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西都原古墳群〈石貫神社〉『記紀神話』邇々杵尊 木花之開耶姫の伝承地

西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)は 邇々杵尊 木花之開耶姫 大山津見神の墳墓とされる古墳がある『記紀神話』の伝承地です その他 姫が出産の時 周囲に火をかけたとされる産屋「無戸室」・産湯としたとする「兒湯の池」もあり 又 鬼の伝説を持つ大山津見神を祀る石貫神社(いしぬきじんじゃ)もあります

邇々杵尊(ににぎのみこと)木花之開耶姫(このはなさくやひめ)『記紀神話』の伝承

『記紀神話(ききしんわ)』「天孫降臨(てんそんこうりん)の段」には 邇々杵尊(ににぎのみこと)が 笠紗御前(かささのみさき)で 大山津見神(おほやまつみのかみ)の女(むすめ)木花之佐久夜毘賣(このはなさくやひめ)と出逢い 結婚 妊娠 出産についての伝承が語られています その舞台は日向國(現 宮崎県)「西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)」であるとも云われます

『記紀神話』邇々杵尊(ににぎのみこと)木花之開耶姫(このはなさくやひめ)の伝承については 別の記事を参照

邇々杵尊(ににぎのみこと)木花之開耶姫(このはなさくやひめ)『記紀神話』の伝承

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

都萬神社西都市大字妻

下の記事を参照

天孫瓊々杵尊の妃 木花咲耶姫(このきなさくやひめ)を祀り 都萬神社または妻萬宮と云われます

天孫瓊々杵尊と木花開耶姫命は 逢初川で見逢いされ 事勝国勝長狭神の仲人によって 日本最初の正式な結婚式が八尋殿で挙げられ 新婚生活を送られた処と伝えられています

延喜式内社 日向國 兒湯郡 都萬神社(貞)(つまの かみのやしろ)

・都萬神社(西都市大字妻)

一緒に読む
都萬神社(西都市大字妻)〈『續日本後紀』妻神『三代實録』都萬神『延喜式』都萬神社〉

都萬神社(つまじんじゃ)は 社傳に云く「景行天皇 日向國 土蜘蛛を征し給ふ時、兒湯縣に行幸 当社勅願し給ひしことを傳ふ 以てその太古の創建なるを知るべし」とあります 『續日本後紀 妻神』『三代實録 都萬神』『延喜式』に日向國 兒湯郡 都萬神社(つまの かみのやしろ)と記載のある由緒ある古社です

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都萬神社西都市大字妻)から西へ2.5km程には「西都原古墳群」があります 邇々杵尊 木花咲也姫陵であるとも伝わる「男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳」もあります

都萬神社から西都原古墳群の途中に道際に「稚児ヶ池」があります

・稚児ヶ池(ちごがいけ)

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この池には悲しい人柱伝説が残っています

「壱岐加賀守義通は、都於郡城への登城にこの地を通っていました。当時、この付近は鶴の池という池があり深い沼田で農民たちは困っていましたので、これを憐れみ、救うために長さ百間、巾五間の堤を築いて沼田の水をせき止め、池をつくることにしました。工事

が進み、堤が完成すると大豪雨と雷で堤は破れ、満水の濁流が見る間に田畑を押し流してしまいました。

現在の稚児ヶ池の一部となった鶴の池には、昔、白黒の大蛇2匹が住み、人々を害していました。そこで石貫大明神のお告げで、大蛇は地下八尺の底に埋められていたのですが、このわざわいは大蛇の祟りで、人柱を立てなければわざわいを除くことは出来ないだろう

ということになりました。

その頃、家臣法元猶之助の三男長千代丸は、学問のためここを通って国分寺に通っていました。長千代丸は人柱のことを聞き、自らかってでて腹を切り、地下八尺の下に埋められました。当時 14 歳だったということです。

その後、池は立派にでき、今日も満々と水をたたえています。堤の傍らに社が建てられており、今も往事がしのばれます。」

みやざき公園協会PDFより抜粋

稚児ヶ池(ちごがいけ)から 丘陵を上りながら 西へ1km程進むと
「特別史跡公園 西都原古墳群」に着きます

・西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)

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西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)について

宮崎県西都市にある 日本最大級の古墳群で 高塚墳319基が現存し その内訳は前方後円墳31基 方墳2基 円墳286基です

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丘陵の上は なだらかな平地となっています〈台地〉

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木花之開耶姫(このはなさくやひめ)邇々杵尊(ににぎのみこと)の墳墓と伝わる女狭穂塚古墳 男狭穂塚古墳があります

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男狭穂塚(おさほづか)女狭穂塚(めさほづか)

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女狭穂塚(めさほづか)

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男狭穂塚(おさほづか)

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男狭穂塚(おさほづか)女狭穂塚(めさほづか)について

男狭穂塚(おさほづか 175メートル)は日本最大の帆立貝形古墳
女狭穂塚(めさほづか 180メートル)は九州最大の前方後円墳

共に 5世紀前半(古墳時代中期)頃の築造と推定され 宮内庁陵墓参考地であり 特別史跡の指定範囲には含まれません
なぜなら 両古墳ともに皇祖の陵墓参考地に治定されています

男狭穂塚古墳(おさほづかこふん)は 被葬候補者:瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)として 陵墓参考地に治定

女狭穂塚古墳(めさほづかこふん)は 被葬候補者:木花開耶姫(このはなさくやひめ)として陵墓参考地に治定

https://dl.ndl.go.jp/pid/1242699/1/26?keyword=%E7%94%B7%E7%8B%AD%E7%A9%82%E5%A1%9A

⑩男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)Osahozuka & Mesahozuka

喜怒哀楽のさまざまな物語を経て、ニニギノ尊は男狭穂塚、コノハナサクヤ姫は女狭穂塚に、2人並んで眠っている、と地元で言われています。

現在は陵墓参考地に指定されており、普段は立ち入ることはできませんが、毎年11月に開催される西都古墳まつりの時だけ、男狭穂塚の前で拝礼することができます。日向神話のシンボルとして、悠然と生い茂る森の樹木に静かに見守られています。

両古墳はどちらも全長170mを超え、男狭穂塚は日本最大の帆立貝形古墳、女狭穂塚は九州最大の前方後円墳です。

⑩男狭穂塚・女狭穂塚 Osahozuka & Mesahozuka 140m

⑨鬼の窟 Oni no Iwaya 400m

記紀の道

記紀の道は、記紀(「古事記」「日本書紀」)に記された日向神話の伝承地をむすぶ散歩道です。ニニギノ尊とコノハナサクヤ姫の二人の物語にまつわる十の伝承地をつないでいます。

西都市 Saito City

現地案内板より

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男狭穂塚・女狭穂塚から400m程の所に

「鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)」

と呼ばれている古墳があります

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鬼の窟古墳 Oni-no-Iwaya Tumulus 6世紀後半~7世紀前半

 鬼の窟古墳(206号墳は、外堤と二重の周溝を有する直径37m.高さ7.3mの円墳で、二段構成の墳丘には葺石(ふきいし)はありません。

 古填群で唯一の間口した植穴式石室を持ち、巨石を積み上げた石室や羨道からは、木棺に使用されたと考えられる鉄釘や、馬具・須恵器(スエキ)・土師器(ハジキ)などが出土し、3回以上の埋葬が行われたと考えられます。

 鬼の窟古墳は、西都原古墳群の最後の首長墓と考えられます。

 古墳の名前は、木花開邪姫 (コノハナサクヤヒメ)に恋した 鬼が、一晩のうちに窟(石室)を作ったという伝説に由来しています。

現地案内板より

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ちなみに「鬼の窟古墳」の北東600m程には
木花之開耶姫(このはなさくやひめ)の父神 大山津見神(おほやまつみのかみ)〈大山祇命の墳墓と伝わっている 第2古墳群 90号墳は 大山祇塚古墳と云われています

大山祇塚Oyamazumi Kohun

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未調査 90号墳(大山祇塚 おおやまづみつか)4世紀

 90号墳は全長が96m、後円部径51m、同高さ 7.1m、前方部幅31m、同高さ3.8 mの柄鏡(えかがみ)式 前方後円墳で、男狭穂(おさほ)塚・女狭穂(めさほ)塚に次いで大きな古墳ですが、調査されていません。女狭穂塚が木花之開耶姫(このはなさくやひめ)の墓、90号墳は木花開邪姫の父である大山祇命(おおやまつみのみこと)の墓と伝えられています。

現地案内板より

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東側の石貫階段を下った所に

 石貫神社《主》大山祇命

 が鎮座しています

又 木花之開耶姫(このはなさくやひめ)が出産の時 産湯としたとする「兒湯の池」・周囲に火をかけたとされる産屋「無戸室」もあり 回ってみます

・石貫神社(西都市大字三宅4615-ロ)

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木花之開耶姫に求婚した鬼 大山津見神石を投げて その鬼の申しれを断った神話が載せられています

記紀の道「石貫神社(いしぬきじんじゃ)」

この地方に住む悪鬼が、コノハナサクヤ姫を嫁にと請い、これを断る為に父神のオオヤマズミ命は、一夜で石造りの館建設を所望しました。

鬼は、夜を徹して朝日の出る前にこれを完成しました。父神は、早速窟の石を1個抜き取り、東方の谷間に投じて未完成とし、鬼の申し入れを断りました。

それがこの石貫神社の石で、石貫地区の発生となっているそうです。

(西都市観光協会)

現地案内板より

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「鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)」には 天井の石が1つ欠けていると云い
「鬼の窟古墳」の天井石とされる石は 石貫神社の参道入口に祀られています
社殿 参道 社頭 参道入口は 南を向いています
二の鳥居の手前には手水舎があり 清めます

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⑦石貫神社(いしぬきじんじゃ)Ishinuki Shrine

ニニギノ尊とコノハナサクヤ姫が結ばれる前のお話。

ある日、コノハナサクヤ姫を嫁にと請う鬼が現れました。これを断るため、父神のオオヤマツミノカミは一夜で石造りの窟を建てるよう求めました。鬼は夜を徹して朝日の出る前にこれを完成させました。しかし翌朝、父神と鬼が確認すると石室の石が一つ抜けており、未完成を理由に結婚は叶いませんでした。

実は父神が、鬼の寝てる間に石を抜き取り、東方の谷間に投げ飛ばしたのでした。それがこの石貫神社の石です。石貫の地名の由来になっています。

(⑧大山祇塚へつづく)
⑤大山祇塚 Oyamatsumizuka 250m⑦児湯の池 Koyu no Ike 60m

西都市Saito City

現地案内板より

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一礼をして 鳥居をくぐり 拝殿へと向かいます

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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境内に案内板があり
大山祇400m 児湯の池200m とあり 児湯の池へ向かいます

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すぐに〈参道の入口から60m程〉

「児湯の池」

に着きました

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記紀の道「児湯の池(こゆのいけ)」

西都原台地の真清水を適時に湧水する児湯の池は、西都の神話にも語り継がれている代表的な伝承遺跡であります。

昔時この周辺は、水のにごった沼地の多いところでしたが、児湯の池だけはきれいな水が湧き、里人たちは洗いん子(あれんこ)」と呼んでいました。

それは、ニニギノ尊に嫁がれたコノハナサクヤ姫が、近くに無戸室(うつむろ)という産屋を建てて三皇子を出産され、産湯としてこの池の水を使われたと言うことから起こりました。

この地方の古くは児湯県(こゆのあがた)・児湯郡(こゆぐん)と称しました。地方発祥の地とも言われています。
西都市観光協会

現地案内板より

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「児湯の池」から90m程で

「無戸室(うつむろ)」

につきました

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記紀の道「無戸室(うつむろ)」

天孫ニニギノ尊はコノハナサクヤ姫と結婚されて、一夜明けると土賊征伐にお出かけになり数ヶ月してお帰りになると姫はすでに身ごもっておりました。

そこで尊は疑いになりましたので、姫は身の潔白を明かすため、戸の無い産殿をつくられ、周囲に火をかけその中で、「尊の子であれば火で焼け死ぬことはないでしょう。」といわれてヒコホホデミの尊(山幸彦)・ホスセリの尊・ホアカリの尊の三皇子を無事出産されました。この地方の人は「火柱殿(ひじゅどん)」ともいっています。

西都市観光協会

現地案内板より

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さら にニニギノ尊とコノハナサクヤ姫の出逢いの「逢初川 (あいそめがわ)」
新婚の一夜を過ごされた「八尋殿(やひろでん)」の跡などがあり 『記紀神話』の舞台がそろっています

「無戸室」から東南方向へ350m程で

「八尋殿跡」

④八尋殿(やひろでん)Yahiroden

ニニギノ尊とコノハナサクヤ姫は、事勝国勝長狭神(コトカツクニカツナガサノカミ)の仲人によって結ばれました。事勝神は日本で初めて仲人をされた神と伝えられています。ニニギノ尊は逢初川のほとりのこの場所に、とっても広い (=八尋) 立派な御殿を建てられ、二人は新婚の一夜を過ごされました。翌朝、ニニギノ尊は土賊の征伐に出かけられました。

このあたり一体(約1ha)は、妻のための場所という意味で「妻薗(つまその)」という地名で呼ばれています。

(⑤無戸室へつづく)
③逢初川 Aisomegawa 50m
⑤無戸室 Utsumuro 400m

西都市 Saito City

現地案内板より

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逢初川 (あいそめがわ)

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③逢初川(あいそめがわ)Aisomegawa

ある日、ニニギノ尊は、この小川で水汲みをしていたコノハナサクヤ姫に出逢い、名前をお尋ねになりました。相手の名前を聞くということは結婚プロポーズと同じことだったため、2人の恋の物語がここから始まるのです。

父神のオオヤマツミノカミはたいそう喜び、繁栄の印にコノハナサクヤ姫を、永代の命の印に姉のイワナガ姫をお送りになりました。そうとは知らないニニギノ尊は、醜い姿のイワナガ姫を送り返してしまいました。

これ以来神の御子の命も限りあるものとなってしまっだそうです。

(④八尋殿へつづく)
④八尋殿 Yahiroden 50m
②御舟塚 Mifunezuka 1000m

西都市 Saito City

現地案内板より

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西都原古墳群〈石貫神社〉『記紀神話』邇々杵尊 木花之開耶姫伝承地 (hai)」(90度のお辞儀)

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一緒に読む
日向國(ひむかのくに)式内社 4座(並小)について

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