倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅五年(712)この地で綾錦を織ることとなり 丹後國一之宮 籠神社 海部直愛志(あまべのあたいえし)が勅命を奉じて 倭文神を祀り創建した 延喜式内社 丹後國 與謝郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされ 貞応二年(1223)ご神託があり 筬(おさ)村から現今の石崎の社に奉遷されました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
倭文神社(Shidori shrine)
【通称名(Common name)】
・石崎大明神(いしざきだいみょうじん)
【鎮座地 (Location) 】
京都府与謝郡与謝野町三河内(みごち)小字中坪1453
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天羽槌雄神(あめのはつちをのかみ)
〈別名〉建葉槌神(たけはつちのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・織物の祖神
・五穀豊穰 病難療養 商賣繁昌の霊現あらたかな神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
倭文神社の由来
当社は和銅五年(西曆七一二年)当時、この地域で綾錦を織ることとなり 丹後國一の宮 籠(この)神社 海部直愛志(あまべのあたいえし)が勅命を奉じて 倭文神(しどりのかみ)を祀ったのが創まりであります。
祭神である 倭文神の「倭文(しどり)」とは 上古の織物の意で 遠く神代の昔 織物を掌られた祖神 天羽槌雄神(あめのはつちをのかみ) 別名 建葉槌神(たけはつちのかみ)のことであります。
当社は延喜式内社 で官幣にも与り 醍醐天皇もご信仰あらせられ 祭祀も盛んに行われて参りました。
貞応二年(西曆一二二三年)には ご神託があり 筬(おさ)村から現今の石崎の社に奉遷され 爾来 一般には石崎大明神と尊称されています。
歷代の領主を始め衆庶の篤い信仰を集めた当社は従二位に叙せられ 昭和十九年 神祇院第十九第三三號を以て 府社に昇格されました。
平成二十四年十月 社務所
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
当神社は 祭神を天の羽槌雄の尊と申し上げ 延喜式内社であって 從二位に叙せられ 昭和19年11月20日付け神祗院第19第33號を以て府社に昇格されました。
終戦後 全般に社格は廃止されましたが 神代の昔 皇祖 天照大神 岩戸幽居の際 諸々の神たち深く憂虚され岩戸神樂を奏し大神をお慰めしようと香山の500の眞榊に天の羽槌雄命の織り成せる倭文(織物の名)など種々の幣を取りそへ調度を整へて捧げ給ふたので 大神深くお悦びになり再び世に出て給ひし事から 後世織物の祖神として奉祀するようになった神様であります。
当社は織物の祖神のみならず 五穀豊穰 病難療養 商賣繁昌の霊現あらたかな神として 古来 藩主を初め多くの参拝者の絶えない神社であります。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
『与謝郡誌』に記される内容
式内社 倭文神社は 筒川村に鎮座していて 三河内村は 式内社であるか疑わしいと記しています
しかし 現今 筒川村には倭文神社はありませんので 浦嶋神社のことかもしれません
【抜粋意訳】
第貳編 禮祀
第壹章 神社 第四節 指定村社四 倭文神社
三河内村字中坪鎭座、指定村社、祭紳羽槌雄之命、當社明細帳によれば天平勝寳の頃 筬村の森に鎭座ありて織物を始め玉ひ 延喜の頃 醍醐帝 御信仰あらせられ 後貞応対二年 今の地に奉遷せしとあるも如何に哉。
丹哥府志には石崎大明神と載せて倭文神社と云はず。延喜式に列する倭文神社は丹後旧事記、丹後一覧集、丹哥府志、丹後細見録皆筒川村にありとなす。
明治六年二月村社に列せられ 明治四十年三月一日 神饌幣帛料供進神社に指定せらる。氏子三百六戸、境内末社金刀比羅、穴之奥、七社の小祠あり拝殿、幣殿、神庫籠舎、社務所等整備せり。祭典五月壹日。當村小字梅谷に梅谷神社あり無格社にて荒神を祭り 他に奥山に愛宕、大道に恵美須、小谷に嚴島、森谷に稻荷、岡山に島峯等の祠あるも何れも無格社にて殆んど荒神を祀る。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・倭文神社 本殿
倭文神社本殿 一棟(登録)
与謝郡野田川町三河内 宗教法人 倭文神社
桁行一間、梁行一間、一重、入母屋造、向拝一間、軒唐破風付、銅板葺
建立年代:江戸時代後期 文政四年 (ー八二ー )〔歴代記〕倭文神社は、与謝郡野田川町三河内に所在する旧府社で、織物を始めた祖神という天羽槌雄神を祀る。創立に関しては詳らかでないが、当初は三河内の筬村に鎮座し、その後貞応二年 (ー二二三)に現在の地に遷座したと伝える。江戸時代には石崎大明神と称していたが、明治になって倭文神社と改められた。
本殿は入母屋造、銅板葺の標準的な規模の一間社で、正面に軒唐破風付の向拝を付ける。正・側三方に縁が廻り、正面に木階と浜縁が張られている。身舎正面には双折れ桟唐戸を、両側面には両開き板戸を立てる。内部は両開き板戸一扉で、前後に内陣と内々陣に分けられている。身舎柱は地長押、内法長押、台輪で固められ、組物は尾垂木付きの二手先組で、その上に化粧桁を廻した上に、もう一段三斗組物を置いて丸桁を載せ、垂木を受けるという特徴的なものである。向拝の組物は出組で、身舎と向拝の繋虹梁上にも組物を置き、天井は組入格天井につけられた向拝に天井を設ける例は、宮津・成相寺鎮守堂 (延宝・・・・
・・・
(吉田 理)現地説明より
・倭文神社 拝殿
・社殿向かって右の境内社
・社殿向かって左の境内社
・割拝殿
・境内参道の両部鳥居
・〈両部鳥居 向かって右手〉稲荷神社《主》宇賀魂命
・〈両部鳥居 向かって左手〉粟嶋神社《主》大己貴命,少彦名命
・境内参道 狛犬
・境内参道 狛犬
・境内参道 狛犬〈社務所前〉
・境内参道
・崇神徳の石碑
・倭文神社 古墳群
古墳時代中期(5世紀)と推定される20~30mの4基の円墳 三河内地区を代表する古墳群 背後の丘陵上
・社頭の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)與謝郡 20座(大3座・小17座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 倭文神社
[ふ り が な ](しとりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shitori no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の13社「倭文神社」と論社について
倭文氏の祖神「天羽雷命(アマハイカヅチノミコト)=建葉槌命」を祀る式内社とされ 各国に13社が記されています それぞれの現在の論社もご紹介します
1.畿内 大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社 大
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・葛木倭文座天羽雷命神社(奈良県葛城市)
・博西神社(奈良県葛城市)
2.東海道 伊勢國 鈴鹿郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・加佐登神社(三重県鈴鹿市)〈合祀先〉
3.駿河國 富士郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(静岡県富士宮市)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 古代 布織技術を誇った倭文氏が 祖神 健羽雷神(たけはつちのかみ)〈織物の神〉を祀った『延喜式神名帳927 AD.』所載の 駿河国 富士郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされます 又 鎮座地の星山は 星神として君臨して居た香々背男との関連も示唆し 常世国神(とこよのかみ)を奉じて大和朝廷に反した大生部 多(おおうべ の おお)〈不尽河〈富士川〉の辺に住む人〉の伝承にも通じています
倭文神社(富士宮市星山)
4.伊豆國 田方郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(伊豆市大野)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 伊豆市大野にある倭文山の山頂に鎮座する『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 式内社゛倭文神社(しとりの かみのやしろ)゛の論社です 縄文遺跡もあり この地が古くから 渡来文化(機織技術など)で開けていたことを示すものとされています
倭文神社(伊豆市大野)
・鍬戸神社(三島市長伏)
鍬戸神社(くわとじんじゃ)は 江戸期には 鍬手明神と云われていました 同じ境内地の中に 同じく延喜式内社の高橋神社〈東北東向き〉と背中合わせに 鍬戸神社の本殿〈南南東向き〉が並び建てらけて お祀りされています
鍬戸神社(三島市長伏)
・小坂神社(伊豆の国市小坂)に合祀
小坂神社(おさかじんじゃ)は 明治6年(1873) に 地区内各所に祀られていた17の神社が合祀されました その中の一祠は 古来から葛城山の山頂に鎮座し 合祀当時は 山麓の寺に遷されて小祠として祀られていた「葛城神社」〈式内社「倭文神社(しとりの かみのやしろ)」の論社〉です
小坂神社(伊豆の国市)
・聖神社(伊豆市月ヶ瀬)
聖神社(ひじりじんじゃ)は 聖ヶ森に鎮座していた聖宮大明神を明治9年(1876)この社殿に合祀し主神として祀ったものです 最古の上梁文に永正9年(1512)のものがあり 村名に「槻瀬村」とあり 現在の地名『月ヶ瀬』の由来を示す者とされています
聖神社(伊豆市月ヶ瀬)
5.甲斐國 巨麻郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社本宮(山梨県韮崎市)
・倭文神社降宮明神(山梨県韮崎市)
・諏訪大神社(山梨県甲斐市)
6.常陸國 久慈郡 靜神社 名神大
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・靜神社(茨城県那珂市)
7.東山道 上野國 那波郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(群馬県伊勢崎市)
倭文神社(しとりじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます
倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〈上野國九之宮〉
8.山陰道 丹後國 加佐郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(京都府舞鶴市)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 927 AD.延喜式内社 丹後國 加佐郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされ 創立は それより相当古くから当地に鎮座されていた云う 伝説によれば 一条天皇正暦元年(990)源頼光が大江山の鬼退治に出陣の途中 当神社に山伏の姿で武運の長久を祈願したとも伝えられています
倭文神社(舞鶴市今田 小字津ノ上)〈延喜式内社 倭文神社〉
9.丹後國 與謝郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(京都府与謝郡与謝野町)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅五年(712)この地で綾錦を織ることとなり 丹後國一之宮 籠神社 海部直愛志(あまべのあたいえし)が勅命を奉じて 倭文神を祀り創建した 延喜式内社 丹後國 與謝郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされ 貞応二年(1223)ご神託があり 筬(おさ)村から現今の石崎の社に奉遷されました
倭文神社(与謝郡与謝野町三河内)〈延喜式内社〉
10.但馬國 朝來郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社〈鮭の宮〉(兵庫県朝来市)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅5年(712年)創建された 延喜式内社 但馬國 朝來郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)と伝わります 正徳3年(1713年)遷宮の時 偶然下流から鮭が遡上し 村人達は めでたい前兆として喜び〈鮭の宮〉と呼ぶようになったと伝わります
倭文神社〈鮭の宮〉(朝来市生野町円山)〈延喜式内社論社〉
・妙見宮〈国常神社〉(兵庫県朝来市)
國常神社(くにのとこじんじや)は 北辰信仰の妙見宮(みょうけんぐう)とも呼ばれ 国常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀ります この地は 式内社 倭文神社〈鮭の宮〉(ここから500m程の 円山川の下流)の旧鎮座地 円山字鹽谷であると伝わります
國常神社〈妙見宮〉(朝来市生野町円山)
11.因幡國 高草郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県鳥取市)
倭文神社(しとりじんじゃ)は 倭文(しとり/しづり)」とも読み「しづ織り」という絹織物のことを指し 機織り(はたおり)を業(なりわい)とする倭文部の民がこの地に居住し 祖神「倭文神・建葉槌命(たけはづちのみこと)」を奉斎したと伝わる 延喜式内社 因幡國 高草郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です
倭文神社(鳥取市倭文)〈延喜式内社 倭文神社〉
12.伯耆國 川村郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県湯梨浜町) 伯耆 一之宮
倭文神社(しとりじんじゃ)は 云い伝えによれば 大国主命の娘神「下照姫命」が 一匹の海亀の導きによって 宇野の海岸に着船し この小高い丘からの眺めに癒され 住居を定め 農業指導や 医薬普及に努めたと云い 人々は敬い 古くから格式高く 伯耆国の一之宮として 湯梨浜町(ゆりはまちょう)に鎮座します 境内には「安産岩」と呼ばれる岩があり 安産の神様としても知られます
倭文神社(湯梨浜町)安産の神として崇敬される伯耆国の一之宮
13.伯耆國 久米郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県倉吉市) 伯耆 三之宮
倭文神社(しとりじんじゃ)は 御祭神の武葉槌神(一説には 経津主神とも)が 出雲の国譲りの際 豊原中国を平定せよとの詔勅により 出雲へ出陣をされます この時 御陣営をかためられたのがこの地で 倭文神社はこの神跡であると伝えられています
倭文神社(倉吉市志津)伯耆国三之宮
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京都丹後鉄道宮豊線 与謝野駅から府道2号経由で南西方向へ約4.3km 車で約9分程度
一礼をして 鳥居をくぐりながら 参道石段を上がります
倭文神社(与謝郡与謝野町三河内)に参着
境内は 奥に長くあり 右手に社務所 参道の両脇に狛犬が並んでいます
一番手前の狛犬は 出雲式で尾尻を上げています
途中に木製の両部鳥居があり その先に割拝殿 ここを抜けると社殿域となっています
割拝殿を抜けると 玉垣に囲まれた社殿域には 正面に拝殿 向かって右手には 神が宿ったような よじれた樹木
拝殿にすすみます
社殿の左右には境内社が祀られています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして境内参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 倭文神社について 所在は゛水江日量本庄村に在す〈筒川村(伊根町)〉゛と記されていますが 現在は その地に 倭文神社は見あたりません
【抜粋意訳】
倭文神社
倭文は 志圖利と訓べし
〇祭神 天羽槌雄命
〇水江日量本庄村に在す〔舊事記〕
類社
伊勢國 鈴鹿郡 倭文神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 倭文神社について 所在は゛今 三河内村にあり、石崎大明神と云、゛〈現 倭文神社(与謝郡与謝野町三河内)〉と記しています
【抜粋意訳】
倭文(シトリノ)神社
今 三河内村にあり、石崎大明神と云、〔神社明細帳、神社遺志流倍、〕
盖 天羽槌雄命を祀る、〔古語拾遺、延喜式〕
凡 其祭八月朔日を用ふ、〔神社明細帳〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 倭文神社について 所在は゛三河内村〔字石崎山〕(與謝郡三河内村大字三河内)゛〈現 倭文神社(与謝郡与謝野町三河内)〉と記しています
【抜粋意訳】
倭文(シツリノ)神社 稱 石崎大明神
祭神 天羽槌雄(アメノハツチヲノ)命
祭神 九月十一日
社格 村社所在 三河内村〔字石崎山〕(與謝郡三河内村大字三河内)
【原文参照】
倭文神社(与謝郡与謝野町三河内)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る
丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について