寒川神社(さむかわじんじゃ)は 一説には延喜式内社 下總國千葉郡 寒川神社(さむかはの かみのやしろ)の論社とされます 御祭神は 寒川比古命・寒川比賣命 配祀神に天照皇太神の御三神を祀り 神明様または伊勢神明様(いせのみょうじんさま)と呼ばれていました 明治元年(1868)社号を寒川神社に改称しています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
寒川神社(Samukawa shrine)
【通称名(Common name)】
神明宮(しんめいぐう)
【鎮座地 (Location) 】
千葉県千葉市中央区寒川町1-123
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》寒川比古命(さむかわひこのみこと)
寒川比賣命(さむかわひめのみこと)
《配》天照大御神(あまてらすおほみかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・ 国史に記載される神社
〈六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇實録』『日本三代實録』)に記載されている神社〉
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
寒川神社
所在地 千葉市中央区寒川町一丁目123
一説には延喜式内社(えんぎしきないしゃ)の寒川神社と言われ、寒川地区の総鎮守(そうちんじゅ)で、古く神明神社(しんめいしんじゃ)または伊勢明神(いせのみょうじん)と呼ばれていました。天照大神(あまてらすおおみかみ)を主神に寒川比古命(さむかわひこのみこと)、寒川比賈命(さむかわひめのみこと)を脇神(わきじん)にまつり、天正19年(1591)徳川家康も社領十石を寄進していて、明治元年(1868)に社号を寒川神社に改めました。
昔は、海上往来の船が同社沖にさしかかると礼帆(れいはん)といい帆を半ば下げて航行し、また社前を馬上で通行する者は下馬して敬意を表したと伝えられる。昭和39年の出津海岸(でづかいがん)の埋立てまでは、8月20日の祭礼に海岸の大鳥居から神輿(みこし)が勇壮に海に入る海上渡御(かいじょうとぎょ)の古式(お浜下り)が行われていました。
当社はたびたび火災にあい多くの宝物を失いましたが、神鏡・神幣(しんぺい)・獅子頭(ししがしら)は焼失を免れ現在に伝えられています。特に獅子頭は、桐材 漆塗(うるしぬり)で刻法は力強く、全体に古雅であり、御神体として祀られています。また頭(かしら)の内側に文明13年(1481)の修理朱墨銘があるが、様式が法隆寺伝わるものと類似している所があり、製作年代を鎌倉時代とする説があります。
平成10年3月 千葉市教育委員会
現地案内板より
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【由 緒 (History)】
由緒
下総国寒川郷仲宿(寒川一丁目)に、寒川地域(寒川町一、二、三丁目、港町、長洲一、二丁目、末広一、二、三、四、五丁目、出洲港、神明町、新宿一、二丁目、新田町)の守護神として鎮座まします寒川神社は、寒川比古命、寒川比売命配祀に天照皇太神の御三神を祀り、世に神明様又は伊勢神明様として知られた御神徳のたかい神社であります。
徳川家康も拾石の社領を奉納して崇奉の誠を捧げました。
往昔 海上往来の船舶が当社の沖合にかかると、礼帆と称して帆をなかば下げて航行し、又社前を馬上にて通行する者は、武家平民を問わず下馬して敬拝をするを常としたと伝えらる、霊験のあらたかな鎮守様であります。
王政復古により、明治と年号が改められたその元年に寒川神社と改称されたのが現今の寒川神社であります。千葉市の急速な発展に伴い、神社も氏子崇敬者約六千名を数え、歴代の宮司は身心を打込んで日夜その全員の家内安全、商売繁盛を祈祷して居ります。
神社として記したいものは御神殿奥深く祀られている獅子頭のことです。これは、桐材を使用、添塗刻様式で法隆寺にあるものに類似して居り鎌倉時代の作と伝えられて居る御神体であります。
伝承によれば「あるとき漁師が沖に舟を漕出して投入れた網に、不思議な獅子頭が掛かったので持ち帰って大切に安置していたところ、之を私蔵すると恐ろしいたたりがあると古老達に諭され、鎮守の神明様へ奉納してお祀りすることにしました。それより神明様の沖合を帆をあげて航行する船舶の覆没するもの相次ぐようになりました。そこで村の古老達が相談をして、之は獅子頭のたたりであろうと早速神殿の下に石室を築造して封じ埋めたところ、それよりは珍事災難は全くなくなったといいます」これが現在の御神体の獅子頭であります。寒川神社の御神殿は、文明十三辛丑年九月二十日(今から四百八十七年前)大破していたのを再建しましたが、その後 弘化二乙巳年十月二十七日、夜の大火のため御神体を始め僅かな御神宝を残して尽く灰燼と化しました。爾後五十五年ぶりの明治三十三年に漸くにして復元なり、仮御神殿(現今の新田町の道祖神社の御神殿とも伝えられる)から御本殿へ移られましたが、明治四十一年二月二十二日、夜の寒川の大火災で再び炎上しました。
昭和二年当時の役員諸氏の献身的努力と氏子崇敬者の奉賛とにより、三万数千円と言う巨額な浄財を以て約一ケ年の歳月を費して再建されたのが現在の御神殿及び社務所であります。このような由緒の深い霊験のあらたかな御宮を鎮守様として信仰の出来る地域の人々は幸であり、又おのずから崇敬の念がますますたかまってくることが自覚されます。然るに寒川地域に或いは未だ氏神様を知らない方もあるかと思われますが、明治百年を記念とし敬神の念を一段とたかめ、家内安全・交通安全のため切ないときの神頼みではなくして、転ばぬ先の杖と言う古諺の如く常日頃大いに寒川神社を信仰して、鎮守様の御加護をいただき更にお互いの幸福をたかめることにつとめましょう。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・〈境内摂社〉稲荷神社 迦具土神社 疱瘡神社
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・海津見神社《主》大綿津見神
・海津見神社《主》大綿津見神
・嚴島神社《主》市杵島比売神
・龍蔵神社《主》大綿津見神
・神明神社《主》天照皇大神
・白幡神社《主》誉田別命
・道祖神社《主》道俣神
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)下総國 11座(大1座・小10座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)千葉郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 寒川神社
[ふ り が な ](さむかはの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Samukaha no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 下總國千葉郡 寒川神社(さむかはの かみのやしろ)の論社
・二宮神社(船橋市三山)
二宮神社(にのみやじんじゃ)は 社伝によれば 創建は弘仁年間(810~823)とされます 延喜式内社 下總國千葉郡 寒川神社(さむかはの かみのやしろ)の論社とされ 又 延喜式内社 下總國 葛餝郡 茂侶神社(もろの かみのやしろ)の論社ともされます
二宮神社(船橋市三山)〈『延喜式』寒川神社・茂呂神社〉
・寒川神社(千葉市中央区寒川町)
寒川神社(さむかわじんじゃ)は 一説には延喜式内社 下總國千葉郡 寒川神社(さむかはの かみのやしろ)の論社とされます 御祭神は 寒川比古命・寒川比賣命 配祀神に天照皇太神の御三神を祀り 神明様または伊勢神明様(いせのみょうじんさま)と呼ばれていました 明治元年(1868)社号を寒川神社に改称しています
寒川神社(千葉市中央区寒川町)〈『延喜式』寒川神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR本千葉駅から約750m南下 徒歩での所要時間10~12分程度
道路沿いに神社があります
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境内は 垣根が廻されています
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社殿 境内 鳥居 社頭は東を向いています
寒川神社(千葉市中央区寒川町)に参着
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一の鳥居をくぐり抜けると 社殿の前に二の鳥居が建ちます
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社殿にすすみます
社殿の向かって左手には〈境内摂社〉稲荷神社 迦具土神社 疱瘡神社が祀られています
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿に一礼をして 境内を戻ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
延喜式内社 下總國千葉郡 寒川神社について 所在は゛寒川村に在す、゛〈現 寒川神社(千葉市中央区寒川町)〉と記しています
【抜粋意訳】
寒川神社
寒川は 佐牟加波と訓べし
〇祭神 誉田別尊〔地名記〕
〇寒川村に在す、(同上)例祭 月日、
考證に、寒川比女命と云り、こは寒川の文字に據るのみにして、其實は知れがたし、猶尋ぬべし、
〇伴信友去、寒川村の属邑 寒川新田と云所に古社あり、今は神明と稱すれども塞川神社也、神體は御幣にて、祭日に新に調へて、舊物は海の澳に持出て流す也、此神霊験著き事常にて、無禮をなす事あれば、其崇を受て病出て死に至るもの多し、早く悟りて祈謝すれば病治る事あれど、其語る事遅く病深くなれば、治する事なし、同藩の醫 丹羽誠軒、寒川に久しく客居して見聞する趣也、又寒川の本村に、神明宮あれど、そは新田なるを後に勧請し祭る也と云いり、といへり、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
延喜式内社 下總國千葉郡 寒川神社について 所在は゛今 三山村にあり、三山明神といふ、蓋是也゛〈現 二宮神社(船橋市三山)〉と記しています
゛一説に寒川村新田なる神明社を本社也と云へ゛〈現 寒川神社(千葉市中央区寒川町)〉の説を挙げていますが゛此地は天正以前 結城と云し地なれば、信じかたし゛と記しています
【抜粋意訳】
寒川(サムカハノ)神社、
今 三山村にあり、三山明神といふ、蓋是也〔〇按 一説に寒川村新田なる神明社を本社也と云へと、此地は天正以前 結城と云し地なれば、信じかたし、相模 寒川神社 一宮村 宮山にありて、其近き處に神揃山と云あり、本社も三山村にありて、村中に神揃場と云ふ處あるなど自ら由縁ありてきこゆ、姑く附た考に備ふ〕
凡 八月十三日湯立神楽を行ふ、〔下総式社考〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
①延喜式内社 下總國千葉郡 寒川神社について 所在は゛三山村(千葉県二宮村大字三山)゛〈現 二宮神社(船橋市三山)〉と記しています
又゛本社寒川村にあり゛〈現 寒川神社(千葉市中央区寒川町)〉の説を挙げていますが 違うと記しています
【抜粋意訳】
○千葉郡二座 小
寒川神社 稱 三山明神
祭神 素盞雄尊 稻田姫命
今按 社傳 祭神かくの如く 相摸國寒川郡寒川神社も祭神 素戔嗚命 大巳貴命と傳へて 彼此相似たるはもと同神の故なるべし されど祭神 素盞鳴命と云 は誤にて 實は寒川比賣命を祭れるものなるべし 姑附て考に備ふ
祭日 正月十五日 九月十六日
社格 郷社
所在 三山村(千葉県二宮村大字三山)
(明細帳に寒川神社なし 同村二宮神社郷社とあり)
今按 香取私記佐倉風土記に 本社寒川村にありとし 神名牒考に寒川
考に寒川新田にありと云るは 何れも傳聞を記せるなれば證としがたし 寒川社と云ばとて 必 寒川村にありとも定むべからざること 式外 小松神社の小松村にはあらずして 神崎村にあるが如く但祭式のさま また氏子の村になども寒川よりは三山村の方立まさりたるも 式内なるべく思はれ 倭姫世記に伊勢大御神のことを坂手社 定給支從其處行幸 河儘支其河之水寒有 則 寒河止 號久其處に御船留メ給 即 其處仁 御船神社定給支とあり 又延暦儀式帳に久具社稱 大水上神 御子 久々都比女命 又久々都比古牟彌乃神社 大水上兒 寒川比古命 寒川比女命とあるを本社の六月十五日 船流祭とあるは御船留給云々とあるに由縁あり 氏子の村に久々田村あり 其村に菊田姫社あるは寒川神の御兄弟なる久々都比女神に由ありて 聞ゆるなど おぼろげのことには非るべし 故 今 三山村と定めて記しつ
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
寒川神社(千葉市中央区寒川町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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下緫国(しもふさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 下緫国には 11座(大1座・小10座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
下総國 式内社 11座(大1座・小10座)について