白旗八幡社(しらはたはちまんしゃ)は 寄居町赤浜に遷座した出雲之伊波比神社〈白旗八幡社〉の元宮になります 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 白旗八幡社が 住民と共に赤浜に遷座した後も 畠山の氏子等は ここに祠を立てて祭りを続けたとされます その後 明治39年の勅令に基いて 明治41年に字栗坪の白幡八幡社を井椋神社の境内に遷座し 現在に至ります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
白旗八幡社(Shirahata hachiman sha)
(しらはたはちまんしゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県深谷市畠山942 井椋神社の境内
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》三穂津姫命(Mihotsuhime no mikoto)
天児屋根命(Ameno koyane no mikoto)
誉田別命(Homutawake no mikoto)
※三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)は 『日本書紀』に登場する女神で 高皇産霊尊の娘神 大国主神or大物主神の后神とされます
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社の元宮
【創 建 (Beginning of history)】
字栗坪に古来からあった祠〈出雲之伊波比神社〉に
天喜年中(1053~58)源頼義が 奥州征伐の途 当社に その守護神である八幡神を併せ祭り 白旗を献じて戦勝を祈願したことから 社号を「白旗八幡社」と改めたと伝わります
【由 緒 (History)】
天喜年中(1053~58)源頼義が 奥州征伐の途 当社に その守護神である八幡神を併せ祭り 白旗を献じて戦勝を祈願し 社号を「白旗八幡社」と改めたと伝わります
荒川沿いの赤濱村に鎮座しましたが 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 住民と共に現在地〈寄居町赤浜〉に遷座した出雲之伊波比神社は 江戸時代までは「八幡さま」と呼称されますが この八幡社が赤浜に遷座した後も 畠山の氏子等は ここに祠を立てて祭りをつづけたとされます
その後 明治39年の勅令に基いて 明治41年に字栗坪の白旗八幡社を井椋神社の境内に遷座しました
現在 白幡八幡社は 井椋神社の境内社となり 畠山重忠公の舘跡の地に祀られていた八幡神社と大雷社とが合祀されています
すなわち 白幡八幡社は 寄居町赤浜に遷座した出雲之伊波比神社〈白旗八幡社〉の元宮になります
【境内社 (Other deities within the precincts)】
白旗八幡社は 井椋神社の境内社
・井椋神社(深谷市畠山)〈境内社の白旗八幡社は式内社〉
井椋神社(いぐらじんじゃ)は 男衾郡 畠山の地に進出した 秩父郡吉田(旧・吉田町、現・秩父市)を本拠地とする秩父氏の嫡流の畠山氏が 守護神として祀っていた 井椋五所宮〈現 秩父市下吉田にある椋神社(式内社)〉を 秩父権守 重綱公が 畠山の地に勧請(分祀)したのが始まりと伝えられています 又 境内社「白旗八幡社」は 式内社「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社にもなっています
井椋神社(深谷市畠山)〈境内社の白旗八幡社は式内社〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)男衾郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 出雲乃伊波比神社
[ふ り が な ](いつものいはひの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shirakamino no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
大宮氷川神社(さいたま市)のかつての 神職家〈社家〉の謎について
武蔵国 一之宮 氷川神社である「大宮氷川神社」の ご祭神は 元来 出雲建国の3柱(みはしら)の神と 荒脛巾神(あらはばぎのかみ)を祀ります
①須佐之男命(すさのをのみこと)
➁稲田姫命(いなだひめのみこと)
➂大己貴命(おおなむちのみこと)
④荒脛巾神(あらはばぎのかみ)
従って この神を守り祀る神職家〈社家〉は かつては 4社家が存在していました
①➁➂の社家は 江戸時代までは 社家を務めていました
上の祭神の順に並べると
①岩井(イワイ)家〈男體社〉
➁角井(ツノイ)家〈女體社〉(後の東角井家)
➂内倉(ウクラ)家〈簸王子社〉(後の西角井家)
④氷川(ヒカワ)家〈荒脛巾社〉(後に途絶えたか)
ここで
①須佐之男命(すさのをのみこと)を祀る社家が ①岩井家〈男體社〉であった事実を知ると 興味が湧きます
出雲の神「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」を祀るのは 岩井「イワイ」家の役割であったのです
当神社「出雲乃伊波比(イズモノイワイ)神社」の名称が 偶然ではないことが想定できます
以下 同じ武蔵国の延喜式内社で「イワイ」の文字を持つ神社を追ってみます
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比(イズモノ イハイ)神社」の3つ論社について
・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 天喜年中(1053~58)源頼義が 奥州征伐の途 当社に白旗を献じて戦勝を祈願し「白旗八幡社」と称し 荒川沿いの赤濱村に鎮座しましたが 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 住民と共に現在地に遷座します 江戸時代までは「八幡さま」と呼称されますが 明治になって『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社として 現在の社号に変更しました
出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
・出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)
出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 江戸期までは 出雲ノ神を祀る氷川社と呼ばれていました 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社です しかし何故か 現在の祭神は 出雲の神ではなく 鹿島の神を祀っています
出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)
・白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)寄居町赤浜に遷座した出雲乃伊波比神社の元宮
白旗八幡社(しらはたはちまんしゃ)は 寄居町赤浜に遷座した出雲之伊波比神社〈白旗八幡社〉の元宮になります 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 白旗八幡社が 住民と共に赤浜に遷座した後も 畠山の氏子等は ここに祠を立てて祭りを続けたとされます その後 明治39年の勅令に基いて 明治41年に字栗坪の白幡八幡社を井椋神社の境内に遷座し 現在に至ります
白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)
・八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地
八幡塚旧跡は 井椋神社に合祀された 字栗坪にあった祠「白旗八幡社」の旧鎮座地の跡になります 従って『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社の跡地ですが 延喜式の時代(927年)には 当地に鎮座していたことになります
八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)
武蔵國 入間郡には 同じく「出雲(イツモ) イハイ」の音をもつ式内社
「武蔵國入間郡 出雲伊波比神社」の論社 4つについて
・出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)
出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)は 社伝「臥龍山宮伝記」に景行天皇53年 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際 凱旋し 天皇から賜った゛ヒイラギの鉾゛をおさめ神宝とし 出雲の大己貴命を祀った また 成務天皇の御代 武蔵国造 兄多毛比命(エタモヒノミコト)が 出雲の天穂日命を祀り 二柱を出雲伊波比神としたと伝わっています
出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)
・出雲祝神社(入間市宮寺)
出雲祝神社(いずもいわいじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)の論社とされ 現存する棟札〈大宝二年(702)〉にも゛伊都毛伊波比再造゛と記されていています 社伝には 景行天皇の御代 日本武尊が 東夷征伐の時 小手指ヶ原で・天穂日命・天夷鳥命を祭祀創建された と伝わります
出雲祝神社(入間市宮寺)
・川越氷川神社(川越市宮下町)
川越氷川神社(かわごえ ひかわじんじゃ)は 創建について 元禄九年棟札・正徳縁起に 欽明天皇 即位二年(521)辛酉九月十五日 武蔵国 足立郡 氷川神社を分祀奉斎したと伝える古社です 一説に゛氷川の神゛〈出雲神〉を祀る 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)とも伝わります
川越氷川神社(川越市宮下町)
・北野天神社(所沢市小手指元町)
北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉
武蔵國 横見郡には 同じく「伊波比 イハイ」の音をもつ式内社
「武蔵國 横見郡 伊波比神社」の論社について
・伊波比神社(吉見町黒岩)
伊波比神社(いわいじんじゃ)は 和銅年間(708~715)の創建と伝え『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 横見郡 伊波比神社(いはひの かみのやしろ)とされます 元々は 出雲系の神を祀っていましたが その後 平安時代末から鎌倉初期にかけて 源頼朝の弟の源範頼の所領となり 源氏の八幡信仰から八幡神が祀られ「岩井八幡宮」と呼ばれていました
伊波比神社(吉見町黒岩)
武蔵國 荏原郡には 「磐井 イハイ」の音をもつ式内社
「武蔵國 荏原郡 磐井神社」の論社について
・磐井神社(大田区大森北)
磐井神社(いわいじんじゃ)は 社伝には第30代 敏達天皇二年(573)八月鎮座とあり 六国史『三代実録』には 貞観元年(859)゛武蔵国 従五位 磐井神 官社に列す゛と記される由緒を持ちます 神宝゛鈴石゛があり鈴森八幡宮とも呼ばれる武蔵國の八幡総社でした 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 荏原郡 磐井神社(いはゐのかみのやしろ)とされています
磐井神社(大田区大森北)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
秩父鉄道の永田駅から 東へ荒川を渡り約1.3m 徒歩15分程度
重忠橋と名付けられた 畠山 重忠(はたけやま しげただ)公の由来の鴬の瀬(うぐいすのせ)に架かる橋を渡ると川沿いに 井椋神社の鎮守の杜があります 一礼をして 鳥居をくぐり 境内へと進みます
井椋神社(いぐらじんじゃ)は 男衾郡 畠山の地に進出した 秩父郡吉田(旧・吉田町、現・秩父市)を本拠地とする秩父氏の嫡流の畠山氏が 守護神として祀っていた 井椋五所宮〈現 秩父市下吉田にある椋神社(式内社)〉を 秩父権守 重綱公が 畠山の地に勧請(分祀)したのが始まりと伝えられています 又 境内社「白旗八幡社」は 式内社「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社にもなっています
井椋神社(深谷市畠山)〈境内社の白旗八幡社は式内社〉
井椋神社の社殿でお詣りをします
境内の西側に鎮座する境内社
白旗八幡社(Shirahata hachiman sha)に参着
正面に格子扉のある覆い屋が 拝殿になっています
拝殿にすすみます
社号札があり 向かって左手より「白幡八幡社 八幡神社 大雷社」とあります
明治39年の勅令に基いて 明治41年に字栗坪の白旗八幡社を井椋神社の境内に遷座し
畠山重忠公の舘跡の地に祀られていた八幡神社と大雷社とが合祀されています
覆い屋の中には 小さな祠が3宇並び鎮座しています
左の祠が 式内社の元宮ともされる「白幡八幡社」になります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内の西側にある 他の境内社と比較しても 覆い屋は 大きな造りとなっています
白幡八幡社と井椋神社の社殿に 再び一礼をして参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
祭神は 大己貴命であり 所在について『式社考』を引用し「伊多井村」〈現 熊谷市板井〉を比定社としています
【意訳】
出雲乃伊波比(イツモノイハイ)神社
式社考 伊多井村にあり
〇信友云う 兼永本 朱書き入り 大己貴命なり
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
畠山村の「村民の伝兵衛と云う者の宅地にあり 古き鰐口〈寛正2年(1461)〉を掛たれば 古社なること論なし その図右の如し」と記されています
【意訳】
巻之224 男衾郡之3 鉢形領 畠山村 の条
白旗八幡社(シラタハチマンノヤシロ)
村民持ち 以下同じ
〇稲荷社
〇釜山権現社
村民の伝兵衛と云う者の宅地にあり
古き鰐口〈寛正2年(1461)〉を掛たれば 古社なること論なし その図右の如し
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
論社の所在について
『地名記』には 赤濱村〈現 寄居町赤浜〉
『式社考』には 「伊多井村」〈現 熊谷市板井〉を比定社としていると記しています
【意訳】
出雲乃伊波比神社
出雲乃は 伊豆毛能(イズモノ)と訓ずべし 伊波比は仮字なり
〇祭神 三穂津姫命 誉田別尊 天兒屋命 地名記
〇赤濱村に在す 地名記
〇式社考には 伊多井と云えり 今は 八幡春日と称す
〇当国 横見郡 伊波比神社もあり
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
所在について 赤濱村〈現 寄居町赤浜〉を比定しています
【意訳】
出雲乃伊波比神社
祭神 須佐之男神
今 按〈考えるに〉
武蔵式社道程命附に 祭神 三穂津姫命 相殿 誉田別天皇 天兒屋命にて 今は八幡春日と云うとあれど信じがたし
明細帳に 祭神 須佐之男神とあるは 上の出雲伊波比神社の條に云る如く 天穂日命に由ありて 出雲ノ神にませば 須佐之男神を祭ると云うも古伝なるべし 故に今 これに従う祭日 8月15日
社格 村社(郷社)
所在 赤濱村(大里郡男衾村大字赤濱)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
白旗八幡社(Shirahata hachiman sha)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について