実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

奈具志理神社跡(亀山市田村町)〈延喜式内社 那久志里神社の旧鎮座地〉

奈具志理神社なくしりじんじゃあとは 明治41年(1908能褒野神社に合祀された奈具志理神社〈延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 那久志里神社(なくしりの かみのやしろ)の論社〉の旧鎮座地でした 現在跡地には 奈久志里神社跡 東荒寺跡と刻まれた石碑が建照られています

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

奈具志理神社 (Ruins of Nagushiri Shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県亀山市田村町

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》倭建命(やまとたけるのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の旧鎮座地

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳

實曆九年(1759)八月 上進神社記にも、鈴鹿郡田村那久志里大明神祭所神相知れ不申候、祠官伊藤信濃、とあり

明治41年(1908能褒野神社に合祀

【由  (History)】

倭建命(ヤマトタケルノミコト)之碑

【御由緒】

 倭建命は、今からおよそ千六百年前に活躍された人で、当時の天皇(父親)の命令で日本の各地へ遠征し、国内の戦乱を平定されたとされる古代の英雄であり、その神話は今でも人々に永く伝えられています。

 東北地方の戦乱を平定された後で、故郷を偲んで和歌を詠まれ、能褒野の地でその短い生涯を閉じられました。

 尚、倭建命が東北の地に遠征した時、その地に子孫を残されて、その子孫が何年かの後、天狗の姿に身を変えられ亡き父(倭建命)のお墓がある能褒野に辿り着き、その後此の地に住み着かれ原家の御先祖様になられたとのことです。

水乃神の碑

【御由緒】

 此の碑は、倭建命の妻であった弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)をお祭りしています。

 弟橘比売命は夫の倭建命が遠征の時、荒れ狂う海に自ら飛び込まれて、荒海を鎮め夫を助けられたとされる神話が永く伝えられています。

 この神話が水にまつわるとのことで、水乃神様として倭建命の側にお祀りしました。

平成十六 甲申年十月吉日

現地石碑文より

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・石祠と゛奈具志理神社跡゛゛東荒寺跡゛の石柱

Please do not reproduce without prior permission.

・倭建命之碑

Please do not reproduce without prior permission.

・倭建命之碑の案内石碑

Please do not reproduce without prior permission.

・境内の跡

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

奈具志理神社跡は 現在 能褒野神社(亀山市田村町)に合祀されています 

・能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
〈能褒野神社に合祀 那久志里神社(亀山市田村町 鎮座)〉

一緒に読む
能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉

能褒野神社(のぼのじんじゃ)は 「川崎村名越字女ヶ坂」の丁子塚(一名 王塚)〈明治12年(1879)宮内省が『延喜式』に記す日本武尊の御陵「能褒野墓」と治定〉その御霊を斎き祀る神社として御鎮座 明治41年(1908)には 村内の40余社〈式内社3社〈縣主神社・那久志里神社・志婆加支神社〉を含む〉が合祀されました

続きを見る

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

能褒野神社に〈明治41年(1908〉合祀された 式内社 那久志里神社の論社 旧鎮座地

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 那久志里神社
[ふ り が な ]なくしりの かみのやしろ
[Old Shrine name]Nakushiri no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『大神宮叢書』第3 後篇に記される内容

〈江戸時代末期の国学者 御巫 清直(みかなぎ きよなお)1812年~1894年(明治27年)の著書〉『伊勢式内神社檢錄鈴鹿郡の条には 能褒野神社に〈明治41年(1908〉合祀される前の那久志里神社の旧鎮座地とされる゛鈴鹿郡田村 那久志里大明神゛について記しています

【抜粋意訳】

伊勢式内神社檢錄 鈴鹿郡 那久志里(ナクシリノ)神社

此社號は地名を活かして稱號とするならむ。
然るを辨せす神名帳傍注に云く、倭姫命世記に云く、奈具波志忍山、今云ふ名古波志利忍山、白鬚神社在りに忍山村に、と牽強せるに從て考證にも、在りに野村之南五町許忍山に、稱すに白鬚ノ神と載す。
又再考には、古へより鈴鹿姫と云ふ、今社地路頭ノ西ノ邊に在り、とす。これ鈴鹿山麓に在て土谷鈴鹿権現と稱するを本社に配するなり。共に浮妄の臆断にして信するに足らす。

案内記に、名越村に坐す、と云へり。以下の諸誌各從て名越に在とす。遺響に、名越村東口松林ノ丘岡北の麓に坐す、と委くす。今按るに名越は神鳳鈔に那越御厨とある地にして、舊くは名串と稱すといへり。其那久志は卽ち那久志里の本語なり。

丹後國風土記に、天女謂にて村人等に云く ,此處我心奈具志久〔古事平善者曰に奈具志〕、とある和(ナグ)しの辭をなくしき、なくしく、なくしり、なくしると活用せしなり。太(フト)しの辭をフトシキ、フトシク、フトシリ、フトシルト活ラカスと同格なり。されば那久志里ノ本辭は那久志なり。

今名越と村に號するは那久志の轉音にて卽同言なり。されば地名を社號に唱ふる事明けし。併名越は舊邑なから今は田村の支邑の如くになりて 田村名越組と稱す。天和二年正月名越里人原作右衛門定光といふ者の著、古來見聞記に云く、名越里、神功皇后は譽屋別の御母にあたらせ給ふ、是故に御神の社を作らせ給ふて、那久志里神社と崇奉らせ給ふなり、と云へり。

實曆九年八月上進神社記にも、鈴鹿郡田村那久志里大明神祭所神相知れ不申候、祠官伊藤信濃、とありて式内なる事を載せなれど、案内記より先き天和の頃に既く名國ノ産神を本社に配せること見つへし。其社域廿間許の狹少になれりと雖も古色ある神祠なり。棟札天明以後の者のみなれど、各那久志里神社とありて別ノ神號は稱せす。其西方に長瀨山東光寺と郷名を係る古寺の廃跡あり。又村西ノ松林中に王塚と稱する倭建命ノ陵墓も存して、故事を口傳する等 舊古ノ事蹟を忘失せさる習俗なれば、此社をも從古本名を唱へ來るなるへし。宜く これを本社の遺存と判定すへきか。

【原文参照】

神宮司庁 編『大神宮叢書』第3 後篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239755

延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 那久志里神社(なくしりの かみのやしろ)の論社

奈具志理神社 (亀山市田村町)
〈能褒野神社に合祀 那久志里神社の旧鎮座〉

一緒に読む
奈具志理神社跡(亀山市田村町)〈延喜式内社 那久志里神社の旧鎮座地〉

奈具志理神社跡(なくしりじんじゃあと)は 明治41年(1908)能褒野神社に合祀された奈具志理神社〈延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 那久志里神社(なくしりの かみのやしろ)の論社〉の旧鎮座地でした 現在跡地には 奈久志里神社跡 東荒寺跡と刻まれた石碑が建照られています

続きを見る

・能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
〈能褒野神社に合祀 那久志里神社(亀山市田村町 鎮座)〉

一緒に読む
能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉

能褒野神社(のぼのじんじゃ)は 「川崎村名越字女ヶ坂」の丁子塚(一名 王塚)〈明治12年(1879)宮内省が『延喜式』に記す日本武尊の御陵「能褒野墓」と治定〉その御霊を斎き祀る神社として御鎮座 明治41年(1908)には 村内の40余社〈式内社3社〈縣主神社・那久志里神社・志婆加支神社〉を含む〉が合祀されました

続きを見る

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

現在の合祀先 能褒野神社(亀山市田村町)に参着

・能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
〈能褒野神社に合祀 那久志里神社(亀山市田村町 鎮座)〉

一緒に読む
能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉

能褒野神社(のぼのじんじゃ)は 「川崎村名越字女ヶ坂」の丁子塚(一名 王塚)〈明治12年(1879)宮内省が『延喜式』に記す日本武尊の御陵「能褒野墓」と治定〉その御霊を斎き祀る神社として御鎮座 明治41年(1908)には 村内の40余社〈式内社3社〈縣主神社・那久志里神社・志婆加支神社〉を含む〉が合祀されました

続きを見る

能褒野神社から東へ約550m 徒歩10分程度

道路の際に石碑と石祠が鎮座します

奈具志理神社 (亀山市田村町)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

石祠にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

すぐ横に 倭建命之碑と案内石碑があります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 那久志里神社について 所在は゛名越村に在す゛〈現 那久志里神社古社地(亀山市田村町)〉と記しています

【抜粋意訳】

那久志里神社

那久志理は假字也

〇祭神 長白羽神、〔考証、俚諺〕

〇名越村に在す、〔国史、俚諺〕

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 那久志里神社について 所在は゛今 名越村にあり゛〈現 那久志里神社古社地(亀山市田村町)〉と記しています

【抜粋意訳】

那久志里(ナクシリノ)神社

今 名越村にあり、〔神名帳検録、式内社検録〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 那久志里神社について 所在は゛田村名越組〈現 那久志里神社古社地(亀山市田村町)〉と記しています

【抜粋意訳】

那久志里神社

祭神
祭日 八月十五日
社格 村社

所在 田村名越組

 今按るに 名越を舊く名串とも稱せりと云へは 那久志里の下略と見て 其所に配するなり 社域今は福少になりたれど 西隣なる長瀬東光寺の廃地も兆域の内なりけるなろべし しからは式社の形狀に符を以てこれに從ふ

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

奈具志理神社 (亀山市田村町) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

続きを見る

 

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています