山王神社(さんのうじんじゃ)は 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社である・菅田神社(小野市菅田町)・住吉神社(小野市中番町)は 東條川を挟んで その南北の岸に祀られています 同じく論社とされる当社は そこから東條川を上流に向かって4km程遡った辺りの北岸に鎮座しています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
山王神社(Sanno shrine)
【通称名(Common name)】
・厚利 山王神社(あつとし さんのうじんじゃ)
・山王はん
・山王さん
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県加東市厚利535
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大山咋神(おほやまくひのみこと)
大己貴命(おほなむちのみこと)
《配》誉田別尊(ほんだわけのみこと)
秋葉大神(あきばのおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由 緒
往昔、神社鎮座地は江州日吉大社の神領であった。
それは後鳥羽院の御寄進によるものである。それ故に御分霊を当社に祀ったものである。
2008 兵庫県神社庁HP
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6311152.html
山王神社の使者であるサルの伝承として
エピソード
スタート地点であるとどろき荘の川向かいは、森尾地区です。森尾地区には、昔、大歳神社という神社があったそうです。
ある秋、一匹のサルが現れ、神社の周りを調べるように飛び回りました。村の人々が「普段はサルなんか出てこないのに」と不思議がっていると、その数日後に洪水が起こり、神社が丸ごと流されたそうです。
大歳神社が流された先は、厚利地区の山王神社前。壊れもせず、山王神社の前に納まっていたとか。動かそうとしてもびくともしないので、人々は「大歳神社はここにいたいのだろう」として、大歳神社を山王神社で合祀してもらうことにしました。森尾地区の人々が、村をいくつか隔てた山王神社の氏子であるのは、その名残だそうです。
加東市産業振興部商工観光課 発行『加東市のフットパス 山田錦とお寺・神社のコース』より
https://www.city.kato.lg.jp/material/files/group/50/footpath_tojo01.pdf
【由 緒 (History)】
『加東郡誌』〈大正12年(1923)〉に記される内容
【抜粋意訳】
第九編 神社 第三章 村社 三〇 村社 山王神社
中東條村厚利字高杉五百三十五番地
一 祭神
大山咋神
(合祀祭神 )譽田別尊 秋葉大神
(神社明細帳には素戔嗚尊、大巳貴命となし合祀祭神を譽田別命、倉稻魂命、猿田 彦神の三柱と載せたれども今當社掌の調進せる神社史料に據り改めつ )
一 由緒
耀天記 貞應二年の記事に徵すれば 江州日吉神社の神領に播磨國東厚利庄ありて 神樂其他雑掌勤役の事見え 元應元年〔大社 小比叡社〕社家法進狀に該地は後鳥羽院の御寄附し給ひたるものなることを記せり。されば當社の創立が少くとも鎌倉開府前後の事に属することを推知し得べし
正德二年三月八日 神祇管領より正一位宗源宣旨の事あり
明治七年二月 村社格に列せらる
明治四十三年四月同村字西ノ越 八坂神社を境内神社に命併し 又 同村榮枝字寺谷八幡神社〔境内神社 秋葉神社と共に並び山王神社を合祀す〕〇貞應二年十一月日 (中畧)
一 廿七公家御神樂之事
春秋二季在之、春大旨四月、日ハ不定 ・・・・・
・・・・・・・・【續群書類從神祇部耀天記】
〇一 播磨國東敦利庄〔十禅師二季御服二季御神樂 大宮侍所大盤等析所 御鳥羽院御寄附〕
神主成久知行【續群書類從神祇部 元應元年〔大社 小比叡社〕社家 法進狀】〇菅田神社
今 菅田山王権現ノ社と唱ふ 加東郡菅田村にあり (中略)ここより一里半上みにあつとしと申す神社あり 其神より例年九月八日に神の御使として大猿ーつ來る違ふことなし云不思議といふべし【式内神社考】
〇山王ノ神社 〔厚利村 舊名 高杉明神〕【播磨遊道知便】
〇山王権現 日高杉 東條厚利村 域内橫十七間 竪百二十間 馬場横二間長百二十間除地 祭禮九月申ノ日
舞臺 御旅所 神輿二基【播磨鑑】〇松雑木有
ー、壹町貮反步〔百貮拾間参拾間〕山王大明神山 但宮建境内有
松木有
壹反七畝貮步〔百四拾間 三間四尺四寸〕山王大明神馬場 右貮ヶ所從往古除地 七十年以前戌年 池田三左衞門檢地之時分も除地 故此度も除之【延寶七年檢地帳】・・・・
・・・・
・・・・〇當社はもと字横山〔現今 神社地の西南方約二町〕にありしと言ひ傳ふ 現に横山の東にある田地の側に御鎭座當時 社鵑(ほととぎす)の御祭神を脊負ひて休みしといふ所ありて 今當社例祭の神樂歌に「社鵑をりわ明けの烏、おて鳴いたわ、まるは田に立つ、さんやれ、あの日を御覧じ山の方へかかる、日が入ら馬場へ入れ、月の出さいんを、明年の當も再明年の當もあら名残惜しいやいな」と唱ふ
又每年當社の祭禮には 攝州丹生山より神猿参來りしといひ傳ふ 氏子榮枝村神谷山 仁王門の西隣に住める九兵衞といふ猟師 或る時 此神猿を擊ちとめなれば 其家代々神罸を蒙りて子孫繁榮することなしと【口碑】
・・・・
・・・・
【原文参照】
【抜粋意訳】
第九編 神社 第三章 村社 三三 村社 山王神社
中東條小澤字上ノ開地五百四番地
祭神
大山咋神 (神社明細帳には大巳貴と載す )
由緒
古老の口碑に 同村厚利村 山王神社の祭禮に當り 七度半の使を受けて當地より赤牛を牽きたりといふ。依りて按するに當地は 往古厚利庄の一部にして同じく江州日吉神領に属し 初め同一産土神を奉祀せしが 後故ありて分離し 當地に一社を創建せしものなるべし 明治七年二月村社に列せらる。
明治四十三年五月當村字西家地八幡神社を境内神社に合併す
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・絵馬
市指定文化財 山王神社本殿
指定 昭和60年3月27日
鎌倉時代初期に創建され、元禄2年(1689)に再建されたと考えられる。
祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)・大己貴命(おおなむちのみこと)ほか2神である。
三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、平入り正面に千鳥破風(ちどりはふ)、さらに軒唐破風向拝(のきからはふこうはい)をつけて屋根に変化をもたせている。本殿の中央部を空間として神輿(みこし)を納め、左右に二社を配置する形をとっており、近隣に例をみない建築様式である。手挟(てばさみ)の菊、枇杷(びわ)、椿、蟇股(かえるまた)の獅子、牡丹(ぼたん)、鶉(うずら)、兎と多彩であり、妻飾りは特に優れている。東西の二十虹梁(にじゅうこうりょう)の蟇股(かえるまた)は、東側に当社の伝説にちなんだ猿や杜鵑(ほととぎす)を、西側には雉(きじ)や鷺(さぎ)を配している。木鼻(きばな)は、向拝(こうはい)に獅子鼻を配し、身舎(もや)においては象鼻に至る変遷の過程を見せている。
特徴ある山王鳥居は、1916年(大正5年)の建立である。
市指定文化財 絵馬
指定 昭和60年3月27日
本殿正面中央部に掲額されている。杉板板面に、境内における盛大な祭礼の模様を克明に描いている。
図柄では、境内各所に正一位山王権現の幟(のぼり)が林立し、神輿が練り、幣持ちが幣を脈りまわして、観衆も興奮の極に達し、役人が懸命に警戒に当っている姿が巧みに描かれている。明治22年(1889) 9月奉納の絵馬ではあるが、旧時の勇壮、華麗な祭礼のようすを伝える資料である。 加東市
現地案内板より
・山王神社 木製獅子 3D画像
本殿修理事業に伴う調査によって平成25年に発見された5躰の内の一体
加東市観光協会HPより
https://sketchfab.com/3d-models/db9cc1ffed1f43f883e50399d22a98c7
・拝殿・拝殿横の社〈お堂か?〉
・〈本殿向かって右側の境内社〉
・石祠一宇
・舞殿
・社頭の石段ではなく 坂道〈バリアフリー〉
・参道
・神社の全貌
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
天一神社の鎮座地 東徳久(ひがしとくさ)では 平成4年~平成8年にかけて 東徳久遺跡の発掘調査があり 古代製鉄遺跡(炭窯跡)が発見されました 製鉄操業が盛んな地であったことが裏付けられています
明治20年(1887)頃には 北に隣接する平松地区で弥生時代の銅剣が出土して 兵庫県指定文化財となっています 一説に天一神社の御神体とも云い 天一神社の宝剣とされています
讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉の条には 蛇行剣(蛇のようにうねった刃をもつ剣)の出土が 記されていますので 関係性はあると想います
【抜粋意訳】
讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉
昔 近江天皇の御世〈天智天皇 在位668~672年〉
丸部(わにべの)具(そなう)という者が 仲川里にいた この人は 河内国の免寸(とのき)の村人が持っていた劔を買い取った
劔を得て以後 家はこぞって滅び亡くなってしまったそれから後 苫編部(とまみべ)の犬猪(いぬゐ)が かの地の墟〈滅んだ家の跡地〉に圃(はたつくり)〈畑を作り〉をすると 土の中に この劔を得た
土を取り去ると 劔は 廻り一尺(約30cm)ばかり その柄(え)は 朽ち失せていたが その刃は渋(さ)びず 光明は鏡の如くであった
ここに犬猪(いぬゐ)は 怪しんで劔を取り家に帰った すぐに鍛人(かぬち)〈鍛冶〉を招き その刃を焼かせた
その時 この劔は 蛇の如く 伸び縮みして 鍛人は 大いに驚き つくらずに止めてしまった
そこで 犬猪(いぬゐ)は 異劔(あやしきつるぎ)であると 朝廷に献上されたその後 浄御原朝廷(天武天皇の御世)
甲申の年〈天武12年(684)〉七月 曽禰連麿(そねのむらじまろ)を遣わせて 本處〈元の所〉に還し送られた 今は この里の御宅に安置されている
【原文参照】
託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)の条には 天目一命(あまのまひとつのみこと)〈(火を見て片目となる)一つ目の神で 鍛冶の神〉の記載があり やはり製鉄に関する神についての記述だと想われます
゛後に その田は荒れてしまったので 故に荒田村と名付けた゛とある文については
現実的な考証をすると 古代 砂鉄の採集としての鉄穴(かんな)流し タタラ製鉄の際の木材の伐採などによる 流域に大量の土砂が堆積して 田が荒れて 荒田(あらた)か?
【抜粋意訳】
託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)
大海山(おおうみやま)荒田村(あらたむら)
賀眉(かみ)は 川上〈加古川の川上〉にあったので名付けられた 大海と名付けられた所以は 昔 明石郡の大海里の人が到り来て この山の麓に居住した 故に大海山と云う 此処には松が生えている
荒田と名付けられた所以は この處(ところ)に在す神 道主日女命(みちぬしひめのみこと)父(夫)なくして み児を生みましき
その時 盟酒(うけひざけ)を醸(かも)し 田を七町作ると 七日七夜の間に稲が成熟し その米で酒を醸(かも)し 諸神を集めて振る舞うと その御子に養う神〈父神〉に酒を注ぐように命ずると その子は 天目一命(あまのまひとつのみこと)に酒を奉りましたので その父だと知ることとなりました
後に その田は荒れてしまった 故に荒田村と名付けられました
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 菅田神社
[ふ り が な ](すかたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sukata no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛について
天目一箇神は 鍛冶の神とされ
『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶であった゛天津麻羅(あまつまら)゛と同神ともされ 別名も多く 天目一命(あまのひとつめのみこと)とも呼ばれます
神名の゛目一箇(まひとつ)゛とは 鍛冶師は 製鉄の時 片目をつぶり 鉄の色を見て温度を見た事によるとも 鍛冶の職業病として 鉄を打つ火の粉によって片目を失明する゛一つ目(片目)゛の意味であろうとされます
式内社 天目一箇神社(あめのまひとつのかみやしろ)の論社が 多くある「多可町」には ゛鍛冶屋(かじや)と云う 地名があるのも頷けます゛
゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を祀る 播磨國の式内社について
播磨国は 古くから製鉄や鍛冶が行われていたと伝わり 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を信仰する製鉄・鍛冶の拠点に祀られたと考えられます
①播磨國 佐用郡 天一神玉神社(貞)(あめのひとつかんたま かみのやしろ)
・天一神社(佐用町東徳久)
天一神社(てんいちじんじゃ)は 社伝には゛今より約二千年前(彌生時代)に創立 日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」゛と記され 『六国史』天安元年(857)天一神に從五位下が奉授 その7日後に官社に列すと記され 『延喜式』播磨國 佐用郡 天一神玉神社(あめひとつかんだまの かみのやしろ)です
天一神社(佐用郡佐用町東徳久)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉
②播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社
式内社 天目一神社は 江戸時代には所在不明となっていました
所在地が不明であった天目一神社について 明治以降に多可郡内の数カ村の神社が名のりを上げました
・天目一神社(西脇市大木町)
天目一神社(あめのまひとつじんじゃ/てんもくいちじんじゃ)は 天正八年(1580)兵火にあい記録類を失い 江戸時代には社地も不明でした 明治維新の後 当時 惣堂天王社のあったこの地を式内社 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の跡地と定め 鎮守である平野神社も合祀され 大正12年(1923)復興されたものです
天目一神社・平野神社(西脇市大木町)〈天目一箇命を祀る古社〉
・青玉神社(多可町加美区鳥羽)
青玉神社(あおたまじんじゃ)は 伝承では 祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命で 初め三国岳の山頂に祀られていた ある時 鳥羽(とりま)の村人が三国山に狩りに行くと 急に背中が重くなり不思議に思いながら下山した 村はずれで急に背中が軽くなり「背中に乗った神様が降りられた」として社を建てたのが現在の社地と云う
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)〈祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命〉
・稲荷神社(多可町中区糀屋)
糀屋稲荷神社(こうじやいなりじんじゃ)は 創建は推古2年(594)に字「土井の後」に鎮座 天平時代 称徳天皇の崇敬厚く 慶雲3年(706)社殿の建立となり勅使を使わせられ 神託により天安元年(857)現在地に移ったと伝えられます 延喜式内社 播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社です
播州糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)〈創建は推古2年(594)〉
・天目一神社(多可町中区間子)
〈加都良神社 境内社〉
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)は 式内社 加都良神社の境内摂社として祀られています 天目一命は 多可町内では他に 青玉神社(山寄上やまよりかみ) ・青玉神社(鳥羽とりま)・西宮神社(清水きよみず)で主祭神として 大歳金比羅神社(鍛冶屋かじや)・加都良神社(間子まこ)では 摂社として祀られています
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)〈加都良神社の境内摂社〉
・荒田神社(多可町加美区的場)・天目一神社(的場 御田上)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います
荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉
〈参考論社〉
・大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
大歳金刀比羅神社(おおとしこんぴらじんじゃ)は 往古は 鍛冶の神 天目一命(あまのまひとつのかみ)を奉祀したと推測され 現在も本殿相殿・境内摂社に天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が祀られています 明治44年(1911)在来の大歳神社に〈摂社〉金刀比羅神社〈寛政6年(1794)讃岐琴平宮より勧請〉を合祀し 現社号に改称
大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
③播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)
『新撰姓氏録』に〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔として「菅田首」があり 「菅田氏」が祖神を祀った神社とされています
・菅田神社(小野市菅田町)
菅田神社(すがたじんじゃ)は 鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔とされる「菅田(すがたの)首(おびと)」が祀った神社と云われ 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり当社にも住吉神が祀られていきました
菅田神社(小野市菅田町)〈鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命を祀る〉
・住吉神社(小野市中番町)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 「菅田首(すがたのおびと)」が祀ったとされる 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)が分祀し 保安年間(1120~1123)今の地へ遷座したものとされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり 住吉大社の神領として 住吉三神を配祀し 住吉神社と改称されています
住吉神社(小野市中番町)〈延喜式内社 菅田神社(すかたの かみのやしろ)〉
・山王神社(加東市厚利)
山王神社(さんのうじんじゃ)は 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社である・菅田神社(小野市菅田町)・住吉神社(小野市中番町)は 東條川を挟んで その南北の岸に祀られています 同じく論社とされる当社は そこから東條川を上流に向かって4km程遡った辺りの北岸に鎮座しています
山王神社(加東市厚利)〈延喜式内社 菅田神社の論社〉
・八坂神社(小野市中番町)
八坂神社(小野市中番町)は 当地方に゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族〈砂鉄を採集して武器 農具を作成〉が祀った延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされ やがて農業に転換した里人は 農地に適した現在地〈その後 住吉大社神領となる〉に移住 神社も保安年間(1120~1123年)住吉三神を合祀し移転したと云う
八坂神社(小野市中番町)〈゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族の祭祀した神社〉
「菅田氏」が居住し 祖神を祀った式内社 菅田神社について
菅田神社(小野市菅田町)と同様に 祖神 天目一箇神を祀る式内社
菅田(すがたの)首(おびと)の一族は 大和国添上郡筒井郷(現在大和郡山市)と近江国蒲生郡桐原郷でも鍛冶を営んでいたとされ この両郡には 式内社の菅田神社が建立されています
菅田神社と号されるのは どちらも 菅田首が 播磨国加茂郡(のちの加東郡)東条の菅田を発祥地としたからであるとの説もあります
延喜式内社 大和國 添下郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社
・菅田神社(大和郡山市八条町)〈全国 鍛冶の神の総社〉
菅田神社(すがたじんじゃ)は 古代 製鉄・鍛冶を営んだ菅田首(すがたのおびと)が 『新撰姓氏録〈弘仁6年(815)〉』に載る祖神「菅田首 天久斯麻比止都命之後也」を祀ったとされます この祖神゛天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)゛は 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛と同神とされます
菅田神社(大和郡山市八條町)〈製鉄の神 天目一命を祀る 延喜式内社〉
延喜式内社 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社
・菅田神社(近江八幡市中小森町)
菅田神社(すげたじんじゃ)は 御祭神は 天津日子根命の御子で 鍛冶屋の祖とも伝えられている天目一命(あめのまひとつのみこと)です 古代には この子孫である蒲生稲置や菅田首が 祖神〈天目一命〉を祀り 蒲生平野一帯を治めていたとされます 延喜式内社 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社です
菅田神社(近江八幡市中小森町)〈菅田首が 祖神〈天目一命〉を祀る 延喜式内社〉
・竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)
竹田神社(たけだじんじゃ)は 製鉄の神 天目一箇命を祭神とし 鎮座地は゛鋳物師(いもじ)゛と呼ばれ 古代からの鋳造を行う工人たちの住地だと云う 社伝に 第10代 崇神天皇の御代 明神森の地に創祀 延暦6年(787)坂上田村麿が社殿を再造し 『延喜式』の 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)であると云う
竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)〈製鉄の神 天目一箇命を祭神とする延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社である・菅田神社(小野市菅田町)・住吉神社(小野市中番町)は 東條川を挟んで その南北の岸に祀られています そこから東條川を上流に向かって4km程遡った辺りの 北岸に山王神社(加東市厚利)は祀られています
この辺りは 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて 第82代後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)が 江州日吉大社に寄進して以来 日吉大社の神領であったと云う
為に 日吉大社の御祭神を勧請したと伝わります それより以前は 式内社 菅田神社だったのでしょうか
式内論社の・菅田神社(小野市菅田町)は 日吉神社を合祀して 旧称 菅田山王権現ノ社(すがたさんのうごんげんのやしろ)と呼ばれていました 当社との関連を察することが出来ます
県道75号から 少し北へ入ったところから 神社は一望できます
田の向こうに見えている こんもりとした丘が 山王神社(加東市厚利)です
300m程の真っ直ぐな参道が東南方向へと伸びていて 丘の麓が社頭になります 参道入り口の山王鳥居は この後ろにあったらしく 参道の途中から入ったので気が付きませんでした
山王神社(加東市厚利)に参着
社頭には 鳥居はありませんが 石燈籠が建ち 参道には 両側に石が置かれていますので 一礼をして 参道の坂を上がります 正面には本殿が見えています
拝殿はありませんが
本殿中央部を空間として神輿を納め 左右に二社を祀る珍しい建築様式の本殿の中央部が拝所です
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 東南方向へと一直線に伸びる参道を戻ります
社頭は 南を向きますが その先には 階段状の地形が広がっています これは南を流れている 東條川の川の流れに沿ってつくられた河岸段丘 ( かがんだんきゅう ) です
帰りには 山王鳥居をくぐって もどります
県道75号からの入り口には 標識がありました
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 菅田神社について 所在は゛賀東郡東條中番村に在す ,今住吉明神と稱す゛〈現 住吉神社(小野市中番町)〉と記しています
又 播磨鑑の説として゛菅田村は川越故川北に移す、宮ヶ坂と云、菅田村の内也、゛〈現 菅田神社(小野市菅田町)〉とも記しています
【抜粋意訳】
菅田神社
菅田は須賀多と訓べし
〇祭神 菅田首祖神欺
〇賀東郡東條中番村に在す ,今住吉明神と稱す、〔播磨鑑〕
例祭 九月九日
播磨鑑に、菅田村は川越故川北に移す、宮ヶ坂と云、菅田村の内也、」式社記、古跡便覽、共に菅田村山王権現也と云う、國圖を見るに、束條川の南に中番村・同北に菅田村あり、
されば皆 地名の違へるにあらず、考の違へる也、類社
大和國添下郡菅田神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 菅田神社について 所在は゛今 加東郡菅田村にあり、゛〈現 住吉神社(小野市中番町)〉と記しています
【抜粋意訳】
菅田(スカタノ)神社
今 加東郡菅田村にあり、〔神名帳考証、神名帳打聞、飾磨縣神社調〕
盖 菅田首の祖 天目一命を祀る、〔参酌新撰姓氏録、延喜式〕
凡 其祭 十月十八日を用ふ〔飾磨縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 菅田神社について 所在は゛菅田村 (加東郡下東條村大字菅田)゛〈現 菅田神社(小野市菅田町)〉と記しています
又 菅田村と中番村は もと一村だったが 川を隔ていて別れたのか証拠がないが ゛一説加東郡中番村住吉神社を菅田神社と云ひ゛〈現 住吉神社(小野市中番町)〉とする説もある と記しています
【抜粋意訳】
菅田神社
祭神 天久斯麻比止都命
今按 新撰姓氏録 菅田首 天久斯麻比止都命之後也とみえ 播磨風土記にも此神の此國に住ませる事みえて 荒田神社の條に引るか如く 又 神崎郡にも天目一神社あるを合せ考るに 此社に祭れるは菅田首の祖神にます事明かなり
祭日 十月十日
社格 村社所在 菅田村 (加東郡下東條村大字菅田)
今按 一説加東郡中番村住吉神社を菅田神社と云ひ 其社の十町許辰己に字菅田谷と云地ありと云を證とし 又 組合の七ヶ村を古へは姿の里と云などもみえたれと他に證なければとらず されど神社覈録に式社記 古跡便覧 共に菅田村 山王権現也と云り 國圖をみるに東條川の南の中番村同北に菅田村ありされは皆地名の違へるにあらす考の違へる也と云る如く 菅田と中番ともと一村なりしか 川を隔たるを以て 別れたりけんも知るへからす 今は菅田の名正しく存れる菅田村の方證ありて聞ゆれは之に從へり
【原文参照】
山王神社(加東市厚利)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について