実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

白髪神社(熊谷市妻沼)

白髪神社(しらかみじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 白髪神社の論社です 社伝によれば「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社」とあります 又 第22代 清寧天皇〈即位480~484年頃〉の白髪部との係わりがあるとされます

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

白髪神社(Shirakami Shrine)
しらかみじんじゃ

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

熊谷市妻沼1038

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》白髪大倭根子命Shirakanooyamatoneko no mikoto)〈第22代 清寧天皇
《配》天鈿女命(Ameno uzume no mikoto)
   猿田彦命(Sarutahiko no mikoto)
   倉稲魂神(Ukano mitama no kami)
《合》須佐之男命(Susanowo no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

創建年月不詳
社伝によれば「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社」とあり
第22代 清寧天皇〈即位480~484年頃〉の白髪部との係わりがあるとされます

【由  (History)】

白髪神社<妻沼町妻沼一〇三八(妻沼字女体)>

妻沼の地は、かつて利根川の乱流地帯であった。
口碑によると、利根川が繰り返し流れを変えるうちに、上下に同形の大きさの沼が生じ、上に男体様を祀っていたので「男沼」、下に女体様を祀っていたので「女沼」と称するようになったという。
一方、妻沼聖天宮の縁起によれば、昔 伊弉諾・伊弉冉の二柱の神の鎮座により、女沼・男沼と称したという。
いずれにしても、当社の鎮座地の小名である女体は、この「女沼」に坐す神に由来するものであろう。

一説に、当社は『延喜式』神名帳に載る幡羅郡四座のうちの一座「白髪神社」であると伝える。
これは『風土記稿』幡羅郡の中に白髪社が 当社一社(実際は「稲荷白髪社」とある)だけであることをその論拠としている。
しかし、地形的にみて 低地である現在地に 社が奉斎されたとは考えにくく、後に他所から遷座してきたものと推測される。
これについては『大日本史』の「白髪神社 妻沼村に在り、白髪明神と称す。古へ大我井森に在り、後 今の地に匙る」との記事が参考になろう。大我井の森とは、当社 鎮座地南方の徴高地にある聖天山歓喜院の境内一帯を指す。あるいは、女体様が坐す女沼を切り開いて耕地となし、村落を形成して行く中で、村鎮守としての稲荷神社が祀られ、更に、大我井の森から白髪神社が遷座されたのであろうか。
なお、白髪神社の創建には、清寧天皇の白髪部とのかかわりが考えられる。

埼玉の神社埼玉県神社庁神社調査団 編 埼玉県神社庁1986年発行より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

社殿向かって 左側に 小さな石祠が二
右側の石祠 水神宮と刻まれています

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)播羅郡 4座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 白髪神社
[ふ り が な ]しらかみ かみのやしろ)
[Old Shrine name]Shirakamino no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 白髪神社の5つの論社について

・白髪神社(妻沼)

一緒に読む
白髪神社(熊谷市妻沼)

白髪神社(しらかみじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社です 社伝によれば「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社」とあります 又 第22代 清寧天皇〈即位480~484年頃〉の白髪部との係わりがあるとされます

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・大我井神社(妻沼)

一緒に読む
大我井神社(熊谷市妻沼)

大我井神社(おおがいじんじゃ)は 明治維新の神仏分離令により 聖天様より新たに分離独立した伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を 太古に白髪神社を祀ったとされる゛大我井の杜゛と呼ばれる現在地に再興したものです 古くは聖天宮(妻沼聖天山)に合祀されていたと伝わる 二つの延喜式内社〈・白髪神社(しらかみの かみのやしろ)・楡山神社(にれやまの かみのやしろ)〉の論社となっています

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・妻沼聖天山歓喜院(妻沼)〈大我井神社の旧 鎮座地〉

一緒に読む
妻沼聖天山 歓喜院(熊谷市妻沼)

妻沼聖天山 歓喜院(めぬましょうでんざん かんぎいん)は 治承3年 (1179) 斎藤別当実盛公が 守護神としていた歓喜天を『延喜式神名帳』所載 武蔵國 幡羅郡 白髪神社が祀られていた鎮守の杜゛大我井の森゛に祀り創建されました  その後 白髪神社は 聖天社に合祀され 明治維新後 独立分離し 大我井神社として再興しています

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・熊野大神社(深谷市)

一緒に読む
熊野大神社(深谷市東方)

熊野大神社(くまのだいじんじゃ)は 深谷市東方(ヒガシガタ)に鎮座します この地域は7世紀後半から10世紀前半まで武蔵国(ムサシノクニ)幡羅郡(ハラノコオリ)の郡衙(郡役所)が存在した地域です さらに古代には その地名の由来として「伝説に、日本武尊が東征に際し、当地を過ぎる時、里人に東の方は何れに当たるかと尋ねられ、東方の地名になった」とあります 延喜式内社「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社でもあります

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・東別府神社(熊谷市)

一緒に読む
東別府神社(熊谷市東別府)

東別府神社(ひがしべっぶじんじゃ) は 創建年代等は不詳です 鎮座地 別府の地名由来は 平安末期頃 国府の支庁である別府が置かれていた為 又は 別府小太郎清重の在名から名付けられた地名とも云われ 居城の東別府城には 別府氏(藤原氏)の氏神 奈良の春日大社から分祀し 天正18年(1590)の落城まで 城の鎮守であったと伝わります 跡地には 明治42年に埋鳥の村社 榛名神社を合祀して 東別府神社と改称しました『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社とされています

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

熊谷駅から R17号407経由 北上13km 車30分程度

埼玉県と群馬県の県境を流れる利根川に架かる刀水橋の南側 土手の下あたりの畑の中に鎮座しています 参道の様に畑の真ん中を道路が真っ直ぐに伸びています

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朱色の鳥居の左右に石柱が立っていて 左石柱には「高岡稲荷神社」右石柱には「式内 白髪神社」刻まれています
白髪神社(Shirakami Shrine)に参着

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畑の中に小さな杜があり その僅かな社地に社殿が建っています 

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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振り返り 一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承

第22代 清寧天皇(セイネイテンノウ)には 子が無く跡継ぎのいないことを憂いていた時の出来事として 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣して 白髪部を設置したとあり
当神社の社伝にも「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭 白髪神社」とあります

天皇は このあと 同年11に 後継ぎとして 市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)の子の億計(オケ)・弘計(オケ)を見つけました

【意訳】

白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)〈第22代 清寧天皇即位2 2 の条

天皇は 子が無いことを恨み
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣し
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)靫は矢を入れる筒靫負は警備を設置しました
願わくは
 遺跡を残し に伝えようとされま

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

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『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉に記される伝承

第9代 開化天皇の第3皇子彦坐命四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の(スエ)なり」と記されていて この白髪王(シラガノミコ)を当神社の祭神とする説もあります

【意訳】

第二巻 左京(ヒダリノミサトノ)皇別下 の条

軽我孫(カルノアビコ)

治田連(ハリタノムラジ)同祖
彦坐命(ヒコマスノミコト)
四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の(スエ)なり

(ハジメ)彦坐命(ヒコマスノミコト)の末(スエ)
(タマイ)に 阿比古(アビコ)の(カバネ) 成務天皇の御代(ミヨ)(タマウ)軽地(カルノトコロ)を十千代(トチシロ)(コレ)(オウ)軽我孫(カルノアビコ)(カバネ)の(ヨシ)なり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

祭神を 第9代 開化天皇の第3皇子彦坐命四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)」もしくは 清寧天皇(セイネイテンノウ)とする説があると記しています

【意訳】

白髪(シラカ)神社

新撰姓氏録 彦坐命四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)

式社考 女沼村 白髪大明神 祭神 清寧天皇(セイネイテンノウ)
社記曰く 継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社 皇后者 吉備稚姫命なり 

祭日 9月朔日

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

稲荷社と白髪社の合殿で 寶蔵院の所管と記されています

【意訳】

巻之229 幡羅郡之4 妻沼村の条

〇稲荷白髪合社 寶蔵院持

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

祭神は 清寧天皇(セイネイテンノウ)を採用していますが 様々な説も紹介していて 東方村に在る「熊野権現」も論社とされていると記しています

【意訳】

白髪神社

白髪は 志良賀と訓ずべし
〇祭神 清寧天皇(セイネイテンノウ)式社考
〇地名記には 祭神 伊弉冉命(イザナミノミコト)素戔嗚尊(スサノヲノミコト)猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)東方村に在す 今 熊野権現と云うといえるは 信用びたし
〇女沼村に在す
〇日本書紀 清寧天皇2 2の条 天皇 子が無いことを恨み
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣し
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)靫は矢を入れる筒靫負は警備を設置しました願わくは 遺跡を残し に伝えようとされま

社伝曰く 継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社 皇后者 吉備稚姫命なり

新撰姓氏録 左京(ヒダリノミサトノ)皇別下 の条 軽我孫(カルノアビコ)彦坐命(ヒコマスノミコト)四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の(スエ)なり 云々

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

日本書紀 清寧巻白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)云々 生而白髪〈生まれながらの白髪〉とあり 即位2 2の条に 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した際に 白髪部の人々祀られた神社であろうと推測しています

【意訳】

白髪神社

祭神
今 按〈考えるに〉
継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社」とあり
日本書紀 清寧巻白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)云々 生而白髪〈生まれながらの白髪

即位2 2の条に 天皇は 子が無いことを恨み
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣し
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)靫は矢を入れる筒靫負は警備を設置しました願わくは 遺跡を残し に伝えようとされま

あるのを合わせ思うに この時の因縁よりて 白髪部の人の清寧天皇祭り奉りなるべし

祭日 9月1日
社格 無社格
所在 妻沼村 字 高岡(大里郡妻沼町大字妻沼)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2

白髪神社(Shirakami Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

一緒に読む
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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