志磨神社(しまじんじゃ)は 神功皇后の創建との伝承があり 正史の『六国史』に゛志摩神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 志磨神社(名神大)(しまの かみのやしろ)と載り 伊達神社 静火神社と共に紀州三所神と呼ばれた名社です 中世に廃絶 所在不明となり 元和年間(1615~24年)中之島の小祠゛九頭明神゛を志磨神社と定め 紀州徳川家により再興されました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
志磨神社(Shima shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県和歌山市中之島677
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》中津島姫命(なかつしまひめのみこと)
亦名 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
《配》生國魂神(いくだまのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・生成発展縁結びの神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
御由緒
御祭神 中津島姫命(なかつしまひめのみこと)
配 祀 生國魂神(いくだまのかみ)御創建は悠久の昔、今より約千八百年前 神功皇后三韓征伐の御神助を厚く征謝され凱旋後、武内宿禰をして奉斎せしめられた。
御社格 延喜式内名神大社 縣社 御神階正一位
大同元年 朝廷より神領七戸を寄せられた志磨神戸(和名抄)と云う
古来朝野の信仰厚く 神域広大社殿宏壮を誇ったが 南北朝時代 神職領民等吉野朝に味方した為 神領封戸の没収に遭ひ 其の後 足利義満公再興 更に天正年間 豊臣秀吉 紀州征伐の時 郷党郷土防衛の為 応戦兵火に罹って焼亡した
紀伊國名所圖繪にこの事を嘆じて「今の結構は古の五ヶ一にも足らず」と有る
徳川時代に入り藩公の崇敬有り 特に明治以降一般の崇敬厚く 社運勃興の途についた 生成発展縁結びの神として尊崇をあつむ拝殿の案内板より
由緒
当神社は延喜式名神大社 臨時祭に預り朝廷の尊宗篤く、1,700年前仁徳天皇、紀伊国名草郡志磨神社再興の事等、皇室との関係深かった事が伺い知れる。
悠久の昔、紀之川の中洲が堆積して、発達したこの地に氏神として祀られた当社は、紀州三弁財天(伊達神社、静火神社)九頭(国津)信仰などにより、この地を開いた神恩を忘れず、農工商すべての世の幸を増進する人間生活の守護神として、縁結び、治病、交通安全、建築、土木、商工業繁栄の祈願が今も多く、参拝者の姿に観ることが出来る。
『新抄格勅符抄』に大同元(806)年神封七戸寄せ奉るとあり『続日本後紀』、『文徳実録』巻二(正四位上)、巻二十七(従三位)『紀伊国神名帳』(正一位)となって、神階が各々進められ、朝廷の尊崇篤かりしことを伺い知れる。
伊達神社、静火神社に較べれば『和名類聚』巻九「紀伊国名草郡島神戸」と、当社のみ神戸が寄せられているのは、特筆である。
中世にあっては『紀伊国続風土記』巻之七に「志磨の神社境内周百二十六間鳥居前禁殺生、本社、神楽所、庁、鳥居二基、攝社二社、末社十社……、此地紀之川下流にありて地形変遷せし事なれば、当社も又少々移転して往古より今の地にあり……、後世戦争の世となり神戸没収せられ古の姿失ひたれとも慶長検地のとき其の地又没収せられ、社殿旧記天正の兵燹に悉く烏有となり其の詳なる事知るべからず元和の後名祠の廃絶を起され新に社殿を再創し漸々旧観に復し給へり……」とあり天正年間以来10度の火災に逢った事は、現存する10枚の棟札によって証明出来る。
雑賀一揆、根来攻め等当時の和歌山の様子が伺い知れる。
現在の本殿は宝歴6(1756)年に造営されたものである。
いずれにせよ生気凛々清楚にして、瑞々しい女神であり、四季の祭典賑々しく厳修され、7月14日15日の夏まつりは、市内一の風物詩として知られ、数万人の参拝客で賑わう。
(社叢)
境内は楠、椋、銀杏、樫、松、杉、榊等の常緑樹で、鎮守の森にふさわしい様子を呈している。
和歌山県神社庁HPより
https://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=1032
【由 緒 (History)】
由緒
新抄格勅符抄に、大同元年(406)紀伊国志磨神社へ神封七戸寄奉るとあり、御祭神 中津姫命(市杵島姫命)は、天照大神、素戔嗚尊との、御誓約の3神の一つにして、生気凛々、清楚にして、瑞々しい女神様であり、古典続日本後記14に、承和11年(844)正五位下、文徳実禄に貞観元年(858)正三位、17年(875)正三位、紀伊国神明帳に正一位と神階が進められた史実によっても、当社が悠久の昔より連綿と続いているのは明らかである。
特に延喜式名神大社臨時祭に預かり朝廷の尊宗篤く、千六百数十年前、仁徳天皇 紀伊国名草郡 志磨神社 再興の事等、皇室との御関係が深かった事が伺い知れる。
また往古、紀之川の中州が堆積して、発達したこの地に氏神として祀られた当社は、氏子崇敬者の信仰ことのほか厚く、紀州三弁財天、九頭(国津)信仰などにより、この地を開いた神恩を忘れず、農・工・商すべての産業開発等、世の幸を増進する人間生活の守護神として、縁結び、治病、交通安全、建築、土木商工業繁栄の祈願が今も多く、参拝者の姿に観る事が出来る。
中世氏子神領民吉野朝時代に至って南朝に参じ神領封戸を失い、下って天正年間の兵乱等の社殿焼失を入れると実に、明治33年の造営まで10度の御本殿再興遷宮が行われている。(この項現存する棟札、明徳、応永、宝徳、文明、天文、天正、慶長、寛永、延宝、享保により明らかなり)浅野家、徳川家の藩主時代、自ら参拝、崇敬の誠を捧げられ享保四年現在の社頭整備が行われた。
古文書類、記録は枚挙にいとまが無く省略するが、昭和十七年県社に昇格、大戦にも類焼をまぬがれ、戦前の氏子4318戸も終戦後2500戸になり、現在は(中之島、本町地区一部、大新地区一部、宮北地区一部、4ケ郷地区一部、有本一部)その他で9000戸に増え、四季の祭典賑々しく厳修され、戦後数回の社頭整備がなされ現況に至っている。
7月14日の夏祭は和歌山市随一の風物詩として知られ、数万人の参拝客で賑わう。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・天照皇大神宮 弁財天社 蛭子神社
・久嶋神社 宇佐八幡神社 八坂神社
・国津神社 天満社 琴平神社
・稲荷神社 月読神社 医祖神社
・焼火神社 猿田彦神社
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
紀伊國には 10座の名神大社が記されています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・日前神社 一座
国懸神社 一座
伊太祁曽神社 一座
大屋都比賣神社 一座
都麻都比賣神社 一座
鳴神社 一座
伊達神社 一座
志磨神社 一座
静火神社 一座
須佐神社 一座
巳上 紀伊國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊國 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 名神大社
[旧 神社 名称 ] 志磨神社(名神大)
[ふ り が な ](しまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shima no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『六国史』に記される ゛紀三所神゛〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕について
紀伊國の式内社〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕の三神は ゛紀三所神゛or゛紀三所社゛と称されます
〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕の三神の関係は古く 国史には(844~875年)に渡り 三神が並んで神階を奉り授かっています
その際は 必ず三神が同時の神階ですので
古来
「是を以て考ふるに伊達(イダテ)を一ノ宮とし 志摩(シマ)を二ノ宮とし 靜火(シツヒ)を三ノ宮とすと見えたり」と云われいています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
紀伊國・志摩神・伊達神と並び 靜火神に神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十四 承和十一年(八四四)十一月辛亥〈三〉
○十一月己酉朔辛亥
奉授に
紀伊國 從五位下 志摩神 伊達神 靜火神に 並正五位下を
【原文参照】
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
紀伊國・伊達神・志摩神と並び 靜火神に從四位下の神階が加えられた事が 記されています
【抜粋意訳】
卷二 嘉祥三年(八五〇)十月乙丑〈廿一〉
○乙丑
紀伊國 伊達神 志摩神 靜火神 並に加ふ 從四位下を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
全国〈京畿七道諸神〉の 進階及新叙 惣二百六十七社とともに 紀伊國 伊達神 志摩神 靜火神 の三神が 並正四位下を奉授されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品
・・・・
・・・・紀伊國
從四位下 伊達神 志摩神 靜火神 並正四位下
從五位下勳八等 丹生都比賣神 伊太祁會神 大屋都 比賣神 神都摩都比賣神 鳴神 並從四位下
從五位下 須佐神 熊野早玉神 熊野坐神 並從五位上
【原文参照】
紀伊國・伊達神・志摩神と並び 靜火神に從三位が叙せられています
【抜粋意訳】
卷二十七 貞觀十七年(八七五)十月十七日丙寅
○十七日丙寅
紀伊國 正四位上 伊達神 志摩神 靜火神に 並に授くに從三位を
【原文参照】
『住吉大社神代記』に記される 船玉神社の御祭神゛船玉神は 紀国の紀氏の祀る神 今云う 紀伊三所の神゛
『住吉大社神代記』では 船玉神について
「船玉神 今謂 齋祀 紀国 紀氏神 (志麻)神 静(火)神 伊達神 本社」とあり
つまり【船玉神は 紀国の紀氏の祀る神 今云う 紀伊三所の神「・伊達神〈現 伊達神社(和歌山市園部)・志麻神〈現 志麻神社(和歌山市中之島)〉・静火神〈現 静火神社(和歌山市和田)〉〉の本社である】と記しています
『住吉大社神代記・船木等本記』には
「大幸還上賜 其御舩令レ奉二齋祀武内宿禰一 志麻社 静火社 伊達社 此三前神也」とあり
つまり【紀伊三所の神「・伊達神〈現 伊達神社(和歌山市園部)〉・志麻神〈現 志麻神社(和歌山市中之島)〉・静火神〈現 静火神社(和歌山市和田)〉」の神々は 武内宿禰によって 御船の御魂として祭祀された】と記しています
・船玉神社〈住吉大社境内 摂社〉(大阪市住吉区)
船玉神社(ふなたまじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 船に祀った守護神とされ 由緒には「船玉(船魂)とは 船舶そのものの神霊で 住吉大神とは表裏一体の関係として尊崇され 時には住吉大神の荒魂とされる」とあり 住吉大社の境内摂社ですが 元々は第四本宮〈神功皇后〉の前 海に向かって 4つの本宮の先頭に鎮座していたと伝わっています
船玉神社〈住吉大社境内摂社〉(大阪市住吉区)
『住吉大社神代記(すみよしのおほやしろ かみよのしるし)』について
住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記(すみよしのおほやしろ かみよのしるし)』は 住吉大社の神官が大社の由来を神祇官に言上した解文(げもん)とされ 成立は天平3年(731年)7月3日と巻末に記されていますが 10世紀頃の成立と考えられています
元来 神代記は秘中の書として秘蔵されていて 社家の人間でも拝観は許されなかったが 明治以降に拝観が許され始めた
『住吉大社神代記』に記される 紀伊三所の神〈・伊達神・志麻神・静火神〉について
『住吉大社神代記』に記される 紀伊三所ノ神〈・伊達神・志麻神・静火神〉は いずれも延喜式内社の名神大社で
船玉神は この 紀伊三所ノ神 の本社ともされます
各々の論社です
紀伊国 名草郡 伊達神社(貞・名神大)(いたての かみのやしろ)
・伊達神社(和歌山市園部)
伊達神社(いたてじんじゃ)は 『六国史』に゛伊達神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)と載る名神大社です 神名「伊達」は伊太氏により山東庄に鎮まる伊太祁曾神と同神とされます 志磨神社 静火神社と共に紀州三所神とされ その一之宮として里人は゛一宮大明神゛とも゛園部一の宮゛とも称え奉ると云う
伊達神社(和歌山市園部)
・水門吹上神社(和歌山市小野町)
水門吹上神社(みなとふきあげじんじゃ)は 『古事記』に云う゛男之水門゛であると伝えられる地〈神武天皇が御東征のみぎり 御兄の彦五瀬命が 和泉で長髄彦の流失に当り 出血甚だしく 崩御されたと言われる旧跡地〉に鎮座します 延喜式内社 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)の論社でもあります
水門吹上神社(和歌山市小野町)
紀伊国 名草郡 志磨神社(貞・名神大)(しまの かみのやしろ)
・志磨神社(和歌山市中之島)
志磨神社(しまじんじゃ)は 神功皇后の創建との伝承があり 正史の『六国史』に゛志摩神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 志磨神社(名神大)(しまの かみのやしろ)と載り 伊達神社 静火神社と共に紀州三所神と呼ばれた名社です 中世に廃絶 所在不明となり 元和年間(1615~24年)中之島の小祠゛九頭明神゛を志磨神社と定め 紀州徳川家により再興されました
志磨神社(和歌山市中之島)
紀伊国 名草郡 静火神社(貞・名神大)(しつひの かみのやしろ)
・靜火神社(和歌山市和田)
静火神社(しずひじんじゃ)は 『六国史』に゛靜火神゛『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)と載る名社ですが 永仁以前(~1293年)には既に廃絶して社伝・創建年代等は不詳 『国造家記』の記録には「日前神宮・國懸神宮」境内「草ノ宮」で「静火祭」の神事祭祀が 暦応~應永年間(1338~1428年)も継続していたと記されます
静火神社(和歌山市和田)〈延喜式内社 名神大社〉
・靜火神社 旧社跡(和歌山市和田)
静火社 舊地(しずひのやしろ きゅうち)は 神功皇后の御創建とされる 延喜式神名帳 名神大 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)の旧鎮座地です 静火社の御社殿は古来より度々の浸水に遭い 今は天霧山の山上に祀られていますが 和田の氏神の社として永くこの地に祀られていた事を後世に伝えるために石碑が建てられていました 老朽化のため再建されました
静火社 舊地(和歌山市和田)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
南海本線 和歌山市駅から約1.7km 車6分程度
JR紀伊本線 紀和駅から約250m 徒歩1分程度
和歌山市内の北大通り沿いに鳥居が建ちます
志磨神社(和歌山市中之島)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 参道を進みます
神門が構えています
一礼をして神門をくぐり 境内を進みます
右手にある手水舎で清めてから
拝殿にすすみます
扁額には゛志磨明神゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『紀伊続風土記(KizokuFudoki)』〈天保10年(1839)完成〉に記される伝承
志磨神社(和歌山市中之島)について ゛當社 及 伊達社〔貴志ノ庄園部村〕靜火ノ社〔神宮下郷和田村〕と三神一連の神なれは 紀三所の神といふ゛と記しています
【抜粋意訳】
紀伊續風土記 巻之七 名草郡第二
雑賀荘 中野島村(ナカノシマ) ○志摩神社
境内周百二十六間 鳥居十八間 七間半 禁殺生
本社 神樂所 廰 鳥居二基
摂社二社 祇園社 蔵王権現社
末社十社 天満宮 大神宮 稲荷社四社 金毘羅社 大己貴 少彦名社 樟日社 蛭兒社延喜式神名帳 名草郡 志摩ノ神社 名神大
本國神名帳 名草郡 正一位志摩ノ大神村中にあり
續日本後紀 承和十一年(844年)奉授ニ紀伊國 従五位下 伊達ノ神 志摩ノ神 靜火ノ神 正五位下
文徳實録 嘉祥三年(850年)三神加フ従四位下
三代實録 貞観元年(859年)奉授ニ三神ニ正四位下ヲ 同十七年 奉授三神ニ従三位ヲとあり 其後 三神とも正一位を授へ奉らる 志摩の御名は當村に鎭座の御神なれはなり當社 及 伊達社〔貴志ノ庄園部村〕靜火ノ社〔神宮下郷和田村〕と三神一連の神なれは 紀三所の神といふ
〔紀三所の名は三社を合せ稱する名なれとも 後には其稱轉て 又 各社をも皆紀三所と稱せしと見ゆ〕祀神は即 伊太祁曾神 大屋津姫神 妻津姫神 三神なり 然れとも伊達の一社は 伊太祁曾神を祭れる證あれとも 志摩靜火に至ては 何れを大屋津姫とも 何れを妻津姫とも定むへき證なし
〔事は詳に貴志ノ庄園部村伊達神社の條に辨せり〕此地 紀ノ川の下流にありて 地形屢變遷せし事なれは 當社も亦 屢移轉して 徃古より今の地に座するにはあらしと思はる
當社 土人相傳えて 九頭明神といふ 是は後世 大國主神を合せ祀りて 後には専ら合せ祀れる神名を唱へて通稱とはなれるなるへし
〔刺田彦神社に大國主神を合せ祀りて後世は唯九頭明神と唱へ伊達神社に素盞烏尊を合せ祀りて後世は唯祇園牛頭天王と唱へしと同し例なり〕當社 古は今の當荘の地を以て 神戸に寄られ 島神戸といふ 當社 舊 伊達靜火と三社一連なれとも 殊更に神戸を寄られしを見れは 朝廷の御崇敬格別なる神と見えたり
後世 戰争の世となり 神戸没収せられ 古の姿は失ひたれとも 慶長以前(~1596年)は 猶社領 田畠五段あり慶長検地のとき 其地又没収せられ 社殿舊記 天正の兵火に悉く鳥有となり その詳なる事知るへからす
元和の後(1615年~)名祠の癈絶を起され 新に社殿を再創し 漸々舊觀に復し給へり
〔神宮上郷新在家村の傳に 志摩神社は 舊は新在家にあり 後に中野島に移すといふ 其説證據なし 傳聞の誤なるへし〕古き石燈籠一基あり 銘に應永六年とあり神主島氏なり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 志磨神社について 所在は゛中嶋村に在す゛〈現 志磨神社(和歌山市中之島)〉と記しています
【抜粋意訳】
志磨神社 名神大
志磨は 假字也
〇祭神 中津嶋姫命歟
〇中嶋村に在す、例祭九月廿九日 ,
〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕紀伊國 志磨神社一座、
神社録云、按ルニ中津嶋姫命 ,此地ニ鎭坐アルニ依テ、社邊ヲ中ノ島卜稱シ、亦中洲卜號ス、
績日本後紀、承和十一年十一月辛亥、奉授ニ 紀伊國 從五位下 志摩神 正五位下
文德實録、嘉祥三年十月乙丑、紀伊國 志摩神 加ニ從四位下
三代實錄、貞観元年正月廿七日甲申、奉授ニ 紀伊國 從四位下 志摩神 正四位上、同十七年十月十七日丙寅、紀伊國 正四位上 志摩神 授ニ從三位、本國神名帳、正一位志摩大神
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 志磨神社について 所在は゛雑賀庄中野島村に在り、九頭明神といふ゛〈現 志磨神社(和歌山市中之島)〉と記しています
【抜粋意訳】
志摩(シマノ)神社
今 若山の東、雑賀庄中野島村に在り、九頭明神といふ、〔陽國名跡志、紀伊神社略記、紀伊續風土記、紀伊式社考、〕
平城天皇 大同元年、島神に神封七戸を充奉り、〔新鈔格勅符〕
仁明天皇 承和十一年十一月辛亥、從五位下 志摩神に正五位下を授奉り、〔績日本後紀〕
文徳天皇 嘉祥三年十月乙丑、從四位下に進め、〔文徳實錄〕
清和天皇 貞観元年正月廿七日甲申、正四位上に叙され、十七年十月十七日丙寅、從三位を加へ、〔三代實錄〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に預らしむ、〔延喜式〕
凡 毎年六月十五日、御祓、九月廿九日秋祭 十一月十二日御火焼祭を行ふ、〔神社覈録、紀伊名所図会〕
凡 伊達、志摩、靜火の神、之を紀伊三所社と云ふ、〔神名帳頭注〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 志磨神社について 所在は゛中野島村(海草郡中島村大字中島)゛〈現 志磨神社(和歌山市中之島)〉と記し 祭神について 考証しています
【抜粋意訳】
志磨神社 名神大
祭神
今按 風土記 紀三所の神は卽 伊太祁曾神 大屋津姫神を祭れる證あれ共 志摩 静火に至ては 何を大屋津姫とも 何れを妻津姫とも定むへき證なし 當社をは 土人相傳へて九頭明神と云 是は後世 大國主神を合せ祀て後 合祀の神名を唱へて通稱とはなれるなるへしとみえ 式社考に或書に中津島姫 今又 都麻都比女命なと云へと 無稽の妄誕なりとて 九頭明神と云によりて 祭神 大國主神と定めたれと正しき證なけれはとらす
神位
仁明天皇 承和十一年十一月辛亥、從五位下 志摩神に正五位下
文徳天皇 嘉祥三年十月乙丑、從四位下を加へ、
清和天皇 貞観元年正月廿七日甲申、正四位上に叙され、十七年十月十七日丙寅、從三位祭日 九月二十九日
社格 村社
所在 中野島村(海草郡中島村大字中島)
【原文参照】
志磨神社(和歌山市中之島)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
紀伊国 式内社 31座(大13座・小18座)について に戻る
紀伊国(きいのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 紀伊国 31座(大13座・小18座)の神社です
紀伊国 式内社 31座(大13座・小18座)について