実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

龍花院〈玉敷神社 旧鎮座地〉(加須市正能)

龍花院(りゅうかいん)は 日鑁上人(にちばんしょうにん)の開山 源頼朝公が寺の修造を命じ幕を寄進したという また後鳥羽天皇から「伊豆山 龍華院 法音寺」の号を賜ったとも伝えられ 古くから有力な寺院で 当寺の西側は ”古宮跡(ふるみやあと)”と呼ばれています 天正2年(1574)上杉謙信の侵攻で 兵火に罹り焼失した 玉敷神社(たましきじんじゃ)の旧鎮座地です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name】(寺院名)

龍花院(Ryukain

〈玉敷神社 旧鎮座地〉”古宮跡(ふるみやあと)”

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

埼玉県加須市正能116

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

本尊 不動明王(ふどうみょうおう)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の当初の鎮座地

【創  (Beginning of history)】

真言宗智山派 龍花院(りゅうかいん) 京都智積院末寺

 鎌倉時代の創建で、開山は日鑁上人(にちばんしょうにん)。本尊に不動明王(ふどうみょうおう)を奉安する。
 源頼朝(みなもとよりとも)が寺の修造を命じ、幕を寄進したという。また、後鳥羽天皇(ごとばてんのう)から「伊豆山(いずさん)龍華院(りゅうげいん)法音寺(ほうおんじ)」の号を賜ったとも伝えられ、古くから当地方の有力な寺院であった。
 江戸時代”関東二十七法談所(ほうだんしょ)”の一つとされ、多くの門弟が仏教の勉学に励んだ。また末寺二十八か寺を有し、御朱印(ごしゅいん)二十石を賜った。現在、これらに関する文書が多数保存されている。

 なお、当寺の西側は”古宮跡(ふるみやあと)”と呼ばれ、かつて玉敷神社(たましきじんじゃ)の鎮座地であった。

主な文化財
龍花院文書(町指定有形文化財)
光背を丸彫する地蔵尊半跏附坐像
シイ(シイガシ)の古木
加須市教育委員会

現地掲示より

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【由  (History)】

延喜式内 玉敷神社(たましきじんじゃ)

◇ご祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)

 別の御名を「大国主命(おおくにぬしのみこと)」とも申し上げ、七福神の「だいこくさま」の名でも親しまれて、次のような多くのご神徳をお持ちの神である。

厄除開運、縁結び、安産、五穀豊穣、商売繁盛、詩歌道の向上

◇ご由緒

○創建 第42代文武(もんむ)天皇の御代 大宝3年(703)と伝える。

 平安時代初期、第60代醍醐(だいご)天皇の御代 延長5年(927)に公布された法制の書「延喜式」にその名を載せるいわゆる『延喜式内』の古社である。

O鎮座地の変遷 正能(しょうのう)村⇒根古屋(ねごや)村⇒現在地(加須市騎西552-1)

 創建以来、現在地より数百メートル北方の正能村(現 加須市正能)に鎮座の当神社は 天正2年(1574)、上杉謙信の当地方侵攻の折り。その兵火に罹り社殿を始め宝物・古記録等悉く灰殖に帰した。従って、それ以前の歴史は明らかでない。江戸時代に入り、その頃 根古屋村(現 加須市根古屋)に在った騎西城(寛永9/1632年廃城)の守護神として、その大手門前に遷座再建された。然し、防火体制不備による城内火災が度々起きたため、それに原因する神社類焼の危険を恐れた城主の処置により、ほどなく一寛永4年(1627)頃?一城前から現在の地に再遷座して、今日に至っている。

○信 仰 当神社は明治時代に至るまで『玉敷神社・久伊豆(ひさいず)大明神』と称し、旧埼玉郡の総鎮守、騎西領48箇村の総氏神として崇敬され、『騎西の明神様』の通称で呼ばれて篤い信仰を集めていた。今日、元荒川流域に沿う各地に「久伊豆」の名を冠する神社が数多く分布鎮座している事実は、当神社の昔日の広い信仰領域の歴史を物語っている。なお、戦前社格は「県社」であった。

Oご社殿 本殿・幣殿は文化13年(1816)の建築、拝殿は明治31年(1898)の改築である。因みに、本殿周囲を飾る彫物は当時「江戸三名工」の一人と謳われた五代目後藤茂右衛門の作である。

◇玉敷神社神楽

 当神社には、江戸里神楽の原型を伝える特徴ある神楽として、平成20年3月、国の「重要無形民俗文化財」指定を受けた一社相伝の「玉敷神社神楽」が保存されている。
本神楽は遅くとも江戸時代初期には始まったとされる永い歴史を持ち、素朴さの内にも優雅さを湛えた舞中心の神楽であり、番外一座を含む十七座から成る。年四回、下記の祭礼(午後)の折り、昔ながらの茅葺の神楽殿(天保7/1836年建築)で奉奏される。

2月1日: 初春祭、5月5日: 春季大祭、7月15口: 夏祭り、12月1日: 例大祭

玉敷神社社務所〈神社配布資料〉より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

玉敷神社(加須市騎西)※寛永4年(1627)頃~現在の鎮座地に遷座

・玉敷神社(加須市騎西)

一緒に読む
玉敷神社(加須市騎西)

玉敷神社(たましきじんじゃ)は かつては久伊豆大明神と呼ばれ元荒川流滅に数多く所在する久伊豆神社の本社的存在で 埼玉郡〈現 南北両埼玉郡〉の総鎮守・騎西領四十八箇村の総氏神として尊崇されていました 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 埼玉郡 玉敷神社(たましきの かみのやしろ)とされます

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埼玉郡 4座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 玉敷神社
[ふ り が な ]たましきの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Tamashiki no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 玉敷神社(たましきの かみのやしろ)の鎮座地変遷について

・〈玉敷神社 当初の鎮座地〉龍花院(加須市正能)※天正2年(1574)兵火に罹り焼失

一緒に読む
龍花院〈玉敷神社 旧鎮座地〉(加須市正能)

龍花院(りゅうかいん)は 日鑁上人(にちばんしょうにん)の開山 源頼朝公が寺の修造を命じ幕を寄進したという また後鳥羽天皇から「伊豆山 龍華院 法音寺」の号を賜ったとも伝えられ 古くから有力な寺院でした 当寺の西側は ”古宮跡(ふるみやあと)”と呼ばれています 天正2年(1574)上杉謙信の侵攻で 兵火に罹り焼失した 玉敷神社(たましきじんじゃ)の旧鎮座地です

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・〈玉敷神社 江戸時代に再建された鎮座地〉前玉神社(加須市根古屋)

一緒に読む
前玉神社(加須市根古屋)

前玉神社(さきたまじんじゃ)は 延喜式内社 前玉神社二座 と古くから云われ 又 延喜式内社 玉敷神社の旧鎮座地ともされます 玉敷神社は正能地区にあったが 上杉謙信の関東出兵の際焼失し その後 一時 根古屋(ねごや)の騎西城大手門付近〈現 前玉神社〉に移り 城内でたびたび出火するため 類焼をおそれ その後 今の地に遷座したと伝わっています

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・玉敷神社(加須市騎西)※寛永4年(1627)頃~現在の鎮座地に遷座

一緒に読む
玉敷神社(加須市騎西)

玉敷神社(たましきじんじゃ)は かつては久伊豆大明神と呼ばれ元荒川流滅に数多く所在する久伊豆神社の本社的存在で 埼玉郡〈現 南北両埼玉郡〉の総鎮守・騎西領四十八箇村の総氏神として尊崇されていました 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 埼玉郡 玉敷神社(たましきの かみのやしろ)とされます

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

玉敷神社から北方向へ約1km 徒歩15分程度

龍花院〈玉敷神社 旧鎮座地〉(加須市正能)に参着

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龍花院 鐘楼旧跡の石碑があり 延宝丙辰四年(1676)に智積院伝法比丘 僧正運敞による銘文と その口語役が刻されています

龍花院 鐘楼旧跡

銘文にいう
武蔵国の中でも勝れたである龍花院は 創建以来一体どれくらい経っているのであろうか山門伽藍すでに古色蒼然としているけれども 今ここに梵鐘が新たに完成した この鐘の音は周囲の木々や山々を震わせ人々を驚かして 仏の教えに目覚めさせる 経文の読誦をもとめて多くの人々が集まり その功徳に心神も華やぐその声は地獄の釜茹での刑を停め その響きは剣樹刀山の囲みを打ち砕くのである これによりこの御寺の法灯が末永く続き、やがて弥勒如来が下乗され龍花三会のときにまで至るひとであろう

延宝丙辰四年七月吉日
智積院伝法比丘 僧正運敞 謹んで銘文を作した
(旧梵鐘銘口語役 成田山仏教研究所客員所員 湯浅吉美先生)

現地石碑より

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後鳥羽天皇(ごとばてんのう)から「伊豆山(いずさん)龍華院(りゅうげいん)法音寺(ほうおんじ)」の号を賜ったとも伝えられ

扁額には「新義真言宗 智山派本寺 伊豆山龍華院」と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします

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龍花院の西側は”古宮跡(ふるみやあと)”と呼ばれ かつて玉敷神社(たましきじんじゃ)の鎮座地であった

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 玉敷神社について 阿波国の倭大國玉神 大國敷神社二座の関連を示唆し 所在について 騎西久伊豆大明神〈現 玉敷神社(加須市騎西)〉と記しています

【抜粋意訳】

玉敷(タマシキ)神社

〇阿波国 倭大國玉神 大國敷神社二座

式社考
騎御騎西宿 久伊豆(ヒサイツ)大明神 オホナムヂ

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

龍花院〈玉敷神社 旧鎮座地〉(加須市正能)は 久伊豆神社〈現 玉敷神社〉の当初の鎮座地であり 境内の鎮守として 久伊豆社と記しています

【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之二百(埼玉郡之十一騎西

正能村 龍花院

新義眞言宗 山城國醍醐光臺院末 伊豆山法音寺と號す
寺傳を閲するに當寺の往古 右大将賴朝修造を命じ 衣黒(キヌグロ)の幕を寄附し 且寄附の文書もあり
又後 後鳥羽院より伊豆山法音寺と勅號ありしと 是等の品々蔵せしが 謙信城責の時當寺を初め近き邊りを焼拂ひし 此寺寶も烏有となりしと 住僧のことには大同二年の開闢と云もの疑ふべし 大同は弘法大師の時代なれば かゝる遠境へ小寺を開くべき理なし 其後鎌倉時代に至り 僧日鑁開復せり此僧賴朝の甥にて 當代まで七世に及ぶといへど 年暦も齟齬すれば覺束なし
されど關東法談所二十七ヶ寺の其一にて慶安元年寺領二十石を賜へり 本尊不動 運慶の作 長三尺 外に春日の作 十一面觀音 弘法の作 辨天 此餘多聞天聖天等を安ぜり 多聞天は用明天皇二年七月守屋追討の御願のため 聖徳太子の彫刻し給所にして 鎌倉時代修造の時 納めしと云り 元久元年春鎌倉尼将軍守護仏と書付ある由云ど其實を知らず 聖天は銅像・木像二體ありて 木像は弘法大師の作なり

  文殊を安ず
  延寶二年の鐘をかく
薬師堂 聖徳太子の彫る像を安ず
久伊豆社
八幡社 共に境内の鎮守なり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 玉敷神社の所在について 騎西町〈現 玉敷神社(加須市騎西)〉と記しています

【抜粋意訳】

玉敷神社

玉敷は多萬之岐と訓べし
〇祭神 大己貴命、(地名記)
〇騎西町に在す、(同上)今久伊豆大明神と称す、
例祭  日、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 玉敷神社の所在について 根古屋村から正能村へ移し 更に騎西町〈現 玉敷神社(加須市騎西)〉に遷座した と記しています

【抜粋意訳】

玉敷神社

祭神 大己貴命

祭日 三月十五日
社格 郷社

所在 騎西町(北埼玉郡騎西町大字騎西)
今按〈今考えるに〉
注進状に証拠詳かならねど 往古 同郡 根古屋村にありしを正能村へ移し 慶長中 又 今地に移せりと土人の口碑に存し根古屋 正能の両村に古宮蹟と云ふ處あるも一證に備ふべし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

 『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

玉敷神社(加須市騎西)について 元は久伊豆神社であったが 近年 式内社だと云われ社号を玉敷神社と改めたが 式内社であろうか? 確証はないが多くの書籍が式内社としている と記しています

【抜粋意訳】

埼玉縣 武蔵國 北埼玉郡 騎西町大字騎西

郷社 玉敷(タマシキノ)神社

祭神 大己貴(オホナムチノ)命 天照大御神(アマテラスオホミカミ)
   豊受(トヨウケノ)大神 伊弉諾(イザナギノ)尊 軻遇突智(カグツチノ)

本社は元と久伊豆神社と称せしが、近來 式社玉敷神社に擬せられ今の號に改めたり、当社果して式杜玉敷神社なりや否や、
武蔵式社考、当社を以て玉敷神社とし、神社覈録亦当社とす、確証ありしにあらずと雖も、特選神名牒 又当社を以て玉敷神社として云く、
「今按、注進状ニ証跡詳カナラネド、往古同郡根古屋村ニアリシヲ、正能村へ移シ、慶長中又今ノ地ニ移セリト、土人ノ口碑ニ存シ、根古屋正能ノ両村ニ古宮蹟ト云フ処アルモ一証ニ備フベシ、」
と、創立年代詳ならず、或は成務天皇年、武藏國造兄多毛比命、出雲大社の分霊を奉遷せりと傳へ、或は文武天皇 大宝 多治比興人三宅麿、之を創祀すと云ふ、
永禄月、上杉謙信 私市(キサイ)城攻撃の際、兵焚に罹り、正能村より根古屋村に遷し奉り、元和年、騎西領主 大久保加賀守、更に現社地 即ち宮目神社々域に社殿を営み、社領七石を寄附し、後ち寛永 根古屋村の地二反二畝を寄附し奉る、古来 騎西領中の総鎮守にして、古社なり、
東鑑に「建久月晦日、於武藏國大河戸御厨、久伊豆宮神人喧嘩出來」云々と見えたるは当社なるべし、
明治年郷社に列し、三十一十一月、境内社 内宮社 外三社を本社に合祀す、社殿は本殿、幣殿、拝殿其他神樂殿、額殿等あり、境内3629坪(官有地第一種)鬱蒼たる老杉古松、四圍を遮り自ら一境域を為す、

新編武蔵風土記一異説を記す、云々、
「又記ニ、当社ハ 宣化天皇八代ノ後 胤從五位上 木工頭丹治貞成ノ霊社ナリ、貞成ノ子峯成、私市党ノ始祖ナリ、後略シテ私ノ党ト唱フ、此人ノ弟ヲ貞峯ト云、丹治党ノ始租ナリ、略シテ丹ノ党ト云フ、此二党ノ子孫分レテ武州ニ多シ、其子孫ノ居所多ク此神社ヲ祭レリト、サレバ峯成ノ父貞成ヲ祭レリト云フ、所謂アルニ似タリ。」

当社 境内社に宮目神社を以て 社内とすと雖も、神社覈録 所引の地名記を除くの外、多く之れを非とす、当社寳物に猿田彦及獅子の面あり、共に春日の作と傳へたり。

境内神社 秋葉社 宮目神社 八坂社 瘡守稲荷神社 松尾神社 琴平神社 天神社 神島社 白山神社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

龍花院〈玉敷神社 旧鎮座地〉(加須市正能)に (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

一緒に読む
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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