酒屋神社(さかや/さけや じんじゃ)は 佐牙神社とともに酒造りに縁ある式内社で 伝承には 神功皇后が三韓遠征の際 神社背後の山に酒壺を三個安置して出立 帰国後その霊験に感謝し創建 皇后が朝鮮より持ち帰った“九山八海の石”が今もここにあると伝わる 又 別説では中臣酒屋連が来往して 酒造りを伝え 祖神を祀ったとも伝わる
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
酒屋神社(Sakaya shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
京都府京田辺市興戸宮ノ前100
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》津速魂神(つはやむすひのかみ )
《配》応神天皇(おうじんてんのう)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
酒屋神社(さかやじんじゃ)
京田辺市興戸宮前一〇〇番地
創建年代は明らかでないが式内社で、『日本三代実録』の貞観元年(八五九)正月に従五位下に叙せられた諸神に「酒殿神」とみえる。
現在の本殿は明治九年(一八七六)の再建で、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、正面に千鳥破風(ちどりはふ)、向拝(こうはい)の前面に軒唐破風(のきからはふ)を加えている。
祭神は津速魂神(つはやむすびのかみ)と応神天皇である。
社伝によれば、神功(じんぐう)皇后が通ったとき三個の酒壺を神社背後の山上に安置し、諸神を祭り再度通ったとき社殿を創立したとある。
また、河内国の酒造りを業とする中臣酒屋連(なかとみのさかやのむらじ)の一族が来住して、酒造りを伝え、祖神を祭ったものという。
江津区にある佐牙(さが)神社とともに酒造りに縁のある神社である。
例祭 十一月三日
末社 埴山毘売(はにやまひめ)を祭る壺神社ほか京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会現地立札より
【由 緒 (History)】
『山城綴喜郡誌』に記される内容
【抜粋意訳】
村社 酒屋神社 延喜式内
祭神 津速魂神 應神天皇
綴喜郡田邊町大字興戸小字宮の前にあり、古來 社僧等の奉仕して齋主神と崇へたり祭神確かならず、社傳に從て 暫く津速魂神をあぐ、應神天皇、
例祭 十月十五日
【原文参照】
酒屋神社
寺・神社
創建年月など不詳だが、かつて神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓遠征の際、神社背後の山に酒壺を三個安置して出立、帰国後その霊験に感謝して建てられたとも。
本殿は明治9(1876)年の再建で一間社流造り、屋根に特徴があり、千鳥破風(ちどりはふ)と軒唐破風(のきからはふ)を配した姿は山城地域では県(あがた)神社(宇治市)本殿など、限られたところにしか見られない。神功皇后が朝鮮より持ち帰った“九山八海の石”が今もここにあるという。 また、河内国の酒造りを業とする中臣酒屋連(なかとみのさかやのむらじ)の一族が来往して、酒造りを伝え、祖神を祭ったものともいわれる。
佐牙神社とともに酒造りに縁のある神社である。祭神は、津速魂神(つはやむすびのかみ)と応神天皇。 近くには興戸の大池があり、初夏の青葉、秋の紅葉と季節によって様々な美しい姿を見せてくれる。
2021 京田辺市観光協会.HPより
https://kankou-kyotanabe.jp/tourism/sakaya_shrine/
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・酒屋神社 本殿・拝所〈神門〉
・酒屋神社 割拝殿
〈本殿の向かって左手前 境内社合祀殿〉
・佐多彦名神社・錦津姫神社
・伊邪那美神社・豊受姫神社
・壷神社〔酒器製造の材料とする粘土を司る植山毘売神を祀る〕
・三神社(天照皇大神・応神天皇・武甕槌神)
・火産霊神社〔酒器製造の守護神と云われる火産霊神を祀る〕
・市杵島神社(厳島宮)
・事比羅神社
〈境内向かって右手 境内社〉
・若宮春日神社
・天満宮神社
〈境内右手 広場の奥の森の中 境内社〉
・龍王神社
・多賀神社
・稲荷大明神
・鳥居
・社号標・鳥居・参道
・参道・石灯籠
・社頭〈右手奥に境内社 若宮春日神社の鳥居〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)綴喜郡 14座(大3座・小11座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 酒屋神社(鍬靫)
[ふ り が な ](さかやの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sakaya no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式』山城國 綴喜郡 式内社の内 酒造に関係すると想われる社の伝承によれば
大神宮跡(京田辺市三山木東荒木)〈佐牙神社 旧跡〉は 木津川近くの山本村にあり 水を守る酒殿の神を祀る場所
酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)は 酒を製造する場所〈及び 酒器を製造する場所〉とされていた 両社には 酒造に深い関係性にあったものとされます
『古事記』にある 須々許理(すすこり)の伝承
『古事記』には応神天皇の時に来日した百済人 酒造りの渡来人・須々許理が大陸の酒造りの技術を伝えたと記しています
須須許理という名は 酒と水を同時に象徴する 古代において酒と水は神に捧げる供え物として同じような役割を果たした。須須許理は神の領域に属した酒やそれと等しい価値を持っていた水を同時に象徴していたのである
「日本の宮中楽舞の原泉を探って-高麗楽「進曾利古」を中心に-」
(朴泰圭、『 日 本 文 化 研 究 ( 5 0) 』 、 2014、 0 4、 1 5)より抜粋
佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内)に伝わる『本源記』には
「仁徳天皇の頃 大陸から酒造りに才のある「曽々許理」が山背で酒造りに励んだ」とあり「男女二神の佐牙弥豆男と佐牙弥豆女の酒殿神の役目は酒造用水の守護」らしい
『古事記』応神天皇の條には
「泰造(はた のみやつこ)の租、湊直(あやのあたえ)の租、また酒を醸むことを知れる人 名は仁番(にほ) 亦の名は須須許理(ススコリ)どもが来朝した」とあり
天皇は 須須許理(ススコリ)が 献上した酒を飲んで朗らかになり
「須須許理が醸みし御酒に我酔いにけり
事無酒笑酒(ことなぐしえぐし)に我酔いにけり」とうたっています
※ 須須許理(ススコリ)が 酒を絞ったあとの酒糟に塩漬したウリ(古代朝鮮語) を漬けたものが 瓜の糟漬で 現在 奈良漬と呼ばれています
酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)の伝承では
神功皇后が三韓遠征の際 三個の酒壺を神社背後の山上に安置し 帰国後その霊験に感謝して 社殿を創建したとの伝えがあります
京田辺市三山木の『延喜式内佐牙神社本源紀』には、酒造用水を守護する男女二神の佐牙弥豆男と佐牙弥豆女の酒殿神がみられ、唐国から酒を造る曽保利と曽々保利という二人が渡来したと記されている。「佐牙(さが)」は「サケ」「酒」である。また興戸の延喜式内酒屋神社は酒を製造した場所とされ、三山木の山崎神社や飯岡の咋岡神社も酒に関係があり、「さか」は「酒」に通じていることから「さかき」であろうと思われる。
竹取翁博物館HPより抜粋
http://taketori.koiyk.com/take-eraani.html
『特選神名牒〈明治9年(1876)完成〉』の酒屋神社の条に『佐牙神社神紀』の記述として 式内社 佐牙乃神社の創建について 記しています
これによれば 敏達天皇二年(五二七)に勅令により 酒部連友夏と云う者に勅して 佐賀彌豆男神 佐賀彌豆女神を咋岡の山本に鎮座なされた 大内造酒司の官人が毎年幣帛を奉る神社となられた と述べています
御祭神 佐賀彌豆男神 佐賀彌豆女神の二神について
延喜式内社 宮中 造酒司坐神 6座(大4座・小2座)(さけつかさにますかみ むくら)に祀られている゛酒彌豆男神゛と゛酒彌豆女神゛と同神であり 酒造りと深く関わる神社であると考えられます
佐牙神社の旧鎮座地について
又 地元の伝承には 初め山本に鎮座し 永享年間(一四二九~四一)に現在地に遷座されたと云う その旧地は「大神宮跡」として現在も当社の御旅所となっています
延喜式内社 山城國 綴喜郡 佐牙乃神社(鍬靫)(さかの かみのやしろ)
・大神宮跡(京田辺市三山木東荒木)〈佐牙神社 旧跡〉
・佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内)
『特選神名牒〈明治9年(1876)完成〉』の酒屋神社の条に『佐牙神社神紀』の記述として 式内社 酒屋神社の祭神について
一説によれば 津速魂神の19世孫 眞入連公の孫 中臣酒屋連(なかとみのさかやのむらじ)が この地に住んでいて神託により 酒彌豆男神の子 酒彌豆倉神を西側の山の上に祀った これを酒屋神社と称した と述べています
延喜式内社 山城國 綴喜郡 酒屋神社(さかやの かみのやしろ)
神社の伝承には 神功皇后が三韓遠征の際 神社背後の山に酒壺を三個安置して出立 帰国後その霊験に感謝し創建 皇后が朝鮮より持ち帰った“九山八海の石”が今もここにあると伝わる
・酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)
酒屋神社(さかや/さけや じんじゃ)は 佐牙神社とともに酒造りに縁ある式内社で 伝承には 神功皇后が三韓遠征の際 神社背後の山に酒壺を三個安置して出立 帰国後その霊験に感謝し創建 皇后が朝鮮より持ち帰った“九山八海の石”が今もここにあると伝わる 又 別説では中臣酒屋連が来往して 酒造りを伝え 祖神を祀ったとも伝わる
酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)〈神功皇后の持ち帰った"九山八海の石"がある式内社〉
延喜式内社 山城國 綴喜郡 咋岡神社(鍬靫)(くいをかの かみのやしろ)
咋岡神社の鎮座地名「飯岡(いのおか)」は 「咋岡」が変化したものとも云われます
現在 式内社 咋岡神社の論社は 京田辺に飯岡東原と草内宮の後の2つの咋岡神社があります
一説に 元は木津川と普賢寺川の合流地点一宮が森にあったのが 木津川の氾濫で江戸時代中期(元禄年間)にこの二か所に分けて移されたと伝わります
・咋岡神社(京田辺市飯岡東原)
・咋岡神社(京田辺市草内宮ノ後)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR学研都市線 同志社前駅から西へ約1.4km 車3分程度
同志社大学 京田辺キャンパスの北 大池の辺りに社頭があります
石燈籠の建つ 参道を進みます
酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)に参着
参道は途中で直角に折れていて 社殿・境内は南東を向いています
その位置に鳥居が建ち 社号標には゛式内 酒屋神社゛と刻字されています
鳥居をくぐり抜けると その先に割拝殿が建ちます
割拝殿の内には 絵馬が奉納されていたり
酒屋神社や境内社の由緒が書かれています
本殿前の神門が拝所となっています
拝所にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 酒屋神社について 所在は゛興戸村に在す゛〈現 酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)〉と記しています
【抜粋意訳】
酒屋神社
酒屋は佐賀也と訓べし、
和名鈔、〔飲食部〕酒、〔佐介○介を加と唱ふるは音便也〕
○祭神 酒屋連祖歟、
○興戸村に在す
○姓氏録、〔河内国神別〕中臣酒屋連、津速魂神 十九世孫 真人連公之後也、
山城志云、有に石門標、鐫曰、祖穀庄 酒屋大明神、
類社
河内國 丹比郡 酒屋神社
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 酒屋神社について 所在は゛今 祖穀荘 興戸村の西山上にあり、酒屋明神と云ふ、゛〈現 酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)〉と記しています
【抜粋意訳】
酒屋神社
今 祖穀荘 興戸村の西山上にあり、酒屋明神と云ふ、〔神名帳考証、山城志、山城名勝志、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 酒屋神社について 所在は゛興戸村 天神山麓(綴喜郡田邊町大字薪)゛〈現 酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)〉と記しています
【抜粋意訳】
酒屋神社 稱 酒屋大明神
祭神
今按 社傅 祭神 伊波比主神 應神天皇とあるは信がたし 佐牙神社神祀に敏達天皇二年 勅して酒部連 友夏と云人に命じて 佐賀彌豆男神 佐賀彌豆女神を咋岡ノ山本に鎭座なし玉ひて 大内造酒司官人 毎年幣帛を捧る神社となれり 斯に津速魂神十九世 眞人連公ノ孫 中臣酒屋連と云人 此地邊に住居す 或時神託を蒙り 酒彌豆男神の子 酒彌豆倉神を西の側ノ山上に鎭座す之を酒屋神社と稱し奉る云云
白鳳元年壬申 酒屋神社に後漢 靈帝の神靈を相殿に齋祠れりとあるは 酒屋神社に由ありげに聞ゆれど 酒彌豆倉神は疑はし 若し中臣酒屋連のことを傳ふるに據らば 中臣酒屋連の祖神を祭れる歟 然らずば 後漢靈帝の靈を祭ると云もの實なるべし 姑く附て考を俟つ祭日 九月十一日
社格 村社所在 興戸村 天神山麓(綴喜郡田邊町大字薪)
【原文参照】
酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
山城国 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
山城国(やましろのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 山城国 の122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)の神社のことです
山城國 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)