淺間神社(せんげんじんじゃ)は 鎮座地の浅間(あさま)に 須留岐山の浅間寺〈天平年間(729~749)行基により開山〉もあり 6~8世紀の創立と伝えます 延喜式内社 但馬國 養父郡 淺間神社(あさまのかみのやしろ)とされ 又 同じ式内社の養父郡 葛神社(くつの かみのやしろ・かつらの かみのやしろ)が合祀されています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
浅間神社(Sengen shrine)
【通称名(Common name)】
・井戸の宮
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県養父市八鹿町浅間361-1〈浅間字井戸前361-1〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》木花開那姫命(このはなさくやひめのみこと)
《合》素盞嗚命(すさのをのみこと)
〈昭和6年 葛神社(浅間字堂ノ奥〈須留岐山〉)を合祀〉
《合》国狹土命(くにのさづちのみこと)
〈昭和7年合祀 八柱神社〉
※ 国司文書 但馬神社系譜伝 第三巻・養父郡 浅間郷に記される
浅間神社(東の異霊宮クシキノミヤ) 養父郡浅間山鎮座 祭神 天道姫命
葛 神社(西の異霊宮クシキノミヤ) 養父郡浅間村鎮座 祭神 天火明命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
由 緒
創立年月不詳
延喜式の制小社に列し、明治6年(1873)10月村社に列せらる。
昭和6年(1931)本殿、幣殿、拝殿、社務所を新築し 同7年(1932)村社八柱神社同大祥神社を合祀せり
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
社殿向かって右に1社・左に2社 計3社〈・大祥宮・稲荷社・才ノ神〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
①淺間神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)但馬国 131座(大18座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)養父郡 30座(大3座・小27座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 淺間神社
[ふ り が な ](あさまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Asama no kamino yashiro)
➁〈昭和6年 葛神社(浅間字堂ノ奥〈須留岐山〉)を合祀〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)但馬国 131座(大18座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)養父郡 30座(大3座・小27座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 葛神社
[ふ り が な ](くつの かみのやしろ)or(かつらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kutsu no kamino yashiro)or(Katsura no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の淺間神社について
全国に三ヶ所記載があります
駿河國 富士郡 淺間神社(名神大)(あさまの かみのやしろ)
・富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)駿河国一之宮
富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は 第7代 孝霊天皇の時 富士山の噴火で国内が荒れ果てた この山霊を鎮祭する為 第11代 垂仁天皇が 浅間大神を山足の地に祀ったのが創祀 第12代 景行天皇の時には 日本武尊が 山宮の地に大神を祀り 大同元年(806)には 坂上田村麿が勅命に依り 社殿を現在の大宮の地に造営し 神霊を遷座した東海最古の名社です
富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)
・〈奥宮〉富士山本宮浅間大社 奥宮(富士山頂上)
富士山頂上 浅間大社 奥宮(ふじさんちょうじょう せんげんたいしゃ おくみや)は 元は富士山興法寺〈現 村山浅間神社〉の大日堂「表大日」・富士山頂上 久須志神社は(ふじさんちょうじょう くすしじんじゃ)は 元は須走浅間神社の薬師堂「裏薬師」でした どちらも明治の神仏分離令により仏像が取り除かれ 富士山浅間大社の奥宮として管理されることになりました
富士山頂上 浅間大社 奥宮 & 富士山頂上 久須志神社
・〈元宮〉山宮浅間神社(富士宮市山宮)
山宮浅間神社(やまみやせんげんじんじゃ)は 第11代 垂仁天皇の時 山足の地〈山麓全体〉に祀られた浅間大神を 第12代 景行天皇の時 日本武尊が 当地 山宮の地に 磐境を設けて大神を祀り 大同元年(806)坂上田村麿が勅命により 現在の富士山本宮浅間大社の地に社殿を造営し 遷座した富士山の山宮斎場の元宮です 今でも本殿はなく 溶岩を用いた石列が原始的な祭祀形態を留めています
山宮浅間神社(富士宮市山宮)
甲斐国 八代郡 淺間神社(名神大)(あさまの かみのやしろ)
・山宮神社〈浅間神社 旧鎮座地〉(笛吹市一宮町)
山宮神社(やまみやじんじゃ)は 浅間神社の゛創祀の地 本宮゛とされます 垂仁天皇の御代〈二千年以上前〉この地〈神山の麓〉に三柱の神を勧請〈現在は二柱・大山祇神・天孫瓊々杵命を祀る〉残る一柱 木花開耶姫命は〈貞観七年(865)遷座〉現在は 里宮〈現 浅間神社〉に祀られ 毎年3月に厳かに山宮神社へ神幸が行なわれています
山宮神社(笛吹市一宮町一ノ宮)〈浅間神社の〈本宮〉旧鎮座地〉
・浅間神社(笛吹市一宮町)
浅間神社(あさまじんじゃ)は 社伝には 第11代 垂仁天皇8年(約2000年前)山宮神社の地に3柱の神を祀り創始されます その後〈富士山〉貞観大噴火時〈貞観7年(865)〉鎮火神として木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)1柱を現在地に遷座し創建されたと云う 国府も近く 甲斐國一之宮とされる延喜式内社 名神大社です
浅間神社(笛吹市一宮町一ノ宮)〈甲斐國一之宮・延喜式内社〉
・河口浅間神社(富士河口湖町)
河口浅間神社(かわぐちあさまじんじゃ)は 貞観6年(864)に始まった富士山の大噴火〈貞観の大噴火〉を鎮めるために 勅命により 甲斐国に浅間名神を祀ることになったのが創始とされています この大噴火では 富士山の北麓にあった広大な湖「剗の海(セノウミ)」の大半(現在の青木ヶ原樹海)が 溶岩で埋め尽くされて 西湖と精進湖が僅かに 現在に残ったとされています
河口浅間神社(富士河口湖町)
・一宮浅間神社(市川三郷町)
一宮浅間神社(いちみやあさまじんじゃ)は 地元の言い伝えによれば 貞観6年(864)に始まった富士山の大噴火の時に 浅間の神である 木花咲耶姫命を 現鎮座地の南方にある正体山に噴火の難を逃れるために遷ったのが始まりと伝わります 明治27年(1894)鳥居原狐塚古墳(市川三郷町大塚)から中国の呉の年号である赤烏元年(238年)の銘がある銅鏡「神獣鏡」1面が出土し奉納され 国の重要文化財に指定(現在東京国立博物館展示)されています
一宮浅間神社(市川三郷町)
・青沼浅間神社(甲府市)
青沼浅間神社(あおぬませんげんじんじゃ)は 社伝によれば「貞観7年 平安初期 西暦865年に山梨郡 稲門東青沼村 現在地に建立す」とあります 延喜元年(901年)成立の『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』に記されている「山梨郡に祀られた浅間明神」とされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社でもあります
青沼浅間神社(甲府市)
但馬國 養父郡 淺間神社(あさまの かみのやしろ)
・ 浅間神社(養父市八鹿町浅間)
淺間神社(せんげんじんじゃ)は 鎮座地の浅間(あさま)に 須留岐山の浅間寺〈天平年間(729~749)行基により開山〉もあり 6~8世紀の創立と伝えます 延喜式内社 但馬國 養父郡 淺間神社(あさまのかみのやしろ)とされ 又 同じ式内社の養父郡 葛神社(くつの かみのやしろ・かつらの かみのやしろ)が合祀されています
浅間神社(養父市八鹿町浅間)〈延喜式内社・淺間神社・葛神社の論社〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
山陰本線 八鹿駅から北東へR312号と県道2号経由 約4km 車10分程度
県道2号沿い 民家と田畑の間に一の鳥居と社号標「式内 淺間神社」があります
浅間神社(養父市八鹿町浅間)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 参道を進むと 右手に石組みの上に続く石段があり 二の鳥居が建ちます
二の鳥居をくぐると広い境内があり 正面に社殿が建ちます
中央に拝殿 その両脇に境内社が向かって右に1宇 左に2宇祀られています
拝殿にすすみます
〈昭和6年(1931)本殿、幣殿、拝殿、社務所を新築〉とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿本殿が鎮座します
参拝日は3月の下旬でしたが 社殿には冬場の雪覆いが掛けられています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『播磨国風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
葦原志許乎命〈大国主命〉投げた石が 葛(かずら)神社(八鹿町浅間)だとの地元の伝承もあります
【抜粋意訳】
宍禾郡 御方里(みかたのさと)
御方里(みかたのさと)御形と名付けられた所以は 葦原志許乎命と天日槍命が黒土志爾嵩(くろつちのしにたけ)に到り 各々が三條(みかた)の黒葛を足に付けて投げ合った その時 葦原志許乎命の黒葛の一條は但馬の氣多郡に落ち 一條は夜夫郡に落ち 一條はこの村に落ちた 故に三條という
一方で天日槍命の黒葛は皆 但馬国に落ちた 故に但馬を治めて伊都志(いづし)の地に鎮座した ある人が言うには この村に大神の形見である御杖を立てた 故に御形という
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 淺間神社について 所在は淺間村〈現 浅間神社(養父市八鹿町浅間)〉としています 葛大明神と呼ばれているが 葛神社は別にあり もしかすると相殿に祀られているのだろうか? と記しています
式内社 葛神社について 葛は「かつら」と読む 在所は不明であると記しています
【抜粋意訳】
淺間神社
淺間は 安佐末と訓べし 和名鈔 淺間 假字ノ如し
〇祭神 木花開那姫命歟
〇浅間郷 但馬考に 今宿雨庄と云 淺間村に在す 今 葛大明神と称す
連胤 按るに 当郡 葛神社別にあり 然れば今 当社 相殿歟 しばらく考の説に従ふ 尚糺すべし
類社
駿河國 富士郡 淺間神社の條 見合うべし葛神社
葛は 加都良と訓べし
〇祭神 在所詳ならず
〇播磨國風土記云 天日槍命之黒葛 皆落於 但馬國 故占 但馬伊都志地 而在之
類社
河内國 若江郡 加都良神社の条 見合うべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 淺間神社について 所在は淺間村西山〈現 浅間神社(養父市八鹿町浅間)〉としています
式内社 葛神社について 所在は淺間村で 葛は「かつら」と読む 播磨風土記 宍栗郡ノ條の 天日槍命の黒葛は皆 但馬国に落ちた との故事から 祭神を天日槍命と記しています
【抜粋意訳】
淺間(アサマノ)神社
今 淺間郷 淺間村西山に在り
凡 四月二十五日を例祭とす 但馬考 神社明細帳葛(カツラノ)神社
今 淺間村にあり 桂大明神と云ふ 神名帳考 神社明細帳
盖 天日槍命を祭る 昔 此神 大己貴命と國を占るの時 其の投げたる黒葛 但馬國に落き 故 伊都志の地を卜てましき 播磨風土記 即是也
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 淺間神社について 所在は淺間村〈現 浅間神社(養父市八鹿町浅間)〉としています
式内社 葛神社について 所在は淺間村 字奈留である 播磨風土記 宍栗郡ノ條の 天日槍命の黒葛は皆 但馬国に落ちた との故事から 祭神を葦原志許乎命と記しています
【抜粋意訳】
淺間神社
祭神 木花開那姫命
祭日 四月十五日
社格 村社所在 淺間村 字井戸ノ上(養父郡伊佐村大字淺間)
葛神社
祭神 葦原志許乎命 称 桂大明神
今按〈今考えるに〉
播磨風土記 宍栗郡ノ條
「御方里(みかたのさと)御形と名付けられた所以は 葦原志許乎命と天日槍命が黒土志爾嵩(くろつちのしにたけ)に到り 各々が三條(みかた)の黒葛を足に付けて投げ合った その時 葦原志許乎命の黒葛の一條は但馬の氣多郡に落ち 一條は夜夫郡に落ち 一條はこの村に落ちた 故に三條という
一方で天日槍命の黒葛は皆 但馬国に落ちた 故に但馬を治めて伊都志(いづし)の地に鎮座した ある人が言うには この村に大神の形見である御杖を立てた 故に御形という」云々とあるを
この神社の葛神社と云ひて 養父郡にあるは 件の故事による事著ければ 祭神 葦原志許乎命と記せり祭日 九月九日
社格 村社所在 淺間村 字奈留(養父郡伊佐村大字淺間)
【原文参照】
『郷土の民話 但馬編 養父郡 藤無山』に記される伝承
藤無山〈ふじなしやま〉(大屋町若杉)
藤無山(一一四二メートル)は、但馬〈たじま〉と播磨〈はりま〉の国境にあるコニーデ式火山です。昔は、故墨士介嵩〈こぶしがだけ〉といったこの山は、次の伝説によって藤無山というようになったのです。
昔、出雲〈いずも〉の国(鳥取県)の大国主〈おおくにぬし〉が 故墨士嵩〈こぶしだけ〉へ来ると、揖保〈いぼ〉川をさかのぼって来た天日槍〈あまのひぼこ〉に出合いました。不思議〈ふしぎ〉に思った大国主がたずねました。
「わたしは、出雲を治〈おさ〉めている大国主です。あなたは、誰で、どこへ何しに行くのです。」
「わたしは天日槍。わが住む土地をさがして但馬へまいります。」
「それは、こまります。但馬には、わたしの家来がわたしの行くのを待っているのです。」
大国主のことばは物静かで、ていねいではあるが “但馬は、わが領土〈くに〉”とする強い気魄〈きはく〉が感じられます。日槍〈ひぼこ〉も負けてはいません。
「わたしは、天皇のお許しを受けています。だから、どこへ行ってもよいのです。」
と、いって、一歩もひこうとは、しません。二人は、にらみ合いの形になってしまいました。
一つの国を二人が争う。それを解決するには、力によるほかに方法のない時代のことです。二人はじっと考えました。何とか、話し合いで解決したかったのです。しばらくして、大国主がいいました。
「二人が争っては、大勢の者がこまります。但馬に誰がいくか?それは、明日神さまにきめていただきましょう。」
「神さまの仰〈おお〉せには、わたしも従〈した〉がいます。神さまの仰せは、どうして聞くのです?。」の問いには、
「石に一メートルほどのフジづるをつけ、その端を持ってふりまわして投げる。石は三つ。神さまのお心のままに飛んで、但馬に落ちた石の多い方が、神さまのお心にかなった、但馬のあるじ、としましょう。」という大国主の考えに、日槍も賛成して、二人は、仲よく山をおりました。あくる日、二人は約束どおり、フジづるをさがしながら故墨士介嵩〈こぶしがだけ〉へ登りました。しかし、不思議なことにフジは一本も見当りません。しかたなく、フジづるの代〈かわ〉りにクツバ(クズ)かずらを使って、めいめい三つの石を投げました。すると、大国主の石は二つ、日槍の投げた石は三つとも、但馬に落ちたので、但馬には、日槍が来ることになりました。
そして、この時から今にいたるまで、一本のフジもないので藤無山というようになり、その後、ゆかりの場所(山頂)に藤無神社を建てて、宍粟郡〈しそうぐん〉一宮町公文〈くもん〉・同郡波賀町〈はがちょう〉道谷〈どうだに〉と大屋町若杉の三部落でお祭りをしていました。(享保四(一七一九年)年に宮分けをした)なお、日槍の投げた石は出石町に落ち、宮内の出石神社は、天日槍〈あまのひぼこ〉を祀〈まつ〉り、但馬の一ノ宮として、但馬人の信仰〈しんこう〉を集め、大国主の投げた石は、八鹿町浅間(葛〈かずら〉神社、祭神は素盞鳴尊〈すさのをのみこと〉―大国主の父?)日高町上ノ郷(気多神社、祭神大巳貴命〈おおなむちのみこと〉―葦原志許乎命〈あしはらのしこおのみこと〉・葦原醜男命〈あしはらのしこおのみこと〉―は、大国主の別名)に落ち、今一つは、宍粟郡一宮町三方(加都良〈かつら〉神社)に落ちた。ということです。
一般財団法人 兵庫県学校厚生会HPより
https://www.kouseikai.or.jp/public/koho/kohoshi/minwa/tajima/39.html
浅間神社(養父市八鹿町浅間)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
但馬国 式内社 131座(大18座・小113座)について に戻る
但馬国(たじまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 但馬国には 式内社 131座(大18座・小113座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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