実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

志々岐神社(壱岐市石田町南触)

志々岐神社(ししきじんじゃ)は 『壱岐国神社誌』に鎮座地印通寺(いんどうじ)の由来が記されます「昔 神功皇后が三韓征伐の為 西海に赴いた時 十城別王(ときわけのみこ)〈日本武尊の御子〉が臆して退いたので 歎いた皇后が矢を手にとり投げて十城別王の背中を射通した その射通し(ヰトホシ)が訛り 印通寺(いんどうじ)と云う

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

志々岐神社(Shishiki shrine)

 [通称名(Common name)]

おしじきさん

【鎮座地 (Location) 

長崎県壱岐市石田町南触393

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》十城別王ときわけのみこ
   武加比古王たけかいこのみこ
   日本武尊やまとたけるのみこと
   帯彦天皇たらしひこすめらみこと
   稲依王(いなよりのみこ)
   稚武王わかたけのみこ
   稚武彦王わかたけひこのみこ

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社〈参考〉

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳

【由  (History)】

〇壱岐神名記に 石田村 志自岐大明神小神改 以前は式内

〇神社云 式の尓自神社なり むかし石田村西間村とせしを 慶長の末 石田村と改む 西間は尓自なり

〇『壱岐国神社誌』に 志自岐神社は 以前は式内社であった

【境内社 (Other deities within the precincts)】

淡島

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稲荷

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

志々岐神社は 二つの式内社の論社でもあります

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)
[名神大 大 小] 式内小社


[旧 神社 名称 ] 国津神社
[ふ り が な ]くにつかみのやしろ)
[Old Shrine name]Kunitsukamino yashiro)


[旧 神社 名称 ]
爾自神社
[ふ り が な ](にしの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Nishi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

石田郡(いしたの こおり)國津神社(くにつかみのやしろ)の論社について

・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

一緒に読む
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉

國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります

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・津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)

一緒に読む
津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)

津之宮神社(つのみやじんじゃ)は かつて神坂津宮大明神と称され 国府に近く 壱岐国の津〈現 印通寺港〉であったこの鎮座地は 地名も津宮と呼ばれる程の大社であったとされます 故に二つの式内社・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)の論社とされています

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・志々岐神社(壱岐市石田町南触)〈参考〉

一緒に読む
志々岐神社(壱岐市石田町南触)

志々岐神社(ししきじんじゃ)は 『壱岐国神社誌』に鎮座地名 印通寺(いんどうじ)の由来が記されます「昔 神功皇后が三韓征伐の為 西海に赴いた時 十城別王(ときわけのみこ)〈日本武尊の御子〉が臆して退いたので 歎いた皇后が矢を手にとり投げて十城別王の背中を射通した その射通し(ヰトホシ)が訛り 印通寺(いんどうじ)と云う」

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石田郡(いしたの こおり)爾自神社(にしの かみのやしろ)論社について

・爾自神社(壱岐市郷ノ浦町有安触)

一緒に読む
爾自神社(壱岐市郷ノ浦町有安触)

爾自神社(にしじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 壱岐の島まで軍を進め〈対馬へと渡る為には東風が不可欠〉風待ち停泊した時 東風石(こちいし)と呼ばれている巨石に東風の順風祈願をした すると石が二つに割れて さわやかな東風が吹きおこり 順調に三韓に渡航して戦勝した 帰朝の際 ここに風の神を祀られたと伝わります

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・西八幡神社(壱岐市郷ノ浦町初山西触)

一緒に読む
西八幡神社(壱岐市郷ノ浦町初山西触)

西八幡神社(にしはちまんじんじゃ)は 当初は 初山の宗廟であり尒示八幡宮(にしはちまんぐう)と称され 式内社 爾自神社(にしの かみのやしろ)とする説があります 中葉より 鏡の霊験により鏡岳神社(初山東触)が初山村の新たな宋社となってしまい その影に埋もれてしまったとされます

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・志々岐神社(壱岐市石田町南触)〈参考〉

一緒に読む
志々岐神社(壱岐市石田町南触)

志々岐神社(ししきじんじゃ)は 『壱岐国神社誌』に鎮座地名 印通寺(いんどうじ)の由来が記されます「昔 神功皇后が三韓征伐の為 西海に赴いた時 十城別王(ときわけのみこ)〈日本武尊の御子〉が臆して退いたので 歎いた皇后が矢を手にとり投げて十城別王の背中を射通した その射通し(ヰトホシ)が訛り 印通寺(いんどうじ)と云う」

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志々岐神社の石塀門に刻される 9頭の子抱える神龍について

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神龍には9頭の子があり「龍生九子(りゅうせいきゅうし)」と呼ばれます
一匹除き みな優秀で龍になったとされます

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贔屓(ひいきについて

背に甲羅があり 亀に似た容姿ですが 亀とは違い神龍9頭の子「龍生九子(りゅうせいきゅうし)」一つ 頭に角を持ちます
贔屓(ひいき)は あまり出来が良くなく 懸命に努力したが龍に進化できなかったとされます
ただし「重いものを支えることを好む」という特技を一つ持っていて 神龍は「目をかけて育てた」ようです

商売でよく使われる「ごひいき」とか「ひいき目に見る」はこれが由来で 重みを支える神龍の子の由来から 石碑の土台に「贔屓趺(ひいきふ)」が生まれて これが亀と混同して「亀趺(きふ)」になったようです

志々岐神社拝殿新築碑の上に彫られているのは 亀ではなく 贔屓(ひいきです

どうやら ここ志々岐神社は 龍神との繋がりがあるようです

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

印通寺浦(いんどうじうら)印通寺フェリーターミナルから海岸線を東へ1.5km 徒歩20分 車5分程度

志々岐浜へと鳥居が建ち参道が伸びています

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志々岐浜手前には石灯籠が並び立ちます

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志々岐浜からは 北方に加唐島馬渡島見えます その先には佐賀県唐津市呼子があり 太古からの壱岐と九州を結ぶ海路です

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志々岐浜の東を見れば浜辺沿いに参道があり 社頭の鳥居が建ちます

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志々岐神社(壱岐市石田町南触)に参着

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一礼をして鳥居をくぐり 海辺から石段を上がると 途中に淡島社が祀られています

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参道石段を上がると 志自岐宮 と刻された石燈籠があります

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その先には 石塀廻された中に 拝殿が建っています

拝殿にすすみます 拝殿の向かって右には稲荷神社が祀られています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 木漏れ日の中を参道階段を下ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承

第九巻 石田村 併 印通寺浦之部  志自岐宮〈現 志々岐神社(壱岐市石田町南触)〉は 一説に式内社 尓自神社である と記されています

国立公文書館請求番号:176-0166-0009簿冊名:壱岐名勝図誌件名:壱岐名勝図誌9 目録情報URI httpswww.digital.archives.go.jpitem4294490

【抜粋意訳】

第九巻 石田村 併 印通寺浦之部

志自岐宮

在 菖蒲元 例祭九月十八日 

祭神 十城別王 日本武尊

宝殿・・・
・・・
・・・
当社 鎮座年歴不知
神社云 式の尓自神社なり むかし石田村西間村とせしを 慶長の末 石田村と改む 西間は尓自なり

一書云 与神社 志自岐原にとも何れは何をならんと定めけれど 両説になれば何をもって式社にはたりとさるへし 古棟札ありといへども文字消失て不詳 只 天正の文ありゆるのみにて社号不知 延宝二甲寅八月 宝殿造営の棟札あり 志自岐宮と志るせり
例年九月十七日の夜 大神楽あり 十八日国主代参幣流鏑馬等あり 十九日神輿神幸あり 印通寺浦松崎に渡御あり奉り 夕景にいたり還幸なり
・・・・・

【原文参照】

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 國津神社は 渡良村〈現 國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)

式内社 爾自神社は 長嶺村〈現 爾自神社(壱岐市郷ノ浦町有安触)と記しています

【抜粋意訳】

國津神社

國津は久爾都と訓べし
〇祭神詳ならず
渡良村に在す 土俗 青波賀明神と称す 式社考

類社 伊勢国 飯高郡 久爾都神社

爾自神社

爾自は 假字なり
〇祭神 詳ならず
〇長嶺村に在す 土俗 東風(コチ)明神と称す

類社
播磨穴栗郡 邇志神社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社の爾自神社について 初山村 八幡宮〈現 西八幡神社壱岐市郷ノ浦町初山西触〉と記しています

【抜粋意訳】

尒自(にじの)神社

今 初山村にあり 尒自八幡宮云 蓋是也 壱岐式社沿革考

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社の國津神社について 渡良村〈現 國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〉とされるが 石田邑の印通寺浦〈現 志々岐神社壱岐市石田町南触〉と云う説もある

式内社の爾自神社について 長峰村〈現 爾自神社(壱岐市郷ノ浦町有安触)〉としているが これは延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 西と云地名によって東風大明神と定めたもので信憑性が無く むしろ 以前から式内社とされていた石田郡初山邑 八幡宮〈現 西八幡神社壱岐市郷ノ浦町初山西触〉であろうと記しています

【抜粋意訳】

國津神社

祭神
祭日 九月十日
社格 村社

所在
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記に渡良村とす されど神社考に波浦村の蓮宮を国津神社とせしは甚非なり こは物部布都神社にして国津神社にあらずとみえ 式社沿革考に石田邑の印通寺浦は往昔 筑前大宰府の管内なりしときは 当浦 宮津にて年貢運送公用の津と伝えるは 国津神社はその邑なる志自岐大明神なるべし 当社 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は式社と称し 右の浦にも近くませりと云る 據あるに似たれど国津を官津とせるは疑わしければとらず

爾自神社

祭神 級長津彦神 長戸邊神 息長足姫尊

祭日 九月廿三日

所在 長峰村 字爾志山(石田郡沼津村大字長峰)
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記 共に長峰村 爾志山にあり
一説には 有安村 所祭 十城別
續風土記には 長津彦神 長戸邊神 息長足姫尊とあるを
神社考に 有安村 東風大明神の地名を西と称するによりて 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に式の爾自神社とす雖も 此村壱岐郡の内にして石田郡にあらずみえ
式社沿革考には石田郡初山邑に八幡宮称す 往昔 当社を村の宗社と称し 延宝以前は式内と称したれば
式の爾自神社右の両社の内なるべけれども 八幡宮を式社ならんと云る明証と云べし 然るを西と云地名によりて東風大明神と定め 東風大明神と云より級長津彦姫を祭れる如く云るものにて信じがたし尚よく考べし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承

志自岐神社は 以前は式内社であった

又 志自岐神社の鎮座地 印通寺浦(いんどうじうら)地名の由来として
「昔 神功皇后が三韓征伐の為 十城別王(ときわけのみこ)〈日本武尊の御子〉らを伴なって 西海に赴いた時 十城別王は 臆して退いたので そのさまに歎いた皇后は 矢を手にとり投げると 十城別王の背中を射通したので 射通し(ヰトホシ)が訛り 印通寺(いんどうじ)となったとの伝承が記されます

矢を投げた所は「ナゲヤ」と言っていたが 今は名古屋と呼ぶ 名護屋は射通しの漢字訓なる印通寺「インドウジ」の南対岸呼子村の西に当たる〈秀吉公の朝鮮出兵の拠点 唐津市名護屋〉 と伝えています

【抜粋意訳】

石田村ノ部 村社 志自岐神社 (旧号 志自岐大明神)

鎮座地 石田村字若宮

祭神 十城別王ときわけのみこ
   武加比古王たけかいこのみこ
   日本武尊やまとたけるのみこと
   帯彦天皇たらしひこすめらみこと
   稲依王(いなよりのみこ)
   稚武王わかたけのみこ
   稚武彦王わかたけひこのみこ

例祭日 十月二十六日 神幸式 大神楽奏奏
境内地 460坪

〔由緒沿革〕
一、壱岐神名記に 石田村 志自岐大明神小神改 以前は式内

一、壱岐神社帳に 菖蒲の本志自岐宮、本社定祭九月十九日 古来勧請年数不知、神主中崎近太夫堤和泉とあり。

一、棟札の古きは 延宝二年八月 寶殿再建 松浦鎮信公在判のものにして志自岐大明神とあり。

一、国主名代社参の顛末は 天満神社の部に記したるが如し。

一、文政十一年神社帳に、石田村 志自岐宮 本社唯一、所祭 日本武尊、十城別王、両祠官中崎日向、白川修理とあり。

一、續風土記に曰、印通寺浦(志自岐神社氏子戸数過半占むる連担地域なり)の伝説に、
昔 神功皇后 三韓征伐の為に西海に進み給ふ時 十城別命等を伴ひ給ふに 此王 臆して中途より退かせ給ひしかば 皇后は其の軍令に違ふを責め怒りまして 弓箭を執りて 後ろさまに投げうち給へば 過たず王を射通し奉りぬ。
之を以て 後の人 この地を射通し「イトヲシ」と称せり。又 皇后の箭を投げまし、地を「ナゲヤ」と言ひしが今は名古屋と呼ぶ。名護屋は射通しの漢字訓なる印通寺「インドウジ」の南対岸呼子村の西に当たる。(抄譯)

一、社領・・・・・

一、当社祭日には藩主代参馬廻衆参向、新御造営の節は白銀五枚を献ぜられし社なり

一、明治九年十二月村社に列せらる。
一、大正九年九月神饌奉幣料供進神社に指定せらる。

【原文参照】

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

志々岐神社(壱岐市石田町南触)に (hai)」(90度のお辞儀)

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壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る 

一緒に読む
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について

壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です

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