大瀧神社・岡太神社(おおたきじんじゃ・おかもとじんじゃ)は “紙漉きの御魂”と呼ぶに相応しき「川上御前(kawakami gozen)」を祀ります 里人は いくつ時代を超えても 感謝を忘れることなく 今も“越前和紙”の「紙漉きの紙祖神(かみのおやがみ)」を語り継ぎ仰ぎます
ご紹介(Introduction)
【神社名】(shrine name)
大瀧神社・岡太神社(otaki shrine・okamoto shrine)
おおたきじんじゃ・おかもとじんじゃ
【通称名】(Common name)
【鎮座地】(location)
福井県越前市大滝町13-1
【地 図】(Google Map)
【延喜式神名帳】【engishiki jimmeicho】
(927年12月完成) The shrine record was completed in December 927 AD.
「old region name・shrine name」
越前國 今立郡 岡本神社
echizen no kuni imatachi gun wokamoto no kaminoyashiro
【御祭神】(God's name to pray)
【岡太神社】 岡太大神 = 川上御前(kawakami gozen)(紙祖の神)
【大瀧神社】 国常立尊 (kunitokotachi no mikoto)
伊弉那諾尊 (izanagi no mikoto)
伊弉那美尊 (izanami no mikoto)
【御神格】(God's great power)
・紙の神様 GODDESS OF PAPER
・安寧平安 Pray for the world to be peaceful and secure
・家内安全 Safe and comfortable home life
・等 etc
【格式】(Rules of dignity)
延喜式内社(engishikinaisha)
全国紙業界の総鎮守(God of paper industry nationwide)
【創建】(Beginning of history)
【岡太神社】 創建
第21代 雄略天皇(yuryaku tenno)の御代(457~479年頃)
紙漉の業を伝えた女神「川上御前(kawakami gozen)」(紙祖の神)を祀る
【大瀧神社】 創建
第33代 推古天皇(suiko tenno)の御代(593~628年)
大伴連 大瀧(otomo no muraji otaki)の勧請に始まると伝わる
【由緒】(history)
大瀧神社 おおたきじんじゃ
紙祖神 しそしん 岡太神社 おかもとじんじゃ御祭神
旧県社 大瀧神社
国常立尊 くにとこたちのみこと
伊弉諾尊 いざなぎのみこと式内社 紙祖神 岡太神社
川上御前 かわかみごぜん(岡太大神 おかもとのおおかみ)当神社は 神体山である権現山(三二六メートル)の山頂付近に建つ 奥の院(上宮)と里宮(下宮)とから成り立ち、奥の院には大滝神社と岡太神社の本殿が並び建っている。この山麓にある社はその両社の里宮である。
大滝神社の創建は、社伝によれば、推古天皇の御代(五九二~六三八)大伴連(おおとものむらじ)大滝の勧請に始まると伝えられている。
ついで、奈良朝に至って 元生天皇の養老三年(七一九)、越の大徳と称せられた泰澄大師が この地に来り、大徳山を開き、水分神(みまくりのかみ)であり紙祖神である 川上御前を守護神として祀り、国常立尊・伊弉諾尊の二柱を主祭神とし、十一面観音をその本地とする神佛習合の社を建て、大滝兒大権現(おおたきちごだいごんげん)、または小白山大明神(おしろやまたいみょうじん)と称し、その別当寺として大滝寺を建立し、社僧を置き神事を司らしめらことを伝えている。
岡太神社は、この村里に紙漉きの業を伝えたとされる 川上御前を祀り「延喜式神名帳」(九二六)にも記載されている古社で、往古より この神域に摂社として祀られた。この紙祖神としての川上御前に対する里人の信仰は篤く、神の教えに従い 古くから大滝神郷一円を中心に、優れた紙を漉いてきた。
中世には 大滝寺は平泉寺の末寺となり、四十八坊の堂塔伽藍が山頂、山麓に並び、社僧も六、七百人を擁して隆盛を極め、神領七十余町、日野川以東の村落四十八ヶ村を氏子とするにいたった。
南北朝時代には 足利の軍勢に抗し、その兵火により一時衰退するが、室町時代の中葉、国主朝倉氏の帰依篤く、再び社運は興隆した。
天正三年(一五七五)、織田信長の一向一揆攻略の際 再度兵火に会い、一山ことごとく灰燼に帰したが、その後に領主となった丹羽長秀の保護により漸く復興することになる。
江戸時代には、初代藩主 結城秀康を初め代々藩主の崇敬篤く、兵火のため焼失した社殿も再建された。その後、老朽化により天保十四年(一八四三)には江戸後期の社殿建築美の粋を尽くした現在の里宮の本殿、拝殿が再建された。
明治維新後、神佛分離令によって「大滝児大権現」は大滝神社と改称され、昭和三年には県社に列せられ今日に至っている。
なお、大正十二年七月には、大蔵省印刷局抄紙部に 摂社岡太神社の御分霊が奉祀され、紙祖神 川上御前は名実ともに全国紙業界の総鎮守として多くの人々の信仰を集めている。
昭和五十九年(一九八四)五月二十一日、現里宮の本殿・拝殿がその歴史・記録の確かさと建築の美しさを認められ、国の重要文化財として指定を受けた。
さらに、平成四年(一九九二)五月、神門・回廊・奉楽殿が造営され、ますます神威が高まり、調和された輪奐を遺存するものとなった。
祭礼
春例祭 五月 三日~ 五日
秋例祭 十月十一日~十三日
式年大祭(御開帳)三十三年目毎
御神忌 (中開帳)五十年 目毎文化財 重要文化財
本殿・拝殿 一棟 (天保十四年建立)
文化財(県・町指定)
奥の院 岡太神社本殿 (江戸初期再建・町指定)
奥の院 大滝神社本殿 (江戸中期再建・町指定)
神宮堂 木造虚空蔵菩薩坐像(平安時代・県指定)
観音堂 木造十一面観音坐像(平安時代・町指定)天然記念物(県指定)
「境内の案内板」から参照
大杉 (奥の院付近)根回り九・八メートル 高さ二十三メートル
ぜんまい桜( 同 )根回り四・五メートル 高さ十八メートル
ブナ社叢林( 同 )
【境内社】(Other deities within the precincts)
・八照神社(奥院)・巌乃神社(下宮)・護国霊社、氏子祖霊社
【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)
由 緒
大瀧神社は加賀の白山、福井の平泉寺に次ぐ修験場の霊場で 明治元年まで正一位小 白山大瀧六所権現児御前と称えられ、神領70余町、日野川以東の村落48ヶ村を氏子とする国内有数の大社であった。
その創始は社伝によると、推古天皇の御代(593)大伴連大瀧の勧請に始まると伝えられ
次いで鎮護国家法師で白山を開き越の大徳として知られた泰澄大師が 元正天皇の命を受け 国家安泰 疫病鎮護の為、養老3年(719)当地に来り 既に霊山と仰がれていた大峰山(大徳山)に登り17日の参籠、祈願をこめた後、
地主神として岡太川の上流に祀られていた紙祖神 岡太神社(式内論社)を御前立とし 国常立尊、伊弉諾命の二柱の神を主祭神として配し十一面観音を本地佛として、山上山下に社殿堂宇を建て、霊場を開き別当寺として、大徳山大瀧寺を建立社僧を置いて神事を掌らしめる 一方護符や写経用紙を確保する為 製紙の保護発展に努めるに及んで社運著しく隆興した。
特に鎌倉時代には 堂塔伽藍は立ち並び48坊を有するまでに至り社僧6・700を擁する一大勢力を有した(国内神名帳参照)。
その後 興国2年(1341)新田勢と共に足利の軍に抗し兵火に罹り 一時衰頽したが 室町時代の中葉、国主朝倉氏の帰依篤く、同一族の祈願所となるや再び興隆、宗教上においても軍事、経済上においても名実共に最大の勢力をもつに至った。
それにつれて当社の山城である大瀧城は 5つの出城も出来 難攻不落を誇ったと伝えられる。
かくて年中の神事も70余度、殊に3月の八講、9月の仁王講など春秋の大祭礼には上宮(奥ノ院本宮)より下宮(里宮)まで いつも神幸がなされ、競馬、流鏑馬、湯の花の神事など行われ、参拝者は遠近を問わず引きも切らない有様であった。
然し 織田信長一揆征伐の際、滝川一益によって大瀧城は落城したので 48坊と言われた社域の堂塔はことごとく焼き尽くされ 一時は全く衰退したものの、秀吉 徳川代々の保護もあり特に松平氏は大いに社殿を再興した。
内でも天保14年(1843)改築された本殿は 八棟造に隙き間もなく施された彫刻の精巧さ、又屋根の形態は 現在知られている神社社殿のなかでは 最も複雑な型をもっており 江戸末期の代表的建築である。
更に福井藩主秀康以来 歴代の奉賽は欠けることなく崇敬の実を示されている。
明治元年、社号を大瀧児(おおたきちご)神社と改め、同8年12月郷社に列せられ岡本村の總社氏神となり社号も大瀧神社と改称。
同22年には山上奥の院の末社の内天照大神、春日・八幡社を1社(春日神社)に統合合祀し、水分神を摂社岡太神社に 次いで明治41年山上(奥の院)の別山鎮座八坂神社(須佐能男命)を境内社に合祀八照宮と改称。
昭和3年11月13日本社大瀧神社の社歴を案じて県社に列せられた。
福井県神社庁HPより
昭和59年5月下宮本殿拝殿が重文に指定された その記念事業と、平成の御大典の記念をかね 下宮の本、拝殿屋根の葺替え及び神門、廻廊、奏楽殿の造営を行い平成3年7月完成同4年5月竣工祭を行う。
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
当神社は「奥の院(上宮)」と「里宮 (下宮)」から成り立ちます
岡太・大瀧の両社の「神体山は権現山(326m)」
「奥の院(上宮)」
山頂付近にあって 岡太・大瀧の両社の本殿が 別々に並び建ち 坐ます
「里 宮(下宮)」
山麓にあって 岡太・大瀧の両社が 同じ一つの社殿に 坐ます
匠の技に圧倒される「里宮 (下宮)」の本殿・拝殿について
それは「拝殿と本殿が一体化して 唐破風と千鳥破風のそれぞれの屋根が連続している複合社殿」で 全国でも類を見ない程の美しさです この場所を訪れた人は 思わず息を飲み その圧倒的な造形に心を奪われると思います
天保14年(1843)江戸時代後期に再建された建物で 最も複雑な屋根形態を持つ社殿建築とも言われ 昭和59 年(1984)国の重要文化財に指定されています
なんといっても その彫刻の精巧さ素晴らしさ 扁額にも施されています
約1300年以上続く 祭りは「奥の院(上宮)」と「里宮 (下宮)」を 今でも繋ぎます
大瀧神社・岡太神社(otaki shrine・okamoto shrine)の祭礼は
「山頂の神」と「紙を漉く里人」を繋ぐ 古いしきたりを今も受け継いでいます
お祭りでは「川上御前(kawakami gozen)」が
紙漉きを伝えた所作を 表現した「紙能楽」「紙神楽」といった舞が奉納されます
「お下り 」奥の院から里宮へ神様を神輿(mikoshi)でお迎えする儀式
「神輿渡り」里に下りられた神様が各集落を神輿(mikoshi)巡幸される儀式
「お上がり」夜に里から神様を神輿(mikoshi)で奥の院にお送りする儀式
春のお祭りは 「神と紙のお祭り」として由緒があり 全国の紙関係者が参列するなかで 古式ゆかしき祭が厳粛に執り行われます(県の無形民俗文化財)
春例祭(「神と紙の祭り」)お下り (奥院~下宮5月3日)
『法華八講』『湯立の神事』
「神輿渡り」
お上がり(下宮~奥院5月5日)等の神事
秋例祭 お下り (奥院~下宮10月11日)
お上がり(下宮~奥院10月13日)の神事
泰澄大師(taicho daishi)と「大徳山 大瀧寺」 について
泰澄大師(taicho daishi)(682-767)は 越前の生まれです
大宝2年(702年)に第42代文武天皇(mommu tenno)より 国家鎮護の法師に任ぜられます
養老元年(717年)に白山に登頂し 白山修験道を開く その後全国を回り 各地の山岳信仰と関わりを持ったとの伝承が残ります
養老3年(719)平泉寺白山神社を開いた泰澄大師(taicho daishi)は
この地を訪れ 神仏習合の社「大滝児大権現(otaki chigo daigongen)」を創建し 別当山大瀧寺を建立し 以下の神仏を祀ります
守護神は「川上御前(kawakami gozen)」(紙祖の神)
主祭神は「国常立尊(kunitokotachi no mikoto)」
「伊弉那諾尊(izanagi no mikoto)」
本 地は「十一面観世音菩薩(juichimen kanzenon bosatsu)」
神仏習合の名残が 未だに強くある 大瀧神社(otaki shrine)
大瀧神社(otaki shrine)は 現在でも神仏習合の名残が強く 神事が行われる一方 仏式の行事が行われます
泰澄大師(taicho daishi)が 神仏習合の大徳山大瀧寺を建てたのは 養老3年(719)です 平成30年(2018)には 開山以来1300年の「御神忌(goshinki)」が「千三百年大祭」としてありました
「法華八講(hokke hakko)」などの行事が神仏習合の式定のまま厳修されていて
33年毎の式年大祭「御開帳」(okai cho)
50年毎の御神忌 「中開帳」(nakagai cho)が行われています
「木造 虚空蔵菩薩像(kokuzo bosatsu zo)」や「木造 十一面観音坐像(juichimen kannon zazo)」など仏像も所持して 神仏習合が今でもそのまま残ります
「木造 十一面観音坐像(juichimen kannon zazo)」案内板によりますと
有形文化財 木造十一面観音座像 1躯
大滝神社(大滝区) 像高90cm
昭和61年8月12日 町文化財指定大滝神社文書「大滝権現開帳記録」や「大滝権現明細帳」等に記されている奥の院十一面観音、末社龍児権現本地にあたる観音像であろうか。
現在は観音堂(絵馬堂)に安置されているが、像容は左手臂を屈し、掌には蓮華を持し、右手は膝上で掌を延ばし、頭部には最上部三面、下部七面の仏頭が飾冠されている。
その胸や両腕は厚手にして豊満に仕上げられ、衣文等も単調であるのは、補修や彫り直しのためであろうとも考えられるが、尊顔などは往時のままであり、全体として平安時代前期の尊容を今にとどめている。
越前市教育委員会
案内板
延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)の所載について
越前國 今立郡 岡本神社
echizen no kuni imatachi gun wokamoto no kaminoyashiro
現在 「今立郡 岡本神社」には 論社が 計3社あります
(論社)大瀧神社・岡太神社(奥ノ院本宮)
大瀧神社・岡太神社(里宮) 福井県越前市大滝町 (当社)
(論社)岡太神社 福井県越前市粟田部町
(論社)神明社 福井県鯖江市水落町4丁目
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/160画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 : 校訂. 上巻(昭和4至7)
【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
福井県越前市に鎮座
JR武生駅から 東へ9km程 福鉄バス南越線「和紙の里」乗車25分下車徒歩約10分
車ですと 北陸自動車道 武生ICから 東へ県道262号経由で 6km程度です
道路に大きな赤い「両部鳥居(四脚鳥居)」が現れてきます これも密教の金胎両部(金剛・胎蔵)を意味しますので 神仏習合を示す名残の鳥居になります
側に社号標「岡太神社 大瀧神社」が見えますので 間違いはないと確認ができます
道路をそのまま進みますと 境内入口正面に「二の鳥居」が見えますが 駐車スペースは 更にそのまま80mほど進むと右手にあります
車を降りると 川上御前(kawakami gozen)の案内書きがあり 一読みしてから 先程の境内入り口の鳥居まで 歩いて戻ります
「大瀧神社・岡太神社(otaki shrine・okamoto shrine)」に到着
巨木2本の内側に 5~6段の階段があり 正面に「朱色の二の鳥居」があります
扁額には「岡太神社 大瀧神社」とあり 里宮は合祭殿であることが判ります
境内は 古木が立ち並んで ご神域を囲っている構えとなっています
「二の鳥居」前で 一礼の後 くぐります
由緒書き案内板があり ひとしきり読み耽ります
境内は 平らで広く 清掃も行き届いていて 清々しいです
二の鳥居をくぐって 境内に入って すぐ左に石畳が伸びていて 観音堂があります ここには「木造 十一面観音坐像(juichimen kannon zazo)」が坐す
石畳の参道は 左手に山を擁して 山に向かって斜め真っ直ぐに伸びます 杉の巨木が立ち並ぶ中を左に曲がると 一段高くなっている回廊に囲まれて社殿があります
石段沿いには 灯籠が2列に並んでいて 確かにお寺のようでもある
回廊への階段を上り 神門まで来ると 門の先にある社殿(本殿・拝殿)が見えてきます
神門をくぐり 正面の 匠の技に圧倒される「里宮(下宮)」の見事な拝殿・本殿が建っています
回廊から 拝殿に進み 賽銭をおさめ お祈りです
【岡太神社】 岡太大神 = 川上御前(kawakami gozen)(紙祖の神)
【大瀧神社】 国常立尊 (kunitokotachi no mikoto)
伊弉那諾尊 (izanagi no mikoto)
伊弉那美尊 (izanami no mikoto)
日頃 紙を使わせて頂いている事への感謝 ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
差し込む朝陽に心も踊るような感じです
拝殿・本殿の左には 燈籠が建つ苔むした岩 神籬石(himorogi ishi)があり 柵もありませんが 迂闊に本殿横には近づけないような ご神威を感じました
なんの神籬石(himorogi ishi)なのでしょうか? とても気になります
社殿左手が 一段高くなり境内社もあります 社殿に見とれて忘れそうでしたが お詣りです
回廊には 消化ポンプ(旧式の木製ポンプ)か?? に「大瀧」と刻まれ 和む
回廊から神門を出て 階段を降り 参道を戻り 正面の二の鳥居をくぐり 振り返り一礼 とても神々しい境内と社殿だと感謝
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
「川上御前(kawakami gozen)」(紙祖の神)の伝承について
岡太神社(okamoto shrine)の始まりとされる この伝承は「第26代継体天皇(keitai tenno)」がまだ越前国で「男大迹皇子(wohodo no miko)」と呼ばれていたころ頃 今から1500年程前と伝えます
川上御前(かわかみごぜん)のいわれ
今から1500年ほど前、岡太(おかもと)川上流の宮ヶ谷というところに、ある日美しい女性が現れて「この地は田畑が少ないから生活に困っているであろう。
しかし、この村には清らかな水が流れ、豊かな緑の木々に恵まれているから、これからは紙を漉(す)いて生活をたてるがよい」と告げられ、自ら衣を脱いで傍(かたわ)らの木に掛け、丁寧に紙の漉き方を村人に授けられました。
村人は「お名前は」と尋ねると「岡太川の上流に住む者」とだけ答えて姿を消されました。
村人は感激して、それ以来、紙漉きを生業(なりわい)として続けてきました。これが今も岡本五箇(大滝・岩本・不老(おいず)・新在家・定友)に語り継がれる伝承で、越前和紙の起源とされています。
のちに村人は、この女性を「川上御前」と呼び、紙祖神(しそじん)として岡太神社にお祀(まつ)りするようになり、今では広く全国の紙業者から崇敬(すうけい)されています。
なお、この土地では正月に行う 紙の漉き始めには、往時をしのんで紙漉き場の竿(さお)に脱いだ上衣を掛ける習わしがあり、五月の春季例祭には、五箇のまつりとして、川上御前の祭りが行われます。
案内看板
「紙の神様」への信仰 と「越前和紙(echizen washi)」について
ここ岡本五箇は「越前和紙(echizen washi)」の発祥の地です 「紙の神様」を祀り「紙漉きの紙祖神(shisojin)」として「川上御前(kawakami gozen)」の伝承があります
史実としても 正倉院に730年に「越前和紙に書かれた資料」が収められていて 遅くとも奈良時代には「紙漉きの紙祖神(shisojin)」は存在していました
律令制度の始まりとともに 公文書などへの記録には 大量の紙を必要としたようですし 仏教の普及によって 写経用紙などの需要が急増したとも伝わります
「越前和紙(echizen washi)」は質が高く需要はあり 必需品として重宝され 全国へ送られたとのことです
こうした「越前和紙(echizen washi)」の産業は 大瀧寺からの保護を受けて「紙座(kami za)」という同業者組合を結成して発展していくことになります
「紙の神様」「川上御前(kawakami gozen)」のお告げ通りに「紙の需要は増え」
里人は 幸せに豊かに暮らした経緯の中で「信仰」はさらに深まっていったとされています
明治に入ってからは 政府発行の紙幣に採用され
大正12年(1923年)には 大蔵省 印刷局抄紙部(insatsukyoku shoshibu)に分霊が祀られるに至って 全国紙業界の総鎮守となりました
「紙の神様」への信仰は 今も続きます
「川上御前」パンプレット画像から
「大瀧神社・岡太神社(otaki shrine・okamoto shrine)」どちらの神社にも深く関わる「川上御前(kawakami gozen)」は
“越前和紙”「紙漉きの紙祖神(shisojin)」として崇められ やがて日本の「日本の紙業界の総鎮守」となります
かつて 戦乱のうねりの中でも 何度も消滅の危機にあわれた「紙祖の神」は世の中に役立つ「紙の製法」を里人に伝え 今の時代へと繋いできました
里人は いくつ時代を超えても 感謝を忘れることなく 今もなお語り継ぎ仰ぎます“紙漉きの御魂”と呼ぶに相応しき「大瀧神社・岡太神社(otaki shrine・okamoto shrine)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
越前国 式内社 126座(大8座・小118座)について に戻る
越前国(えちぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越前国には 126座(大8座・小118座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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