神明神社(しんめいじんじゃ)は 社伝には 創建は第12代 景行天皇の御代〈71~130年頃〉と伝わり 江戸時代には栢間村を含めた5ヶ村(戸ヶ崎村・三箇村・新堀村・小林村)の総鎮守として厚い信仰を集めていました 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社でもあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
神明神社(Shinmei shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県久喜市菖蒲町上栢間3366
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)
豊宇気毘賣神(とようけひめのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
神明神社(しんめいじんじゃ)
所在地 久喜市菖蒲町上栢間
神明神社の創立は、社伝に景行(けいこう)天皇の時といわれる。
祭神は、古くは天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)、大宮売神(おおみやめのかみ)の三神であったが、現在は天照皇大神、豊宇気毘売神の二神を祭っており、伊勢神宮の分霊のため、近年まで「神明両社」と呼んでいた。
江戸時代、徳川家譜代の家臣 内藤四郎左衛門正成(ないとうしろうざえもんまさなり)が、栢間(かやま)および新堀(にいぼり)、三箇(さんが)、戸ヶ崎(とがさき)、小林(おばやし)の旧五か村を領してから、五か村の総鎮守(そうちんじゅ)として以来、歴代の領主が厚く崇敬した。
明治六年に村社となり、昭和十六年郷社に昇格し、「神明神社」と改称、さらに昭和二十年に県社となった。
本殿は、天保(てんぽう)八年(一八三五)に建てられたもので、昭和三十八年屋根を改修している。
毎年一月十五日には、火防除(ひぶせよけ)と呼ばれる「鎮火祭」と、その火で粥(かゆ)を煮てその年の作物の豊凶を占う「筒粥(つつがゆ)」の神事が行われる。筒粥の神事は、大鍋に米三合水六升を入れ、葦(あし)の節のないところを長さ七寸位に切り、十八本を簀(すのこ)状にし麻で結ぶ。一本一本の葦に米粒が入る数によって占い、多くの米粒がはいったものほど豊作とされている。
昭和五十八年三月 久喜市教育委員会現地案内板より
【由 緒 (History)】
広報連載久喜歴史だより
第11回 神明神社と社叢(しんめいじんじゃとしゃそう)
更新日:2018年7月25日
久喜市菖蒲町上栢間には、社叢(神社の森)が埼玉県の天然記念物に指定されている神明神社があります。
神明神社は、天照(あまてらす)皇大神・豊受(とようけ)大神などを祭神とする神社で、景行(けいこう)天皇(第12代と伝えられる天皇)のときに創建されたと伝えられています。江戸時代には、領主の初代内藤正成(まさなり)をはじめ、歴代の内藤家の当主に保護され、栢間村を含めた5ヶ村(戸ヶ崎村、三箇村、新堀村、小林村)の総鎮守(そうちんじゅ)として人々の厚い信仰を集めていました。
また、神明神社では、毎年1月中旬にオヒタキ、筒粥(つつがゆ)の神事が行われています。オヒタキとは、鎮火祭(ちんかさい)のことで、筒粥の神事は、このオヒタキの残り火で米と節のない筒状の葦(あし)を一緒に炊き、筒の中に入った米粒の数で作物の豊凶(ほうきょう)を占います。占う作物は、大麦・小麦・早(わせ)稲・中(なかて)稲・晩(おくて)稲・粟(あわ)・稗(ひえ)・きび・大豆・小豆・大ささげ角豆・木綿・麻・芋・菜種・蚕・桑の17種類で、結果は社殿(しゃでん)に貼り出されます。
この神明神社の社叢は、埼玉県東部低地の自然植生をよく示す貴重な自然林として、昭和52年に埼玉県の天然記念物に指定されました。
社叢の広さは約1.74ヘクタールで、500メートルを超える参道林と境内林から構成されています。境内林は、高木にはアカシデが多く、低木にはヒサカキ、シロダモ、エゴノキ、アズマネザサなど、おおよそ47種類の植物が生い茂っています。このうち、ヤブニッケイ、ウワズミザクラは希少な植物とされています。現在、社叢に生える主な樹木は、アカシデとなっていますが、本来の社叢の樹木はヒサカキ、サカキが主となるシラカシ群の自然植生であったようです。
神明神社の参道入り口には鎮守の森公園(駐車場あり)があります。車でお越しの際は、こちらの駐車場をご利用ください。また、公園付近には、全長100メートルを超える天王山塚古墳(てんのうやまづかこふん)(県指定史跡)もあります。ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・八幡宮〈本殿の裏左手に広がる森の中〉
・三嶽神社〈本殿の裏左手に広がる森の中〉
・石上神宮
・稲荷神社
・神楽殿
・社務所
・手水舎
・゛神明神社拝殿奉造替記念゛の石碑
・神池〈水が抜かれています〉
・境内社叢
長さ550メートルの参拝林及び境内林から構成され「神明神社の社叢」として埼玉県指定天然記念物に指定
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埼玉郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 宮目神社
[ふ り が な ](みやめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Miyame no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社について
・宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)
宮目神社(みやめじんじゃ)は 現在は 玉敷神社の境内摂社ですが 玉敷神社がこの地に遷座(一六二〇年頃)する迄は この社地の地主神として鎮座していたとされます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社です
宮目神社〈玉敷神社 境内摂社〉(加須市騎西)
・高城神社(熊谷市高本)
高城神社(たかぎじんじゃ)は 二つの式内社の論社となっています 一つは 武蔵国 大里郡 髙城神社(たかきの かみのやしろ)とされ 又 別称を御霊の宮(ごれいのみや)と呼ばれ ここから武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社ともされています 昭和45年に和田吉野川の河川改修に際して 現在地〈最初の鎮座地〉に遷座しました
髙城神社(熊谷市高本)
・姫宮神社(宮代町姫宮)
姫宮神社(ひめみやじんじゃ)は 社伝では 桓武天皇の孫の宮目姫が当地に立ち寄った際 突然の病で亡くなったことを 後に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)がこの話を聞き 姫の霊を祀ったのが始まりと伝わり 又 延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社ともされます
姫宮神社(宮代町姫宮)
・神明神社(菖蒲町上栢間)
神明神社(しんめいじんじゃ)は 社伝には 創建は第12代 景行天皇の御代〈71~130年頃〉と伝わり 江戸時代には栢間村を含めた5ヶ村(戸ヶ崎村・三箇村・新堀村・小林村)の総鎮守として厚い信仰を集めていました 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社でもあります
神明神社(久喜市菖蒲町上栢間)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR高崎線 北本駅から西へ県道312号経由 約6km 車15分程度
社殿から南へ長さ550メートルの参拝林(参道)があります
参道の入口〈南端〉に゛鎮守の森公園゛があり ここが社頭になります
神明神社(久喜市菖蒲町上栢間)に参着
一礼をして鳥居をくぐりますが 長い参道なので 社殿の傍まで車で移動したところ 社殿の西側 参道の終わり辺りに鳥居があり 境内にむかいます
見えた鳥居は 境内社 八幡社でした
その先に参道があり 三嶽神社が祀られています
神池があり 池の向こうに社殿があります
境内に横から進んできたようです
境内から 社頭から延びている550mの参道を振り返ります
一度 参道を戻り石燈籠を過ぎて振り返ります
こちら境内に 二の鳥居があり 一礼をして鳥居をくぐり境内へと進みます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 瑞垣に囲まれた中に 神明造りの本殿が二つ おそらく外宮・内宮が祀られています
社殿に一礼をして 境内を戻ります
参道の杜を振り返ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 柏間村〈現 神明神社(菖蒲町上栢間)〉と記しています
【抜粋意訳】
宮目(ミヤメノ)神社
〇大宮賣神 太玉命子也
式内社考 柏間村 神明宮なり
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之二百八(埼玉郡之十)菖蒲領
栢間村 附持添新田 神明社
村の鎮守
正月十四日 筒粥の神事を行ひて年の豊凶を占を以例祭とす 妙法院持【原文参照】
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 騎西町〈現 宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)〉と記しています
【抜粋意訳】
宮目神社
宮目は美夜女と訓べし
○祭神 大山咋命、(地名記)
○騎西町に在す、(同上)
例祭 月 日、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 宮目神社については 社名のみ記されています
【抜粋意訳】
宮目(みやめの)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 百聞村字姫宮〈現 姫宮神社(宮代町姫宮)〉として その他に2説・騎西町〈現 宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)〉と・柏間村〈現 神明神社(菖蒲町上栢間)〉を記しています
【抜粋意訳】
宮目神社
祭神 大宮賣神
今按〈今考えるに〉
注進状に祭神未詳 一説に多紀理姫命 多紀津姫命とあれど こは中古 姫宮と云より唱出たる説にて信がたけれど 大宮賣神を祭れるを後には姫神とも唱へて 遂に祭神の名を失ひ 姫宮と云より三女神と訛れるなるべし 故今訂して記せり祭日
社格 (明細帳に姫宮とあり 村社)
所在 百間村 字姫宮(南埼玉郡百間村大字百聞西原字姫宮)
今按〈今考えるに〉
一説 騎西町にあり 又 柏間村 神明宮とも云へど
騎西町なるは 祭神 大山祇命と云も疑わしく旧記等の證とすべきものなし
柏間村なるは 社地に宮原と云小名あるのみにて證あるに非ざれば信じがたし
百間村なるは 姫宮神社と云ひ土人も宮目社と云伝へ 祭神は三女神と云ひ 應永年中鰐日に太田庄南方百間姫宮と銘あるも一證とするに足れり故今之に従へり
【原文参照】
神明神社(久喜市菖蒲町上栢間)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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