実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

佐用都比賣神社(佐用郡佐用町本位田甲)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉

佐用都比賣神社さよつひめじんじゃは 『播磨國風土記(713年)』讃容郡(さよのこおり)の条に 神代の神話として 神の名を贊用都比賣命(さよつひめのみこと)と名付けたとあり 六国史嘉祥2年(849)官社に列し 『延喜式』に播磨國 佐用郡 佐用都比神社さよつひめの かみのやしろとされる 格式高い由緒を持ちます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

佐用都比賣神社Sayotsuhime shrine

通称名(Common name)

・佐用姫さん(さよひめさん)

【鎮座地 (Location) 

兵庫県佐用郡佐用町本位田甲261

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神狭依毘(さよりひめのみこと)〈市杵島姫命

相殿神素盞鳴大神、大国主大神、春日大神、八幡大神

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

佐用都比賣神社 御由緒

祭神、 狭依毘(さよりひめのみこと)、又の御名 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、相殿、素盞鳴大神、大国主大神、春日大神、八幡大神を合せ祀る、

創立は往古にして
 続日本後記に「第五十四代 仁明天皇 嘉祥二年(紀元一五〇九年、西紀八四年)十一月官社に預る」と記されている。
 更に延喜式神明帳に「第六十代 醍醐天皇の御世 延喜式内社に預る」と記されている。

 播磨風土記(元明天皇 紀元一三七三年、西暦七一三年)に 讃容郡という所以は大神妹妋各二柱。各競いて國を占めたまう時、妹の玉津日女命(たまつひめのみこと)臥せる生鹿を捕え其の腹を割きて、其の血を種とうえ仍ち一夜の間に苗生いぬ。
 即ち取り殖えしめきこゝに大神、汝妹は五月夜植るかもと勅りたまい他処に去りましき。故に五(さ)月夜(よ)郡と号ふ。
神の名、賛用都比賣命、今 讃容の町田に有也。と記されている。

 古来 当地方の開祖 佐用姫大明神として 昔は御神領地が七町七反もあり 官祭されていたものであるが 豊臣の兵火にてことごとく消失し、すいびしたが農業、商業、武術、安産、縁結、鎮火の神として広く信仰されて来た。
国司領主が代々崇敬した神社で、赤松円心、及び兄の孫 別所五郎左衛門敦範(利神城主)、池田三左衛門輝政(白鷺城主)、池田出羽守(利神城主)等が崇社とした。
その他 山中鹿之助が当地に来た時、尼子家再興を祈念して石燈籠を奉建した事、宮本武蔵が諸国修行に出かける時、當社に木刀二振りを捧げ十七日間参籠してその武運を祈願して出立した事等が伝書にみとめられる。
万治三年(紀元二三二〇年、西暦一六六〇年)松平石見守が拝殿を再築、元禄十四年九月(紀元二三六一年、西一七〇一年)領主松平久之烝が金子百両米十五石を献じ 現在の本殿を再建した。
大正十三年県社に昇格し、大正十五年現在の拝殿幣殿を 氏子並びに一般崇敬者の寄進金約二万五千円と氏子の出人夫約五百人をもつて改築し 更に神域も拡張された。戦後は頓に霊験あらたかとなり、病難、交通安全、安産、厄除等、御加護を蒙るもの数多く崇敬者は遠く大阪、広島方面に及んでいる。

北條時頼奉納歌
 何所とも知らで道にぞやみぬべき
  はれまも見えぬ佐用の朝霧

現地案内板より

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【由  (History)】

佐用都比賣神社 サヨツヒメジンジャ

主祭神 素盞嗚尊  スサノオノミコト

配祀神 天児屋根命 アメノコヤネノミコト
    大国主命 オホクニヌシノミコト
    誉田別命 ホンダワケノミコト

祭記事

由 緒

 播磨風土記に見ゆる此地方開拓の祖神。

 仁明天皇嘉祥2年(849)、官社に列せられ延喜式の制小社となり、永享年間(1429~1440)、別所敦範、本郡佐用庄・豊福庄を領し、利神山に築城。

 天正5年(1577)、羽柴秀吉中国征伐の際上月城を攻めて火を当社に放つ。降って池田輝政播備淡の三国を領し姫路に居城するや、其崇敬社となり、一族池田出羽守利神城を再築。同氏の崇敬を受け慶長15年(1610)、領主良照院之を崇敬。

 徳川幕府の旗本松下左近大輔平福に居り一萬石を領す。松下石見守万治2年(1659)、拝殿を再建。

 寛永17年(1640)、松平主馬頭長谷村に居りて当社を崇め、孫松平久之丞に至り、元禄14年(1701)上米十五石金子百両を捧げて現今の社殿を再建。

 宝永2年(1705)、享保5年(1720)に本殿を建立。

 明治7年(1874)、神饌所を新築し、同年郷社に列し、同年神饌所を新建す。同30年(1897)本殿の屋根替を行ひ、44年(1911)社務所を新築し、大正3年(1914)幣殿を建替へ、同13年(1924)縣社に昇格す。同15年(1926)幣殿拝殿を改築。

2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6319001.html

由緒

 播磨風土記に見ゆる佐用都比売命にして大己貴命の妃にして此地方開拓の祖神なり
 仁明天皇 嘉祥2年11月官社に列せられ 延喜式の制小社となり

 永享年間、別所敦範、本郡佐用庄、豊福庄を領し利神山に築城せしより崇敬殊に深かりき
 天正5年羽柴秀吉中國征伐の際 上月城を攻めて火を当社に放つ

 降って池田輝政播備淡の3國を領し姫路に居城するや 其崇敬社となり一族池田出羽守利神城を再築するに至りて 同氏の崇敬を受け慶長15年領主良照院之を崇敬せり 次いで徳川幕府の旗本松下左近大輔平福に居り1萬石を領し其後数代を経たる松下石見守萬治2年拝殿を再建せり 之より先寛永17年松平主馬頭長谷村に居りて当社を崇め 孫松平久之丞に至り元禄14年9月上米15石金子1百両を捧げて現今の社殿を再建し 当時用ひたる葛紋附の瓦を今に存す 寶永2年、享保5年に本殿を建立す

 明治7年3月神饌所を新築し 同年7月郷社に列し 同年神饌所を新建す 同30年本殿の屋根替を行ひ 44年社務所を新築し 大正3年幣殿を建替へ同13年2月縣社に昇格す 同15年幣殿拝殿を改築せり 猶明治大正の間に於ける合祀神社は明治40年に合祀したる荒神社以下8社なり。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・境内図

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・本殿

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・拝殿

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・狛犬

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・水神社

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・片宮神社〈伯母宮さん〉奥ノ院

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・天満神社・三寶荒神社

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・若宮神社

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・佐用姫稲荷神社

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・開眼之梅

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昭和の奇跡と言れた 盲目からの開眼の感動の物語です

開眼之梅

 継時昭和四十年二月三日佐用都比売神杜の節分祭当日は、朝から猛吹雪の寒い寒い日でありました。それでも祭典の始まる十時頃には幣殿も拝殿も参拝者で一杯になりました。
盲目の私もその一人に加えてもらっていました。やがて神事も進行して荘厳の中に祭典も終り 宮司見村雅生先生の御神話がはじまりました。その有難いお話しを聞いている中に、今まで見えなかった目が薄紙をはぐ様に見え出したのであります。その瞬間これは不思議だ お蔭だ 私の喜びは例え樣のない喜びでございました。
私は嬉しくて嬉しくてたまらず 直ぐ見村先生の処に行って この有難い御霊徳の話を申しあげ 御禮を申し述べました。先生は これは貴女の信心が佐用姫大神樣に通じたのです。本当に有難い事です と喜んで下さいました。そして参拝者の皆さんにもこのお話をいたしました処、一同驚かれました。
そして共に喜んで頑きました。
朝お詣りする時 手を引いてもらった私が 一人で帰る事が出来ました。御神徳を世の人は 昭和の奇跡と言はれました。然し現実でございます。光陰矢の如しとか あれから満十年私も米壽を迎えました。有難いことです。今静かに当時を偲びまして 遅蒔き乍ら今度大神様に感謝の誠を捧げ 紅梅を記念樹として社前に献納きせて頑きました。合掌

昭和五十一年二月吉日 上月町上月 山田とわの 八十八オ

現地案内板より

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・神馬像

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・塩川神社

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・社頭・鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ

記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

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『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承

讃容郡(さよのこおり)の条には 大神妹妋各二柱 各競いて國を占めたまう時とあり
 大神伊和大神とその妹の玉津日女命(=佐用津比命)
社伝では大國主命その妃 祭神 市杵島姫命は王津比賣命と申し
二柱の神の国占め争いが記されています

この地は「鉄を生す」鉄の産地〈千草鉄〉でもある事が 記され 佐用都比賣命(さよつひめのみこと)が この山で金桉(かなくら)を得られ とも記しています

【抜粋意訳】

讃容郡(さよのこり)

讃容郡と云う所以は

大神と妹妋(いもせ)の二柱の神が競って国をめようとされた 妹神 玉津日女命(たまつひめのみこと)が 生きている鹿を捕臥せて その腹を割き その血に稲を種(ま)いた 仍って 一夜の間に 苗が生えたので 即ち それを取り殖(う)給われた ここに 大神は勅りたまい「汝妹(なにも)は 五月夜(さよ)にえるのか」と云いて やがて 他の處に去っていかれた 故に 五月夜郡(さよのこほり)と號して 神の名を贊用都比賣命(さよつひめのみこと)と名付けた 讃容の町田ある

即ち 鹿を放った山を 鹿庭山(かにはやま)と名付け 山の四面に十二の谷があり 皆(みな)鐵(まかね)〈鉄〉を生す〈産出する
難波豊前於朝庭〈第36代孝徳天皇の御世(645~654年始めて献上された これを見顕〈発見〉したのは 別部犬(わかべのいぬで その孫らが奉り初めた

讚容里(さよのさと)

讚容里 事は 郡と同じ

吉川(えがは)

吉川 本の名玉落川(たまおちがは) 大神伊和大神 ?の玉が この川に落ちた 故に玉落と云う
 吉川と云うのは 稲狭部大吉川(いなさべのおほえがは)が この村に居たからです 故に吉川と云う その山には黄蓮(かくまくさ)が生え

桉見(くらみ)

桉見 佐用都比賣命(さよつひめのみこと)が この山で金桉(かなくら)を得られ 故に 山の名の金肆(かなくら) 川の名を桉見(くらみ)と云う

・・・

【原文参照】

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承

嘉祥二年(849年
武藏國 播羅郡 奈良神

と並んで 播磨國 佐用郡 佐用津姫神官社った事が 記されています

【抜粋意訳】

卷十九 嘉祥二年(八四九)十一月壬子

十一月辛亥朔壬子

武藏國 播羅郡 奈良神
播磨國 佐用郡 佐用津姫神 らしむ 官社

左京人讃岐守從四位下長田王 彈正大弼從四位下岑成王賜姓清原眞人

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)佐用郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 佐用都比神社(貞)
[ふ り が な ]さよつひめの かみのやしろ
[Old Shrine name]Sayotsuhime no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

佐用都比売神社さよつひめじんじゃ

鎮座地 佐用郡佐用町本位田甲261

 神 杵島姫命(いちきしまひめのみこと)またの名を 狭依毘売命(さよりひめのみこと)

播磨国風土記(はりまのくにふどき)によると、出雲(いずも)の国から来た大神と妹神が佐用の領有を競ったとき、妹 玉津日女命(たまつひめのみこと)は、生きた鹿の腹をさいてその血に稲をまいたところ、一夜で苗がはえたのでそれを植え付けた。大神は「汝妹(なにも)は五(さ)月夜(よ)に植えつるかも」と云い、去ってった。讃容(さよ)の地名は、ここからつけられたと説明しており、女神を賛用都比売命(さよつひめのみこと)と名づけたと伝えている。

 一千余年の昔、佐用都比売神社は、官社となるほどの大社であった。
現在も、佐用郡内はもとより、大阪、広島など遠方からの参拝者がえない。

現地案内板より

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『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』讃容郡(さよのこおり)の条には
女神 賛用都比売命(さよつひめのみこと)が ゛生きた鹿の腹をさいてその血に稲をまいたところ 一夜で苗がはえたのでそれを植え付けた゛との伝承があり これにきわめて 似ている 神事と事象について 参考までに記します

私たち日本人が かつて持っていた 自然の霊威を祀る神事です

『農と祭』〈昭和17年(1942)〉著者 早川 孝太郎 に記される内容

著者 早川 孝太郎(はやかわ こうたろう)〈明治22年(1889)~昭和31年(1956)〉は 柳田国男(民俗学者)の門に入り 民俗学の研究 調査に従事した日本の民俗学者

奥三河の正月「シシ祭り」別名「種取り」祭りを紹介していています
鹿をかたどった模型を造り そして射る その鹿の腹に 詰めた握り飯やもちを 腹からとり出して氏子に分ける 鹿の胎兒を捕る事で その霊威の受けて 種に霊威をそそぐ 山の神の霊威を 田の神へとそそぐ神事です

【抜粋意訳】

天龍川の奥地一帯に行はれて居た狩祭り又はシシ (鹿か)祭り

天龍川奥地一帯の狩祭り・シシ (鹿か)祭りは、一方に種取り又はオビシャ等の稱もあって、その内容は農耕に深い関係がある事が考へられる。その次第は先づ鹿の模塑を作り、その腹部に握飯や餅を納めて置くが、之をサゴと稱した事も深い意味があつた。その鹿を氏子一同環視の中で神主が射て取る。かくして腹部のサゴを取出し、之を別に用意した飯や餅に混せて氏子に頒つ一方に、穀物の種子と山の土(多くは境内)を添へ、五穀の種子と稱して同じく氏子に分配する。之は古く穀物の種子に動物の血を塗った風習にも思ひ合される。

 此の行事は 以前は現實の鹿を対象に行はれたもので、それを証明する作法も亦遺って居る。要するにその行事は 鹿の胎兒を捕る事に重大な目的があって、之を他の飯や餅に混せて喰ふ一方に、穀物の種子に混ぜた事は、その胎兒の持つ何等かの霊威を、そこに移す 卽ち憑らせる事に意味があった。胎兒をサゴと稱したのも、その霊威に関係があって、必ずしも鹿の胎兒の固有の稱とは考へ難い。

・・・
・・・

 次第の説明が簡に遇ぐるので、或は納得の能はぬ節もあらうから、くり返し言へば、その行事の対象が、動物殊に鹿の胎内にあって、之を獲る事に目的があった。さうして その目的が、胎兒そのものでなく、そこに潜む或種の霊威であった事も作法を通じて肯ける。更に説明を加へると、その霊威は山の動物が保持して居り、偶々天龍川奥地の傳承では、その動物が鹿であったんの解釋も與へられる。
 三河北設楽郡振草村古戸では、この狩祭り 卽ち土地の所謂オビシャの行事を初午の種取りともいひ、鹿の體を成した杉の葉に、別に境内の土と穀物の種子、それに小さな鍬を添へて一束とし、家々の男子の象徴として、その数だけを神棚等に飾つて置いた事もこの際加へて置きたい。

 狩猟と農耕の関係は決して偶然ではなかった。殊にわが國の各地で五穀豊穣を祈る・・・・
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わが國の民俗には、サ又はサッと稱する霊威が傳承されて居て、之は時にシャチとも通じ、狩猟者の奉ずる神であったと同時に亦、農耕の神である田の神でもあった。
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【原文参照】

早川孝太郎 著『農と祭』,ぐろりあ・そさえて,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1460096

早川孝太郎 著『農と祭』,ぐろりあ・そさえて,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1460096

早川孝太郎 著『農と祭』,ぐろりあ・そさえて,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1460096

また 『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』讃容郡(さよのこおり)の条には
この地は「鉄を生す」鉄の産地〈千草鉄〉でもある事が 記され 佐用都比賣命(さよつひめのみこと)が この山で金桉(かなくら)を得られ とも記しています

『延喜式神名帳』(927年12月編纂)には 製鉄の神鍛冶の神〉とされる 天一神玉神社が 佐用都比神社同じ 播磨國 佐用郡に所載されています

播磨國 佐用郡 天一神玉神社(貞)(あめのひとつかんたま かみのやしろ)の論社について

・天一神社(佐用町東徳久)

一緒に読む
天一神社(佐用郡佐用町東徳久)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉

天一神社(てんいちじんじゃ)は 社伝には゛今より約二千年前(彌生時代)に創立 日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」゛と記され 『六国史』天安元年(857)天一神に從五位下が奉授 その7日後に官社に列すと記され 『延喜式』播磨國 佐用郡 天一神玉神社(あめひとつかんだまの かみのやしろ)です

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

智頭急行 姫新線 佐用駅から佐用川を渡り北へ約2.5km 車で5分程度
中国自動車道 佐用ICから南下して約1.2km 車で3分程度

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佐用都比賣神社佐用郡佐用町本位田甲に参着

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一礼をして鳥居をくぐると すぐに注連柱があります
参拝の順序が示されていて 右手に手水舎あり清めて 左手の塩川神社にお参りをし「禊(みそぎ)・祓(はら)い」を祈念します 拝殿に進み とありますのでその通りにします

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿の周囲に境内社が祀られていますので 順にお参りをします

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又 拝殿の向かって左手前に植えられている
開眼之梅は 昭和の奇跡と言れた 盲目からの開眼の感動の物語です

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境内に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 佐用都比賣神社について 所在は゛江川郷本位田村に在す゛〈現 佐用都比賣神社佐用郡佐用町本位田甲〉と記しています

播磨國風土記にある゛賛用都比゛であると考えられる とも記しています

【抜粋意訳】

佐用都比賣神社

佐用都比賣は 假字也

祭神明か也

〇江川郷本位田村に在す、〔式社記、古跡便覧、播磨鑑〕

例祭 九月二十八日、

〇播磨國風土記云、
大神妹玉津日女命、云々、名賛用都比命、云々、〔全文郡の下に見ゆ〕

連胤〕按るに、此風土記年久しく埋れて世に知る人なし、是を以て峯相記に、松浦佐用姫といひ、古跡便覧以來の書には、狹依毘賣といへり、寶曆年中、當社の微考を著す人も、此説を主張したるは畏からずや、もとより神名は假にも臆説を加ふべからず、

官社
 續日木後紀、嘉祥二年十一月壬子、播磨國 佐用郡 佐用津姫神預に官社、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 佐用都比賣神社について 所在は゛今 佐用町の西にあり、佐用姫明神と云ふ゛〈現 佐用都比賣神社佐用郡佐用町本位田甲〉と記しています

播磨國風土記にある゛賛用都比゛であるとも記しています

【抜粋意訳】

佐用都比賣(サヨツヒメノ)神社

今 佐用町の西にあり、佐用姫明神と云ふ、〔一宮巡詣記、三才圖會、播磨國圖、神名帳考証〕

伊和大神妃 玉津賣命を祀る、初此神 大神と競てを占る時、一夜の間に苗を殖生して殖給しかば、大神詔、汝妹は五月夜に殖つる哉と詔ひき、此神を號 賛用都(サヨツヒメノ)命と申し〔播磨風土記〕
〔按 古事記、市寸島比賣命 亦御名を狹依毘賣命的といふとある、此の佐用都比賣命と同神に似たり、されど記紀共に 伊和大神の妃なる事を云はず、姑附て考に備ふ、〕

仁明天皇 嘉祥二年十一月壬、佐用津姫神を官社に預らしむ、〔續日木後紀

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 佐用都比賣神社について 所在は゛本位田村(佐用佐用村大字本位田゛〈現 佐用都比賣神社佐用郡佐用町本位田甲〉と記しています

播磨國風土記にある゛賛用都比゛であると記しています

【抜粋意訳】

佐用都比賣神社

祭神 玉津日女命

今按 この佐用都神は伊和大神妹神 玉津日女命にませり 其は播磨風 讃客郡客者 大神妹 妖柱各國之時 妹玉津日女命捕臥生鹿割 其腹 其仍一夜間生苗卽令取殖爾大神勅云 汝妹者五月夜殖哉 卽去他處號五月夜郡 神名賛用都命 今有 讃町田也云々とあるにて 著けれは也さて考るに 古事記に市杵島比賣命 亦御名 謂 狹依毘賣命とある狹依毘賣命と佐用都比賣神と同神に非るか

官社
 仁明天皇 嘉祥二年十一月壬子 播磨國 佐用郡 佐用津姫神預に官社

祭日 九月三十日
社格 郷社

所在 本位田村(佐用佐用村大字本位田

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

佐用都比賣神社(佐用郡佐用町本位田甲)について記しています

【抜粋意訳】

〇兵庫縣 播磨國 佐用郡佐用村大字本位田(ホンデン)

郷社 佐用都比賣(サヨツヒメノ)神社

祭神 市杵島姫(イチキシマヒメノ)

合祭 大己 譽田別命 素戔嗚命 磐筒男命

佐用姫明神と云ふ神祇志料に
「伊和大神妃 玉津賣命を祀る、初此神 大神と競てを占る時、一夜の間に苗を殖生して殖給しかば、大神詔、汝妹は五月夜に殖つる哉と詔ひき、此神を號 賛用都(サヨツヒメノ)命と申し〔播磨風土記〕
〔按 古事記、市寸島比賣命 亦御名を狹依毘賣命的といふとある、此の佐用都比賣命と同神に似たり、されど記紀共に 伊和大神の妃なる事を云はず、姑附て考に備ふ、〕」と見えて、社記の市杵島姫命を批難せり、

御神體は木像に坐せる由にて、今寶物として寶蔵に保存す、〔〇社伝〕
天正五年兵火に罹りし際、文書記錄等を焼失せし爲創立年月詳ならず、〔〇明細帳〕

但、傳へ云ふ、神代大國主命 國土を経営し給ふ時、祭神 市杵島姫命は王津比賣命と申し、大國主命の妃となり、相競ひて各國を占め給ふ時、王津比賣命先づ此地に來り坐して、臥しける鹿を生けながら捕へて其腹を割き、即ち其血を混じて稻種と共に蒔き附け給へば、一夜の間に苗生ず、大國主命見て感賞して宣はく、汝妹者 五月夜(サヨ)殖哉と宣給ひ、妃命巳に此國を占め給ひ居るを以て、他所に行き給ふ、仍って此地を五月夜里と云ひ、郡を五月夜郡と號く、此時より五月夜都比賣命と申し、爰に此郡を占め経営し給へり、後此地に鎭座あらせられたりとの説あり、

續日本後紀に、
嘉祥二年十一月壬子 播磨國 佐用郡 佐用津姫神預に官社と見え

延喜の制小社に列せられ大小明神社に明神小とす
永享年間 赤松圓心舎兄の孫 別所敦範 本郡佐用豊福の庄を領し、利神山に築城し、厚く當社を崇敬せり、
後 池田輝政政 播備淡三國を領して姫路に居るや、其崇社なり、其族 池田出羽守、利神城を再築するに當り、又其崇社たり、
慶長十五年領主良照院の崇社となり、次いで萬治二年松平石見守 現今の拜殿を再建し、寛永十七年松平主馬助長谷村に居るに至り其崇社となり、其孫松平久之丞 元祿十四年九月上未十五石金千百両を投じ、本殿 (現今)拜殿を再建す、同領主の用ひし葛の紋今猶 社殿の棟側に存せり。

明治七年二月郷社に列す十九年十一月佐用郡比責神社と改四十年五月同村二荒神社を同月同荒神社二社を合祀し同年七月同鎭守神同年八月同八幡神社及荒神四十一年四月同村社八幡神社を、同年九月同村社妙見神社を合併し、又四十年十一月、同村河内神社を、境内社として合併、四十一年三月同片宮神社を境内へ合併す、
社殿は本殿・幣殿・拜殿・神樂殿を具備し、境内地は千七百四十二坪 (官有地第一種)と、八畝二十七步 (民有地第二種)とよりなる。 

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

佐用都比賣神社佐用郡佐用町本位田甲 (hai)」(90度のお辞儀)

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