狹井坐大神荒魂神社(さいにますおほみわあらみたまじんじゃ)は 第11代 垂仁天皇の御代〈BC29~AD70〉渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)が勅を奉じて創祀されたと伝わり 『延喜式AD.927』に鎮花祭社(はなしずめのまつりのやしろ)と記され 通称 花鎮社とも呼ばれます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
狹井坐大神荒魂神社(Sainimasu Ohomiwa aramitama shrine)
[通称名(Common name)]
・狹井神社(さいじんじゃ)
・華鎮社(はなしずめのやしろ)〈花鎮社〉
・しづめの宮
【鎮座地 (Location) 】
奈良県桜井市三輪1422
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大神荒魂神(おほみわあらみたまのかみ)
《配》大物主神(おほものぬしのかみ)
姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・病気平癒の神様
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 大神神社 摂社
【創 建 (Beginning of history)】
〈第11代〉垂仁天皇の御宇〈BC29~AD70〉渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)勅を奉じて創祀する所なり
『大和志料』より
【由 緒 (History)】
狹井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわあらみたまじんじゃ)(狹井神社)
主祭神
大神荒魂神(おおみわあらみたまのかみ)配祠神
大物主神(おおものぬしのかみ)
姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
事代主神(ことしろぬしのかみ)由 緒
当神社は、第十一代 垂仁(すいにん)天皇の御世(みせ)(約二千年前)に創祠せられ、ご本社 大神神社で大物主神「和魂(にぎみたま)」をお祀りしているのに対して、「荒魂(あらみたま)」をお祀りしています。
「荒魂」とは進歩的で活動的なおはたらきの神霊で、災時などに顕著なおはたらきをされます。特に身心に関係する篤い祈りに霊験あらたかな御神威をくだされ、多くの人々から病気平癒の神様として崇められています。
今「くすり祭り」と知られる鎮花祭は、西暦八三三年成立の「令義解(りょうのぎげ)」に「春花飛散する時に在りて、疫神分散して癘(えやみ)を行ふ。その鎮遏(ちんあつ)の為必ず此の祭りあり。故に鎮花(はなしずめ)といふ也。」と記され、万民の無病息災を祈る重要な国家の祭りとして定められております。予って、別名、華鎮社(はなしずめのやしろ)・しづめの宮と称されています。
又、御社名の「狭井」とは神聖な井戸・泉・水源を意味し、そこに湧き出る霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています。御例祭 四月十日
鎮花祭 四月十八日
現地立札より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・「狭井」霊泉 くすりの水
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
狹井神社は 大和国一之宮の大神神社の摂社で 境内に鎮座します
・大神神社(桜井市三輪)
大神神社(おおみわじんじゃ)は 『記紀神話』に創建に関わる伝承が記されており 『延喜式』には名神大社と所載される 大和国一之宮です 古来から本殿は設けず 拝殿の奥にある三ッ鳥居を通し 三輪山〈御神体〉に祈りを捧げる原初の神祀りで 我が国最古の神社と呼ばれています 神社の社殿が成立する以前の祭祀の姿を今に伝えています
大神神社(桜井市三輪)〈三輪山を〈御神体〉とする大和國一之宮〉
狭井神社の社務所で許可をいただいて 境内より三輪山「神体山」に登拝
狭井神社の社務所で許可をいただいて 境内より三輪山「神体山」に登拝することができます
但し 厳格な決まり事がありますので 下記をご覧になり ご注意ください
尚 山中で 見聞きしたことは 語れない〈語らずの山〉と伝わっています
登拝口(注連縄柱の手前)で 自祓〈自分で幣にて祓う〉をお忘れなく
「神体山」登拝者へお願い
この三輪山は 大神神社の御祭神・大物主大神さまの御神霊がお鎮まりになる神体山です。千古斧を入れない神奈備山は 神聖な山 信仰の山として仰望されております。
神さまは「清浄を欲す」といわれますように 常に不浄を忌み嫌います。
因って登拝は お互いに お山を汚さないよう 穢さないよう ご協力をお願いします。
若し 登拝中に ゴミが生じた場合 また見つけた場合には 速やかに持ち帰るようお願いします。
登拝は 左記により受付けます 併せて 次の事項を厳守願います。登拝申込み要領
1 登拝は 社務所で 住所・氏名・電話番号をお由し出下さい
2 入山初穂料 一人・参百円お納め下さい
3 入山受付時間 午前九時より午後二時まで
4 下山終了時間 午後四蒔までに登拝口にお戻り下さい
5 下山時は 社務所へ声を掛け襷をお返し下さい
注意、山内には御手洗いはありません厳守事項
一、申込み時「三輪山参拝証」の襷を受けとり 肩に掛けて登拝して下さい
一、山内は 火気厳禁(タバコの火を始め すべての火の使用を厳禁します)
一、山内は 撮影禁止(カメラ等の特ち込み 撮影は出釆ませ)
一、山内の磐座等に お洪えした物は 必すお持ち帰り下さい
一、山内で お弁当などの飲食ばご遠慮願います
一、山内で 草木、キノコ、烏獣、土石難を採取することは出来ません注意、左の期日は登拝が出来ません
・正月三日間(1月1・2・3日)
・大祭等祭典日(2月17日、4月9日、4月18日、10月24日、11月23日)
・天候等諸事情により登拝を中止する場合があります
三輪明神 大神神社現地案内板より
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 の条
三月祭
鎮花(はなしずめ)祭 二座太神社一座 絁(アシギヌ)〈絹織物〉5疋 云々
狭井社一座 絁(アシギヌ)〈絹織物〉2疋 糸三絢、綿一屯四両、五色薄絁各三尺、倭文六尺、布一端一丈、木綿麻各六斤十両、枲(カラムシ)八両、弓七張、筧二連、鹿皮十張、(已上三種神祇官充)羽二翼、鹿角四頭、鉄三斤五両、漆一升、黄檗三斤五両、茜一斤、黒葛廿斤、清酒五升、濁酒六斗五升、鰒三斤、堅魚五斤五両、階八升、海藻五斤五両、塩二升、瓶二口、都婆波匝短女杯盞各一口、裏葉薦二枚
四月祭
三枝(さいくさ)祭 三座 卒川社
絁(アシギヌ)〈絹織物〉1疋 云々右三社ノ幣物 依前件付祝等令供祭
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城上郡 35座(大15座・小20座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 狭井坐大神荒魂神社 五座(鍬靫)
[ふ り が な ](さいにます おほみわのあらみたまの かみのやしろ)(ござ)(すきくわ)
[Old Shrine name](Sainimasu Ohomiwano Aramitama no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
山の辺の道(やまのべのみち)について
山の辺の道は 奈良盆地の山裾を南北に走る古道で 海石榴市(つばいち)から 三輪 柳本を経て 奈良へと北上する道で日本最古の道といわれています
今では 三輪から石上神宮迄のハイキングコースを一般的に「山の辺の道」と呼んでいます
大神神社(おほみわじんじゃ)のすぐ北に 狹井神社(さいじんじゃ)があり さらに進むと 檜原神社(ひばらじんじゃ)へと続いていきます
大神神社(おおみわじんじゃ)と 山の辺の道(やまのべのみち)
「山の辺の道」は、大和盆地をとりかこむ山々の、東側の山麗を縫うように、三輪から奈良に通じる日本最古の道です。
これより後、七世紀に入ると、大和国原を南北に走る「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」の三つの官道が造られます。上ツ道の更に東にあって、歌垣で有名な海柘榴市(つばいち)から、大神神社、景行陵、崇神陵、長岳寺を経て、石上神宮に至る約15キロが、一日のハイキングには最高の道のりとなります。
この道は、古代の面影をよく残し、万葉びとの息づかいが今に伝わり、古社寺、古墳、万葉歌碑をはじめ、多彩な伝承の舞台が展開し、歩く者を古代の世界へと誘ってくれます。
一年を通して、「古代」に思いを馳せ、たくさんの人々がこの道を散策します。山の辺の道を歩けば、木々のささやきが聞こえ、遠い昔の神々が姿を現し、吹いてくる風にまで、古代が今なお息づしいているのが突感出来ます。
現地案内板より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
大神神社から 山辺の道を北へ300m程 徒歩5分程度
狹井神社の社号標と 木製の明神鳥居が建ちます
狹井坐大神荒魂神社(桜井市三輪)に参着
参道を進むと 一檀高い境内地に社殿が見えます
階段を上がると 注連縄柱があり 一礼をしてから 進みます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
夕暮れ後の御参拝も燈籠に照らされて風情があります
社殿の裏側には 霊泉 くすりの水があのます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
「伊須気余理比賣命(いけすよりひめのみこと)のお家は 狭井河(さヰがは)の河之上(かわべ)にありました」〈現在の狹井神社とされます〉 と記されています
【抜粋意訳】
『古事記』中巻 神武天皇〈伊波礼毘古命〉の后 神の御子 の段
〇
伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)が 日向(ひゅうが)に坐(ましま)した時 阿多小椅君(あたのおばしのきみ)の妹の阿比良比売(あひらひめ)を娶(めと)り 生んだ子供は 多芸志美美命(たぎしみみのみこと)次に岐須美美命(きすみみのみこと)の二柱
しかし 更に大后(おほきさき)〈皇后〉として 美人(をとめ)を求められた時 大久米命(おおくめのみこと)が申しました「ここに 神の御子と伝える孃女がいます その神の御子といわれる理由は
三島湟咋(みしまみぞくひ)の娘 その名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ) その容姿は とても美しいものでした
故に 美和(みわ)の大物主神(おほものぬしのかみ)が これを見て感じ
その美人の大便をするときに 丹塗矢(にぬりや)〈丹の赤い塗矢〉に化(な)りて その厠(かわや)の水が流れる溝に流れて 美人の陰部を突きました
その美人は驚き 立ち走りました
そして その矢を持って 床に置くと 矢はたちまち麗しい壮夫(おとこ)に成りました
その美人を娶(めと)り生んだ子供が「富登多多良伊須須岐比賣命(ほとたたらいすすきひめのみこと)」別名を「比売多多良伊須気余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)」と言う
これは ほと〈陰部〉という事を嫌って 後に名を改めたのです
故に そうゆう次第で 神の御子というのです」 と申し上げた〇
ある時 七媛女(ななおとめ)〈七人の乙女〉が 高佐士野(たかさじの)で遊んでいる時 伊須気余理比賣(いすけよりひめ)がその中にいた
そこで 大久米命(おほくめのみこと)が伊須気余理比賣を見て 歌で天皇に申し上げた
“大和の國の高佐士野(たかさじの)を行く 七人の孃女(おとめ)ども 誰をお召しになられます”
この伊須気余理比賣は 孃子(おとめ)たちの前(さき)に立つておりました
天皇は その孃子たちを御覽になられて 御心に伊須気余理比賣が 最前(やさき)に立つていることを知り お歌でお答えになりました
“一番先に立てる娘を妻としようか”
ここに大久米命が 天皇の仰せを 伊須気余理比賣に伝えました
その時に 伊須気余理比賣は 大久米命の黥(さ)ける利目(とめ)〈イレズミを入れた目〉を見て 不思議に思い歌われた
“天地(あめつち)の間の 千人勝(ちどりまさり)の勇士 どうして 鋭くさける利目(とめ)〈鋭いイレズミを入れた目〉なのですか”
と歌いましたから大久米命が答えて歌う
“お孃さんに すぐに逢おうと思い 利目(とめ)〈イレズミを入れた目〉をしています”
こうして その孃子(おとめ)は お仕え申しあげす と奉りました
その伊須気余理比賣命(いけすよりひめのみこと)のお家は 狭井河(さヰがは)の河之上(かわべ)にありました
天皇は 伊須気余理比賣のもとへおいでになり 一夜お寢やすみになられた
その河を 狭井河というわけは 河辺に山百合草(やまゆりのぐさ)が多くありました 山百合草の名を取り 佐韋河(さきがは)名づけた
山百合草のもとの名は 佐韋(サヰ)と云います
その後 伊須気余理比賣 宮中に參入した時 天皇のお詠みになつた歌
“アシ原のアシの繁つた小屋 スゲの畳を清らかに敷き 二人で寢た”
しかして お生まれになつた御子の名は
日子八井命(ひこやゐのみこと)
次に 神八井耳命(かむやゐみみのみこと)
次に 神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)の三柱
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)が 穴磯邑(あなしむら)〈桜井市穴師〉に定め 大市(おおいち)の長岡岬(ながおかのさき)〈巻向山の尾崎 現 狹井神社の鎮座地〉に 大倭大神(おほやまとのかみ)を祀った事が記されています〈狹井神社の創建とされます〉
【抜粋意訳】
〇垂仁天皇 二十五年三月十日
天照大神(あまてらすおほみかみ)を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離し 倭姫命(やまとひめのみこと)に託されました
倭姫命は 大神を鎮座申し上げるところを探し求め 菟田(うだ)の筱幡(ささはた)に至りました
筱は 佐佐(ささ)と云うさらに引返して 近江国(おうみのくに)に入り 東方の美濃(みの)をめぐり 伊勢国(いせのくに)に至った
そのとき天照大神は 倭姫命に教えて言われた
「この神風の伊勢国は 常世(とこよ)からしきりに浪(なみ)が 重浪(しきなみ)〈繰り返し波が打ち寄せ〉傍国(かたくに)〈大和周辺の国〉の可怜国(うましくに)〈美しい国〉である この国にいたいと思う」と言われた
そこで 大神の教えのままに その祠(ほこら)を伊勢国に立てられた
そして 斎宮(いはひのみや)を五十鈴川(いすずがわ)の河上に立てた
これを 磯宮(いそのみや)という
天照大神が 初めて天より降りられたところである
〇ある伝えによると
天皇は 倭姫命(やまとひめのみこと)を御杖(みつえ)とされて 天照大神に貢奉(たてまつりたま)う
それで 倭姫命は 天照大神を磯城(しき)の嚴橿(いつかし)の根本に祠を祀られたその後 神のお告げにより
二十六年十月 甲子の日
伊勢国の渡遇宮(わたらいのみや)にお遷しされたこのとき 倭大神(やまとのおほかみ)が 穂積臣(ほずみのおみ)の遠祖 大水ロ宿禰(おほみなのくちのすくね)に乗り降りて 言われた
「太初(もとはしめ)の時 約束をした 『天照大神は 天原(あまのはら)を悉(ことごと)く治めるだろう
皇御孫尊(すめみまのみこと)〈天照大神の子孫〉は 葦原中国(あしはらのなかつくに)の八十魂神(やそみたまのかみ)を治める
私〈倭大神〉は 大地官(おほつちのかひ)〈地主神〉を治めよう』言葉はそういうことであった
しかし 先代の御間城天皇(みまきすめらみこと)〈崇神天皇〉は 神祇を祭祀(さいし)したが 微細(くわしく)は その源根(もと)を探らず 粗(おろそか)に 枝葉(のちのよ)に留めた 故に天皇の命は短かった
今 汝は 先皇の及ばなかったところを悔い 慎み祀れば 汝の命も永く天下も太平であろう 」といわれた
天皇は この言葉を聞いて 誰に大倭大神(おほやまとのおほかみ)を祀らせればよいか 中臣連(なかとみのむらじ)の祖 探湯主(くかぬし)に仰せられて占わせた
即ち 淳名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)が占いに出た
そこで 淳名城稚姫命に命じ 神地(かむところ)を定め 穴磯邑(あなしのむら)大市(おおいち)の長岡岬(ながおかのさき)に にお祠りした
しかし 渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)は すでに体が悉(ことごと)く痩せ弱り お祀りは不能であった
それで 大倭直(おほやまとのあたい)の祖 長尾市宿禰(ながおちのすくね)に命じて祀らせた
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
狭井坐大神荒魂神社 五座 鍬靱
狭井は 假字也、
大神荒魂は 於保美和乃阿良美多麻と訓べし、
○祭神 大物主神荒魂、(前四座詳ならす)
○三輪大神社北、狭井川南に在す、今 花鎮(ケチン)狭井神社と称す、(大和志、同名所図会)、
○古事記、(神武段)伊須気余理比売命之家、在ニ狭井河之上、祭祀
神祇令曰、季春鎮花祭、義解云、謂大神狭井二祭也、中略 狭井者大神之■御霊也、(全文大神社の條に出す)
式一、(四時祭上)三月祭、鎭花祭二座、大神社一座云々、狭井社一座、絁二疋、糸三絢、綿一屯四両、五色薄絁各三尺、倭文六尺、布一端一丈、木綿麻各六斤十両、枲(カラムシ)八両、弓七張、筧二連、鹿皮十張、(已上三種神祇官充)羽二翼、鹿角四頭、鉄三斤五両、漆一升、黄檗三斤五両、茜一斤、黒葛廿斤、清酒五升、濁酒六斗五升、鰒三斤、堅魚五斤五両、階八升、海藻五斤五両、塩二升、瓶二口、都婆波匝短女杯盞各一口、裏葉薦二枚、四月祭、三枝祭三座(率川社)云々、右三社幣物依前件付祝等令供祭、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
狭井神社は 古くは 大和神社(天理市新泉町)の別社であったとされていて 大倭神社注進状を引用して 大倭神社〈現 大和神社(天理市新泉町)〉の別社であり 祭神は 大己貴命の荒魂 大国魂神と記しています
【意訳】
狭井坐大神荒魂神社 五座(鍬靫)
(さいにます おほみわのあらみたまの かみのやしろ)祭神
大國魂神(おほくにたまのかみ)
大物主神(おおものぬしのかみ)
姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
事代主神(ことしろぬしのかみ)今按〈今考えるに〉
大倭神社注進状に 別社 狭井神社 伝聞 狭井神社者大己貴命の荒魂 大国魂神 即当社の別社なり
相殿四座 大物主神 姫蹈鞴五十鈴姫命 勢夜多々良姫命 事代主神とあるによれり祭日 三月十八日 鎮花祭
社格 大神神社 摂社
所在 三輪村 大神神社境内 西尾岬
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
創建は「垂仁天皇の御宇 渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)勅を奉じて創祀する所なり」として 大和神社の別宮としてあったことは確かだか 神社の所管については 詳らかにない と記しています
【抜粋意訳】
狹井川(さいかわ)
三輪山より発し 狹井社を通り織田村大字芝に至り 巻向川に入る、
俗に薬川と称す、狹井社の大神荒魂神は 疾病を鎮渇するを掌(つかさど)る。
その社の辺を流るる水なるを以って、これを飲めば病を瘡すてふ伝説に因れるならん。
狭井坐大神荒魂神社(さいにます おほみわのあらみたまの かみのやしろ)
本社の北 狹井川の南にあり、俗に 華鎮(ゲチン)社、又「しずめの宮」と称す、華鎮は その祭儀を華鎮(はなしずめ)と称するにより「しずめ」は即ち「はなしずめ」の略称なり、延喜式に・・云々
垂仁天皇の御宇 渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)勅を奉じて創祀する所なり、
古は 山邊郡 大和社の別宮に属し、大和氏之が祝部(ほうりべ)たり、故に創立祭神の事 彼の社の注進状に詳なり。狭井神社、伝聞 狭井神社者、大己貴命の荒魂、大国魂神、即当社の別社なり
日本書紀曰 渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)が 穴磯邑(あなしむら)〈桜井市穴師〉に定め 大市(おおいち)の長岡岬(ながおかのさき)〈巻向山の尾崎 現 狹井神社の鎮座地〉に 大倭大神(おほやまとのかみ)を祀った〈所謂(いわゆる) 大市長岡岬は 今の狹井神社これなり〉
古事記曰 伊須気余理比賣命(いけすよりひめのみこと)のお家は 狭井河(さヰがは)の河之上(かわべ)にありました
下略
とあるにて明らかなれども その当社の所管に属せしは 何れの時代なるを詳にせず、鎮座次第に載せる別宮小社を閲するも、葛城賀茂・春日三枝・大直禰・三穂・會富止・五府ノ六社を載せるも狹井社 所見なし。・・・・云々然るに
大神分身類社鈔に狭井坐大神荒魂神社 五座
一座 大國魂命 火徳神
二座 大物主命 木徳神
加祭神一座 勢夜多々良姫命三座 顕國玉命 水徳神
加祭神一座 積葉八重事代主命四座 葦原醜男命 金徳神
加祭神一座 姫蹈鞴五十鈴姫命五座 大国主命 土徳神
加祭神一座 三島溝樴女鎮華祭 ・・・云々
神戸・・・・・云々
【原文参照】
狹井坐大神荒魂神社(桜井市三輪)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大神神社(桜井市三輪)の・境内社・境外社 の記事を見る
〈三輪山を〈御神体〉とする大和國一之宮〉゛大神神社(おほみわじんじゃ)゛奈良県桜井市三輪に鎮座は 日本で最も古い神社の一つで 摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)の数も非常に多く 本社域と参道の南北に分けて表示して 分かりやすいように記載しています 各々の記事をクリックすると 各神社の詳細が確認できます
大神神社(桜井市三輪)摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)・別宮(べつぐう)巡り
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)