差出神社(さしでじんじゃ)は 『三宅記(みやけき)』に記されている「大蛇退治の伝承」に登場する「剣の御子」が 当社の御祭神「剣の神(Tsurugi no kami)」のこととされています 「剣の御子」は その剣で 大蛇を最初に退治したと記されていて 当社が鎮座する「錆ヶ浜(さびがはま)」の名前の由来は この 剣刀の錆 を落としたことに 由来すると云われています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
差出神社(Sashide Shrine)
(さしでじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
東京都三宅島 三宅村 阿古 血走原
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》剣の神(Tsurugi no kami)
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『三宅記(miyakeki)』に記載される神を祀る神社
【創 建 (Beginning of history)】
不詳
【由 緒 (history)】
差出(さしで)神社
この神社には、剣(つるぎ)の神が祀られている。
剣の神は、物忌奈命(ものいみなのみこと)の弟神で、大蛇退治の際 大蛇を最初に退治したのがこの剣の神であり、その時使用した刀が今も富賀神社に伝わる「蛇切りの太刀」であるといわれている。
またこのあたりを「錆ヶ浜」というのは、この刀の錆を落としたからであるともいわれている。
一説に、この神社は「ヤマブキ沢」から流出した細長い溶岩流の上にあり、その周辺の地に「上サビ」「中サビ」「下サビ」等の地名が残っている。「サビ」の意味は、溶岩流の鉄錆色に由来し、「剣」とは細長い溶岩流自体のことであるともいわれている。
三 宅 村社頭の案内板より
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
御祭神「剣の神(Tsurugi no kami)」について
『三宅記(miyakeki)』には 三島大明神の御子ではなく「三随神」の1柱「剣の御子」とされています
j又 案内板にあるように「剣の神(Tsurugi no kami)」は「物忌奈命(Monoimina no mikoto)」の弟神とする説もあります
「物忌奈命(Monoimina no mikoto)」は
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)には所載されていますが 鎌倉時代末期の『三宅記(miyakeki)』には登場しません
一方「剣の神(Tsurugi no kami)」は
『三宅記(miyakeki)』には登場しますが『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)には記されません
御祭神「剣の神(Tsurugi no kami)」の呼び名について
「剣の神(Tsurugi no kami)」は『三宅記(miyakeki)』では 三島大明神の家系ではなく 「三随神」(属神)とされていて
「大蛇退治」の伝承では 「剣の御子」と記されています
『伊豆諸島の大蛇伝説』では
「差出命(Sashide no mikoto)」or「サシド明神(sashido myojin)」と記されています
『三宅島に伝わる昔話 大蛇伝説』では
「差出神(Sashide no kami)」と伝わります
当社の名称が「差出神社(Sashide Shrine)」
御祭神が「剣の神(Tsurugi no kami)」とされていることが理解できます
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
鎮座地の「錆ヶ浜(sabigahama)」について
現在 三宅島には 大型客船が着く港が3つあり 風向きなどで寄港する港が決まります
「錆ヶ浜港(sabigahama ko)」の 他には「三池港(miike ko)」と「伊ヶ谷港(igaya ko)」があります
「錆ヶ浜(sabigahama)」は 三宅島の南西方向の阿古地区にあり 昭和37年(1983年)噴火災害のあった地区です
『記録 昭和58年三宅島噴火災害』東京都(1985/9),p.102によれば
昭和37年8月24日の噴火以来沈黙を続けていた雄山は、昭和58年10月3日15時23分頃、雄山中腹にある通称「二男山」付近から突然大爆発を起こし、島の南西部から南東部一帯にかけて甚大な被害をもたらした。
二男山付近の噴火は、割れ目噴火により雄山の南々西に位置する新澪池に至るまで拡大していった。縦一線に並んだ噴火口からは、真っ赤な溶岩が力一テン状となって高さ100m以上に噴き上げられ、噴煙は1万mの高さにまで及んだ。
流れ出た溶岩は、途中山林や原野を焼き、農地や都道をのみ込み、噴火後約2時間で島内最大の集落である阿古集落や粟辺地域に達し、阿古地区の南部と西部は大きな被害を受けた。阿古集落を襲った溶岩流は、330世帯の住家や阿古小・中学校、給食センターなど主要な公共施設を一夜にして焼失埋没させてしまった。
境内の案内看板には
この神社は「ヤマブキ沢」から流出した細長い溶岩流の上にあり、その周辺の地に「上サビ」「中サビ」「下サビ」等の地名が残っている。「サビ」の意味は、溶岩流の鉄錆色に由来し、「剣」とは細長い溶岩流自体のことであるともいわれている。
とあって 溶岩流を御神体としているのかも知れません
『三宅記(miyakeki)』に記される「大蛇退治」の伝承で
大蛇退治の際に 最初に大蛇に斬りつけた刀が 今も富賀神社に伝わっている「蛇切りの太刀」とされています
この太刀の錆を落としたから「錆ヶ浜(sabigahama)」と呼ばれるともいわれています
富賀神社(三宅島 阿古)の記事をご覧ください
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富賀神社(三宅島 阿古)〈延喜式内社 阿米都(和)氣命神社の論社〉
富賀神社(とがじんじゃ)は もともとは 峯富賀平(雄山の8合目付近)に鎮座するも 噴火により 二島ヶ山(新富賀山(二富賀山)古錆浜の荒島神社へ遷座し その後 現在地の富賀山(海抜60.4m)中腹に鎮座したと伝わります 古来より伊豆七島の総鎮守「三島大明神」として 伊豆の三島大社の祭神の発祥地だとする説もあります
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
阿古港(錆ヶ浜港)から東に270m 徒歩4分程度
三宅島にある唯一のホテル「ホテル海楽」の隣 三宅一周道路に面して鎮座します
差出神社(Sashide Shrine)に参着
道路に面して 白い鳥居が建ち 鳥居の右手には案内板 左下には明治時代に奉納された「手水鉢」があります
一礼して 鳥居をくぐります 扁額には「差出神社」と書かれています
覆屋の中に木製の祠が祀られています
拝所にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『三宅記(miyakeki)』に記される「三随神(sanzuijin)」の伝承
天竺の王子が 日本に到着後 丹波の国(tambanokuni)で翁と出逢い 三島大明神(Mishima daimyojin)となるであろうこと 正体は「薬師如来(Yakushi nyorai)」であることを告げられて 翁の御子3人が「三随神(sanzuijin)」となって 三島大明神に付き添う様子が 記されています
当社の御祭神は 1人は「剣(tsurugi)」と名付けました 「不動明王(fudomyoo)」ですと記されています
意訳
日本に渡る中間で 海中に荒れた風がたったので 船頭と舵取りは港へ戻そうとしました
王子は「この船は 左や右を向くのではなく 日本に向けなさい」と命令をされましたが 船頭は進んでお従いを差し上げず 舵取りは あれやこれや やみくもに走らせようとして帆を引きました
王子は立ち上がられて 御扇で 扇ぎ扇がれましたので たちまち順風になって 瞬く間に 御船は日本に着きましたしかし 王子は船の中ではお供もお連れになりませんでしたので お疲れになり 人家を探されたところ 神寂びた社の前に 柴の庵があるのをご覧になり 立ち寄られると 年を取り寿命もつきそうな姥と翁がおりました
王子は 近寄って
「旅のものですが 疲れてきたので何でも良いから 頂けないでしょうか」と頼まれましたが
「ここには 少しの食べ物の蓄えもございません 他へ行ってお求めください」
と答えましたが 重ねておしゃいますには
「他に行って求める方が良いが わざわざここを目指して参りました 何でも良いのです 何でもあるものでけっこうですから」と重ねて御言葉がありました姥は翁に向かって
「普通の人とは思えないお方が 疲れてやって来て 食べ物を乞われています ✊出て見てください」と言うと 翁は立って出て 見て差し上げると 姥に云うには
「このお方は ただの人ではいらっしゃいません 薬師の化身でいらっしゃいますぞ 急いでお入りいただきなさい とはいえ 只今差し上げる食べ物も思い出しません」と申し上げると「あそこに見えるものを 木の葉に入れてお授けください」と御言葉があったので ご希望通りに木の葉に載せて差し上げました
それを取って賞味され
「これの名前は何んというのでしょうか」と尋ねられましたので
タミという木の実であると申し上げますと
「美味しいものだから 私が住むところに植えよう」と七粒お持ちになりましたさて その夜の晩 翁は
「今宵の夢枕に 殿は天竺の王子でいらっしゃるのですが 東の海 伊豆の国の海の沖合いに 土地を焼きだしてお住まいになられるでしょう
殿のお名前は 三島大明神(Mishima daimyojin)と申し奉られるでしょう
本当のお姿は 薬師如来(Yakushi nyorai)でいらっしゃるとのお告げを頂きました」
と話されました翁は 地神の5代「ウノハフキアワセズノミコト」の御代にこの国に渡ってきました
「私は 百済国では「アマノコヤネノミコト」と呼ばれていましたが 年令が320歳になりましたので 昔や今の様子もだいたい覚えています
何処に居られても 姥と翁をお忘れにならないでください私には 3人の子供がおります 2人は男 1人は女です
1人を「若宮(wakamiya)」と名付けました
正体は「普賢菩薩(fugembosatsu)」です1人は「剣(tsurugi)」と名付けました
「不動明王(fudomyoo)」です1人の女子は「見目(mime)」と名付けました
正体は「大弁財天(daibenzaiten)」です
海龍王(kairyuo)とも申します海中に住まわれるのであれば また衆生(shujo)に功徳を授けるためにも 人の知力を超越した者達でございますので 王子にさしあげましょう」
と言って付き添わされました「あそこに見えている船こそ幸いにも富士の裾野の方角へ行く船です お乗りください」と4人を御船に乗せて
「この場所を 後には丹波の国(tambanokuni)と呼ぶでしょう」と言って 翁は柴の庵に帰りました
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000040542&ID=&LANG=default&GID=&NO=&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用
『三宅記(miyakeki)』に記される「大蛇退治」の伝承
三島大明神が 箱根の湖辺に住む老翁媼の娘3人を大蛇(龍神)から救い そして娘3人を后として三宅島に迎える話が記されます
この中で 大蛇退治の際 大蛇を最初に退治したのが「剣の御子」と記されています これが当社の御祭神の「剣の神(Tsurugi no kami)」であるとされています
意訳
ここに一つの不思議があります
箱根の湖のほとりに 翁と姥がおりました 夫婦は370歳になっておりましたが 三人の娘がいました
明け暮れと湖で釣りをして暮していましたが あるとき 一日中釣りをしていたが 一匹も魚がなかった舟の舳先に伏してお願いをしました
「この湖に主(ヌシ)が居られるならば あわれな この舟を魚でいっぱいにして頂けないでしょうか お礼に3人娘の中から 誰でもお気に召すまま 一人をお与えいたしましょう」と言い 居眠りをしてしまいました
すると16..7程の男が何処から現われて「先程の話は聞き届けました」と言いかき消すように失せました
そして その通りに 小さな魚たちが舟に飛び込み 舟は魚でいっぱいになってしまいました翁は 恐ろしくなって帰ろうとすると 水底より声がありました
「2,3日で約束の通りに迎えに行くつもりです 三女を貰おう」と言うものです翁は帰って いつもとは違い 消沈していましたので 姥や子供たちが見ておられ「何を悩んでおられますか」と聞かれましたら
「言わなくとも 叶うわけではないのに・・・今日に限っては魚を一匹も釣ることが出来ないので あまりの事だったので「あわれな この舟を魚でいっぱいにして頂けないでしょうか お礼に子供の中から 誰でもお気に召すまま 一人をお与えいたしましょう」と言ったところ たちまち舟に魚が沢山飛入りまして その後で 水底から声があって 三女をください 迎えに参上しますと言ったことがあり 嘆かわしくて この様に悩んでおります」と事の次第を語りました
娘三人は「それは たやすいことです 私たちのはかりごとに任せてください」と言われて翁も落着き「さて どうしようか」とおしゃりました
「約束の人が来たら 3人ともに後ろの家に居るとお答えください」と言って後ろに家を構えて待ちました
3日目の亥の刻に 男が迎えに来ました「約束に従いお迎えに参りました」と声があり 翁は出迎えて
「後ろの家に居ります」と答えられたので そのまま後ろの家に行きました
そこで三女が出迎えると「我々は ここの者ではなく 富士の頂に住む者ですので そちらへ尋ねてきてください」といって鳩となって飛び立っていきました
その時 男は大蛇になると大いに怒り 残りの二人の娘を取ろうとしましたので 二人も共に鳩になって飛び去っていきました大蛇はいよいよ怒り 富士山に三女を探し求めようと追りました
三女は 富士の山頂の岩の中に隠れておりましたが たまたま三嶋大明神が富士の山頂に登られていて 大明神は三女を見て何処の人かと尋ねられました
三女は「私は 箱根の湖の「かきのおうち」と申す者の三女でございます 父は唐土(もろこし)においでになる時は 八大執金剛童子と申しましたが 地神五代の「あまつひこねににぎのみこ」の御時に あまりにも垂迹がすばらしいので この国に渡ってまいりました
地神の御遺言に従い「あめつちのみこと」と契りを結びもうけられたと聞いておりますまた 母は斯羅奈(しらない)國の王の三女です
父母ともに370歳でございます
この父 箱根の湖に出て釣りをされましたが 魚を一匹も釣ることが出来ませんでした あまりの事で何んとはなく「この湖の底に主が居れば魚を得させてください そのお礼に3人の娘の中で誰でも望みのままに与えましょう」と言うと 水神がこれを聞き「それならば」と魚を与え その後「約束である」と迎えに来られたので ここへ飛んで来たのですが きっとここへも来るでしょう どうすればいいでしょう」と打ちしおれておりました大明神は「私を頼りにして頂ければ 御隠し申し上げましょう」とおしゃりました「どのようにでも お計らいにお任せいたします」と答えられました
この時 大蛇はそのまま富士の山腹に登りかかっていました その時 2人連れだって大島に飛ばれると 大蛇もまた大島に追って来たので それから また2人で連れだって三宅島に飛ばれました
三女を御嶽へお隠しになられて 見目と若宮にむかって「どうしようか」と御言葉を掛けました
「それは容易いことです」といい
「二つの大穴を掘り 一つの穴には飯を盛って「あんねいこ」にお預けください これを飯の王子といたします
もう一つの穴には 酒を満たして「まんねいこ」にお預けください これを酒の王子といたします
このようにお計りになられて 大蛇が来たならば 見目がお相手となり 飯と酒とを勧め 大蛇が酔ったところを「剣の御子」に切らせて差し上げましょう」と支度をされましたこの一大事を見物しようと 島々の王子たち 后たちもおいでになりました
新島の大宮の王子も劍の御子を従えておいでになりました
残りの妃は 王子が親のかたきを打たれるのを見ようと 「イガイ(いかゑ)」の浦の石の陰に隠れてご覧になりましたそうしているうちに大蛇が怒り 御嶽に登ろうとしているのを 見目が出向いて 様々になだめて「まずは 飯と酒を差し上げましょう」と申し上げると 大蛇もその穴に向かいました あらかじめ用意していたことなので 待ち構えた飯の王子は飯を無理強いして 酒の王子は酒をさしあげると 大蛇はたちまち酔って 鱗を立てて眠りこんでしまいました
これを一番に「劍の御子(三島大明神の随神)」が斬り 二番に「大宮の王子(新島を拓いた神)」が斬り 三番に「ていさんの王子(大宮の王子の弟)」が斬りました
大蛇が斬られて 尻尾を振り回したので 岩陰から見ていた「みとくちの大后(新島の泊大后大明神)」の左の御目に当たり 打ちつぶされてしまいましたこうして大蛇はやすやすと討伐され 各島の王子・后もお帰りになられましたそこで大明神は 御嶽に登られて あの后を探されましたが姿が見えませんでした
大明神は怒って見目に探すようにお命じになると 見目はお引き受けして ツツジの花の中から捜し出されました
「どうして 隠れていたのですか」と尋ねると「小蛇がいたので 大蛇の眷属かと思い恐ろしくなって ツツジの中に立ち入れましたら 着物の紅梅色とつつじの花を見間違えられたので 逃げた訳ではございません」とおしゃりましたので
大明神は「これより この島の躑躅(つつじ)は花を咲かせないように 蛇は后を怖がらせ給う」とお言いつけになり それから 蛇はこの島にいてはならんと追い出されました大明神は残る二人の娘も見目に探させ島に招き入れ、三人の娘を后とし、三宅島の各所に置かれた
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000040542&ID=&LANG=default&GID=&NO=&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用
差出神社(Sashide Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
富賀神社(Toga Shrine)の記事をご覧ください
富賀神社(とがじんじゃ)は もともとは 峯富賀平(雄山の8合目付近)に鎮座するも 噴火により 二島ヶ山(新富賀山(二富賀山)古錆浜の荒島神社へ遷座し その後 現在地の富賀山(海抜60.4m)中腹に鎮座したと伝わります 古来より伊豆七島の総鎮守「三島大明神」として 伊豆の三島大社の祭神の発祥地だとする説もあります
富賀神社(三宅島 阿古)〈延喜式内社 阿米都(和)氣命神社の論社〉