実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

下御靈神社(京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)

下御靈神社(しもごりょうじんじゃ)は 平安時代 御霊の祟りを恐れ 貞観5年(863)御霊会が修せられたのが 両御霊神社の創祀と云う 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある出雲氏の氏寺・下出雲寺御霊堂に祀られた鎮守社で 社家は代々出雲路家が司り 延喜式内社 愛岩郡 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)ともされます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name)】

下御霊神社(Shimogoryo shrine)

【通称名(Common name)】

【鎮座地 (Location) 】

京都府京都市中京区寺町通丸太町下る

【地 図 (Google Map)】

【御祭神 (God's name to pray)】

〈本殿八座〉《主祭神》

・吉備聖霊(きびのしょうりょう)〈六座の和魂(にぎみたま)〉
・崇道天皇(すどうてんのう)〈桓武天皇皇太弟 早良(さわら)親王〉
・伊豫親王(いよしんのう)〈桓武天皇皇子〉
・藤原大夫人(ふじわらのだいふじん)〈伊豫親王母  藤原吉子命〉
・藤大夫(とうだいぶ)〈藤原廣嗣命〉
・橘大夫(きつだいぶ)〈橘逸勢命〉
・文大夫(ぶんだいぶ)〈文屋宮田麻呂命〉
・火雷天神(からいのてんじん)〈六座の荒魂(あらみたま)〉

〈相殿一座〉《配祀神》

・霊元天皇(れいげんてんのう)

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・病気平癒・地鎮祭・厄除・清祓・初宮詣・家内安全・七五三・交通安全など

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【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 御霊会の始まりの社

【創 建 (Beginning of history)】

下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)

 平安初期の貞観(しょうがん)五年(八六三)に神泉苑(しんせんえん)で行われた御霊会(ごりょうえ)で祀られた崇道(すどう)天皇(早良 さわら 親王)、伊予親王、藤原吉子(ふじわらきっし)、藤原広嗣(ふしわらのひろつぐ)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文屋宮田麻呂(ぶんやのみやたまろ)の六座に、吉備聖霊(きびのしょうりょう)と火雷天神(からいのてんじん)を加えた八座、即ち八所御霊(はしょごりょう)を出雲路(いずもじ)(上京区)の地に奉祀(ほうし)したのが始まりである。

 いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊(おんりょう)によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。

 当初、御霊(ごりょう)神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。
古来より、京都御所の産土神(うぶすなかみ)として崇敬され、享保(きょうほう)年間(一七一六~一七三六)に霊元(げんれい)天皇が当社に行幸し、震筆(しんぴつ)の祈願文を納めている。

 本殿は、寛政三年(一七九一)に仮皇居の内侍所(ないしどころ)を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。

 境内の垂加(すいか)社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎(やまざきあんさい)を祀(まつ)っている。

京都市

現地立札より

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下御霊神社 歴史年表
㋑平安時代 貞観5年(863年)

5月20日、神泉苑において御霊会(ごりょうえ)が修せられる(御霊会の最古の記録)

此の時に祀られた六名の御霊(ごりょう)が当社の御祭神に含まれる事から、この御霊会を由緒としている

㋺鎌倉時代

鎌倉初期には元の位置から 現在の新町出水あたりに遷っていたと思われる
上下御霊社の祭礼について 剣鉾をはじめ風流を極め 天皇・上皇が桟敷にて御覧になった事が公家の日記等に記されている

㋥南北朝

火災などにより その都度様々な場所に遷っていた

正中元年(1324年)正一位の神階を授かる

室町時代

応仁の乱の兵火により 御神体を奉じて北山花園村にしばらくの間遷り 祭礼の中断を余儀なくされる
再び新町出水辺りに戻り 少しづつ復興していて
『洛中洛外図屏風上杉本』には本社(ごりょう)と当時にはあったと伝わる御旅所(下ごりょうおたび所)が描かれている

㋩安土桃山時代 天正十八年(1590年)

豊臣秀吉の京都区画整備にともない 寺町通と称せられる如く 多くの寺と共に現在地に遷座される

江戸時代

・延宝4年(1674年)当時の神主が江戸前期の儒者であり神道家であった山崎闇斎(垂加神道の創始者)の弟子となり、後に闇斎先生の神霊を猿田彦社の相殿に垂加社として祀る
・宝永5年(1708年)宝永の大火により 当社も全焼する

・宝永6年(1709年)仮皇居の内待所旧殿を下賜される
 東山天皇 大宮神輿を御寄付せらる
 この頃には 神幸祭・還幸祭で仙洞御所・大宮御所の御門前に神輿を奉安し神主奉幣が恒例となる

・享保8年(1723年)霊元上皇 行幸
・享保12年(1727年)霊元上皇 参詣 願文を納め 京都御所の産土神とされる
・享保17年(1732年)霊元上皇 崩御

・天明8年(1788年)天明の大火により 土蔵以外は全て焼失
・寛政2年(1791年)光格天皇 仮皇居の内待所を下賜される〔現在の本殿〕

・・・・
・・・・

現地案内板より抜粋

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【由 緒 (History)】

下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)

由緒概略

本殿祭神は、何れも国家の為に御尽くしになった方々ですが、事に坐して冤罪を御受けになり遂に薨去せられたのであります。
平安時代の人々は、疫病が流行し災害が起こるのは貴人の怨霊が原因だと考え、慰和する事により御加護を得る「御霊会」が各所て行われるようになりました。
文献上最古の御霊会は貞観五年 (八六三年 )五月二十日に神泉苑にて行われたもので、その時に祀られた御霊六座に二座加わった八座が当社の御祭神であります。
かくして疫病退散、都民擁蔭、朝廷御守護の神社として崇敬されてきました。

神社配布案内紙

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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】

境内の案内図は 公式HPより

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・本殿・透塀・中門〈拝所〉

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・拝殿〈寛政十年(一七九八)造築〉

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京都市指定有形文化財

下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)

 本殿 幣殿 拝所 南北廊 拝殿

 現社殿は、天明八年(一七八八)の大火で旧社殿が焼失した後、再建されたものである。

 本殿は天明八年に仮皇居の聖護院宮において造営された内侍所仮殿(ないしどころかりでん)を、寛政三年(一七九一)に移建したもので、仮殿造営当初の規模、形式をよく残している。本殿の前には切妻造(きりつまづくり)の幣殿(へいでん)(寛政五年)が取りつき、その前には更に唐破風造(からはふつくり)の拝所(はいしょ)(寛政五年)がつく。また、幣殿からは南北に入母屋造の廊(文政十三年・一八三〇)がのびている。

 本殿、幣殿、拝所そして南北廊が、屋根をそれぞれ交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は、市内の御霊社に特有のものであり、なかでも当社の社殿は造営の年代が古く貴重である。

 また、拝所の前方に独立して建つ拝殿(はいでん)は、寛政十年に造営されたものである。

 昭和五十八年六月一日 指定 京都市

現地立札より

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〈本殿向かって左側の末社〉三社(伊勢・八幡・春日を祀る<三社託宣>社)

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三社とその信仰

 この社は三社(さんじゃ)と申しまして神明社(いせじんぐう)、八幡社、春日社をお祀りしています。
中世に始まり近世にかけて天照皇大神・八幡大菩薩・春日大明神の三社を併せて信仰することが流行し、託宣(神のお告げ)が書かれた掛軸などの刷り物が出回ることで庶民に広まりました。

 逸話を紹介しますと、当社猿田彦社の相殿に垂加社としてお祀りしております山崎闇斎先生 (江戸時代の儒学・神道家)の御家では、先生の祖父君が毎日朝晩に心身を清めてから掛軸の前にお座りになり託宣を大声で唱え、子供たちに敬神と道徳を厳しく教えたと伝えられております。

八幡(清浄)

鉄玉(てつびん)を食(しょく)すと雖(いえど)も
 心穢(けが)れたる人の物を受けず、
銅焔(どうえん)に座(ざ)すと雖(いえど)も
 心濁(にご)りたる人の処(ところ)に到(いた)らず

〔たとえ鉄の玉を食べようとも
心の穢れた人の物を食べてはいけない。
銅をとかすようなほのおの上に座っても
心の汚れた人の所へ行ってはいけない。〕

伊勢(正直)

謀計(ぼうけい)は眼前(がんぜん)の利潤(りじゅん)たりと雖(いえど)も
 必ず神明(しんめい)の罸(ばつ)に当たる、
正直(しょうじき)は一旦(いったん)の依枯(えこ)に非(あら)ずと雖(いえど)も
 終(つい)には日月の憐(あわれみ)を蒙(こうむ)る

〔はらりごとをめぐらすことは 目先の利益にはなるが
必ず神罰を受けることになろう。
正直を通すことは少し頑固で独善に 見られるかもしれないが
最後には日月の恵みを受けるであろう。〕

春日(慈悲)

千日の注連(しめ)を曳(ひ)くと雖(いえど)も
 邪険(じゃけん)の家には到(いた)らず、
重複深厚(じゅうふくしんこう)たりと雖(いえど)も
 慈悲(じひ)の家に赴(おもむ)くべし

〔長い間不幸のない家であっても
邪な心をもった人の家へは行かないこと。
父母の喪に服しているような家でも
慈悲の心をもった人の家へ行くがよい。〕

現地案内板より

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・神明社《主》天照大御神、豊受大神

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・八幡社《主》八幡大神

・春日社《主》春日大神

・猿田彦社《主》猿田彦大神
 垂加社《相殿》山崎闇斎の御神霊

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山崎闇斎(やまざきあんさい)先生

先生は夙に敬神の念篤く、儒家にして神道の説を立て、大義を明にし名分を正しくし、門下及びその末流に多くの英傑及び志士を出し、幕末の勤王思想、国民自覚精神鼓吹の大なる先覚者であります。

この垂加社の起源は当時の神主 出雲路信直(通称 板垣民部)が先生の門弟であったこともあり、先生在世中に猿田彦社相殿として祭祀せられたのであります。

毎年二月二十二日には社家 出雲路家に相伝されている関係資料を社務所にて展覧致しております。

神垂祈祷(じんすいきとう)  冥加正直(みょうがしょうじき)

『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』の「神垂以祈祷為先(かみはたるるにねぎごとをもってさきとなし)冥加以正直以本(くらきはくはふるにしょうじきをもってもととなせり)」の語句に由来します。

その意味は「神の恵みをうける(垂る)ためには人として祈祷が第一で、神慮が加わる(冥加)ためには人として正直をもってするのが根本である」ということで、祈祷と正直によって神の恵みをうける事ができるとするものです。これが垂加神道の修行の境地といえるでしょう。

当社の御札には鎮疫の御札と共にこの言葉を記した御札が入っております。

現地案内板より

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・稲荷社《主》稲荷大神

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・手水舎

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・大国主命事代主命社《主》大国主命、事代主命
・五社相殿社《主》日吉大神、愛宕大神、大将軍八神、高知穂神、斎部神

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・天満宮社《主》北野大神

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・宗像社《主》田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命

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・正門

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・社頭・鳥居

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

上御霊神社と下御霊神社は 両御霊社と称されます

・上御霊神社(京都市上京区上御霊竪町)

一緒に読む
上御靈神社(京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)

上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は 平安時代 御霊の祟りを恐れ 貞観5年(863)御霊会が修せられたのが 両御霊神社の創祀と云う 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある出雲氏の氏寺・上出雲寺に祀られた鎮守社 二つの式内社〈出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)出雲髙野神社(いつものたかののかみのやしろ)〉の論社です

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

京畿七道諸神267社に 神階の奉授が記されています
出雲井於神は 從五位下から從五位上へ と記されます

【抜粋意訳】

卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申

○廿七日甲申

京畿七道諸神に  階(くらい)ひ つ 二百六十七社あまり

奉授
淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品 吉備都彦命二品

神祇官
 无位 神産日神。高御産日神。玉積産日神。生産日神。足産日神 並從一位。
 无位 生井神。福井神。綱長井神。波比祇神。阿須波神。櫛石窓神。豐石窓神。生嶋神。足 嶋神 並從四位上。

宮内省
 從三位 園神。韓神 並正三位。
 大膳職正四位下 御食津神 從三位。
 左京職從五位上 太祝詞神。久慈眞智神 並正五位下。
 大膳職從五位下 火雷神。大炊寮從五位下 大八嶋竈神八前。齋火武主比命神。内膳司從五位下庭火皇神。造酒司從五位下大戸自神 等並從五位上。
 无位 酒殿神 從五位下。

山城國
 正二位勳二等 松尾神從一位。葛野月讀神。平野 今木神 並正二位。
 正四位下 稻荷神三前 並正四位上。
 正四位下 大若子神。小若子神。酒解神。酒解子神 並正四位上。
 平野從四位下 久度古開神 從四位上。
 正五位上 貴布禰神。正五位下乙訓火雷神。從五位上水主神等 並從四位下。
 正五位下 合殿比神 正五位上。
 從五位下 樺井月讀神。木嶋天照御魂神。和攴神 並正五位下。
 從五位下 祝園神。天野夫攴賣神。 岡田鴨神。岡田園神。樺井月神。棚倉孫神。許波多神。出雲井於神。片山神。 鴨川合神 等並從五位上
 正六位上 與度神。石作神。向神。簀原神。鴨山口神。小野神。久我神。高橋神。雙栗神。水度神。伊勢田神。无位小社神 並從五位下。

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次

月次祭つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」

大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています

【抜粋意訳】

月次祭つきなみのまつり

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 三百四座 並大社 一百九十八所

座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、

前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
 右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
 紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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『延喜式Engishiki)』巻2四時祭下中の相嘗祭神七十一座

【抜粋意訳】

巻2 神祇2 四時祭下 十一月祭
相嘗祭神(あひむへのまつりのかみ)七十一座

出雲井上社一座

絹二疋、絲一絇一両、綿三屯、調布三端四丈、庸布一段一丈三尺、木綿一斤十両、堅魚二斤十両、鮑十両、海藻二斤、凝海藻三斤、腊四斤、塩一升、筥一合、瓼、缶、水瓫、山都婆波、小都婆波、筥瓶、酒垂、匜、等呂須伎、高盤、片盤、短女坏、小坏、筥坏、陶臼各二口、酒稲五十束、〈神税、〉

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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『延喜式Englishmen)』巻2 四時祭下 新嘗祭

嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り

式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ

春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する

【抜粋意訳】

新嘗祭(にいなめのまつり)

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所

座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺

前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)

[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ]いつものゐのうへの かみのやしろ
[Old Shrine name]Itsumo no ino uheno kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 山城國 愛岩郡 出雲井於神社(大 月次 相嘗 新嘗)(いつものゐのうへの かみのやしろ)の論社について

・出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉

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出雲井於神社〈比良木大明神〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉

出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)は 式内社 山城國 愛岩郡 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)であり 出雲郷の総社が「井於〈川=鴨川の辺〉」に鎮座する意味があります 又 厄年の御祈願で神社の周りに御献木すると ことごとく柊の葉の様にギザギザになり お願い事が叶うと云い 比良木社(柊社)とも呼ばれます

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・井上社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉

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井上社〈御手洗社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内社〉

井上社(いのうえのやしろ)は 賀茂斎院の御禊や解斎 関白賀茂詣の解除に参拝された御手洗社(みたらしのやしろ)で 旧鎮座地は 高野川と鴨川の合流地東岸〈文明二年(1470)焼亡〉文禄年間(1592~96)ここに再興〈井戸の井筒の上に祀られ井上社と呼ぶ〉式内社 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)の論社です

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・上御霊神社(京都市上京区上御霊竪町)

一緒に読む
上御靈神社(京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)

上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は 平安時代 御霊の祟りを恐れ 貞観5年(863)御霊会が修せられたのが 両御霊神社の創祀と云う 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある出雲氏の氏寺・上出雲寺に祀られた鎮守社 二つの式内社〈出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)出雲髙野神社(いつものたかののかみのやしろ)〉の論社です

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・下御靈神社(京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)

一緒に読む
下御靈神社(京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)

下御靈神社(しもごりょうじんじゃ)は 平安時代 御霊の祟りを恐れ 貞観5年(863)御霊会が修せられたのが 両御霊神社の創祀と云う 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある出雲氏の氏寺・下出雲寺の御霊堂に祀られた鎮守社で 社家は代々出雲路家が司り 延喜式内社 愛岩郡 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)ともされます

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京阪本線 神宮丸太町駅から 鴨川の丸太町橋を渡り 丸太町通を西へ約450m 徒歩7分程度

京都御苑の東南に位置します

下御霊神社京都市中京区寺町通丸太町下る)に参着

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一礼をしてから鳥居をくぐり抜けると すぐに正門が構えていて その先が境内となっています

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拝殿にすすみます

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拝所は 本殿前の中門にあります

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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御霊祭 天保絵図 が飾られていました

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 出雲於神社大月次相嘗新嘗)について 所在は゛下鴨村 御祖社東井ノ上に在す゛〈現 井上社〈御手洗社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内〉と記しています

又 別の説として ゛橘経亮云、今の柊(ヒラキ)社也、古は別に在しを、後に今のに移たる也゛〈現 出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉〉を挙げるが 間違っているであろうと記しています

【抜粋意訳】

出雲於神社 大月次相嘗新嘗

出雲は以都毛と訓べし、和名鈔、郷名部出雲、假字上の如し」井於は井乃倍と訓べし、和名鈔、郷名部河内國 志紀郡 井於、假字上の如し

○祭神 御井神歟

○下鴨村 御祖社東井ノ上に在す山城志

○式二、四時祭下相嘗祭神七十一座、〔中略〕出雲井上社一座、

○御祖社の末社也

類社
 摂津國 島下郡 井於神社、
 〔鍬靫和泉國 和泉郡 泉井上神社、
 但馬國 養父郡 井上神社、

連胤按るに、各國 御井神を、祭れるや否、今考ふに便なし、

神位
 三代録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授山城國從五位下 出雲井於神 從五位上、

橘経亮云、今の柊(ヒラキ)社也、古は別に在しを、後に今のに移たる也、祭神は素盞嗚尊也、云々、
伴信友云、丹波國 桑田郡 出雲神社と同神なるべし、云々、
一宮記に、出雲井於神社 大巳貴命妻 三穂姫也、といへるも由ありてきこゆと云る、

共に信用がたし、柊社は  御祖社の内坤方に坐し、井於神社は 同東方に坐す事現に知られたり、また素盞嗚尊を祭るといふも、出雲の名によれるなるべし、

また一宮紀に、云々、三穗津姫といへるは、丹波一宮 出雲神社の下にあるにて、爰の井於神社の事にあらず、もとより此井於神社当國一宮ならねば、一宮紀に戴すべきにあらず、皆杜撰の臆断也、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 出雲於神社大月次相嘗新嘗)について 所在は゛今 出雲郷 下鴨社の楼門内 西傍 柊木社 即是也゛〈現 出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉〉と記しています

【抜粋意訳】

出雲於神社

今 出雲郷 下鴨社の楼門内 西傍 柊木社 即是也、〔神名帳考、式社考証、〕
柊木社、又 地主明神 或は氏神社といふ、〔長秋記、帝王編年記、〕
盖 素戔嗚命を祀る、〔御祖社傳説〕

清和天皇 貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授く、〔三代
醍醐天皇 延喜の制、大社に列り、月次相嘗雑嘗祈年案上の幣に預る、〔延喜式〕
鳥羽天皇 元永二年十一月壬申朔、御祖神体を地主明神に移し置奉る、即是也、〔帝王編年記〕
順徳天皇 健保四年四月乙卯、上皇賀茂行幸の時、此社に詣給ひき、〔後鳥羽院宸記〕

凡 本社神官、禰宜あり、みな鴨縣主を以て之を補さる、〔鴨縣主系圖、賀茂注進雑記、〕

凡 毎年四月十一月上申日、賀茂神官等此社に來て幣を奉り、氏神祭を行ふ、〔賀茂年中行事次第、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 出雲於神社大月次相嘗新嘗)について 所在は゛御祖神社楼門内西傍(下鴨)〇稱 比良木社゛〈現 出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉〉と記しています

別の説として゛御祖神社の東側の井幹の上の社これなりと云るは甚しき誤なり゛と記し〈現 井上社〈御手洗社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内〉とするのは誤りであると記しています

【抜粋意訳】

出雲(イヅモノヰノウヘノ)神社大月次相嘗新嘗

〇稱 比良木社

祭神

今按 木社祭神 素戔嗚尊とあれど 帝王編年記 元永二年十一月一日鴨ノ御祖ノ社 焼亡の條に 御體云々 奉移ニ地主明神ノ神殿〔號ニ 比良木明神〕とみえ
長秋記に賀茂下社 氏神社〔件ノ社 本社外廻廊 西南也〕とあるによるときは 賀茂縣主の氏神 建角身命を祭れるにや

神位
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申 奉レ授ニ山城國 從五位下 出雲井於神 從五位上

祭日 十月二十三日
社格 賀茂御祖神社摂社

所在 御祖神社楼門内西傍(下鴨)

今按 御祖神社註進状に 地名の出雲は祭神に由緒ある名にて 昔時の上出雲郷と云邊にて今も此社の西北の大路を出雲大路と云ひ 又 比良木社より二十間許東北にいと大なる井ありて 四時共に美泉涌出るが故に 出雲井於神社とは云るなり
さるを瀬見小河に 出雲井於神社は 御祖神社の東側の井幹の上の社これなりと云るは甚しき誤なり 其證に 今 井幹の上に小社ありて 井上社と云は 文祿叫年祝秀延が建たる趣社記に明なるが 上に今泉亭俊彦が家に所藏の社頭古圖には 只井のみ有て 社また井幹杯も見えず 又 鴨脚秀文が家に所藏の古圖には 只井のみ有て社なし 然れば此社は 此社頭の圖を作れるより後 文祿四年に祝秀延が建たること諭なきを 今 井上社と唱來れるは 後人の附會なることいといと明也と云り 故今之に從ふ

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

下御靈神社京都市中京区寺町通丸太町下る)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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山城国 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)

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山城國 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)

山城国(やましろのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 山城国 の122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)の神社のことです

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