとは石碑のある和田静火の地に鎮座していましたが、社殿が水に浸かったため、近くの前山 (天霧山 あまぎりやま)に移されました。近代社格制度のもとで、明治6年(1873)に村社に定められましたが、全国的に神社合祀が進められた同42年(1909)に、竈山神社 末社(まっしゃ)稲荷神社に合祀されました。
昭和25年(1950)に地域住民の願いにより分祀(ぶんし)され、再び前山(天霧山)に社殿を造営し、遷座されました。社殿は平成13年(2001)に修築されています。
歩いて知るきのくに歴史探訪 ~竈山神社と周辺の遺跡を巡る〜
古絵図で歩く竈山神社周辺文化財マップ発行:公益財団法人和歌山県文化財センターより抜粋
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・境内の様子
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・靜火神社 旧社跡(和歌山市和田)
・靜火神社 旧社跡(和歌山市和田)
静火社 舊地(しずひのやしろ きゅうち)は 神功皇后の御創建とされる 延喜式神名帳 名神大 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)の旧鎮座地です 静火社の御社殿は古来より度々の浸水に遭い 今は天霧山の山上に祀られていますが 和田の氏神の社として永くこの地に祀られていた事を後世に伝えるために石碑が建てられていました 老朽化のため再建されました
静火社 舊地(和歌山市和田)
・静火神社(和歌山市和田)は 竈山神社〈境外摂社〉飛地の所管社です
・竈山神社(和歌山市和田)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
紀伊國には 10座の名神大社が記されています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・日前神社 一座
国懸神社 一座
伊太祁曽神社 一座
大屋都比賣神社 一座
都麻都比賣神社 一座
鳴神社 一座
伊達神社 一座
志磨神社 一座
静火神社(しつひの かみのやしろ) 一座
須佐神社 一座
巳上 紀伊國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊國 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 名神大社
[旧 神社 名称 ] 靜火神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](しつひの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shitsuhi no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『六国史』に記される ゛紀三所神゛〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕について
紀伊國の式内社〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕の三神は ゛紀三所神゛or゛紀三所社゛と称されます
〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕の三神の関係は古く 国史には(844~875年)に渡り 三神が並んで神階を奉り授かっています
その際は 必ず三神が同時の神階ですので
古来
「是を以て考ふるに伊達(イダテ)を一ノ宮とし 志摩(シマ)を二ノ宮とし 靜火(シツヒ)を三ノ宮とすと見えたり」と云われいています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
紀伊國・志摩神・伊達神と並び 靜火神に神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十四 承和十一年(八四四)十一月辛亥〈三〉
○十一月己酉朔辛亥
奉授に
紀伊國 從五位下 志摩神 伊達神 靜火神に 並正五位下を
【原文参照】
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
紀伊國・伊達神・志摩神と並び 靜火神に從四位下の神階が加えられた事が 記されています
【抜粋意訳】
卷二 嘉祥三年(八五〇)十月乙丑〈廿一〉
○乙丑
紀伊國 伊達神 志摩神 靜火神 並に加ふ 從四位下を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
全国〈京畿七道諸神〉の 進階及新叙 惣二百六十七社とともに 紀伊國 伊達神 志摩神 靜火神 の三神が 並正四位下を奉授されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品
・・・・
・・・・紀伊國
從四位下 伊達神 志摩神 靜火神 並正四位下
從五位下勳八等 丹生都比賣神 伊太祁會神 大屋都 比賣神 神都摩都比賣神 鳴神 並從四位下
從五位下 須佐神 熊野早玉神 熊野坐神 並從五位上
【原文参照】
紀伊國・伊達神・志摩神と並び 靜火神に從三位が叙せられています
【抜粋意訳】
卷二十七 貞觀十七年(八七五)十月十七日丙寅
○十七日丙寅
紀伊國 正四位上 伊達神 志摩神 靜火神に 並に授くに從三位を
【原文参照】
『住吉大社神代記』に記される 船玉神社の御祭神゛船玉神は 紀国の紀氏の祀る神 今云う 紀伊三所の神゛
『住吉大社神代記』では 船玉神について
「船玉神 今謂 齋祀 紀国 紀氏神 (志麻)神 静(火)神 伊達神 本社」とあり
つまり【船玉神は 紀国の紀氏の祀る神 今云う 紀伊三所の神「・伊達神〈現 伊達神社(和歌山市園部)・志麻神〈現 志麻神社(和歌山市中之島)〉・静火神〈現 静火神社(和歌山市和田)〉〉の本社である】と記しています
『住吉大社神代記・船木等本記』には
「大幸還上賜 其御舩令レ奉二齋祀武内宿禰一 志麻社 静火社 伊達社 此三前神也」とあり
つまり【紀伊三所の神「・伊達神〈現 伊達神社(和歌山市園部)〉・志麻神〈現 志麻神社(和歌山市中之島)〉・静火神〈現 静火神社(和歌山市和田)〉」の神々は 武内宿禰によって 御船の御魂として祭祀された】と記しています
・船玉神社〈住吉大社境内 摂社〉(大阪市住吉区)
船玉神社(ふなたまじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 船に祀った守護神とされ 由緒には「船玉(船魂)とは 船舶そのものの神霊で 住吉大神とは表裏一体の関係として尊崇され 時には住吉大神の荒魂とされる」とあり 住吉大社の境内摂社ですが 元々は第四本宮〈神功皇后〉の前 海に向かって 4つの本宮の先頭に鎮座していたと伝わっています
船玉神社〈住吉大社境内摂社〉(大阪市住吉区)
『住吉大社神代記(すみよしのおほやしろ かみよのしるし)』について
住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記(すみよしのおほやしろ かみよのしるし)』は 住吉大社の神官が大社の由来を神祇官に言上した解文(げもん)とされ 成立は天平3年(731年)7月3日と巻末に記されていますが 10世紀頃の成立と考えられています
元来 神代記は秘中の書として秘蔵されていて 社家の人間でも拝観は許されなかったが 明治以降に拝観が許され始めた
『住吉大社神代記』に記される 紀伊三所の神〈・伊達神・志麻神・静火神〉について
『住吉大社神代記』に記される 紀伊三所ノ神〈・伊達神・志麻神・静火神〉は いずれも延喜式内社の名神大社で
船玉神は この 紀伊三所ノ神 の本社ともされます
各々の論社です
紀伊国 名草郡 伊達神社(貞・名神大)(いたての かみのやしろ)
・伊達神社(和歌山市園部)
伊達神社(いたてじんじゃ)は 『六国史』に゛伊達神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)と載る名神大社です 神名「伊達」は伊太氏により山東庄に鎮まる伊太祁曾神と同神とされます 志磨神社 静火神社と共に紀州三所神とされ その一之宮として里人は゛一宮大明神゛とも゛園部一の宮゛とも称え奉ると云う
伊達神社(和歌山市園部)
・水門吹上神社(和歌山市小野町)
水門吹上神社(みなとふきあげじんじゃ)は 『古事記』に云う゛男之水門゛であると伝えられる地〈神武天皇が御東征のみぎり 御兄の彦五瀬命が 和泉で長髄彦の流失に当り 出血甚だしく 崩御されたと言われる旧跡地〉に鎮座します 延喜式内社 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)の論社でもあります
水門吹上神社(和歌山市小野町)
紀伊国 名草郡 志磨神社(貞・名神大)(しまの かみのやしろ)
・志磨神社(和歌山市中之島)
志磨神社(しまじんじゃ)は 神功皇后の創建との伝承があり 正史の『六国史』に゛志摩神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 志磨神社(名神大)(しまの かみのやしろ)と載り 伊達神社 静火神社と共に紀州三所神と呼ばれた名社です 中世に廃絶 所在不明となり 元和年間(1615~24年)中之島の小祠゛九頭明神゛を志磨神社と定め 紀州徳川家により再興されました
志磨神社(和歌山市中之島)
紀伊国 名草郡 静火神社(貞・名神大)(しつひの かみのやしろ)
・靜火神社(和歌山市和田)
静火神社(しずひじんじゃ)は 『六国史』に゛靜火神゛『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)と載る名社ですが 永仁以前(~1293年)には既に廃絶して社伝・創建年代等は不詳 『国造家記』の記録には「日前神宮・國懸神宮」境内「草ノ宮」で「静火祭」の神事祭祀が 暦応~應永年間(1338~1428年)も継続していたと記されます
静火神社(和歌山市和田)〈延喜式内社 名神大社〉
・靜火神社 旧社跡(和歌山市和田)
静火社 舊地(しずひのやしろ きゅうち)は 神功皇后の御創建とされる 延喜式神名帳 名神大 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)の旧鎮座地です 静火社の御社殿は古来より度々の浸水に遭い 今は天霧山の山上に祀られていますが 和田の氏神の社として永くこの地に祀られていた事を後世に伝えるために石碑が建てられていました 老朽化のため再建されました
静火社 舊地(和歌山市和田)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
わかやま電鉄 貴志川線 竈山駅から南へ約650m 徒歩9分程度
県道137号のバイパス沿いに静火神社の旧鎮座地があります
静火神社の旧鎮座地に参着
・靜火神社 旧社跡(和歌山市和田)
静火社 舊地(しずひのやしろ きゅうち)は 神功皇后の御創建とされる 延喜式神名帳 名神大 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)の旧鎮座地です 静火社の御社殿は古来より度々の浸水に遭い 今は天霧山の山上に祀られていますが 和田の氏神の社として永くこの地に祀られていた事を後世に伝えるために石碑が建てられていました 老朽化のため再建されました
静火社 舊地(和歌山市和田)
ここから 現在の社地 天霧山(あまぎりやま)が西側に見えます
かつて 天霧山は田の中にあったとされますが 現在は住宅に囲まれています
天霧山の参道入口には 津波の避難通路となっていて 静火神社は海抜22.0mと記されています
静火神社までは 50mとあり 歩を進めます
参道は コンクリートの歩道から 昔の石段へと変わります
参道は整備されていて とても登り易いです
坂を上り切ると 鳥居が見えてきます
静火神社(和歌山市和田)に参着
社殿は改修されていて新しく
゛静火神社゛の社号標が立ち 注連縄のかかる鳥居とコンクリートの参道 その先に拝所と本殿があります
一礼をして 鳥居をくぐります
手水鉢で清め 拝殿にすすみます
賽銭箱はありませんでしたが
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一礼をして 参道を戻ります
帰りには かなりの急こう配に感じます
下まで降りてくると ちょうど旧鎮座地辺りが 目の前に広がります
かつて「社殿が水に浸かったため 近くの前山 (天霧山 あまぎりやま)に移されました」とあるが やはり南海トラフ地震などの津波だったのだろうか?
それとも河川の洪水だろうか?
天霧山の参道入口の゛津波の避難通路゛案内を見て そんなことを想いました
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『紀伊国名所図会(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される伝承
【抜粋意訳】
竃山神社 鎮火神社 天霧山 の絵図
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 靜火神社について 所在は゛宮郷和田村北二町許山上に在す゛〈現 静火神社(和歌山市和田)〉とし
式内社の3社〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕を 頭注には ゛紀三所神゛と云う と記しています
【抜粋意訳】
靜火神社
靜火の志都比と訓べし
〇祭神 火結神〔神社録〕
〇宮郷和田村北二町許山上に在す、〔名勝志、神社録、〕
例祭 九月十六日、
〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕紀伊國 靜火神 一座、
神位
績日本後紀、承和十一年十一月辛亥、奉レ授ニ紀伊國從五位下 靜火神 正五位下、
文徳實錄、嘉祥三年十月乙丑、紀伊國 靜火神 加ニ從四位下、
三代實錄、貞観元年正月廿七日甲申、奉レ授ニ紀伊國從四位下 靜火神 正四位上、同十七年十月十七日丙寅、紀伊國正四位上 靜火神 授ニ從三位、
本國神名帳、正三位 靜火大神、前件三件〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕を頭注に、是謂 紀三所神と云り、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 靜火神社について 所在は゛宮郷、和田村にあり゛〈現 静火神社(和歌山市和田)〉とし
式内社の3社〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕を頭注には ゛紀伊三所社゛と云う と記しています
【抜粋意訳】
靜火(シツヒノ)神社
今 宮郷、和田村にあり、〔南紀名勝志、陽國名跡志、神名帳考證、〕
仁明天皇 承和十一年十一月辛亥、從五位下 靜火神に正五位下を授奉り、〔績日本後紀〕
文徳天皇 嘉祥三年十月乙丑、從四位下を加へ、〔文徳實錄〕
清和天皇 貞観元年正月廿七日甲申、正四位上に叙され、十七年十月十七日丙寅、從三位を授け、〔三代實錄〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、〔延喜式〕
凡 毎年九月十五日、靜火祭を行ふ、〔日前國懸年中行事目録〕
凡 伊達、志摩、靜火の神、之を紀伊三所社と云ふ、〔神名帳頭注〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 靜火神社について 所在は゛和田村(海草郡三田村大字和田)゛〈現 静火神社(和歌山市和田)〉と記し 祭神について 考証しています
参考まで(瀬藤注:常陸久慈の靜神社[シツ](名神大)「建葉槌命」倭文[しどり]の縮まった名と伝わる)
式内社の3社〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕を頭注には ゛紀三所神と名く゛ と記しています
【抜粋意訳】
靜火神社 名神大
祭神 火結命
今按 續風土記に祭神 或日火雷命 或日父結神 又曰 常州久慈郡靜神社と同神なりと云
皆神名の文字によりて説をなす他に稽據なし 按するに古記の國字に記せしにはしち井 或はしつ井とかけり 是に據るに靜火は地名と思はる此より東南二十町に朝日村あり 阿左韋(アサヰ)と稀ふ靜火は此に對せる名にて志豆韋(シツヰ)と稱ふへし
朝日村より和田村まて平野の中に溝渠を穿ちて南北二所に樋あり 樋地中に入る事浅く露るを以て 浅樋と云文字を朝日と書きて村名とす 樋地中に在を以て 下樋(シツヒ)と云文字 靜火と書きて神名とするならん 應永檢註帳に樋免と云ひ 樋堤敷なと云ものあり 今も此邊 溝渠を穿ち樋を作る所多し 古の形狀思ひ合すへし
然して此神 伊達 志摩二神と合せて紀三所神と名く 承和以後 屡 位階を授けらるることあるに必三神相連る 是を以て考ふるに 伊達を一宮とし 志庫を二宮とし 靜火を三宮とすとみえたり 祀神部摩都比賣命なるへし 或は 大屋津姫命ならんかと云る下樋の考へ地形に由ある説なるへく思はるれ ご祭神は如何ならん 社傅に火結命と云る據ありて聞ゆれは 社傅に從ふ神位
仁明天皇 承和十一年十一月辛亥、從五位下 靜火神に正五位下を授奉り、〔績日本後紀〕
文徳天皇 嘉祥三年十月乙丑、從四位下を加へ、〔文徳實錄〕
清和天皇 貞観元年正月廿七日甲申、正四位上に叙され、十七年十月十七日丙寅、從三位を授け、〔三代實錄〕祭日 九月十五日
社格 村社
所在 和田村(海草郡三田村大字和田)
【原文参照】
静火神社(和歌山市和田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
紀伊国 式内社 31座(大13座・小18座)について に戻る
紀伊国(きいのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 紀伊国 31座(大13座・小18座)の神社です
紀伊国 式内社 31座(大13座・小18座)について