実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内)〈延喜式内社 佐牙乃神社(鍬靫)〉

佐牙神社(さがじんじゃ)は 社伝に 敏達天皇二年(573)創建 祭神は佐牙弥豆男神・佐牙弥豆女神の二神で山本村に鎮座した 宮中の造酒司よりの奉幣を伝え 我国の酒づくりの発祥と深い関係が推測される 延喜式内社 山城國 綴喜郡 佐牙乃神社(鍬靫)(さかの かみのやしろ)です 永享年間(1429~41)に現在地に遷座しました

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

佐牙神社(Saga shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

京都府京田辺市宮津佐牙垣内164

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》(北殿)佐牙弥豆男神(さがみつをのかみ)
   (南殿)佐牙弥豆女神(さがみつめのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

佐牙神社(さがじんじゃ

京田辺市宮津佐牙垣内一六四番地

 社伝によると、敏達天皇二年(五七三)の創建と伝える式内社である。造酒司(ぞうしゅうし)の奉幣(ほうへい)があったとも伝え、我が国の酒づくりの発祥と関係が深いものとみられている。
 大同元年(八〇六)頃には、摂津(せっつ)国に封戸九戸があった。地元の古文書によると、山本にあったものを永享年間(一四二九~一四四一)に現在地に移すとある。今も山本に御旅所(おたびしょ)があり、祭日には神輿(みこし)の渡御がある。なお、江津の遠藤川南側の木津川との合流点付近にあったとも伝える。
 佐牙弥豆男神(北殿)と佐牙弥豆女神(南殿)を祭る。

 現本殿(二棟・国指定重要文化財)は、天正十三年(一五八五)の再建とされるが、形式は古く、ことに身舎(もや)の蟇股(かえるまた)は左右対称の図案で室町時代初期と考えられ、建物の一部の再利用とみられる。南北二棟とも同形式の春日造(かすがづくり)で、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)である。

例祭・御幸祭 十月十七日(現在は体育の日の前日)

還幸祭 十月十八日(現在は体育の日)

京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会

現地立札より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

由緒

 社伝には敏達天皇の2年(西暦573)始めてこれを祭られる。
造酒司(さけつくりのつかさ)の奉弊があったとつたえられる。また東朱智社とも言うたらしい。

 当社は昔山本村(遠藤川の北側府道より少し東)にあったのが、垣武天皇延暦13年(西暦794)現在の地に創建されたと伝えられ、平城天皇大同元年(806)神領寄進あり延喜の制には小社に列せられ、字山本はこれを氏神として今なお旧地を御旅所として祭日には神輿の渡御がある。

 この附近は往古 佐牙野と呼ばれ、筒城野の東、南は裾野川(今煤谷川と言う)、北は朱智川辺までの名称と思われる。また佐牙垣内(さがかいと)のなが江津に残っていおり、社名と地名が同一であったことが知られる。

 古事記の開化天皇の段に山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ)の名が出ている。この荏名津は旧名江の津(今の江津)であろうと推定されている。

 当社の社殿は永正6年(1509)12月6日菱田監物(けんもつ)と森村信濃守と土地争論のことがあって兵火にかかり、永正11年8月山本主馬介義古一族等によって再建されたが、天正4年(1576)10月20日また火災にかかって焼失したが、同13年9月13日さらに新築して遷宮式をあげたとつたえられている。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿(北殿)佐牙弥豆男神〈向かって右 境内社 大神宮《主》天照皇大神〉

Please do not reproduce without prior permission.

・本殿(南殿)佐牙弥豆女神〈向かって左 境内社 蛭子神社《主》事代主命〉

Please do not reproduce without prior permission.

本殿(北殿南殿) 国指定重要文化財 天正十三年(1585)再建

・拝殿

Please do not reproduce without prior permission.

・三山木廃寺跡

三山木廃寺跡(みやまぎはいじあと)

京田辺市宮津

 この付近の丘陵地からは数多くの古代の瓦が採集されている。瓦の年代は飛鳥時代後期から平安時代までのものがあり、その当時寺院があったと考えられている。寺院名は文献等にみられないため、地名により三山木廃寺として知られ、かなりの大寺院であったことが想像される。丘陵のふもとには、奈良時代の官道である山陽道がほぼ南北に通り、道沿いには山本駅も存在するという交通の要衝であった。

 瓦には、普賢寺跡(現在の観音寺の前身)や平城京と同じ様式のものもあるほか、この寺独特の宝相華(ほうそうげ)文で飾られた瓦もみられる。

 現在 山本の寿宝寺にある千手観音立像(国指定重要文化財)、寿宝寺・正福寺にある五大明王像等もこの廃寺にあった像である可能性も考えられる。

 なお、瓦の一部は市立中央公民館展示室で展示されている。

京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会

現地立札より

Please do not reproduce without prior permission.

・伊勢神宮 遥拝所

Please do not reproduce without prior permission.

・恵日寺跡

恵日(えにち)寺跡

京田辺市宮津佐牙垣内一六四番地

 明治初期の神仏分離により、佐牙神社境内にあった神宮寺の恵日寺も廃寺となった。そのため、本尊の不動明王像(南北朝時代)と大威徳(だいいとく)明王像・軍荼利(ぐんだり)明王像が近くの正福寺(江津)に、降三世(こうざんぜ)明王像・金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王像と観音堂にあった千手観音立像が寿宝寺(山本)にそれぞれ移され、大般若経も三百巻ずつ両寺に分けられたと伝えられている。

文政十二年(一八二九)の古文書によると秋祭の御旅所への神輿渡御には寿宝寺(山本)と、恵日寺の僧侶も列に加わっている記述が見られる。また、一月十日の佐牙神社の初座(弓始・弓講)には、恵日寺の法印が弓射の儀をしたと伝える。

 なお、佐牙神社の本殿の南隣の丘陵地に奈良時代以前に創建された寺があったとみられ、現在、三山木廃寺跡の碑が建っている。

京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会

現地立札より

Please do not reproduce without prior permission.

・二の鳥居

Please do not reproduce without prior permission.

・一の鳥居

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

佐牙神社の山本御旅所

Please do not reproduce without prior permission.

佐牙神社山本御旅所

「市無形文化財・山本の百味と湯立て」佐牙神社御旅所(三山木)で13日、100種類の野の幸・海の幸が御旅所内の2基の御輿に供えられ、神笹を持った巫女が無病息災を祈願し煮立った釜の湯を見物客に振りかける「山本の百味と湯立て」が行われました

京田辺市役所PR

https://x.com/citykyotanabepr/status/392153160401170432

・〈旧鎮座地〉大神宮跡

・大神宮跡(京田辺市三山木東荒木)〈佐牙神社 旧跡〉

一緒に読む
大神宮跡(京田辺市三山木東荒木)〈延喜式内社 佐牙乃神社(鍬靫) 旧跡〉

大神宮跡(京田辺市三山木東荒木)は 延喜式内社 山城國 綴喜郡 佐牙乃神社(鍬靫)(さかの かみのやしろ)の 旧跡とされ 木津川の水害の為 永享年間(1429~1441)に この地から現在の佐牙神社の鎮座地に遷座しました 今でも祭日には 神輿の渡御があり 山本宮座の太夫八人がこの地へお参りをします

続きを見る

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)綴喜郡 14座(大3座・小11座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 佐牙乃神社(鍬靫)
[ふ り が な ]さかのの かみのやしろ
[Old Shrine name]Kusanaki no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式』山城國 綴喜郡 式内社の内 酒造に関係すると想われる社の伝承によれば

大神宮跡(京田辺市三山木東荒木)〈佐牙神社 旧跡〉 木津川近くの山本村にあり 水を守る酒殿の神を祀る場所

酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)は 酒を製造する場所〈及び 酒器を製造する場所〉とされていた 両社には 酒造に深い関係性にあったものとされます

『古事記』にある 須々許理(すすこり)の伝承

『古事記』には応神天皇の時に来日した百済人 酒造りの渡来人・須々許理が大陸の酒造りの技術を伝えたと記しています

須須許理という名は 酒と水を同時に象徴する 古代において酒と水は神に捧げる供え物として同じような役割を果たした。須須許理は神の領域に属した酒やそれと等しい価値を持っていた水を同時に象徴していたのである

「日本の宮中楽舞の原泉を探って-高麗楽「進曾利古」を中心に-」
(朴泰圭、『 日 本 文 化 研 究 ( 5 0) 』 、 2014、 0 4、 1 5)より抜粋

佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内)に伝わる本源記

「仁徳天皇の頃 大陸から酒造りに才のある「曽々許理」が山背で酒造りに励んだ」とあり「男女二神の佐牙弥豆男と佐牙弥豆女の酒殿神の役目は酒造用水の守護」らしい

古事記応神天皇の條

「泰造(はた のみやつこ)の租、湊直(あやのあたえ)の租、また酒を醸むことを知れる人 名は仁番(にほ) 亦の名は須須許理(ススコリ)どもが来朝した」とあり

天皇は 須須許理(ススコリ)が 献上した酒を飲んで朗らかになり

「須須許理が醸みし御酒に我酔いにけり
 事無酒笑酒(ことなぐしえぐし)に我酔いにけり」とうたっています

※ 須須許理(ススコリ)が 酒を絞ったあとの酒糟に塩漬したウリ(古代朝鮮語) を漬けたものが 瓜の糟漬で 現在 奈良漬と呼ばれています

酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)の伝承では

神功皇后が三韓遠征の際 三個の酒壺を神社背後の山上に安置し 帰国後その霊験に感謝して 社殿を創建したとの伝えがあります

 京田辺市三山木の『延喜式内佐牙神社本源紀』には、酒造用水を守護する男女二神の佐牙弥豆男と佐牙弥豆女の酒殿神がみられ、唐国から酒を造る曽保利と曽々保利という二人が渡来したと記されている。「佐牙(さが)」は「サケ」「酒」である。また興戸の延喜式内酒屋神社は酒を製造した場所とされ、三山木の山崎神社や飯岡の咋岡神社も酒に関係があり、「さか」は「酒」に通じていることから「さかき」であろうと思われる。

竹取翁博物館HPより抜粋
http://taketori.koiyk.com/take-eraani.html

『特選神名牒〈明治9年(1876)完成〉』の酒屋神社の条に『佐牙神社神紀』の記述として 式内社 佐牙乃神社の創建について 記しています

これによれば 敏達天皇二年(五二七)に勅令により 酒部連友夏と云う者に勅して 佐賀彌豆男神 佐賀彌豆女神を咋岡の山本に鎮座なされた 大内造酒司の官人が毎年幣帛を奉る神社となられた と述べています

御祭神 佐賀彌豆男神 佐賀彌豆女神の二神について

延喜式内社 宮中 造酒司坐神 6座(大4座・小2座)(さけつかさにますかみ むくら)に祀られている゛酒彌豆男神゛と゛酒彌豆女神゛と同神であり 酒造りと深く関わる神社であると考えられます

佐牙神社の旧鎮座地について

又 地元の伝承には 初め山本に鎮座し 永享年間(一四二九~四一)に現在地に遷座されたと云う その旧地は「大神宮跡」として現在も当社の御旅所となっています

延喜式内社 山城國 綴喜郡 佐牙乃神社(鍬靫)(さかの かみのやしろ)

・大神宮跡(京田辺市三山木東荒木)〈佐牙神社 旧跡〉

一緒に読む
大神宮跡(京田辺市三山木東荒木)〈延喜式内社 佐牙乃神社(鍬靫) 旧跡〉

大神宮跡(京田辺市三山木東荒木)は 延喜式内社 山城國 綴喜郡 佐牙乃神社(鍬靫)(さかの かみのやしろ)の 旧跡とされ 木津川の水害の為 永享年間(1429~1441)に この地から現在の佐牙神社の鎮座地に遷座しました 今でも祭日には 神輿の渡御があり 山本宮座の太夫八人がこの地へお参りをします

続きを見る

・佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内)

一緒に読む
佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内)〈延喜式内社 佐牙乃神社(鍬靫)〉

佐牙神社(さがじんじゃ)は 社伝に 敏達天皇二年(573)創建 祭神は佐牙弥豆男神・佐牙弥豆女神の二神で山本村に鎮座した 宮中の造酒司よりの奉幣を伝え 我国の酒づくりの発祥と深い関係が推測される 延喜式内社 山城國 綴喜郡 佐牙乃神社(鍬靫)(さかの かみのやしろ)です 永享年間(1429~41)に現在地に遷座しました

続きを見る

『特選神名牒〈明治9年(1876)完成〉』の酒屋神社の条に『佐牙神社神紀』の記述として 式内社 酒屋神社の祭神について

一説によれば 津速魂神の19世孫 眞入連公の孫 中臣酒屋連(なかとみのさかやのむらじ)が この地に住んでいて神託により 酒彌豆男神の子 酒彌豆倉神を西側の山の上に祀った これを酒屋神社と称した と述べています

延喜式内社 山城國 綴喜郡 酒屋神社(さかやの かみのやしろ)

神社の伝承には 神功皇后が三韓遠征の際 神社背後の山に酒壺を三個安置して出立 帰国後その霊験に感謝し創建 皇后が朝鮮より持ち帰った“九山八海の石”が今もここにあると伝わる

・酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)

一緒に読む
酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)〈神功皇后の持ち帰った"九山八海の石"がある式内社〉

酒屋神社(さかや/さけや じんじゃ)は 佐牙神社とともに酒造りに縁ある式内社で 伝承には 神功皇后が三韓遠征の際 神社背後の山に酒壺を三個安置して出立 帰国後その霊験に感謝し創建 皇后が朝鮮より持ち帰った“九山八海の石”が今もここにあると伝わる 又 別説では中臣酒屋連が来往して 酒造りを伝え 祖神を祀ったとも伝わる

続きを見る

延喜式内社 山城國 綴喜郡 咋岡神社(鍬靫)(くいをかの かみのやしろ)

咋岡神社の鎮座地名「飯岡(いのおか)」は 「咋岡」が変化したものとも云われます

現在 式内社 咋岡神社の論社は 京田辺に飯岡東原と草内宮の後の2つの咋岡神社があります
一説に 元は木津川と普賢寺川の合流地点一宮が森にあったのが 木津川の氾濫で江戸時代中期(元禄年間)にこの二か所に分けて移されたと伝わります

・咋岡神社(京田辺市飯岡東原)

・咋岡神社(京田辺市草内宮ノ後)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄京都線 近鉄宮津駅から北西方向へ約550m 徒歩8分程度

佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

参道を進むと 丘陵の下に二の鳥居が建ちます
4/8の参拝でしたが 参道の桜が満開でした

Please do not reproduce without prior permission.

参道の石段の途中に 踊り場のような広い境内があり 駐車場になっていました

Please do not reproduce without prior permission.

石段を上がると境内となっていて

拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿からは 2殿の本殿〈北殿・南殿〉が見えています

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

社殿に一礼をして 参道石段を下ります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 佐牙乃神社について 所在は゛江津村に在す、今天神と称す、゛〈現 佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内)〉と記しています

【抜粋意訳】

佐牙乃神社 鍬靫

佐牙乃は 假字也

○祭神詳ならず

○江津村に在す、今天神と称す、山城志

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 佐牙乃神社について 所在は゛今 江津村にあり、佐牙大明神と云ふ、゛〈現 佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内)〉と記しています

【抜粋意訳】

佐牙神社

今 江津村にあり、佐牙大明神と云ふ、山本村と共に之を祀る、〔山城志、式社考証、〕

傳云ふ 酒彌豆男神 酒彌豆女神を祭る、〔本社神紀〕

平城天皇 大同元年、摂津地九戸を神封に寄し、〔新抄格勅符〕

醍醐天皇 延喜の制、祈年祭に鍬靫各一口を奉りき、〔延喜式〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 佐牙乃神社について 祭神について 社傳には 祭神 天津神 吉田大明神とあり 佐牙神社神紀には 酒彌豆男神 酒彌豆女神の二神とある と記しています

所在は゛江津村 (綴喜郡三山木村大字宮津)゛〈現 佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内)〉と記しています

【抜粋意訳】

佐牙乃(サカノ)神社

祭神
 今按 社傳 祭神 天津神 吉田大明神とあれど 佐牙神社神紀〔相楽郡木津村 今井某所蔵〕と云ものには 酒彌豆男神 酒彌豆女神の二神なりと云り 由縁ありげなり 尚よく考べし

祭日 九月十二日
社格 村社

所在 江津村 (綴喜郡三山木村大字宮津)

 今按 京郡府式内考證に 當社は古へ隣村 山本村にあり朱智佐賀両庄の舊圖に石戸村にありとあれども同村は江津村の出郷にして既 又 同村に合せりとあるが如くなるべし 故今之に從ふ

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

山城国 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)

一緒に読む
山城國 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)

山城国(やましろのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 山城国 の122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)の神社のことです

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています