刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の紀伊国 名草郡「刺田比古神社(さしたひこの かみのやしろ)」とされます 中古に荒廃し その後 再興され 江戸時代には 徳川吉宗公〈産土神の拾い親〉開運出世の神として 徳川八代将軍ゆかりの国家安泰の祈願の社でした
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
刺田比古神社(Sasutahiko shrine)
[通称名(Common name)]
岡ノ宮(おかのみや)
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県和歌山市片岡町2-9
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大伴道臣命(おおともみちおみのみこと)
〈狭手彦命〉大伴佐氐比古命(おおとものさでひこのみこと)
※『古事記伝 神祇志料等』には
《主》刺國大神(さしくにのおほかみ)〈大國主神の母神 刺國若姫の父神〉
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・開運出世の神 必勝祈願 厄除け 交通安全 家内安全等
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
延喜式内社 和歌山城鎮護 吉宗公拾い親
刺田比古神社(さすたひこじんじゃ) 岡の宮
鎮座地 和歌山市片岡町二丁目九
祭神 道臣命(みちおみのみこと)
大伴佐氐比古命(おおとものさでひこのみこと)当神社は岡の里(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、吹上、芦原、新南地区)の氏神様である。神武御東征の際に活躍した道臣命、百済救済の武功で知られる佐氐比古命をお祀りしている。
古来よりこの地は人が住み、境内には岡の里古墳がある。
道臣命は岡の里の出身とされ、佐氐比古命二十世の裔大伴武持が大伴氏の発祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀し、里人はその神徳を仰ぎ産土神として崇敬した。
南北朝の騒乱により荒廃するも嘉吉年中に氏子等が修造した。元和年中 徳川頼宣公が紀州入城の際、城の守護神たるこの神社を崇敬し、社殿を修築し社宝を奉献し更に領地を寄進した。二代城主 光貞公以降は産土神として崇敬を受け、殊に八代将軍 吉宗公 御誕生の時、神主 岡本周防守長諄が仮親となり特別に崇敬をうけた。吉宗公は将軍就任に際し開運出世の神と崇敬され、享保年中 二百石の朱印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀壱振(国宝)神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社として年に壱万度の祓を命ぜられ、神主 岡本長刻より代代三年に一度将軍に拝謁した。よって氏子の崇敬益々厚く、明治六年四月に県社に列せられた。昭和二十年七月九日の戦災に御神霊のみ安泰、社殿、宝物、古記録すべて焼失した。その後 氏子等の敬神により現在の復興となった。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
刺田比古神社 由緒
刺田比古神社は 延喜式神名帳、紀伊国神名帳等に記載された古社で、岡(広瀬・芦原・大新・番丁・新南・吹上)の産土神で岡の宮で知られ、和歌山城鎮護の神社でもあり、八代将軍吉宗公の仮親として出世、開運の神社として有名。
古昔 道臣命10世の孫 刺氏比古命より世々岡の里を采邑し、刺氏比古命20世の裔 大伴武持が この地に住むに及んで、此の祖神との神霊を岡の里に斎祀し、この地を開始経営給いし神として里人等其の神徳を仰ぎ産土神とし、国主の神、大国主神と尊崇した。
大伴武持28世の孫、岡本信濃守武秀始めて城を岡山に築き、世々之に住居し、最も厚く崇敬した。
天正年中、豊臣秀吉 和歌山城を築くのに本城鎮護の神社として大伴の後裔 岡本左介を社司とした。又、秀長、城代・桑山修理亮重晴に修造させ、岡本左馬助家長を神官とした。
更に文禄3年、神社を聖武天皇の岡の離宮の跡の現地に移した。
元和年中、徳川南龍公 本国に入り最も厚く崇尊し 社殿を修復し、清淫公 始め産土神なるにより寛永年中より延宝年中、大小社殿を造営し 松生院の別当職を除き唯一神社とした。吉宗公八代将軍に登閣するや、当社は公の産土神として周防守長諄は誕生の時の仮親となったので特別の崇敬を尽くし、開運出世の神と敬神し、享保年中常府より名草郡田尻村にて二百石の朱印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金粧飾の太刀壱振(国宝)神馬1頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とし1万度の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代々3年に1回上東し、将軍に謁し、後、代替・継目等、江戸に下りて拝謁するならわしとした。
よって社殿悉く整い、氏子の尊信益々厚く、神徳弥栄にて明治6年4月、県社に列せられた
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・八幡神社 《主》応神天皇
・氷川神社 《主》須佐之男命
・祓戸神社 《主》瀬織津姫命,速秋津姫命,伊吹戸主命,速佐須良姫命
・菅原神社 《主》菅原道真公
・市杵島神社 《主》市杵島姫命
・稲荷神社 《主》宇賀魂命
・宇須売神社 《主》宇須売命
・金刀比羅神社《主》大物主命
・春日神社 《主》建甕槌命,伊波比主命,天児屋根命,天児屋比売命
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊国 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 刺田比古神社
[ふ り が な ](さしたひこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sashitahiko no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)と号する神社は 全国で当社のみ
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に刺田比古神社(さしたひこの かみのやしろ)と所載されている神社であるにも関わらず 刺田比古神(さしたひこのかみ)については謎めいていて 諸説あり よく分かっていません
なぜなら 刺田比古神社は 南北朝の騒乱(1336〜1392)で荒廃してしまったとされ 社殿も神宝も失い 祭神も不明となり その後 里人によって再興〈公ではない再興〉されて 岡の地にある氏神なので”岡の宮”と呼称 又は「国主神社」や「九頭神社」と呼ばれて 大国主命を祭神としたり 民間信仰の地として信仰されたらしい
元禄9年(1696)社殿修復の時に出てきた箱の蓋に 「名草郡 岡村 刺田比古大明神書物箱」と銘が記されていて この神社が『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)所載の「刺田比古神社(さしたひこの かみのやしろ)」であったとわかります
刺田比古神(さしたひこのかみ)の謎〈諸説〉について
①本居宣長の『古事記伝』にある説《サシクニ》
「刺田」を「刺国」の謬としています
祭神を刺國大神(さしくにのおほかみ)〈大國主神の母神 刺國若姫の父神〉を祀る神社と考えています
〈『紀伊国名所図会』『紀伊続風土記』『特選神名牒』『大日本地名辞書』等もこの説に依っています〉
➁『和歌山県史』にある説《サデヒコ》
「刺田比古」は「サデヒコ」と読むとしています
➂『新撰姓氏録』〈815年(弘仁6年)〉にある説《サスタヒコ》
「榎本連 道臣命 十世孫 佐氐彦の後なり 刺田比古」としています
現在の社説は これを採用していて 祭神を大伴道臣命・佐弖比古命とします
『古事記』大國主神(おほくにぬしのかみ)の御祖(みおや)の段
①の本居宣長の『古事記伝』にある説《サシクニ》は この大國主神(おほくにぬしのかみ)の御祖(みおや)の段から 考察されています
①〈プロローグ〉
大国主神(おほくにぬしのかみ)の御祖(みおや)
須佐之男命(すさのをのみこと)の系譜が説かれ 大国主神の出生が紐解かれていきます
①〈プロローグ〉 大国主神(おほくにぬしのかみ)の御祖(みおや)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
南海電鉄 和歌山市駅からR26号を南下 和歌山城を過ぎて東へ 約2km 車6分程度
社頭は住宅街の中にあります
鳥居手前の白漆喰塀に『紀伊国名所図会(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される「刺田比古神社之図(岡の宮)」の図が掲げられています
刺田比古神社(和歌山市)に参着
一礼をして鳥居をくぐります
石畳みの参道の右手に神馬・稲荷社・金毘羅社・宇須売社と続いています
参道の左手に手水舎があり 清めます
参道は L字型に右〈北〉へ曲っています
突き当りには 岡の里古墳があります
岡の里古墳
この古墳は昭和七年一月に境内南西側の山の斜面から発見された。発掘の際に、石室、人骨の一部、土器数点が出土している。土器の形状から古墳時代後期(六世紀ごろ)のものと推測される。記紀の記述や古代紀伊の歴史を考える上でとても重要な古墳である。
この地は古来より岡の里と呼ばれ大伴氏の住地とされる。伝承によると祭神の道臣命はこの地に生まれ、神武天皇東征の際に従い、将軍として武功を挙げられたという。「続日本紀」巻三十にも岡の里より出た大伴氏のことが記されており、この古墳も大伴氏に関わりあるものといえる。大伴氏の御祭神を祀る当社の由緒をうかがわせる。
現在古墳は落砂によって埋没している。昭和七年当時の調査報告によると、地盤が砂地のため落砂の危険が多く、調査が中断されたという。それ以降は戦災等によって再調査は行われないままである。また古墳は一基のみ発見されたが、この時代の古墳は古墳群の形をとるらしく、山の形状からも未発見の古墳がある可能性は高い。今後の調査が期待される。
現地案内板より
参道を北へ折れると拝殿が建ちます 拝殿の向かって左手には 境内社が並んで祀られています
鳥居が立てられている 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記伝 神代之部』〈本居宣長 著 寛政10年(1798)脱稿〉に記される伝承
刺國大神の呼称について”サスクニオホノカミ”又は”サシクニオホノカミ”であろう
刺國若比賣の呼称について 若(ワカ)は 父神の大(オホ)に対して付けられている と記しています
【抜粋意訳】
九之巻 〇大國ノ主神ノ御祖の段
〇刺國大神
刺は
佐須(サス)と訓むか、【凡て刺某(サスナニ)と云言の例、みな佐須なり刺竹(サスタケ)刺車(サスグルマ)などの如し、】
佐志(サシ)と訓むか、【和名抄、出雲ノ国 大原ノ郡に佐世(サセノ)郷あり、式に佐世ノ神社も坐り、この郷名のこと、風土記に、佐世ノ木より負けたること見ゆ、佐世ノ木は、或人、和名抄に、鳥草樹ハ佐之夫乃木(サシブノキ)とある、これなりと云り、此に依らば、刺國(サシクニ)は、右の佐世ノ郷のことにも有むか、
又 小國(サグニ)の意か、然らば佐須具爾(サスグニ)と訓べし、】
決(サダ)めがたけれど、しばらく【彼ノ佐世ノ郷の事によりて】佐志(サシ)とは訓、
又 刺國と連(ツヅケ)て訓むか、刺と読て、國大(クニオホ)と連(ツヅケ)むか、【國大と連(ツヅ)かば、大は御大之御前(ミホノミサキ)と書る例に、富(フ)とも訓べし、但し女(ムスメ)の若比賣と云名に対ひたれば、大(オホ)の意にては有べし、】これも決(さだ)めがたし、
大神は、尋常(ヨノツネ)の大神(オホカミ)と申す例には非じ、この神、殊に然崇(アガ)めて申すべき由も見えねばなり、故 大(オホ)に上声を附(ツケ)て、常の例ならぬことを示したり、大之神(オホノカミ)と訓べし、【大(オホ)と下へ置く言は、めずらしいけれど、大和ノ國などに、大(オホ)と云地ノ名もあれば、大(オホ)の神ともいふべし、尾張ノ國 中島ノ郡 大神(オホカミノ)神社、臨時祭式に、大或作多とあれば、これも大之神なる例なり、】〇刺國若比賣、この御名のこと、右に同じ、若(ワカ)は、父神の大(オホ)に対へり、
【原文参照】
『紀伊国名所図会(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される伝承
『紀伊国名所図会』は文化8年(1811)に出版された書物。
紀伊国の当時の名勝地を記した案内で、各地の名所図会のなかでも代表的なものとして知られている。
刺田比古神社は名所の冒頭に紹介されており、当時の隆盛をしのばせる。境内末社の位置は現在と異なる。
当神社横の松生院は別当寺。寛永3年(1626)に初代紀州藩主徳川頼宣(南龍)公が、岡の宮神主を別当職に兼帯して、松生院に居住させたという。寛文3年(1673)には別当職を解かれ、神仏習合から唯一神社となったが、神社傍に新たに神職住居を与えられた。松生院の境内にある鳥居が別当寺の名残をうかがわせる。刺田比古神社 岡の宮 -和歌山城鎮護- 公式ウェブサイトより
https://okanomiya.com/ancient-document/
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【意訳】
刺田比古神社
祭神 刺田比古神
今按〈今考えるに〉
續風土記に 刺田比古神と大国主神を合祀す 上人 岡宮とも 又 岡大明神とも云 又 九頭明神とも云ひ 国津明神とも書せり 国津明神は大国主神なり 天正十七年棟札に雑賀庄 岡村 当社 国津大明神と書す これは合祀の神の方を挙しなりと云ひ
式社考に 祭神 刺田比古大神なり
古事記伝に 名草郡 刺田比古神社は 刺國大ノ神には よしなきか若や田の字は國の字の誤には非ずやと云り 刺國大ノ神と申すは 大国主ノ神の母神 刺國若比女の父神なりつらつら考ふるに当社を国津大明神とも九頭大明神ともあるは大國主神の一名にして御母外祖父の神の御名によりたる事明らかなりと云り 合せ考ふへし祭日 六月十七日
社格 縣社
所在 和歌山市片岡町
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【意訳】
〇和歌山縣 紀伊國 和歌山市字片岡町
縣社 刺田比古(サスダヒコノ)神社
祭神 刺底比古(サデヒコノ)命
配祀 道臣(ミチノオミノ)命創建年代詳らかならずと雖(いえど)も、延喜式の名草郡 小社の一なり、
神名帳考証に「刺田比古(サシタヒコノ)神社、狭手彦命、
三代実録、金村大連三男、
續日本紀云、天平神護元年十月巳卯、前名草郡 少領榎本連千島獣稲二萬束、岡田 刺田比古 今号 岡明神、
元禄九年 得タ箱蓋にその銘云、名草郡 岡村 刺田比古大明神書物箱、
姓氏録云、榎本連 道臣命 十世孫 佐氐彦の後なり、刺田比古、
續日本紀云、神護景雲三年十一月巳丑、陸奥國 牡鹿郡 浮囚外少初位 上勲七等 大伴部押人言、伝聞、押人等本これ紀伊國 名草郡 少領 正八位下 大伴礫津連子人、
三代実録云、貞観六年八月十三日、節婦 紀伊國 名草郡 大伴連宅子」と見え、
神社覈録に、「刺田比古神社、刺田は佐須多と訓べし、これ古は仮字なり、祭神 佐氐彦命、道臣命、和歌山城 南岡谷に在す、俗 岡宮と称す、
神社録云、考ふるに、祀神は、二座、大伴氏の祖神 道臣命 及 刺底比古命なり、岡里は古 大伴姓、榎本姓等が采地にして、世々・・・・・云々又
大日本地名辞書に、「岡宮(オカノミヤ)今 岡町村字岡之谷に在り、即ち延喜式 名草郡 刺田比古神社なり、古事記伝 神祇志料に刺田は 刺國の謬にて大國主神の母神 刺國若姫の父、刺國大神を祭るならんと論せり、」と云ふ、
・・・・
【原文参照】
刺田比古神社(和歌山市)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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