倭文神社(しどりじんじゃ)は 927 AD.延喜式内社 丹後國 加佐郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされ 創立は それより相当古くから当地に鎮座されていた云う 伝説によれば 一条天皇正暦元年(990)源頼光が大江山の鬼退治に出陣の途中 当神社に山伏の姿で武運の長久を祈願したとも伝えられています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
倭文神社(Shidori shrine)
【通称名(Common name)】
・倭文さん(いぶんさん)
・『丹後旧事記』には 志島大明神
【鎮座地 (Location) 】
京都府舞鶴市字今田小字津ノ上1010番地.
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天羽槌雄神(あめのはづちをのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・織物の祖神
・五穀豊穣(ごこくほうじょう)・無病息災(むびょうそくさい)・商売繁盛(しょうばいはんじょう)の霊験あらたかな神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
倭文(しどり)神社の由来
当神社の祭神(さいじん)は、「天羽槌雄神(あめのはづちおのみこと)」で織物の神様として、平安時代延長五年(九二七年)の神名帳(しんめいちょう)に記載されている延喜式内社(えんぎしきないしゃ)であり、創立は、それより相当古くから当地に鎮座されていたと考えられます。
現在の本殿は、天保五年(一八三四年)「一間社流造(いっけんしゃながれづくり)」の形式で舞殿(まいどの)は、安政六年(一八五九年)に改築されたもので華美な装飾が特徴的である近世後期、田辺藩の神社建築様式の流れをくむ貴重な文化財です。当神社の保有する鎌倉時代の男神坐像(だんしんざぞう)一体、室町時代の神像(しんぞう)、狛犬(こまいぬ)四体は、平成六年に市の指定文化財に指定されています。また、指定はされていませんが室町中期の作と考えられる鰐口(わにぐち)は、表面外区に「蒲生八幡宮(がもうはちまんぐう)」の刻銘があり、簡素ながら作は良いものです。他に天然石を使い、天保時代に造られた四メートルを越える大燈篭は、舞鶴では類のない大きく、立派な形をしており、裏面には、「明治十二年から同十三年に流行ったコレラ病が無くなるよう祈願した」と文字が刻まれており、歴史上からも一見する価値はあります。
また伝説によれば、一条天皇正暦元年(九九〇年)三月二十一日源頼光(みなもとよりみつ)が大江山の鬼退治に出陣の途中、当神社に山伏の姿で武運の長久を祈願したとも伝えられています。 「大江町史」より
後、正暦(しょうりゃく)三年(九九二年)藤原朝臣(ふじわらあそん)、平井保昌(ひらいやすまさ)が鬼退治に際し、誓願するために再建したとも伝えられています。旧社領三十石は、平井保昌の寄進したものであったがその後次減少して元禄十六年(一七〇三年)の頃には全くその影がなくなりました。 「加佐郡誌」より
当社は、織物の祖神(そしん)のみならず五穀豊穣(ごこくほうじょう)、無病息災(むびょうそくさい)、商売繁盛(しょうばいはんじょう)の霊験あらたかな神として古来藩主を始め、多くの参拝者の絶えない神社であります。
平成二十年六月吉日 社務所
現地案内板より
【由 緒 (History)】
『加佐郡誌』〈大正14年〉に記される内容
【抜粋意訳】
第二編 社寺史
- 神社 神饌幣帛料供進指定神社
村社 倭文(シドリ)神社(式内)
(池内村 字今田 小字津ノ上)
祭神 天羽槌雄(アメノハツチヲ)神
由緒 創立年代は不詳なれどもー條天皇の御宇 正曆三年 藤原朝臣平井保昌 丹後國 大江山鬼退治に際して 誓願する所があって再建したと傳へられてゐる。舊社領三十石は 平井保昌の寄進したものであったが、其後 漸次減少して 元祿十八年の頃には 社領は全く其影を存せない樣になったと云ふことである。
境内神社
稲荷神社(祭神 稲蒼魂神)
八幡神社(祭神 譽田別尊)
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・倭文神社 社殿〈・幣殿・本殿覆い屋〉
・倭文神社 幣殿
・倭文神社 拝殿/舞殿
境内社
・〈三社合殿〉・大峰神社・愛宕神社《主》火産霊命・武神社《主》素盞男命
・愛宕神社
・八幡神社《主》応神天皇
・秋葉神社《主》秋葉大権現
・大川神社《主》保食神
・金比羅神社《主》大物主神
・澤神社《主》事代主命
・稲荷神社
・拝殿前 2連の狛犬
・拝殿前 鳥居
・倭文神社の神像群 市指定文化財の案内板
・倭文集会所
・境内社 池姫神社
布敷にある龍神伝説を持つ池姫神社と同じ祭神の神社だと想われます
『加佐郡誌』〈大正14年〉に記される内容
【抜粋意訳】
第二編 社寺史
- 神社 神饌幣帛料供進指定神社
村社 池姫神社(池内村字布敷小字森田鎮座)
祭神 市杵姫命
由緒 不詳であるが本社社記と称する古記があるから左に之れを写す事にする。
仰當池姫神社は 旧名 千瀧雨引神と號へ正三位の社であって祭神は龍神である。
往昔草昧の時 龍蛇 此奥谷に住んで居たが、土地の人偶々之を見ると恐怖の餘り疾病に罹るものが多かった。故に口谷の開墾をする時にも敢て奥谷には入る者がなかった。
そこで土地の人には大変之を心配し衆議して手力雄神に祈った所、神の霊夢に是我が力の及ぶ所でないから宜しく素盞鳴尊神に祈れよと御諭しがあった、これから土地の人は更に瀧水に身を清めて七日夜の間 素盞嗚雄神に只管龍神の祟りを免れて奥谷の地 開墾が成就することを祈願したのに、不思議にも夫れから龍神は神徳に感じて瀧水の下に形を蔵して其影さへ顕はす事絶へてなくなった。
是から土地の人は奥谷の開墾を成功したが此際も水田に水を引くの便宜に奇瑞のあるばかりでなく、偶々歳の旱するに曾しても此神に祈れば大雨の来ないことがなくなったので、識者はこれは龍神が素盞嗚雄神 稲田媛の命の神意を克く奉じて田畝に水を灌く事を司り五穀成就を助けるものであると称へたから、なる程とそれからは土地の人の信仰は益々厚くなった。
昔時は素盞嗚雄神 稲田媛の命をも地を卜して上の山に祀り 瀧の下に此神を齋き祀ったのであったが、人皇四十一代持続天皇の五年〔辛卯〕六年に洪水の為めに両社共に流失してしまった。其の後再造したのであったが、世変り星移って素盞嗚雄神の社は其跡ばかり口碑に止め雨引の社は布敷の名と共に地内に永く存する事となった。そして此谷の在る限りは後人が雨引の神を信仰する前に素盞嗚雄神及稲田媛命の御神徳を仰ぐ様にしなければならぬと昔日鍵取福地某の古書にあるのを見たが、近時享保二十年乙卯八月水害に罹って其留書も流失したのであらうと思ふ侭に後考の為のに私記して置くのであると云ふ。元文二年丁巳八月祭日 磯田閑水老人手記
【原文参照】
祠のそばに 龍神の如く よじれる樹木があります 龍神が宿っているのであろうと想え 只事ではありません
・社頭の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)加佐郡 11座(大1座・小10座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 倭文神社
[ふ り が な ](しとりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shitori no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の13社「倭文神社」と論社について
倭文氏の祖神「天羽雷命(アマハイカヅチノミコト)=建葉槌命」を祀る式内社とされ 各国に13社が記されています それぞれの現在の論社もご紹介します
1.畿内 大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社 大
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・葛木倭文座天羽雷命神社(奈良県葛城市)
・博西神社(奈良県葛城市)
2.東海道 伊勢國 鈴鹿郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・加佐登神社(三重県鈴鹿市)〈合祀先〉
3.駿河國 富士郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(静岡県富士宮市)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 古代 布織技術を誇った倭文氏が 祖神 健羽雷神(たけはつちのかみ)〈織物の神〉を祀った『延喜式神名帳927 AD.』所載の 駿河国 富士郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされます 又 鎮座地の星山は 星神として君臨して居た香々背男との関連も示唆し 常世国神(とこよのかみ)を奉じて大和朝廷に反した大生部 多(おおうべ の おお)〈不尽河〈富士川〉の辺に住む人〉の伝承にも通じています
倭文神社(富士宮市星山)
4.伊豆國 田方郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(伊豆市大野)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 伊豆市大野にある倭文山の山頂に鎮座する『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 式内社゛倭文神社(しとりの かみのやしろ)゛の論社です 縄文遺跡もあり この地が古くから 渡来文化(機織技術など)で開けていたことを示すものとされています
倭文神社(伊豆市大野)
・鍬戸神社(三島市長伏)
鍬戸神社(くわとじんじゃ)は 江戸期には 鍬手明神と云われていました 同じ境内地の中に 同じく延喜式内社の高橋神社〈東北東向き〉と背中合わせに 鍬戸神社の本殿〈南南東向き〉が並び建てらけて お祀りされています
鍬戸神社(三島市長伏)
・小坂神社(伊豆の国市小坂)に合祀
小坂神社(おさかじんじゃ)は 明治6年(1873) に 地区内各所に祀られていた17の神社が合祀されました その中の一祠は 古来から葛城山の山頂に鎮座し 合祀当時は 山麓の寺に遷されて小祠として祀られていた「葛城神社」〈式内社「倭文神社(しとりの かみのやしろ)」の論社〉です
小坂神社(伊豆の国市)
・聖神社(伊豆市月ヶ瀬)
聖神社(ひじりじんじゃ)は 聖ヶ森に鎮座していた聖宮大明神を明治9年(1876)この社殿に合祀し主神として祀ったものです 最古の上梁文に永正9年(1512)のものがあり 村名に「槻瀬村」とあり 現在の地名『月ヶ瀬』の由来を示す者とされています
聖神社(伊豆市月ヶ瀬)
5.甲斐國 巨麻郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社本宮(山梨県韮崎市)
・倭文神社降宮明神(山梨県韮崎市)
・諏訪大神社(山梨県甲斐市)
6.常陸國 久慈郡 靜神社 名神大
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・靜神社(茨城県那珂市)
7.東山道 上野國 那波郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(群馬県伊勢崎市)
倭文神社(しとりじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます
倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〈上野國九之宮〉
8.山陰道 丹後國 加佐郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(京都府舞鶴市)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 927 AD.延喜式内社 丹後國 加佐郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされ 創立は それより相当古くから当地に鎮座されていた云う 伝説によれば 一条天皇正暦元年(990)源頼光が大江山の鬼退治に出陣の途中 当神社に山伏の姿で武運の長久を祈願したとも伝えられています
倭文神社(舞鶴市今田 小字津ノ上)〈延喜式内社 倭文神社〉
9.丹後國 與謝郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(京都府与謝郡与謝野町)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅五年(712)この地で綾錦を織ることとなり 丹後國一之宮 籠神社 海部直愛志(あまべのあたいえし)が勅命を奉じて 倭文神を祀り創建した 延喜式内社 丹後國 與謝郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされ 貞応二年(1223)ご神託があり 筬(おさ)村から現今の石崎の社に奉遷されました
倭文神社(与謝郡与謝野町三河内)〈延喜式内社〉
10.但馬國 朝來郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社〈鮭の宮〉(兵庫県朝来市)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅5年(712年)創建された 延喜式内社 但馬國 朝來郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)と伝わります 正徳3年(1713年)遷宮の時 偶然下流から鮭が遡上し 村人達は めでたい前兆として喜び〈鮭の宮〉と呼ぶようになったと伝わります
倭文神社〈鮭の宮〉(朝来市生野町円山)〈延喜式内社論社〉
・妙見宮〈国常神社〉(兵庫県朝来市)
國常神社(くにのとこじんじや)は 北辰信仰の妙見宮(みょうけんぐう)とも呼ばれ 国常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀ります この地は 式内社 倭文神社〈鮭の宮〉(ここから500m程の 円山川の下流)の旧鎮座地 円山字鹽谷であると伝わります
國常神社〈妙見宮〉(朝来市生野町円山)
11.因幡國 高草郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県鳥取市)
倭文神社(しとりじんじゃ)は 倭文(しとり/しづり)」とも読み「しづ織り」という絹織物のことを指し 機織り(はたおり)を業(なりわい)とする倭文部の民がこの地に居住し 祖神「倭文神・建葉槌命(たけはづちのみこと)」を奉斎したと伝わる 延喜式内社 因幡國 高草郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です
倭文神社(鳥取市倭文)〈延喜式内社 倭文神社〉
12.伯耆國 川村郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県湯梨浜町) 伯耆 一之宮
倭文神社(しとりじんじゃ)は 云い伝えによれば 大国主命の娘神「下照姫命」が 一匹の海亀の導きによって 宇野の海岸に着船し この小高い丘からの眺めに癒され 住居を定め 農業指導や 医薬普及に努めたと云い 人々は敬い 古くから格式高く 伯耆国の一之宮として 湯梨浜町(ゆりはまちょう)に鎮座します 境内には「安産岩」と呼ばれる岩があり 安産の神様としても知られます
倭文神社(湯梨浜町)安産の神として崇敬される伯耆国の一之宮
13.伯耆國 久米郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県倉吉市) 伯耆 三之宮
倭文神社(しとりじんじゃ)は 御祭神の武葉槌神(一説には 経津主神とも)が 出雲の国譲りの際 豊原中国を平定せよとの詔勅により 出雲へ出陣をされます この時 御陣営をかためられたのがこの地で 倭文神社はこの神跡であると伝えられています
倭文神社(倉吉市志津)伯耆国三之宮
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR舞鶴線 西舞鶴駅からR27号から府道74号経由で南下して約3.9km 車で8~10分程度
R27号から府道74号へ入るとすぐに舞鶴線の踏切があります
伊佐津川に架かる九枠橋を渡り そのまま突き当りを右折して南下していると道の先に鎮守の杜らしきものが見えてきました
鳥居もないので不思議に思っていると こちらは東側の裏手にあたり西側に回ると鳥居が建っていていました
倭文神社(舞鶴市今田)に参着
鳥居の扁額には゛倭文神社゛と記されています
社殿と境内は南を向いていて 参道は東が表参道のようです
ちょうど 東西からの参道の中央辺り 社殿の正面 境内の南側に うねっている異様な木があります
この木の傍らに祀られているのが 龍神伝説をもつ 池姫神社
この境内社 池姫神社に正対するように 南向きに倭文神社の鳥居が建ち その奥に社殿が見えます
境内の左手は 駐車場になっているのか 数台の車があり その脇には馬屋 境内社が祀られています
参拝者はいませんので 境内の右手も 近隣の駐車場になっているのだと想います
倭文集会所と名札のある建物があり 沢山の竹ぼうきなどの掃除道具がありますので 近隣の氏子の皆さんが境内の手入れをされているのだと想います
境内には 銀杏の落葉以外 雑草は一つも生えていません
拝殿にすすみます
境内参道を進むと石燈籠が建ち その先に玉垣と鳥居があり 社殿が建てられています
一礼をして鳥居をくぐり 社殿に向かいます
鳥居をくぐると 古めかしい狛犬が座しています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿に続いて 幣殿があり その奥には覆い屋の中に本殿が祀られています
本殿の左右には 境内社が祀られています 一礼をして境内を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 倭文神社について 所在は不明と記しています
【抜粋意訳】
倭文神社
倭文は 志圖利と訓べし
〇祭神 天羽槌雄命
〇在所 詳ならず
類社
伊勢國 鈴鹿郡 倭文神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 倭文神社について 所在は゛今 今田村にあり、゛〈現 倭文神社(舞鶴市今田)〉と記しています
【抜粋意訳】
倭文(シトリノ)神社
今 今田村にあり、〔神社明細帳、神社遺志流倍、〕
盖 天羽槌雄命を祭る、〔古語拾遺、延喜式〕
凡 九月九日を例祭とす、〔神社明細帳〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 倭文神社について 所在は゛今田村(加佐郡池内村大字今田)゛〈現 倭文神社(舞鶴市今田)〉と記しています
【抜粋意訳】
倭文(シヅリ)神社
祭神 天羽槌雄(アメノハツチヲノ)命
祭日 九月二十七日
社格 村社所在 今田村(加佐郡池内村大字今田)
【原文参照】
倭文神社(舞鶴市今田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る
丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について