猿投神社(さなげじんじゃ)は 主祭神 大碓命〈第12代 景行天皇の第一皇子 日本武尊と双生児〉を祀り 社伝によれば 第14代 仲哀天皇元年(192)勅願により現在地に鎮座と伝わる 『六国史』にも神階の奉授が記さる国史見在社 『延喜式』には 式内社 参河國 賀茂郡 狭投神社(さなげの かみのやしろ)と所載さます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
猿投神社(Sanage shrine)
【通称名(Common name)】
・猿投さん(さなげさん)
【鎮座地 (Location) 】
愛知県豊田市猿投町大城5
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大碓命(おほうすのみこと)
〈第12代 景行天皇の第一皇子 日本武尊と双生児〉
《配》〈第12代〉景行天皇(けいこうてんのう)
〈第11代〉垂仁天皇(すいにんてんのう)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰あり
・家内安全 職場団体安全 交通安全 安産等
【格 式 (Rules of dignity) 】
・ 国史見在社
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 旧縣社
【創 建 (Beginning of history)】
猿投神社
一、鎮座地
豊田市猿投町大城五番地
一、御祭神
主祭神 大碓命 景行天皇第一皇子で日本武尊と双生児
相 殿 景行天皇 (第十二代 )
垂仁天皇 (第十一代 )一、創祀・治革
創祀は社伝によれば、第十四代 仲哀天皇元年(一九二年)勅願により現在の地に祀るとある。
猿投山の東峯に東宮、西峯に西宮を祀り、猿投三社大明神と崇敬され、平安時代に制定された延喜の制では延喜式内社に定められた。三河国国内神明帳に「正一位猿投大明神」と記載され「三河三宮」と称された。
神領は七七六石で、三河国の神社では最も多く、明治維新まで徳川幕府より附与された。一、猿投祭りと棒の手
猿投祭りは、古来旧暦九月八日、九日の重陽の節句に行われたので「節句祭」と呼ばれ、三河、尾張、美濃三ヶ国一八六ヶ村は合宿をつくり、棒の手を奉納した。
東照軍艦に「天文二三年(一五五四年)岩崎城主 丹羽勘助氏次、猿投神社に奉納」とあり、現在も棒の手保存会により伝承され、秋の例祭に奉納されている。社頭の石碑文より
【由 緒 (History)】
猿投(さなげ)神社
一、創祀・沿革
創祀は、社伝によれば仲哀天皇元年とあり、山麓の本社、東峯の東宮、西峯の西宮を総称し、猿投三社大明神と崇敬されて今日に及ぶ。
神階は、三河国神名帳に正一位猿投大明神と記されている。社格は、延喜の制(九六七年)国幣の小社。明治の制(一八七二年)県社。
一宮制が行われるや三河三宮となる。
神領は 織豊時代より明治維新まで 七七六石の朱印を与えられた。
境内外に神宮寺が建てられ 猿投白鳳寺と呼ばれ、明治元年まで神仏混淆の地であった。二、御祭神
大碓命(景行天皇第一子、日本武尊と双生児)
景行天皇(第十二代)
垂仁天皇(第十一代)三、大祭
初午祭(旧暦二月初午の日)
例 祭(十月第二土、日曜日)四、棒の手(愛知県無形民俗文化財)
奉納の起源は不詳だが、天文二二年(一五五三年)岩崎城主(現日新町)丹羽勘助氏次公が村民に教え、熟達者が奉納したとある。最盛期には三河、尾張、美濃三国より一八六ヵ村より奉納があり、現在は愛知県無形民俗文化財に指定されている。
五、宝物
太 刀 銘行安 平安時代 国指定文化財
黒漆太刀 無銘 鎌倉時代 国指定文化財
樫鳥糸威鎧 平安時代 国指定文化財
神号額 鎌倉時代(一三〇四年) 県指定文化財
馬 面 江戸時代(一六〇一年) 県指定文化財豊田市教育委員会
現地案内板より
由緒
・創祀・沿革
猿投神社は豊田市の北端にそびえる三河の名峯猿投山の麓に鎮座する古社である。創始は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀るとある。猿投山の東峯に東宮、西峯に西宮を祀り、本社、東宮、西宮を総称して古くより猿投三社大明神と厚く崇敬されて来ている。神階は文徳天皇仁寿元年(851)に従五位下、陽成天皇元慶元年(877)従四位下に叙位している。以後記録は絶え、昇叙について明確なことは判らないが、社蔵神号額(嘉元2年=1304)には「正一位猿投大明神」とあり、三河国国内神名帳にも「正一位猿投大明神」とあるので、正一位に昇叙したことが判る。社格は延喜の制(967)では国幣の小社(三河国26座、賀茂7座)で、一宮制が施行されるや、砥鹿神社、知立神社についで三河三宮と称された。明治の新制度では、明治5年県社に列し、広沢天神社(延喜式内社)塞神社、小猿投社を合祀した(昭和になり広沢天神社は再び広沢の地で祀られるようになる)。明治中頃より国幣小社昇格を建議し、後年内定したが、大東亜戦争の終息によりその目的は達せられなかった。神領は織田・豊臣二氏の先規により徳川家康公が776石(神社では三河国1位)の朱印を付し、明治維新まで続いた。此の外の武将も多くの神領を寄進したことが社蔵の寄進状によってしることが出来る。
・御祭神
主祭神 大碓命 相殿 景行天皇(第12代) 垂仁天皇(第11代)大碓命は景行天皇の第1皇子で、小碓命(日本武尊)とは同胞双生児である。日本書紀に、「大碓命が東征を欲せられなかった為に、美濃国(岐阜県)へ封ぜられ、三野国造の祖神の娘2人を妃とせられ、2皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」云云とある。社蔵の縁起書(光仁天皇宝亀10年(779)に大伴家持、阿部東人による調査書)に「景行天皇52年(122)猿投山中にて蛇毒の為に薨ず、御年42歳、即ち山上に斂葬し奉る」云々とある。現在、西宮後方に御墓所がある。この地は古くより御墓所として伝えられて来たが、明治8年教部省の実地調査の結果、現在地を御墓所と確定し、以後守部、墓丁が置かれ現在に至っている。
・大祭
祈年祭(2月17日)初午祭(旧暦2月初午の日)例祭(10月第2土・日曜日)新嘗祭(11月23日)
・猿投祭と棒ノ手
古来当社例祭に三河、尾張、美濃3ケ国より献馬の事あり。旧暦9月8、9両日、3ケ国186ケ村はそれぞれ合宿をつくり、定められた時刻に境内に於て棒ノ手を奉納した。甚だ勇壮で血を見なければ納まらないとも言うので、ケンカ祭、シノギ祭とも称した。普通には重陽の節句に当たるので「節句祭」と言っている。8日に山上2社と本社の神輿渡御の神事、9日に例祭式典を斉行し、午後神輿還御の神事を斉行する。棒ノ手の起源については、東照軍艦に「天文23年(1554)岩崎城主(現日新町)丹羽勘助氏次の城下に於いて加賀の住人某が此の技を村民に教え、技に熟達した者を募り、軍装して猿投神社に奉納す」と記されている。流派は起倒、見当、鎌田、夢想の4流があり、その後門人によって34の流派を生じ、3ケ国に広まって行った。表、裏の両型があり、表型は棒、木刀を用い、裏型は真剱、槍、長刀、鎌、鎖鎌等の刃物を用う。かく盛大に行われた猿投祭も明治末頃より次第に各合宿よりの献馬も少なくなったが、昭和32年に棒ノ手が県の無形文化財(現在は無形民俗文化財)に指定され、各地に棒ノ手保存会が結成され、漸時盛大になってきている。
・宝物
(1)太刀 銘行安(平安時代末期)、黒漆太刀 無銘(鎌倉時代)
(2)樫鳥糸威鎧 付鎧櫃(平安時代)
(3)古文孝経 建久6年(1195)の写本
(4)漢籍1帖19巻 白氏文集等の漢籍
(5)神号額 嘉元2年(1304)
(6)馬面 慶長6年(1601)その他古文書・典籍等有する。・神宮寺
神宮寺の開創は社伝によれば、「天武天皇白鳳年間に勅願によって白鳳寺を建立、猿投山白鳳寺と言う」とあり、現在境内に白鳳寺塔心礎と言い伝えられているものが残存している。本社に阿弥陀如来、東宮に薬師如来、西宮に観世音菩薩を本地仏としていた。神宮寺には多くの僧坊(最盛期16坊)があったが、明治元年神仏分離令により一切の寺刹は破却され、現在は跡地のみ存して居る。神社が多年隆盛を保ち得たことについて社僧の功績を忘れることは出来ない。
・建造物
本殿、祝詞殿、中門、祈祷所、回廊、神饌所、四方殿、拝殿、太鼓殿、神輿殿、宝物庫、手水舎、総門、鳥居等が立ちなんでいる。これらは嘉永6年(1853)の大火によって殆ど鳥有に帰し、以後50有余年の年月を費やして再建されたものと、伊勢湾台風後に新築されたものとである。
・左鎌の由来
古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰がある。其の由来については記録がないので判然としないが、古老の言い伝えによれば双生児の場合には一方が左遣いの名手であるという。祭神大碓命は小碓命とは双生児であるので左遣いであらせられ、当時左鎌を用いて此の地方を開拓せられた御神徳をしたって諸願の成就を祈るときに左鎌を奉納する。現在は職場安全・交通安全を祈る会社関係の奉納がさかんである。
・猿投山とサナゲの語義
社蔵縁起書に「景行天皇53年天皇が伊勢国へ行幸、常に猿を愛し王座に侍せしむ。猿の不祥あり。天皇憎みて伊勢の海に投げ給ふ。其の猿、鷲取山に入る。日本武尊東征の時、壮士三河国より来たりて従う。平定の後、尊に曰く、先に慈恩を蒙れる猿なり。勅恩に報ずる為、扈従し奉ると言い終って鷲取山に入る。猿投山の称、是より起こる」とある。標高629米。山中に天然記念物「菊石」がある。又、団九郎岩屋、御船石、蛙岩、屏風岩、御鞍石等の伝説豊かな巨岩もある。サナゲの語義似ついて、文徳実録・延喜式神名帳には共に「狭投」と記し、三河国国内神明帳・神号額には「猿投」とある。従来の諸説を挙げてみると(1)前記縁起書にある猿を海に投げたより起こった。(2)山容が鐸ににているから。(3)鐸を木の枝につけて祭祀を行った。(4)大碓命薨去を悲しみ真歎山が猿投山となった、等の諸説があるが断定はし難い。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿〈・拝殿・四方殿・中門 廻廊の垣内には・祈祷所・祝詞殿・本殿〉
・中門〈一般参拝の拝所〉
・四方殿
・拝殿
・太鼓殿〈境内向かって右手〉
〈本殿向かって右手の垣内 境内社〉
・熱田社《主》熱田大神
・塞神社《主》八衢比古神,八衢比売神,久那斗神
・八柱社・八幡社
・大國社《主》大國主命
・大國社と〈大國社の右隣 小祠〉御鍬社《主》伊射波止美命
・〈境内向かって左奥 境内社〉厳島社・御手洗滝
・参道・鳥居
・社頭の総門
・二の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・大碓命の御墓所(西宮の後方)
社蔵の縁起書(光仁天皇宝亀10年(779)に大伴家持、阿部東人による調査書)に「景行天皇52年(122)猿投山中にて蛇毒の為に薨ず、御年42歳、即ち山上に斂葬し奉る」云々とある
・〈奥宮〉東宮(猿投山の東峯の山頂)・西宮(猿投山の西峯の山頂)
猿投山の東峯に東宮 西峯に西宮を祀る 両宮ともに ほぼ同じ時期 平安時代後期の創建と推測されています
猿投三社大明神〈・本社・東宮・西宮の総称〉古くより厚く崇敬される
〈境外末社〉広沢天神社(豊田市猿投町小黒見)《主》少名彦神
広沢神社は 式内社の論社です
延喜式内社 参河國 賀茂郡 廣澤神社(ひろさはの かみのやしろ)
・広沢神社〈広沢天神〉(豊田市猿投町小黒見)
広沢神社(ひろさわじんじゃ)は 創祀年代など不祥ですが 江戸時代までは 廣澤天神(ひろさわてんじん)と呼ばれたと云う 明治42年(1909)猿投神社境内に合祀されたが その後再びもとの廣澤の地に復祀 猿投神社の末社として現在に至っています 延喜式内社 参河國 賀茂郡 廣澤神社(ひろさはの かみのやしろ)の論社です
廣澤神社〈広沢天神〉(豊田市猿投町小黒見)〈延喜式内社〉
・秋葉社《主》迦具土命
・洲原社《主》伊邪那岐命
・御嶽社《主》伊邪那美命,大己貴命
・建速神社《主》建速須佐之男命
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
猿投山の北側には 旧美濃国 旧尾張国 旧三河国の国境に位置することから名づけられた三国山〔701m〕があり 猿投山は 旧美濃国にも 隣接した地です
『日本書紀』には 大碓命(おほうすのみこと)と美濃國(みののくに)との繋がりが記されています
景行天皇が 美濃国造の娘の姉妹が美人であると聞き 大碓命を視察に遣わされたが 大碓命は密通して復命せず 天皇から恨まれた と記されています
※ この記事の記載日は「即位 四年」とあるが 本来は「即位 四十年」の記事が書き写された時に誤記入したのであろうとする説あり
【抜粋意訳】
巻第七 大足彦忍代別天皇〈景行天皇〉 即位 四年春二月
是月(このつき)天皇はお聞きになられた
美濃国造の神骨(かほ)の女(むすめ)兄名(あねのな)は 兄遠子(えとほこ)
弟名(いものな)は 弟遠子(おととほこ)が並んで有り 國色(かほよし)〈美人〉
その婦女(おむな)の容姿(かほ)を見たいと 大碓命(おほうすのみこと)を遣わされた
この時 大碓命(おほうすのみこと)は 密かに女と通じ復命されなかった これに天皇は 大碓命を恨まれた冬十一月一日
乘輿〈天皇の乗り物〉は 美濃へと帰られた
また 纒向(まきむく)に都を造られた これを日代宮(ひしろのみや)と謂う
【原文参照】
大碓命が賊に尻込みをしてしまい 天皇に美濃に封ぜられた と記されています
【抜粋意訳】
巻第七 大足彦忍代別天皇〈景行天皇〉 即位 四十年夏六月
東の夷(ひな)〈異民族〉が 多く叛(そむき)て 邊境(ほとり)が騒がしく動いていた
秋七月癸未朔戊戌〈十六日〉
天皇は勅(みことのり)して 群卿(まへつきみたち)に曰く
「今 東國(あずまのくに)が不安 暴ぶる神が多く起こり 又 蝦夷(えみし)は 悉(ことごとく)叛(そむ)いて しばしば人民を略(かすむ)に 誰を遣わして その乱(みだれ)を平めようか」
群臣は皆 誰を遣わせばよいか知りません
日本武尊(やまとたけるのみこと)が奏上するに
「臣(やつかれ)〈私〉は 西国を征して労(いたわり)たい この役(えたち)は 必ず大碓皇子(おほうすのみこ)の事とするのでしょう」時に 大碓皇子は驚き 草の中に逃げ隠れました すぐに使者を遣わせ 召されて来ると
天皇は 責めて曰く
「汝(なんじ)が 望まないのに 無理に派遣しない どうして まだ賊(あた)に 対峙もせずに ひどく恐れているのか」それで 遂に大碓皇子(おほうすのみこ)を美濃に封された 封地へと行かれた これが 身毛津君(むげつのきみ)・守君(もりのきみ)の二族の始祖
日本武尊は 雄々しく曰く
「熊襲は既に平らけ 未だ幾年も経たぬが 今また 東夷が叛(そむ)いた いつになれば太平になるのか 私には大変ですが 急ぎ その乱を平らげましょう」と言われた
・・・
・・・
【原文参照】
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
參河國の神々に並び 神階奉授 狹投神に從五位下
【抜粋意訳】
卷三 仁寿元年(八五一)十月乙巳〈七〉
○乙巳
進むに 參河國
知立 砥鹿 兩神に階を 並加ふ從五位上
糟目 日長 狹投 野見 謁磐 播豆 赤孫 御津 石鞍 石纒 阿志 等十一神に 並に授くに從五位下
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
參河國の神々と共に 神階奉授 狹投神に從五位上
【抜粋意訳】
卷八 貞觀六年(八六四)二月十九日丙子
○十九日丙子
授に 參河國
從五位上 知立神 砥鹿神 並正五位下
從五位下 狹投神 從五位上
正六位上 莵足神 從五位下
【原文参照】
他の國の神々と共に 神階奉授 狹投神に正五位下
【抜粋意訳】
卷十八 貞觀十二年(八七〇)八月廿八日戊申
○廿八日戊申
先是 對馬嶋言 境近新羅 動恣侵掠 既無其師 弩機何用 絶域孤嶋 誰救警急 廼者有聞 彼國寇賊 學釼習戰 若不豫 恐難應卒 望請置弩師一員 勅 大宰府簡擇其人 補任置之 立爲恒例 』
授に
伊豫國
正三位 大山積神從二位
正四位下 礒野神 野間神 瀧神 伊豫村神 並正四位上
正五位下 村山神正五位上常陸國
從四位上 筑波男神正四位下
從四位下 筑波女神從四位上
從五位下 羽梨神從五位上參河國
正五位下 智立神 砥鹿神 並正五位上
從五位上 狹投神(サナケノカミ)に 正五位下出羽國
白磐神 須波神 並從五位下
【原文参照】
他の國の神々と共に 神階奉授 狹投神に正五位下
【抜粋意訳】
卷二十九 貞觀十八年(八七六)六月八日癸丑
○八日癸丑
授に
參河國
從四位下 知立神 砥鹿神 並に從四位上
從五位上 狹投神 赤孫神 並に正五位下肥前國
從四位上 田嶋神 正四位下
從五位上 志々岐神 正五位下
正六位上 神嶋神 鳴神 銀山神 並從五位下 』庶人伴中庸犯大造罪 被配流隱伎國 中庸男禪師麿 元孫 叔孫三人 其禪師麿年十二歳 身在京師 詔遣配所 元孫叔孫二人 隨在配所 召還京師
【原文参照】
他の國の神々と共に 神階奉授 狹投神に從四位下
【抜粋意訳】
卷三十 元慶元年(八七七)閏二月廿六日戊戌
○廿六日戊戌
授に
參河國 正五位上 狹投神 從四位下
尾張國 正五位下 多名神 正五位上
上総國 正六位上 神代神 常世神
飛騨國 本母神 釼緒神 並從五位下
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)参河國 26座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 狭投神社
[ふ り が な ](さなげの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sanage no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『記紀神話』にある御祭神 大碓命(おほうすのみこと)について
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される大碓命の出生についての伝承
表記は「大碓皇子(おほうすのみこ)」または「大碓命(おほうすのみこと)」
大足彦忍代別天皇〈第12代 景行天皇〉(西暦71~130年頃に在位)と皇后の播磨稻日大郎姫(はりまのいなひのおほいらつめ)との間に生まれた皇子とされます
皇子は 双子として生まれたと記載があります
第一子は 大碓皇子(おほうすのみこと)
第二子は 小碓尊 (をうすのみこと)⇒日本武尊
この二子は 双子〈同じ日に同じ胞(エ)〈胎盤〉により生まれた
【抜粋意訳】
巻第七 大足彦忍代別天皇〈景行天皇〉即位 二年春三月丙戌朔戊辰〈三日〉
播磨稻日大郎姫(はりまのいなひのおほいらつめ)を立て 皇后となり
〔一云う 稻日稚郎姫(いなひのわかいらつめ) 郎姫は異羅菟咩(いらつめ)〕皇后は 二人の男子を産み給い
第一子は曰く 大碓皇子(おほうすのみこ)
第二子は曰く 小碓尊(をうすのみこと)
〔一書に云う 皇后は三人の男子を産み 弟その三子は曰く 稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)〕その大碓皇子と小碓尊は 同じ日に同じ胞(エ)〈胎盤〉により生まれた双子として生まれました
天皇は異(あやしひて)臼に叫ばれた〈※古代 臼には出産祝いの意味あり〉よって その二王(ふたはしらのみこ)は曰く 大碓と小碓
この小碓尊は 又の名は日本童男(やまとをぐな)〔童男は烏具奈(おぐな)〕
または曰く 日本武尊(やまとたけるのみこと)
幼(わかくして)雄々しき気があり 壮(おとこざかり)には 容貌(みかお)も魅力(すぐれて) 身長(みのたけ)は一丈(ひとつえ) 力が強く鼎(かなえ)〈※古代 重さの象徴として用いる青銅器の意味〉を持ち上げ為した
【原文参照】
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される大碓命の出生についての伝承
表記は 「大碓命(おほうすのみこと)」
大帯日子淤斯呂和気天皇〈第12代 景行天皇〉(西暦71~130年頃に在位)が娶った針間之伊那毘大郎女(はりまのいなひのおほいらつめ)との間に生まれた子とされます
クシツノワケの王・オホウスの命・ヲウスの命またの名はヤマトヲグナの命・ヤマトネコの命・カムクシの五柱と記していて
小碓尊(をうすのみこと)⇒日本武尊と 双子であるとの記載はなし
【抜粋意訳】
古事記 中巻(なかつまき)大帯日子淤斯呂和気天皇〈第12代 景行天皇〉
大帯日子淤斯呂和気天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)は 纒向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)で天下を治められた
天皇は 吉備臣(きびのおみ)等の祖 若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の女(むすめ)針間之伊那毘大郎女(はりまのいなひのおほいらつめ)を娶り生(うみませる)御子
櫛角別王(くしつぬわけのみこ)
次(つぎに)大碓命(おほうすのみこと)
次(つぎに)小碓尊(をうすのみこと)又の名は倭男具那命(やまとをぐなのみこと)
次(つぎに)倭根子命(やまとねこのみこと)
次(つぎに)神櫛王(かむくしのみこ)
〔五柱〕又娶る 八尺入日子命(やさかのいりひこのみこと)の女(むすめ)八坂之入日賣命(やさかのいりびめのみこと)が 生(うみませる)御子
若帯日子命(わかたらしひこのみこと)
次(つぎに)五百木之入日子命(いほきのいりびこのみこと)
次(つぎに)押別命(おしのわけのみこと)
次(つぎに)五百木之入日賣命(いほきのいりびめみこと)又妾り その子(みこ)
豊戸別王(とよとわけのみこ)
次(つぎに)沼代郎女(ぬのしろのいらつめ)又妾り その子(みこ)
沼名木郎女(ぬなきのいらつめ)
次(つぎに)香余理比賣命(かごよりひめのみこと)
次(つぎに)若木之入日子王(わかきのいりひこのみこ)
次(つぎに)吉備之兄日子王(きびのえひこのみこ)
次(つぎに)髙木比賣命(たかきひめのみこと)
次(つぎに)弟比賣命(おとひめのみこと)又妾り 日向之美波迦斯毘売(ひむかのみはかれびめ)生(うみませる)御子
豊国別王(とくにわけのみこ)
・・・
・・・
その他の七十七王者(はしらのみこたち)は 悉(ことごとく)に 別賜國(くにぐにの)の 國造(くにのみやつこ)また和氣(わけ)及び稲置縣主(いなきあがたぬし)也(なり)小碓尊(をうすのみこと)は 東西の荒ぶる神や従わない人を平定した
櫛角別王(くしつぬわけのみこ)は 茨田下連等の祖大碓命(おほうすのみこと)は 守君(もりのきみ)・大田君(おほたのきみ)・島田君(しまたのきみ)の祖
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【原文参照】
猿投神社に伝わる 左鎌 の由来について
双生児の場合 一方が左遣いであり 大碓命が小碓命 (日本武尊)と双生児であるとの云い伝えがあり 大碓命が左遺いであられた縁によるとも伝わる
豊田市ですので トヨタ自動車の関連会社の〈安全祈願〉奉納が多くあります
左鎌奉納の由来
御祭神 大碓命が この地方を開拓された御神徳を慕い 古来より左鎌を奉納して 諸願成就を祈願する特殊信仰がある。言い伝えによれば、双生児の場合、一方が左遣いであり、大碓命が小碓命 (日本武尊 )と双生児であるので命が左遺いであられた縁によるとも、また災難を断ち切り、豊作・病気平癒等の祈願成就を祈ったともいわれるが、起原は定かでない。現在は職場交通安全を祈る会社関係の奉納が盛んである。
現地案内板より
猿投神社由緒記より 御祭神 大碓命
大碓命は景行天皇の第1皇子で、小碓命(日本武尊)とは同胞双生児である。日本書紀に、「大碓命が東征を欲せられなかった為に、美濃国(岐阜県)へ封ぜられ、三野国造の祖神の娘2人を妃とせられ、2皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」云云とある。社蔵の縁起書(光仁天皇宝亀10年(779)に大伴家持、阿部東人による調査書)に「景行天皇52年(122)猿投山中にて蛇毒の為に薨ず、御年42歳、即ち山上に斂葬し奉る」云々とある。現在、西宮後方に御墓所がある。この地は古くより御墓所として伝えられて来たが、明治8年教部省の実地調査の結果、現在地を御墓所と確定し、以後守部、墓丁が置かれ現在に至っている。
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
名鉄 猿投駅から県道349号経由で北上 約7km 車で15分程度
R475号線バイパスの豊田藤岡ICを降ります
道路標識に従って進みます
金色に塗られている 二の鳥居が見えてきました
社頭の総門です
猿投神社(豊田市猿投町大城)に参着
総門の脇の道を進むと参拝者用の駐車場となっていました
参道を進むと 正面には立派な拝殿が建ちます
社殿は 手前から
拝殿 四方殿 中門 廻廊の垣内には 祈祷所 祝詞殿 本殿
拝殿と中門の間に 四方殿があります
大変に珍しい造りです
四方殿の役割は知りませんが 正四角形ですので東西南北の四方を拝す 四方拝(しほうはい)に関連する殿なのでしょうか
中門を囲む廻廊には「親子ざる」が彫刻されていると案内がありました
11月の平日の参拝でしたが その下には 七五三詣での絵馬が置かれていました
中門〈拝所〉にすすみます
中門〈拝所〉の扁額には゛正一位 猿投神社゛と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の向かって右手には 塀の内に境内社が祀られていますので 順にお参りをします
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 狭投神社について 所在は゛高橋庄狭投村狭投山に在す、゛〈現 猿投神社(豊田市猿投町大城)〉と記しています
【抜粋意訳】
狭投神社
狭投は 佐奈氣と訓べし
〇祭神 大碓命、〔頭注〕
〇高橋庄狭投村狭投山に在す、〔私考略〕例祭 月 日
〇頭注云、人皇十二代 景行帝 第一皇子 大碓命也、母 播磨 稻日大郎姫、
神位
文徳実録、仁寿元年十月乙巳、参河國狭投神、授從五位下、
三代實録、貞観六年二月十九日丙子、授参河国從五位下狭投神從五位上、
同十二年八月二十八日戊申、授参河國從五位上狭投神正五位下、
同十八年六月八日癸丑、授参河國正五位下狭投神正五位上、
元慶元年閏二月二十六日戊戌、授参河國正五位上狭投神從四位下、
国内神名帳云、正一位狭投大明神、社領
三河國二葉松云、社領七百七十六名
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 狭投神社について 所在は゛今 高橋庄猿投村にあり、゛〈現 猿投神社(豊田市猿投町大城)〉と記しています
猿投山の峯に゛大碓命の御墓が現在する゛としています
【抜粋意訳】
狭投(サナケノ)神社
今 高橋庄猿投村にあり、〔三才圖會、神名帳考土代、官社私考、按本村鷲取峯に大碓命の御墓現在と云ふ、姑附て考に備ふ、〕
景行天皇 皇子 大碓命を祭る、〔本社傳記、神名帳頭注〕
文徳天皇 仁壽元年十月乙已、從五位下を授け、〔文徳実録〕
清和天皇 貞観六年二月丙子、從五位上に叙され、十二年八月戊申、正五位下を加へ、
〔〇按 本書 十八年六月癸丑の條 又本位を授奉るとあるは、桁文なり、今前後の文に據て之を訂す〕陽成天皇 元慶元年閏二月戊戌、正五位上 狭投神に從四位下を賜ふ、〔三代実録〕〔〇按 正五位上に進まれし年月、正史考ふる所なし〕
凡 毎年九月九日祭を行ふ、此の日本國 及美濃 尾張みな鞍馬数百匹を粧ふて、之を本社に奉る、」〔三才圖會〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 狭投神社について 所在は゛高橋庄猿投村゛〈現 猿投神社(豊田市猿投町大城)〉と記しています
【抜粋意訳】
狭投(サナゲノ)神社
祭神 大碓(オホウスノ)命
東宮は 景行天皇
西宮は 垂仁天皇今按 本社祭神 古書には狹投神とのみありて 御名知られざれど
狹投神社の古緣起に 忍代別天皇 皇子 大碓皇子 五十二年登に狹投山中に蛇毒薨〔四十二歳〕 則葬に山上
十六代 仲哀天皇元年 熊襲 又叛干し時 依て在るに勅に願於 大碓皇祠りたまふ狹投山下に焉 今 猿投ノ本社是也
四十代 天武天皇 白鳳年中 祠末社十五神云々 各大碓尊之兄弟也 于今爲に當社 宮仕 子孫不に斷絶矣云々とみえ
神名帳頭注にも 猿投 人皇十二代 景行帝 第一皇子大碓命也とあり
日本紀に此皇子の事を封に美濃國仍如に封地 此身毛津君字君二族之始祖也とみえたる 美濃國は参河 賀茂郡と續けるも由緣あれば 社傳に從へり神位
文徳天皇 仁壽元年十月乙巳 三河國狹投神授に從五位下
清和天皇 貞観六年二月十九日丙子 授に参河國從五位下 狹投神 從五位上
十二年八月廿八日戊申 授に参河國從五位上 狹投神正五位下
同十八年六月八日癸丑 授に三河國正五位下 狹投神正五位上
陽成天皇 元慶元年閏二月廿六日戊戍 授に三河國正五位上 狹投神 從四位下祭日 九月九日
社格 縣社所在 高橋庄猿投村〔大宮字大城平地東宮字茂〕〔吉ケ峯西宮字鷲取ケ峯〕
(西加茂郡猿投村大字猿投縣社猿投神社 )
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
猿投神社(豊田市猿投町大城)について 縣社に列した事が記されています
【抜粋意訳】
〇愛知縣 三河國 西加茂郡猿投(サナゲ)村大字猿投
縣社 猿投(サナゲノ)神社
祭神
大碓(オホウスノ)命
景行(ケイカウ)天皇
垂仁(スヰニン)天皇俗に猿投(エンダウ)宮と称す、創立年代詳ならず、
但古縁起に、
「忍代別天皇 皇子 大碓皇子、五十二年登に狭投山、中に蛇毒薨、(四十二歳)則葬に山上、十六代 仲衰天皇元年、熊襲又叛、于時依在勅願於大碓皇子、祠に狭投山下焉、今猿投本社是也、四十代 天武天皇白鳳年中 祠末社十五神、云云、各大碓尊之兄弟也、于今為に当社宮仕、子孫不断絶矣、云々、
と見えたり、
延喜式内社にして、
文徳実録に「仁壽元年冬十月一日乙巳、授に参河國狭投神從五位下、
三代実録に「清和天皇 貞観六年二月十九日丙子、授に参河国從五位下狭投神從五位上云々、
同十二年八月二十八日戊申、授に参河国徒五位上 狭投神正五位下云々、
同十八年六月八日癸丑、授に参河國從五位上狭投神正五位下云々、
「陽成天皇 元慶元年閏二月二十六日戊戊、授に参河國正五位上狭投神從四位下」と見え、
國内神名帳に「正一位猿投大明神」と見え、当社中門の勅額に「正一位猿投大明神、嘉元二甲艮八月一日辛巳書之、左近衡権中將源朝臣朝忠」、と見えたり、
古来 当国有数の大社にして、上下の崇敬頗る厚く、三川雀に、足利尊氏公神職証文ありとて左の交書を載せたり。
「足利尊氏神職深見別当職事、所補に任恒之也、早任に亡父貞之例、専に神事可令勤に仕神役之状、如件、
文和元年十一月二十八日」又、和漢三才圖會に、九月九日祭礼、自に近国引に粧鞍馬供奉、甚美麗也云々、」と見え、
官社考集説に「中古に社僧十六坊ありしが、今わずかに七院あり、七院の惣号を猿投山自鳳寺と称す」と見え、其の社頭の壮麗祭禮の盛観諸書に見えたるが、社領の如きは實に七百七十六石を有せり、諸社御朱印写に云く、
「猿投大明神社領、参河国加茂郡猿投神郷七百七十六石事、并山林竹木諸役等免除、任慶長七年六月十六日、元和三年七月二十一日。寛永十三年十一月九日、先判之旨、永不可有相違者也、仍如件。
寛文五年七月十一日」猿投一村悉く神領にして、守護不入の地たりしと、明治五年九月縣社に列せらる。
社殿は本殿、勅額門、勅使殿、拝殿、太鼓殿、御輿殿、御供殿、廻廊、社務所等を具備し、境内地實に五千九百十九坪(官有地第一種)あり、老檜古杉森々として陰をなし、猴多く棲めり、登臨の道二條あり、一を男坂といひ、一を女叛といふ、男坂は路頗る険阻にして、攀つる人まれなり、因みに当社祭神につき東海道名所圖會は「古事記岐美二尊の御子に、頬那芸神あり、狭投と訓む、若此神ならんか」と見え、古事記傳は、猿投を、サナギと訓まれたり。
境内神社 厳島姫社
【原文参照】
猿投神社(豊田市猿投町大城)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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参河国(みかわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 参河国には 26座(並小)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
参河國(みかわのくに)の 式内社 26座(並小)について