実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

讃岐神社(広陵町三吉)

讃岐神社(さぬきじんじゃ)は 大和朝廷に仕える讃岐(さぬき)国の斎部氏が 竹の豊富なこの地に移り住んだことから 竹取物語が生まれた舞台とも伝わり 鎮座地゛三吉みつよし)゛は 江戸時代まで散吉さぬき)゛呼ばれ 讃岐の神を勧請し創建した地との説もあり 延喜式内社 大和國 廣瀬郡 讃岐神社さぬきかみのやしろ)の論社となっています

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

讃岐神社(Sanuki shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

奈良県北葛城郡広陵町三吉328

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

〈本殿前 祭神案内板〉

《主》若蔵稲之命(わかうかのみこと)
   讃岐伊能城命(さぬきいのしろのみこと)
   若宇迦売命(わかうかめのみこと)

Please do not reproduce without prior permission.

〈社伝〉
《主》大国魂神 倉稲魂神 大物主神
   広瀬坐若宇加之売神大物忌神と同神

 〈『神社覈録』〉
《主》讃岐公祖歟

〈『特選神名牒』〉
《主》
散吉大建命 散吉伊能城神

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

讃岐神社(さぬきじんじゃ)

当社の祭神は「三代実録」元慶七年の条に正六位上散吉大建命神、散吉伊能城神と見えるが、当社伝では大国魂神、倉稲魂神、大物主神を奉祀(ほうし)するという。別に広瀬大明神と称するのは大物忌神と同神の広瀬坐若宇加之売神の分霊を勧請して祀つたことに因る。
慶長十九年(一六一四)正月火災後の現本殿は檜皮葺(現在鉄板葺)三間社で、その前方の切妻造本瓦葺の拝殿には掲額が多く、中でも三十六歌仙偏額六面(別保管)は元禄十六年九月(一七〇三)海北友賢筆の貼絵を付した貴重な歌仙絵である。

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

『奈良県史』第5巻 神社〈平成元年発行 奈良県史編集委員会編集〉 に記される伝承

【抜粋意訳】

讃岐神社

(三吉字サクウ八)

 三吉の北の巣山古墳西南に鎮座する社を、式内讃岐神社にあてられている。三吉は『和名抄』での、広瀬郡散吉郷に比定される。
 祭神は、社伝によると元来大国魂命・大物主命・倉稲魂命であったが、後に広瀬神社の若宇加乃売命を勧請したので、当社を南川合明神と称するようになったという。「広瀬神社社記」には、広瀬神社の旧摂社散吉社 (今廃絶 )は、散吉郷の南川合明神から勧請した御井神•井精神・大己貴神を祭神としているし、一説に讃岐国から御井命を勧請して、社名を讃岐神社として祀ったといい、詳かでない。

 『大和志』に『三代実録』元慶七年 (八八三 )十二月従五位下を授けられ、済恩寺・赤部二村界にあり、二村の笠村・古寺・寺戸•中村共に祭祀に預るとある。

Please do not reproduce without prior permission.

竹取物語の舞台 讃岐神社(さぬきじんじゃ)

祭神
大物忌命(おおものいみのみこと)倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
猿田彦命(さるたひこのみこと) 大国魂命(おおくにたまのみこと)             

 竹取物語に登場する竹取の翁は、讃岐造(さぬきのみやつこ)と書かれており、この神社周辺に住んだとされます。この地域は、江戸時代まで広瀬郡(ひろせぐん)散吉郷(さぬきのごう)と呼ばれていました。登場人物の名前は『古事記』に、開花(かいか)天皇の孫として大筒木垂根王(おおつつきたりねのきみ)、その弟として「讃岐垂根王(さぬきたりねのきみ)」が、大筒木垂根王(おおつつきたりねのきみ)の子に「迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)」とあります。垂仁(すいにん)天皇の妻に、迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)が妻となります。

 かぐや姫に求婚する五人の貴公子は実在する人物であると考えられます。
物語に登場する石作皇子(いしづくりのみこ)が丹比真人島(たひのまひとしま)、車持皇子(くらもちのみこ)は藤原不比等(ふじわらのふひと)、阿部御連(あべのみむろじ)が阿部御主人(あへのみうし)、大伴御行(おおとものみゆき)、石上麻呂足(いそのかみのまろたり)は石上麻呂(いそのかみのまろ)です。

壬申の乱(六七二)で活躍した人たちで、飛鳥宮か藤原宮 周辺に住む大臣クラスの貴族が、かぐや姫に求婚するため、昼夜を問わず通った記述から、この周辺に竹取の翁の屋敷があったと言われています。

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

讃岐神社(さぬきじんじゃ)と竹取翁(たけとりおきな)

かぐや姫

「今は昔、竹取の翁といふものありけり……」で始まる『竹取物語』(平安時代、作者不詳)に登場する竹取翁の出身部族である讃岐(さぬき)氏は、持統-文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐(さぬき)国(香川県)の氏族 斎部(いんぶ)氏が大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷に移り住んだものとしている。翁の讃岐(さぬき)姓は、『和名抄』の大和国広瀬郡に散吉(さぬき)あり『大和志』では、「散吉(さぬき)郷廃存(はいそん)済恩寺(さいおんじ)村」として、現在の北葛城郡広陵町大字三吉(みつよし)の斉音寺集落付近に比定している。
又この付近に「藪ノ下」、「藪口」、「竹ヶ原」という地名があり真竹(またけ)孟宗竹(もうそうちく)等の竹林が多数残っている。

三吉の北部には讃岐(さぬき)神社が鎮座し『延喜式』神名帳、広瀬郡の讃岐(さぬき)神社がこれに当るとされる。

『竹取物語』の舞台が大和国であったことはかぐや姫の求婚者であった五人の貴公子の名が、持統朝末期から文武朝初期にかけて朝廷の中心にいた五人の実在の人物に比定されることも符合する。

(資料)奈良県史(風土と文学)
読売新聞((昭和六十一年三月十五日付夕刊)

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

散吉大健命神 散吉伊能城神゛として 神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

四十四 元慶七年(八八三)十二月二日甲午

○二日甲午


阿波國 從五位下 和多都美豐玉比 白馬神 並從五位上

大和國 正六位上 散吉大健命神 散吉伊能城神
越前國 正六位上 氣多神 並從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

大和國 廣瀬郡 讃岐神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)広瀬郡 5座(大1座・小4座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 讃岐神社
[ふ り が な ]さぬきかみのやしろ)
[Old Shrine name]Sanuki no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 大和國 廣瀬郡 讃岐神社さぬきかみのやしろ)の論社

・讃岐神社(広陵町三吉)

一緒に読む
讃岐神社(広陵町三吉)

讃岐神社(さぬきじんじゃ)は 大和朝廷に仕える讃岐(さぬき)国の斎部氏が 竹の豊富なこの地に移り住んだことから 竹取物語が生まれた舞台とも伝わり 鎮座地゛三吉(みつよし)゛は 江戸時代までは゛散吉(さぬき)゛と呼ばれ 讃岐の神を勧請し創建した地との説もあり 延喜式内社 大和國 廣瀬郡 讃岐神社(さぬきの かみのやしろ)の論社となっています

続きを見る

廣瀬大社(河合町川合)
〈本殿に合祀 讃岐神社〉

一緒に読む
廣瀬大社(北葛城郡河合町川合)〈崇神天皇九年(前八九)鎮座の式内社〉

廣瀬大社(ひろせたいしゃ)は 創建は崇神天皇9年(前89)゛大和盆地を流れる全ての河川が合流する地点に祀られ治水と五穀豊穣を司る゛と由緒にあり 大和川は 鎮座地から 龍田を抜け奈良盆地を下り流れる 『日本書紀』天武天皇4年4月の条には 風神を龍田の立野〈龍田大社〉に 大忌神を広瀬の河曲〈廣瀬大社〉を祀る と記されます

続きを見る

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄田原本線 箸尾駅から南方 約3.4km 車10分程度
高田川沿いには桜が咲いていました

Please do not reproduce without prior permission.

すぐ北に馬見丘陵公園〈馬見丘陵古墳群〉があり

4世紀末から6世紀にかけて造営された巣山古墳(前方後円墳 204メートル)日本を代表する周濠型前方後円墳〉のすぐ南隣にあたります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の東側には 駐車場がありますが 駐車禁止とあります

Please do not reproduce without prior permission.

表参道は南側にあり 鳥居は道路の左端 車を降りて一礼をしてくぐります

讃岐神社(広陵町三吉)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

参道を進みます

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿の奥は 漆喰塀に囲まれて 本殿が祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

社殿に一礼をして 参道をもどります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 讃岐神社について 所在は濟恩寺村赤部村の界〈現 讃岐神社(広陵町三吉)〉と記されています

【抜粋意訳】

讃岐神社

讃岐は佐奴岐と訓べし、和名鈔、(郷名部)散吉、
○祭神 讃岐公祖歟
〇濟恩寺村赤部村の界に在す、(大和志)
〇姓氏録、(右京皇別下)讃岐公、大足彦忍代別天皇子、五十香足彦命之後也、

連胤云、考証は讃岐公の氏社として、神位をば別社とす、祭事記、大和志等は、神位を当社に定め、比保古は飯依比古神(讃岐国亦名)とす、未熟れか是なるを志らず、

神位
三代実録、元慶十二日甲午、授大和国正六位上散吉大建命神、散古伊能城神、從五位下、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 讃岐神社について 所在は済恩寺 赤部二村の堺〈現 讃岐神社(広陵町三吉)〉と記されています

【抜粋意訳】

讃岐(さぬきの)神社

今 散吉郷 済恩寺 赤部二村の堺にあり、大和志
蓋 散吉大建(さぬき おほたけの)命 散吉伊能城(さぬき いのきの)命を祀る、

陽成天皇 元慶七年十二月甲牛、正六位上 散吉大建命神 散吉伊能城命神に従五位下を授く、

〇按 延喜式載する所一座にして、祭神二座なるの例 延暦儀式帳の如き以て徴とするに足れり、故今姑く此に附く、
凡 毎年九月十日祭を行ふ、奈良縣神社取調書

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 讃岐神社について 所在は済音寺村赤部村〈現 讃岐神社(広陵町三吉)〉と記されています

【抜粋意訳】

讃岐(さぬきの)神社

祭神 散吉大建命 散吉伊能城神

神位 陽成天皇 元慶十二日甲午、授大和国正六位上散吉大建命神、散古伊能城神、從五位下

祭日 九月十日
社格 村社
所在 済音寺村赤部村(北葛城郡馬見村大字三ツ吉)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

讃岐神社(広陵町三吉) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

一緒に読む
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)

大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています