前玉神社(さきたまじんじゃ)は 一説には 雄略天皇の頃 古墳時代(400年代後半~500年代前半)の創建とも云われ 北武蔵国の地元豪族が眠ると思われる さきたま古墳群の真上に鎮座します 延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 前玉神社 二座(さいたまの かみのやしろ ふたくら)とされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
前玉神社(Sakitama shrine)
【通称名(Common name)】
・浅間様(せんげんさま)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県行田市大字埼玉字宮前5450
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》前玉比賣命(さきたまひめのみこと)
前玉彦命(さきたまひこのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・幸魂神社(さいわいのみたま)と呼ばれたので 魂が幸せになる神社として 人と人の縁(えん・えにし)特に男女の縁である 恋愛成就や夫婦円満
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
前玉神社の歴史
前玉神社が最初に祀られた時代については、一説には大化の改新(645年)より一世紀以上さかのぼる安閑天皇、宣化天皇あるいは雄略天皇の頃の古墳時代(400年代後半~500年代前半)ではないかと考えられています。
その名残として社は古墳群に向かって祈願するように建立されています。
前玉神社は千数百年の歴史を持つ荘厳で由緒ある古社です。
【由 緒 (History)】
前玉神社の御由緒
前玉神社は「延喜式」(927年)に載る古社で、幸魂(さいわいのみたま)神社ともいいます。700年代の古代において当神社よりつけられた【前玉郡】は後に【埼玉郡】へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながります。
前玉神社は、埼玉県名の発祥となった神社であると言われています。
武蔵国前玉郡(むさしのくにさきたまのこおり)は、726年(神亀3年)正倉院文書戸籍帳に見える地名だと言われており、1978(昭和53)年に解読された稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から、471年には大和朝廷の支配する東国領域が、北武蔵国に及んでいたのは確実であると言われています。
北武蔵国の地元豪族が眠ると思われるさきたま古墳群の真上に建てられています。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・〈下之宮〉浅間神社《主》木花開耶姫命
近世初頭 忍城中にあった浅間神社を勧請し 古墳上にある社を「上の宮」、中腹にある社を「下の宮」と呼び 浅間さまの名で親しまれる
〈古墳の中腹に並ぶ境内社〉
・恵比寿神社
・天神社
・明治神社〈明治時代 埼玉地区の神社を合祀 祭神16柱〉
《主》軻遇突智命,保食命,菅原道真,須佐之男命,奥津彦命,奥津姫命,火産霊命,天忍穂耳命,天穂日命,建御名方命,天津彦根命,活津彦根命,熊野樟日命,湍津姫命,市杵島姫命,大己貴命
・池の中 祠〈弁財天か?〉
・〈御神木〉槇(まき)
行田市指定文化財
槇(まき)
昭和39年1月31日指定
前玉(さきたま)神社は、平安時代の『延喜式神名帳』に「前玉神社二座小」と記されている古社です。その入り口に植えられているこの大木は「イヌマキ」と称される常緑の高木の雄木です。
御嶽山信仰の奉納植樹の御神木で、推定樹齢600年、樹高20m、目通り4.0m、根回り5.5mを計ります。現存する槇としては埼玉県内最大のものです。
樹幹北側の中心部には大きな空洞があり、その中には木曾御嶽神社の石碑が置かれています。
平成23年 行田市教育委員会現地案内板より
・大鳥居
前玉神社の石鳥居
この鳥居は、延宝四年(1676)十一月に忍城主 阿部正能(あべまさよし)家臣と忍領氏子達によって建立されたものである。
鳥居は明神系の形式で、正面左側の柱に由来を示す銘文が刻まれており、江戸時代における浅間神社の隆盛を伝える貴重な建造物である。
平成十三年三月 行田市教育委員会現地立札より
・参道狛犬
・二の鳥居
・三の鳥居
・手水舎
・神楽殿
・万葉灯籠
行田市指定文化財
石燈籠(いしどうろう)
昭和42年(1967)3月10日指定
この石段の登り口にある高さ2m、二基一対の石燈籠は、元禄10年(1697)10月15日に、地元埼玉村(現在の行田市埼玉地区)の氏子一同が奉納したものです。
本殿に向かって左側の石燈籠には「前玉之 小埼乃沼尓 鴨曽翼霧 己尾尓 零置流霜乎 掃等尓有斯(前玉の小埼の沼に鴨ぞ翼きる 己が尾に降り置ける霜を掃うとにあらし)」と『万葉集』9巻-1744の「小埼沼」の歌が、右側の石燈籠には「佐吉多萬能 津尓乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽祢(埼玉の津に居る舟の風を疾み 綱は絶ゆとも言な絶えそね)」と【万葉集】14巻-3380の「埼玉の津」の歌が、美しい万葉仮名で竿の部分に刻まれています。この二首の歌は、地元・行田市埼玉地区に関連する歌と考えられています。
この石燈籠は、『万葉集』に収められた歌の歌碑としては、全国的に見て非常に古いものになります。江戸時代には『万葉集』の研究が盛んになり、関心も高まっていました。そうした中で、いち早くこの歌碑を建立した当時のこの地域の人々の文化的水準の高さと、江戸時代の『万葉集』への関心の高まりがうかがえる、貴重な文化財と云えるでしょう。
平成23年 行田市教育委員会現地案内板より
・注連縄の懸かる建屋
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埼玉郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 前玉神社 二座
[ふ り が な ](さいたまの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Saitama no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
祭事について
前玉神社で年間に行われる祭事の一覧
元旦祭 (1月1日)
御神田選定儀、御神田事始儀 (3月下旬)
勧学祭 (4月初旬)
例大祭 (4月15日)
田植えの儀 (6月初旬)
初山 (7月1日-15日)
夏越大祓 (7月30日)
七夕儀 (8月初め)
抜穂祭 (10月初旬)
燈籠祭 (10月15日)
新嘗祭 (10月下旬)
七五三 (10月下旬-11月)
星祭 (12月冬至)
大祓 (12月31日)
幸魂儀 (12月31日)
延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 前玉神社 二座(さいたまの かみのやしろ ふたくら)の論社
・前玉神社(行田市埼玉)
前玉神社(さきたまじんじゃ)は 一説には 雄略天皇の頃 古墳時代(400年代後半~500年代前半)の創建とも云われ 北武蔵国の地元豪族が眠ると思われる さきたま古墳群の真上に鎮座します 延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 前玉神社 二座(さいたまの かみのやしろ ふたくら)とされます
前玉神社(行田市埼玉)
・前玉神社(加須市根古屋)〈『埼玉の神社』著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 に式内社論社とある〉
前玉神社(さきたまじんじゃ)は 延喜式内社 前玉神社二座 と古くから云われ 又 延喜式内社 玉敷神社の旧鎮座地ともされます 玉敷神社は正能地区にあったが 上杉謙信の関東出兵の際焼失し その後 一時 根古屋(ねごや)の騎西城大手門付近〈現 前玉神社〉に移り 城内でたびたび出火するため 類焼をおそれ その後 今の地に遷座したと伝わっています
前玉神社(加須市根古屋)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
秩父鉄道 行田市駅から県道77号を南東へ約3.4km 車10分程度
さきたま古墳群に隣接
県道沿いに 鳥居が建ち 左手には参拝者の駐車場があります
前玉神社(行田市埼玉)に参着
駐車場には 御神木の槇があります
参道の入口には 前玉神社の案内板や 社号標には 延喜式内 前玉神社と刻されています 一礼をして鳥居をくぐり 参道へ
狛犬に会釈をしながら 参道を進みます
二の鳥居をくぐり抜けて境内へ
美しい水があふれる手水鉢で清めます
茅の輪をくぐり 三の鳥居をくぐります
社殿が祀られているのは 浅間塚と呼ばれる古墳ですので 石段を上がります
石段を上がると 右手には 浅間神社があり お参りをします
参道は 左手に延びていて 境内社が二社〈・天神社・恵比寿社〉
参道沿いには 石碑
参道の突き当りには 注連縄の懸かる建屋があります
社殿は 高さ8.7m 周囲92mほどの浅間塚と呼ばれる古墳上に鎮座します 石段が古墳上まで続きます
石段の下には 万葉灯籠
石段を上がり
拝殿にすすみます
彫刻が施された社殿には 前玉神社と記された提灯がさがります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿は覆屋内
社殿の背後を下から見ると 古墳は擁壁で保護されていて その上に鎮座しています
社殿に一礼をして 石段を下ります
参道を戻ります
二の鳥居をくぐり抜け 社頭へと戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『万葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌
一七四四は 髙橋虫麻呂の作 施頭歌で 寒い冬の早朝の小埼沼の風景が詠まれています
三三八〇は 埼玉の津〈船着き場・河岸のこと〉で 帆を降ろしていた船が 冷たい北からの季節風にゆれている この船の風以と 男女のゆれ動く恋心を重ねて詠んだ 東歌〈七世紀末~八世紀中頃の東国の歌〉の中の相聞歌(そうもんか)です
【抜粋意訳】
萬葉集 巻第九 一七四四 見武蔵小埼沼鴨作歌一首
[原文]前玉之 小埼乃沼尓 鴨曽翼霧 己尾尓 零置流霜乎 掃等尓有斯
[訓読]埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞ羽霧る おのが尾に 降り置ける霜を 掃ふとにあらし
[仮名]さきたまの をさきのぬまに かもぞはねきる おのがをに ふりおけるしもを はらふとにあらし
[意訳]埼玉の小埼の沼で 鴨が羽ばたきをして 水しぶきを上げている 自分の尾にふり降りた霜を 払おうとしていようだ
萬葉集 巻第十四 三三八〇 東歌 武蔵國 相聞往来歌九首
[原文]佐吉多萬能 津尓乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽祢
[訓読]埼玉の 津に居る船の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね
[仮名]さきたまの つにをるふねの かぜをいたみ つなはたゆとも ことなたえそね
[意訳]埼玉の津に帆を降ろしている船が 激しい風のために 綱が切れても 大切なあの人からの音信(便り)が絶えないように
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 前玉神社 二座について 「埼玉村 今 浅間宮 祭神 前立命 忍立命」〈現 前玉神社(行田市埼玉)〉と記しています
【抜粋意訳】
前玉(サイタマ)神社 二座
神代記 幸魂奇魂
旧事記 大己貴命 乗天羽車大鷲而 竟妻下行於茅渟県陶邑 彼處 大陶祇女活玉依媛
式考 埼玉村 今 浅間宮 祭神 前立命 忍立命
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
前玉神社(行田市埼玉)について 土人〈土地の人〉は 式内社 前玉神社 二座と言うが 屈巣村の傳へでは式内社ではないと伝えている と記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之二百十六(埼玉郡之十八)忍領 埼玉村
浅間社
祭神 木花開耶姫命にして 延喜式に載せたる前玉神社なれば 郡中の総鎮守なりと土人いへいり
されど 屈巣村の傳へには 当社は式内の社にはあらず 昔富士の行者己が命の終る時に臨み 当所にのみ雪を降すべしといひしに 六月朔日終穏の日 果たして雪の降りたることあれば 成田下総守氏長奇異の思をなし 此所に塚を築き 家人新井新左衛門に命じて 忍城中にありし浅間社をここに移し 則 成田氏の紋をつけて 行者の塚上に建り されば忍城没落の後 彼新左衛門 屈巣村に住せしより 子孫 今の五郎左衛門に至り 祭礼毎に注連竹を納むるをもて例とすと
社地の様 平地の田圃中より突出せる塚にて 周り二町程 高さ三丈余 四方に喬木生い茂り 頂上は僅に十坪程の平地にして そこに小社を建つ
これを上ノ宮と云 夫より石階数十級を下り 又社あり これを下ノ宮と云相傳ふ 此塚は 天正の頃 下総守氏長の築きし塚といへど 其様殊に古く 尋常のものにはあらず 上古の人の墳墓地なるも知るべからず
されば 当社の鎮座も古きことにて 彼行者の霊社なりと云は 尤便事にて取べからざつは勿論なり 成田氏の紋を記せるは 天正の頃 彼の家より造立してかくせしにや されど天保天和等の棟札のみを蔵て 余に證すべきこともなければ 詳かなることは知るべからず例祭は5月晦日 6月朔日 14日 15日なり
本社の外に拝殿 神楽殿あり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 前玉神社 二座について 一座毎に別記しています
一座は 埼玉村〈現 前玉神社(行田市埼玉)〉
一座は 根古屋村〈現 前玉神社(加須市根古屋)〉
【抜粋意訳】
前玉神社 二座
前玉は郡名〈佐伊太末〉に同じ
〇一座は 祭神 木花開耶姫命 埼玉村に在す、今 富士権現と称す、
一座は 祭神 大己貴命、海上郷山根 根古屋村に在す
考証に、鷲宮乎と云り、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 前玉神社 二座について 埼玉村〈現 前玉神社(行田市埼玉)〉で間違いないと思う 一説に 根古屋村〈現 前玉神社(加須市根古屋)〉との説もあるが証拠がなく 今は従わないが 後の人が考えてほしいと記しています
【抜粋意訳】
前玉神社 二座
祭神 前玉姫命 大己貴命
今按〈今考えるに〉
土俗の口碑に 此神社 埼玉郡の鎮守なり 祭神は前玉姫命 或いは木華開耶姫命なりとなど云伝ふ
又 一説に中頃 淺間宮か此神いとさかりて いつとなく本社までも浅間の神號に言はれて 共に淺間宮と唱ふることとなりたりぞ と云りこの前玉姫命は 古事記に速之多氣佐波夜遅奴美神 此神娶 天之甕主神之女 前玉比賣云々とみえ
前玉命は 舊事記に振魂尊 兒 前玉命とある神と聞ゆ
さて 土俗の口碑 及び 埼玉村社伝 祭神 前玉姫命と云るは 埼玉と云ふによれる説なるべけれど
屈巣村の社伝を以て考ふるに 書紀一書に一書曰、大國主神、亦名大物主神、亦號國作大己貴命、亦曰葦原醜男、亦曰八千戈神、亦曰大國玉神、亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神。夫大己貴命與少彥名命、戮力一心、經營天下。復、爲顯見蒼生及畜産、則定其療病之方。又、爲攘鳥獸昆蟲之災異、則定其禁厭之法。是以、百姓至今、咸蒙恩頼。嘗大己貴命謂少彥名命曰「吾等所造之國、豈謂善成之乎。」少彥名命對曰「或有所成、或有不成。」是談也、蓋有幽深之致焉。其後、少彥名命、行至熊野之御碕、遂適於常世鄕矣。亦曰、至淡嶋而緣粟莖者、則彈渡而至常世鄕矣。自後、國中所未成者、大己貴神、獨能巡造、遂到出雲國、乃興言曰「夫葦原中國、本自荒芒、至及磐石草木咸能强暴。然、吾已摧伏、莫不和順。」遂因言「今理此國、唯吾一身而巳。其可與吾共理天下者、蓋有之乎。」
于時、神光照海、忽然有浮來者、曰「如吾不在者、汝何能平此國乎。由吾在故、汝得建其大造之績矣。」是時、大己貴神問曰「然則汝是誰耶。」對曰「吾是汝之幸魂奇魂也。」大己貴神曰「唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂。今欲何處住耶。」對曰「吾欲住於日本國之三諸山。」故、卽營宮彼處、使就而居、此大三輪之神也 とあるに因らば
前玉神社は即 幸魂神にて大物主神なるべく 屈巣村にます久伊豆神社 祭神 大己貴命と云ふは 大国主神にて 久伊豆は國主の傳なるべく 又 村名の屈巣も古へは 國主と書りと云へば いよいよ大國主神ならんとざ思はる 姑附て後考に備ふ祭日 三月二十八日 五月晦日 六月一日 十四日
社格 郷社
所在 埼玉村一座 在 屈巣村(北埼玉郡埼玉村大字埼玉)
今按〈今考えるに〉
和名鈔に郡名も郷名も佐以多萬とあり 萬葉集に佐吉多萬能津とみえ
今 埼玉村名と社号と相かなひて 村中に佐吉多萬能津の舊称ありと云ひ 口碑もあれば本村なるを式社と定めて可ならん
然るに 一説 根古屋村なりと云は 証拠もあらねば従いがたし 姑附て後考に備ふ
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
前玉神社(行田市埼玉)について 殆んどの書籍・学者が式内社 前玉神社 二座だとするが 式内社ではなく 富士の行者が祀った淺間社であるとする説もある と記しています
【抜粋意訳】
埼玉縣 武蔵國 北埼玉郡 埼玉村 大字埼玉
郷社 前玉(サキタマノ)神社
祭神 前玉(サキタマノ)命
本社は 中世 浅間神社 又は 富士権現と称せり、宝暦年間 別当 延命寺 焼失の際、古記古文書 悉く鳥有に帰し、今其の創立年代を詳にする能はず と雖も、
土人の口碑、延喜式内社 前玉神社とし、埼玉郡の総鎮守とせり、武蔵式社考 神社覈録 神祇志料 特選神名牒 大日本地名辞書 其他 學者皆 当社を以て 式の前玉神とす、
或は云ふ、当社は 式内社にあらず、昔富士の行者、死に臨み、当所にのみ雪を降すべしといひしに、六月朔日果して雪降る、成田下総守氏長、奇異の思ひをなし塚を作り、更に家人某に命じて、忍城中鎮座の淺間神社を其の塚上に建てたりと、
新編武蔵風土記稿之を弁じて云く、
「社地ノ様、平地ノ田園中ヨリ突出セル塚ニテ、ソコニ小社ヲ建ツ、コレヲ上ノ宮卜云フ、夫ヨリ石階数十級ヲ下リ 又 社アリ、コレヲ下ノ宮ト云フ、其様殊ニ古ク尋常ノモノニハアラズ。上古ノ人ノ墳墓地ナルモ知ルベカラズ、ナレバ当社ノ鎮座モ旧キコトニテ、彼行者ノ霊社ナリト云ハ、尤僻事ニテ取ルベカラザルハ勿論ナリ、」と、
淺間神社に附きて、特選神名牒に一説を記す、即ち 中頃 淺間宮を社内に勧請せるに、其宮いとさかりて、いつとなく本社迄も浅間の号を以て称するに至れりと、淺間神社今は境内社だり、古来埼玉榔の総鎮守として、忍藩其他一般の崇敬する所となり、延宝年間、忍藩中の寄進に係る石島居今尚存し、又其の当時には一町九反余の神領を有したりきと云ふ、
明治六年郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、境内は2972坪(官有地第一種)古杉老柏蔚然として社殿を掩ひ、昼尚暗く、幽谷に入るの思ひあり、近来境地の一部に神苑を設け 一層荘厳の度を増せり、当社に正保天和の棟札を蔵せる由社記に見えたり。境内神社 淺間神社 天神社 御嶽神社 事任神社
【原文参照】
前玉神社(行田市埼玉)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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