静神社(しずじんじゃ)は 『常陸國風土記(713年)』には 初めて織物(綾織 しずおり)を織った「静織の里(しどりのさと)」と呼ばれたと伝えられ 『三代實録(901年)』に゛静神゛として 神位 從五位上を授かったと記載のある 延喜式内社 常陸國 久慈郡 靜神社 名神大(しつの かみのやしろ)であるとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
靜神社(Shizu shrine)
【通称名(Common name)】
・お静さん(おしずさん)
【鎮座地 (Location) 】
茨城県那珂市静2
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建葉槌命(たけはづちのみこと)
《配》手力雄命(たぢからをのみこと)
高皇産靈命(たかみむすびのみこと)
思兼命(おもひかねのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 常陸國二之宮
【創 建 (Beginning of history)】
静神社
国指定重要文化財 銅印
県指定文化財 絵本着色三十六歌仙静神社は、鹿島神宮、香取神宮とともに古くは東国(とうごく)の三鎮護神と称され、また常陸一の宮(ひたちいちのみや)鹿島神宮に次いで二の宮(にのみや)といわた古い神社である。
祭神の建葉槌命(たけはづちのみこと)は、日本で初めて織物を織った神といわれている。水戸二代藩主 徳川光圀(義公)は、静神社を特に崇敬し社殿を改築し奉納されたが、天保十二年(一八四一年)火災で焼失し、神明造の社殿は水戸九代藩主 徳川斉昭(烈公)によって再建されたものである。
宝物には奈良時代の後期の作といわれ「静神宮印」と刻まれた銅印がある。なお、この地方は昔「静織の里(しどりのさと)」と呼ばれ、初めて織物(綾織 しずおり)を織ったと伝えられている。那珂市
現地案内板より
【由 緒 (History)】
靜神社
一、御祭神
主祭神
建葉槌命相殿神
手力雄神
高皇産霊尊
思兼神建葉槌命は又の名を倭文神と申し織物の祖神でもあります
一、由緒
静神社は御鎮座の年代が明らかではないが 「延喜式神名帳」に「名神大社」として記載されてあり、常陸國では一ノ宮鹿島神宮についで 二ノ宮として 皇室を始め 将軍家一般民衆の尊崇を受け 古くから御神威の宏大な神社として 著名であります
水戸藩主徳川家は 当神社を祈願所と定め 特に崇敬が篤かった
奈良時代末期の作と言われる宝物の銅印には 「静神宮印」と刻まれてあって 古くは神宮として 格式が高い神社であった事がわかります一、祭日
例祭 四月一日
田植祭 六月五日
秋季大祭
十一月二十五日宵宮祭・織物祭
仝 二十六日初日祭
仝 二十七日二日祭一、社宝
銅印 国指定重文
三十六歌仙 県指定文化財現地案内板より
由緒
創建の時期は不明であるが、六国史の一である「文徳実録」に「文徳帝嘉祥三年(850)9月、使を遣して静神社に奉幣せしむ」とあるのが、国史上における初見である。
同じく「三代実録」には「光孝天皇仁和元年(885)5月」神階が従五位上に進められたことが書かれてある。
日本書紀(720)古語拾遺(807)にも建葉槌命についの記事が出ている。
特に「延喜式神名帳」(927)には、鹿島神宮などとともに「名神大」としるされている。豊臣家からは社領150石が寄進され、徳川家からも同額の朱印が付されている。
かつて、この付近は、現在の静神社を中心として、三つの神社が鎮座し、更に七つの寺院がこれを囲んで、大きな霊地を形成していた。また、この地は水戸から奥州に通ずる棚倉街道に面し、交通の要地でもあり門前町、宿場町として、いんしんをきわめていた。いまなお残っている下宿・中宿・門前などの地名や、藤屋、伊勢屋、池下屋などの屋号が、これを物語っている。
静を中心にした郷名を、倭文郷と称したが、この名の起こりは倭文神の神名によるもので、倭文を「シドリ」と読むのは「常陸風土記」(713)にある「静織ノ里」の「シツオリ」の約言うである。静神社は水戸藩の祈願所と定められ、藩主は代々参拝するのを常例とされた。また社殿の維持管理は、神殿修葺の法を定めて、藩費によって行なわれた。二代藩主徳川光圀(義公)は、寛文7年(1667)10月仏寺を分離し、唯一崇源の神道に改め、本殿・拝殿・神門・玉垣・神楽殿等を新に造営するとともに、神楽乙女八人、神楽男5人をおいて大大神楽を奏することとした。然しこれらの社殿は、天保12年(1841)火によって惜しくも焼失し、同時に多くの神宝、古文書等も失った。
現在の社殿は、その焼失後、九代藩主徳川齊昭(烈公)によって再建されたものである。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・靜神社 本殿 瑞垣
・靜神社 神門〈本殿の前〉
・靜神社 拝殿 幣殿
・靜神社 拝殿と社務所からの渡り廊下
〈本殿向かって右側 境内社〉
・摂社 高房神社《主》建葉槌命
・末社 手接足尾神社〈荒垣鳥居をくぐり100m程〉
・千度杉
・御神木の山桜・山茶花・その奥に仮殿
・御神木の山桜・山茶花・その奥に神輿殿
〈本殿向かって左側 境内社〉
押手神社 鷺森神社 山親子神社 鍬神社 玉取神社 雷神社 富士神社 愛宕神社 大杉神社 御祖神社 古札納所と両脇に二祠〈祭神不明〉
・押手神社《主》天日鷲命
・六社合殿と二祠
・六社合殿〈鍬神社・雷神社・愛宕神社・他三宮不明あり〉
・二祠〈祭神不明〉
・御神門
・御神門前 狛犬
・織姫像
・参道石段
・藤棚
・二の鳥居・手水舎
・社頭・一の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『常陸國風土記(ひたちのくにふどき)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
静織里について 初めて織(はたをおる) と記されています
【抜粋意訳】
久慈郡
郡の西□里 静織里(しとりのさと)
上古の時 綾(しず)を織る機(はた)を知人(しるひと)は 未だ在(あ)らず
この時 この村で初めて織(はたをおる)これに因み名付けられた
北に有るのは小水 丹石(あかきいし)が交雑(まじわり)その色は琥珀(こはく)に似ている 火を□鑚(きる)〈火打ち〉にもっとも好(よし)
故に以て 玉川(たまかは)と號される〈呼ばれる〉
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
゛静神゛として 神位 從五位上を授く と記されています
【抜粋意訳】
卷四十七 仁和元年(八八五)五月廿二日丙午
廿二日丙午 酉時 日色変黒 光散如射ルカ
常陸國 從五位下 静ノ神 稻村ノ神に 並に授くに從五位上を
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
巻3 神祇3 臨時祭 名神祭二百八十五座
園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省、〉
・・・・・・
鹿嶋神宮一座 大洗磯前薬師菩薩神社一座 静神社一座 筑波山神社一座 吉田神社一座 酒烈礒前薬師菩薩神社一座 稲田神社一座〈已上常陸国〉
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)常陸國 38座(大7座・小31座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)久慈郡 7座(大1座・小6座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 靜神社(名神大)
[ふ り が な ](しつの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shitsu no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の13社「倭文神社」と論社について
倭文氏の祖神「天羽雷命(アマハイカヅチノミコト)=建葉槌命」を祀る式内社とされ 各国に13社が記されています それぞれの現在の論社もご紹介します
1.畿内 大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社 大
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・葛木倭文座天羽雷命神社(奈良県葛城市)
・博西神社(奈良県葛城市)
2.東海道 伊勢國 鈴鹿郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・加佐登神社(三重県鈴鹿市)〈合祀先〉
3.駿河國 富士郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(静岡県富士宮市)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 古代 布織技術を誇った倭文氏が 祖神 健羽雷神(たけはつちのかみ)〈織物の神〉を祀った『延喜式神名帳927 AD.』所載の 駿河国 富士郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされます 又 鎮座地の星山は 星神として君臨して居た香々背男との関連も示唆し 常世国神(とこよのかみ)を奉じて大和朝廷に反した大生部 多(おおうべ の おお)〈不尽河〈富士川〉の辺に住む人〉の伝承にも通じています
倭文神社(富士宮市星山)
4.伊豆國 田方郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(伊豆市大野)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 伊豆市大野にある倭文山の山頂に鎮座する『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 式内社゛倭文神社(しとりの かみのやしろ)゛の論社です 縄文遺跡もあり この地が古くから 渡来文化(機織技術など)で開けていたことを示すものとされています
倭文神社(伊豆市大野)
・鍬戸神社(三島市長伏)
鍬戸神社(くわとじんじゃ)は 江戸期には 鍬手明神と云われていました 同じ境内地の中に 同じく延喜式内社の高橋神社〈東北東向き〉と背中合わせに 鍬戸神社の本殿〈南南東向き〉が並び建てらけて お祀りされています
鍬戸神社(三島市長伏)
・小坂神社(伊豆の国市小坂)に合祀
小坂神社(おさかじんじゃ)は 明治6年(1873) に 地区内各所に祀られていた17の神社が合祀されました その中の一祠は 古来から葛城山の山頂に鎮座し 合祀当時は 山麓の寺に遷されて小祠として祀られていた「葛城神社」〈式内社「倭文神社(しとりの かみのやしろ)」の論社〉です
小坂神社(伊豆の国市)
・聖神社(伊豆市月ヶ瀬)
聖神社(ひじりじんじゃ)は 聖ヶ森に鎮座していた聖宮大明神を明治9年(1876)この社殿に合祀し主神として祀ったものです 最古の上梁文に永正9年(1512)のものがあり 村名に「槻瀬村」とあり 現在の地名『月ヶ瀬』の由来を示す者とされています
聖神社(伊豆市月ヶ瀬)
5.甲斐國 巨麻郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・本宮倭文神社(山梨県韮崎市)
本宮倭文神社(ほんぐうしずりじんじゃ)は 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされる倭文神社降宮明神(宮久保)の山宮であった棚機宮〈七夕社〉が 神明社(上村組)・貴船神社(窪村組)・天神社(武田の烽火台と云われる城山)と貴船神社の地に(1959)合併し 本宮倭文神社と社名を改めたものです
本宮倭文神社(韮崎市穂坂町柳平)〈延喜式内社の元宮〉
・倭文神社降宮明神(山梨県韮崎市)
倭文神社(しずりじんじゃ)は 古代 穂坂御牧(ほさかのみまき)の役人の妻や娘などが織った精巧な織物の技芸上達を祈り祀ったのが起りとされ 山宮(柳平)の古社地より現在地へ降られた伝承と織宮(おりみや)の意から 降宮(おりみや)と呼称される 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)の論社です
倭文神社〈降宮明神〉(韮崎市穂坂町宮久保)〈延喜式内社〉
・諏訪大神社(山梨県甲斐市)
諏訪大神社(すわだいじんじゃ)は 倭建命(やまとたけるのみこと)が北山・武川・逸見の賊を平定し 残党の復起せぬよう平穏を祷り 鎮護の神として倭文神 建葉槌命を祀り 良民初めて安居するを得て 初在家の名これより起ると口碑に伝わる 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)の論社です
諏訪大神社(甲斐市宇津谷)(日本武尊が創始 延喜式内社)
6.常陸國 久慈郡 靜神社 名神大
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・靜神社(茨城県那珂市)
静神社(しずじんじゃ)は 『常陸國風土記(713年)』には 初めて織物(綾織 しずおり)を織った「静織の里(しどりのさと)」と呼ばれたと伝えられ 『三代實録(901年)』に゛静神゛として 神位 從五位上を授かったと記載のある 延喜式内社 常陸國 久慈郡 靜神社 名神大(しつの かみのやしろ)であるとされます
靜神社(那珂市静)〈常陸二ノ宮 延喜式内名神大社〉
7.東山道 上野國 那波郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(群馬県伊勢崎市)
倭文神社(しとりじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます
倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〈上野國九之宮〉
8.山陰道 丹後國 加佐郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(京都府舞鶴市)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 927 AD.延喜式内社 丹後國 加佐郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされ 創立は それより相当古くから当地に鎮座されていた云う 伝説によれば 一条天皇正暦元年(990)源頼光が大江山の鬼退治に出陣の途中 当神社に山伏の姿で武運の長久を祈願したとも伝えられています
倭文神社(舞鶴市今田 小字津ノ上)〈延喜式内社 倭文神社〉
9.丹後國 與謝郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(京都府与謝郡与謝野町)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅五年(712)この地で綾錦を織ることとなり 丹後國一之宮 籠神社 海部直愛志(あまべのあたいえし)が勅命を奉じて 倭文神を祀り創建した 延喜式内社 丹後國 與謝郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされ 貞応二年(1223)ご神託があり 筬(おさ)村から現今の石崎の社に奉遷されました
倭文神社(与謝郡与謝野町三河内)〈延喜式内社〉
10.但馬國 朝來郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社〈鮭の宮〉(兵庫県朝来市)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅5年(712年)創建された 延喜式内社 但馬國 朝來郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)と伝わります 正徳3年(1713年)遷宮の時 偶然下流から鮭が遡上し 村人達は めでたい前兆として喜び〈鮭の宮〉と呼ぶようになったと伝わります
倭文神社〈鮭の宮〉(朝来市生野町円山)〈延喜式内社論社〉
・妙見宮〈国常神社〉(兵庫県朝来市)
國常神社(くにのとこじんじや)は 北辰信仰の妙見宮(みょうけんぐう)とも呼ばれ 国常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀ります この地は 式内社 倭文神社〈鮭の宮〉(ここから500m程の 円山川の下流)の旧鎮座地 円山字鹽谷であると伝わります
國常神社〈妙見宮〉(朝来市生野町円山)
11.因幡國 高草郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県鳥取市)
倭文神社(しとりじんじゃ)は 倭文(しとり/しづり)」とも読み「しづ織り」という絹織物のことを指し 機織り(はたおり)を業(なりわい)とする倭文部の民がこの地に居住し 祖神「倭文神・建葉槌命(たけはづちのみこと)」を奉斎したと伝わる 延喜式内社 因幡國 高草郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です
倭文神社(鳥取市倭文)〈延喜式内社 倭文神社〉
12.伯耆國 川村郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県湯梨浜町) 伯耆 一之宮
倭文神社(しとりじんじゃ)は 云い伝えによれば 大国主命の娘神「下照姫命」が 一匹の海亀の導きによって 宇野の海岸に着船し この小高い丘からの眺めに癒され 住居を定め 農業指導や 医薬普及に努めたと云い 人々は敬い 古くから格式高く 伯耆国の一之宮として 湯梨浜町(ゆりはまちょう)に鎮座します 境内には「安産岩」と呼ばれる岩があり 安産の神様としても知られます
倭文神社(湯梨浜町)安産の神として崇敬される伯耆国の一之宮
13.伯耆國 久米郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県倉吉市) 伯耆 三之宮
倭文神社(しとりじんじゃ)は 御祭神の武葉槌神(一説には 経津主神とも)が 出雲の国譲りの際 豊原中国を平定せよとの詔勅により 出雲へ出陣をされます この時 御陣営をかためられたのがこの地で 倭文神社はこの神跡であると伝えられています
倭文神社(倉吉市志津)伯耆国三之宮
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR水郡線 静駅から県道61号を西へ約2.2km 車で5分程度
白い鳥居が見えてきます
社号標があり゛常陸二ノ宮 静神社゛と刻字
靜神社(那珂市静)に参着
一礼をして 社頭の白い鳥居をくぐりぬけて進みます
社殿は 静山にあります ですから山の麓に手水舎と二の鳥居が建ちます
由緒書きがあります
二の鳥居をくぐりぬけて 石段を上がります
この頃〈2015年〉は まだ わび錆びた感じの石段参道でした
参道石段を上ると神門が構えています
神門の前には狛犬が構え 石碑などもあります
神門をくぐります
正面の拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の向かって右側には 御神木があります
拝殿の向かって左の社務所から空中に渡り廊下が架けられています
渡り廊下をくぐって 拝殿の後ろに回ると瑞垣に囲まれて本殿 が祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 靜神社について 所在は゛静村に在す、゛〈現 靜神社(那珂市静)〉と記しています
しかし 天手力雄命を祀る神社であり 本当に倭文神を祀るものであろうか?との疑問も呈しています
【抜粋意訳】
靜神社 名神大
静は志豆と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕倭文、
〇祭神 天手力雄命〔社説〇考証に、天羽槌雄命、今云手力雄者非也と云り、されど手力雄の號甚古し、捨がたし〕
〇静村に在す、〔地名記、鎭座〕今那珂郡に属す、
例祭月日、○式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕常陸圀静神社一座、
連胤云、主計式、常陸國倭文三十一端、」
常陸國風土記、久慈郡西□里静織里、上古之時、未識 織綾之機、未在に知人、于時此村初織、同名之と見え、』
釈日本紀、倭文神坐に常陸國、依之倭文常陸國之所濟也とあれど、主計式、風土記等は、もとより倭文の事をいへるにて、此國倭文を輪する事は、諸書に見えて論をまたず、釈紀に坐に常陸國といへるは、當社をさして云るか、また別に倭文社のあるをいへるか、いと覚束なし、密かに按るに、当社は静織里に坐すか故に、地名に依て静神社とは称すといへども、倭文神にあらぬは、古く手力雄明神と唱ふるにてしるし、されど國内に倭文社といふ舊號の遺らぬ限りは、明かに知がたし、猶考ふべし、神位
三代實録、仁和元年五月二十二日丙午、常陸國從五位下靜神授に從五位上、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 靜神社について 所在は゛今 那珂郡 静村にあり、高房明神と云 即是也、゛〈現 靜神社(那珂市静)〉と記しています
しかし 社伝に天手力雄命を祀るとあり 倭文神 建葉槌命を摂社に祀っているのは 誤りであろうか?との疑問も呈しています
【抜粋意訳】
靜(シツノ)神社
今 那珂郡 静村にあり、高房明神と云 即是也、〔鎮守帳廿八社考、参取中山信名説、郡郷考、〕
倭文神 建葉槌命を祭る、〔日本書紀、釋日本紀、日本紀〕
建葉槌命 又 天羽槌雄命 亦 天羽雷命と申す、〔参取古語拾遺、延喜式〕
〔〇按 倭文神は建葉槌命にして、建葉槌は即 高房神なる事著きを、本社の傳に、祭神 手力雄命にて 摂社に建葉槌命を祭りて、威靈東國に及へるを以て、二神を下総常陸に祭れり、建葉槌神 又二神を助け給ふ功あり、之を此土に祭るも、又 甚故あり、且 香取鹿島の末社に高房社ありて共に建葉槌命を祭ると云ふに據らば、建葉槌の高房神にして、靜神 即 倭文神なる事盆明らけし、然るを此神を末社としたる事は、盖 後世故ありて手力雄神を配祭などしつるか其神天窟に大功ありし神なるを以て、其神名のみ顕れ坐て本神の名は自ら隠れ給へるより、社傳も如此謬来りし事著し、然はあれど、土俗 今に高房神は織任を掌る神なりと云て、機布を此社に奉るは、古を忘れさる也 故今 其謬を正し、且附て以て後考に備、〕
上古 天照大神 石窟に隠り坐時、此神 倭文を織て仕奉り、〔古語拾遺、〕
武甕槌神等 葦原中國に天降りて、邪神及び草木石の類をも平定給ふ時、其 不順(マツロハヌ)星神 天香々背男をば、此神をして伐服(ウチシタガハ)しめ給ひき、〔日本書紀、〇按 常陸風土記云、静織里 上古綾を織事を知人なかりし時、此村に織始めつるを以て、倭文と名くと云るは、建葉槌命 此地に天降坐て、其事を民ともに教給へるか、若しくは其神裔の此地に移住て 綾を織りしにもやあらむ、万葉和歌集、久慈郡防人倭文都可良麻呂と云人見ゆ、此に依らば、倭文氏人 此地に居者、其祖神を祭り、倭文を織て朝廷に仕奉りしなるへし、延喜式常陸の調物の中に倭文丗一端とあるも、又縁あり、姑附て考に備ふ、〕
光孝天皇 仁和元年五月丙午、從五位下靜神に從五位上を授け、〔三代実録〕
醍醐天皇 延喜の制 名神大社に列る、〔延喜式〕
凡 每年正月朔 王院祭、四月七日平磯に神幸あり、十月中申酉日を大祭禮といふ .是よりさき己日火祭、申日神官神實を社前に列ぬ、酉阿佐々祭羅舞を行ふ、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 靜神社について 所在は゛那珂郡靜村 (那賀郡靜村大字靜)゛〈現 靜神社(那珂市静)〉と記しています
しかし 社伝に手力雄命を祀るとあり 倭文神 建葉槌命を摂社に祀っているのは 誤りである との批判しています
【抜粋意訳】
靜神社 名神大
祭神 建葉槌命
今按 社傳 祭神 手力男命 高皇産靈尊 思兼命とあれど こは相殿神にて靜神は倭文神 健葉槌命にますこと 古語拾遺に令 天羽槌雄神〔倭文遠祖神〕織文布 書紀神代卷にー云 二神〔武甕槌神 経津主神〕」遂誅邪神 及草木石類皆已平了 其所 不服者 唯星神 香々背男 耳故加遺 倭文神 建葉槌命者則服 故二神登天也とみえたるを
日本書紀纂疏に 倭文は云々 常陸國所出 建葉槌命 在常陸出 倭文地故曰 倭文神恐是 武甕槌之属也欺
釋日本紀に 此神在何處哉 先師申云 坐常陸國依之諸祭幣物内 倭文者當陸國之所濟也とある出
倭文地とは 今の靜村のことにて 古へは靜織里と云しこと 常陸風土記 靜織里上古之時 織綾之機未此知人于時 此村初織因名之とあり 今も攝社に高房神ありて 此地の婦女とも機布を切て奉ることあるにても知るべし
鹿烏香取両神宮に 高房神社ありて祭神 健葉槌命と云り
故思ふに 本社は倭文神 健葉槌命の坐す所なるを以て 其地名にも靜織と負せしほどのことなるを 物しらぬ社司等の後に合せ祭れる三座の神を主とある神なりと非心淂して却て 其主とます倭文神をば攝社に移し祭られしものなること著ければ 今かく決めて記せり神位
光孝天皇 仁和元年五月二十二日丙午 常陸國從五位下 靜神授從五位上祭日 四月朔日 十月中申酉日
社格 郷社所在 那珂郡靜村 (那賀郡靜村大字靜)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇茨城縣 常陸國 那珂郡靜村大字靜
縣社 静神社
祭神
健葉槌(タケハヅチノ)命 高皇産靈(タカミムスビノ)尊
手力雄(タヂカラヲノ)尊 思兼(オモヒカネノ)命創立年代詳ならず、神代以来の鎭座なるが如し、
常陸風土記に、静織里、上古之時、未識に織綾之機、未在知人、于時此村初織、因名之」、とあり、蓋 健葉槌命 此地に天降坐て、織事を里民に教給へるか、若くは其神裔の此地に移住て綾を織しにもやあらむ、故に命は倭文の祖にして、元と高天原に在りて天照大御神に奉仕せられしこと、古語姶遺に見ゆ、後 経津主神 武甕槌神と共に葦原中國に降りて星神天香々背男を帰順せしめ給へり、平城天皇 大同元年 手力男神を小移村より遷して合祀す、降て近世 舊青木山より高皇産霊神を、鳥羽権現塚より思兼神を合祀せり、
抑 健葉槌命 当社主神に坐す事は社號、風土紀及日本紀算疏の「建葉槌命祠、在常陸国、出倭文地、故呼為、倭文神」とあるに因りて明かなりと雖も、中古誤て別に祠を設け、此に移し高房神社と称し、手力雄尊を以て主神とせり、
然れども衆民其の古しへを忘れず、近村の婦女其機織の布を、高房神社に捧げて、紡織の業を祈る、今や復古して、建葉槌命を主神とす、神階は光孝天皇仁和元年5月丙午、從五位下より從五位上に進み、〔〇三代実録〕廷喜の制名神大社に列せらる、
社伝に拠れば是より先、孝徳天皇の朝 千石千貫の寄附ありしと云ふ、降て興國七年佐竹貞義、弘願西方静安の三寺を置いて仕へしめしが、慶長七年十一月、徳川家康百五十石を奉寄し、次いて宝文八年十一月藩主徳川光圀、新に社殿を営み神器神宝を寄せ、且つ僧徒を斥け社職を増し、大に面目を改めらる、
時に社域の大檜樹の根より銅印を発掘す、方二寸、静神宮印と刻せり、光圀歓喜の余り文を作つて社殿に蔵む、元禄以来藩主の営繕を例とし、天保以来又年中三回朝家安全の大麻を奉るを例とする等藩主の崇敬甚だ厚かりき、為めに社領の如き、始め徳川家康の寄する所百五十石なりしが、明治維新奉還の際の如きは、増すこと三十石、即百八十石壹升壹合たりき、明治六年県社に列す。社殿は本殿、拝鍛、其他神楽所、仮殿、社務所等を具備し、境内二千四百七十五坪〔官有地第一種〕及近く編入せられし上地林七反廿九歩より成る、
蓋、静山上にして、一に帝静山と稱し 白河街道の傍に屹立せる峰岳なり、檜杉陰々天を蔽い、社殿門廡其間に鱗次し傳た荘厳を極む、但、惜しい哉、地僻し常に賽客の参するなく、閑寂幽静、眞に神代に在る想あり、因に記す、香取鹿島の末社に高房社ありて、共に建羽槌命を祀ると云ふ、
境内神社
押手神社 鷺森神社 山親子神社 鍬神社 玉取神社 雷神社
富士神社 愛宕神社 大杉神社 御祖神社
【原文参照】
靜神社(那珂市静)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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常陸国(ひたちのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 常陸国には 28座(大7座・小21座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
常陸國 式内社 28座(大7座・小21座)について