小山田神社(おやまだじんしゃ)は 養老4年(720)小山田に鎮座していた八幡大神が 隼人征伐の神託を下し 御進発した時の 宇佐神宮の前宮とされています 現在の社殿が建つ鎮座地は 明治6年 神社合祀施策によって 貴布祢神社の境内西にあった小山田神社を 貴布祢神社の境内に遷座し 合祀し 社名を小山田神社として祀られています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
小山田神社(Oyamada Shrine)
(おやまだじんしゃ)
【鎮座地 (location) 】
大分県宇佐市大字北宇佐2389-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》八幡大神(hachiman okami)
《配》高龗神(takaokami no kami)
闇龗神(kuraokami no kami)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・宇佐神宮の前宮
・宇佐神宮行幸会 境外8摂社
【創 建 (Beginning of history)】
小山田神社
当社は 神社境内南にある霊池を祟める貴布祢神社であったが、明治の神社合祀施策によって神社境内西にあった小山田神社を合祀し社名を小山田神社としている。
養老4年(720)、隼人が律令施策に反乱した際に朝廷が戦勝祈願のため勅使を遣わせた宮であり、奈良時代にはここ一帯の小山に八幡大神が鎮座されていた。
宇佐神宮最大の特殊神事「行幸会」で立ち寄る重要な宮で、宇佐神宮ゆかりの社である八箇社の内の一社となっている。
神社は、本殿、申殿、拝殿の三つの建物からなっていたが、昭和の台風によって申殿が倒壊した。
明治以前の小山田神社には、宇佐神宮大宮司の菩提寺である大楽寺の末寺の向蔵坊が立ち、元々の小山田神社の場所ということで、向蔵坊の境内に鳥居だけがのこされている。
境内案内板より
【由 緒 (history)】
元正天皇の霊亀2年、御託宣あり、「鷹居瀬社の位置は路頭で往還の人が無礼であるから小山田の林に移りたい」と。
よって 大神朝臣諸男 辛島勝波豆米 等が小山田の林に神殿を造営して八幡大神を奉斎した。
養老4年、大隅日向の隼人を御征伐の時は、この社より発進還幸された。
明治6年、小向野村中の貴船神社を合祀した。
宇佐神宮行幸八ケ社の一であり、明治11年2月、宇佐神宮摂社に列せられた。「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から
【境内社 (Other deities within the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
「宇佐 行幸会(gyokoe)」について
行幸会
全国八幡社の総本宮「宇佐神宮」で行われていた最大の神事で、この祭りは6年に一度のサイクルで行われていました。
祭りは宇佐神宮におまつりされる八幡大神、比売大神、神功皇后の霊験を高く維持することが目的であり、これら三つの神々のご神体を入れ替える行事を指します。
現在の中津市にある薦神社で真薦という植物を刈り取り、この薦に神が降臨されるよう枕の形にして、新しい依り代を、八幡大神ゆかりの地域をお守りされる宮に「このご神体を宇佐神宮のものとして使ってよいか?」と許しをいただく祭りを行います。この宮は宇佐神宮周辺に八社あることから「八箇社」といいます。
許しをいただいた後、宇佐神宮のご神体は新しいものと入れ替えられ、それまで神が降臨されていた薦の枕は杵築市の八幡奈多宮に送られます。
更に奈多宮で使われていた薦の枕も入れ替えられ、古い枕はそのまま神社の前の海に流された、あるいは四国の八幡社に送られたと伝えられています。
この祭りは千人以上の人々によって七月上旬から十一月下旬までの期間で行われる壮大なものでありましたが、祭りを継続する費用の捻出が困難になり、八世紀から始まった祭りは、元和二年(1616)に細川忠興が再行したのを最後に、現在では行われていません。
大分県文化遺産活用推進実行委員会
境内案内板より
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」について
行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています
「行幸会(gyokoe)」の行幸順は 次のように伝わります
宇佐八幡→①田笛社→②鷹居社→③郡瀬社→④泉社→⑤乙咩社→⑥大根川社→(薦神社)→⑦妻垣社→⑧小山田社→宇佐八幡
かつては 宇佐八幡の境外8摂社とされていました
詳しくは「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」について の記事をご覧ください
行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています
「宇佐八幡(Usahachiman) 行幸会(gyokoe)」について
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
宇佐神宮から R10号 県道661号経由 2..7km 車7分程度
宇佐神宮の南門から西に向かう道路で 境内裏門に直結しています
案内板が立ててあります
小山田神社(oyamada shrine)に到着
境内に裏から入る感じです
表参道からの鳥居が建ちますので そちらから入り直します
下から 長い石段がこちらに延びています
一礼して鳥居をくぐり抜けます
扁額には 江戸時代から明治6年 神社合祀施策までは 貴布祢神社の境内地であったので「貴布祢」とあります
石灯篭の横に手水があり 清めます
正面には 拝殿 拝殿の後方には 木造の社殿が三棟と石造の小祠が二棟あります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
もともとは 本殿 申殿 拝殿の三つの建物からなっていたが 昭和の台風によって申殿が倒壊したらしく 中央は 礎石だけが残ります
境内を後にして 振り返り一礼します
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『八幡宇佐宮御託宣集(hachiman usanomiya gotakusenshu)』に記される「小山田社への遷宮」の伝承
霊亀2年(716年)宇佐の大河であった駅館川(yakkan gawa)を渡る交通の要所の浅瀬があり この両岸に鎮座する鷹居瀬社(takaise no yashiro)【鷹居神社・郡瀬神社】に八幡大神が座ました
この時 八幡大神の神託があります
「大神朝臣諸男(oga no ason moroo)」「辛嶋勝波豆米(karashima no suguri hazume)」が 新たに小山田の森に神殿を造営します
霊亀2年(716)八幡大神は「鷹居瀬社」から「小山田社」(小山田神社 )に遷宮されます 宇佐神宮の前宮となります
原文
元明天皇二年。靈龜二年丙辰。
此所波路頭仁志弖往還乃人無禮奈利。訦牟禮波此等甚慰志。小山田乃林仁移住世牟登願給布者。「意訳」
「 元正天皇2年 霊亀2年(716年)
八幡大神(鷹居瀬社に鎮座)は このところは路頭にあって 往還(ゆきかえり)の人はあるが 敬う人がいない これを咎めれば 甚だ慰(めぐ)しいことである
小山田の林に移住(うつりすみ)せむと願給(ねがひたま)う」
『八幡宇佐宮御託宣集(hachiman usanomiya gotakusenshu)』に記される「大隅國と日向國での隼人反乱」についての伝承
養老3年(719)隼人の乱(大隅國(現:鹿児島県東部)と日向國(宮崎県)で隼人(はやと)の襲来)時
八幡大神は『我れ行きて降伏すべし』と隼人征伐の神託を下しました 御進発は この「小山田社」とされています
【原文】
元正天皇五年。養老三年癸未。大隅。日向兩國隼人等襲來。擬打傾日本國之間。同四年甲申。公家被祈申當宮之時。神託。
我禮行而可志降伏者。「意訳」
「 元正天皇5年 養老3年(719年)
・大隅(おほすみ(鹿児島県)・日向(ひむか(宮崎県)の2つの国で 隼人等(はやとら)が 襲(おそ)ひ來(きた)り 日本国の打ち傾(かたぶ)けむと擬(おも)ふ間に
養老4年(720年)公家(くげ)が この宮を祈り申し 被(こうむ)る時に八幡大神が神託されました 『我れ行きて降伏すべし』 」
『八幡宇佐宮御託宣集(hachiman usanomiya gotakusenshu)』に記される「大隅國と日向國での隼人反乱」についての伝承
隼人征伐から還戻られた八幡大神は 養老7年(723年)神託をされ 現在の宇佐神宮の社地「菱形山の小倉山(亀山)」に遷宮されます
【原文】
此事之後 託宣 養老七年
我禮今坐須留小山田社波 其地狹隘志 我禮移良牟土菱形山願給布「意訳」
「 その後 養老7年(723年)八幡大神は 神託をされます
我れ今 坐(いま)する小山田社(おやまだのやしろ)は 土地が狹隘(せま)し 我れ 菱形山(ひしがたやま)に移(うつ)らむと 願給(ねがいたま)ふ 」
隼人征伐の神託を下し 宇佐神宮の前宮とされています
小山田神社(oyamada shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
宇佐神宮の記事をご覧ください
宇佐神宮(うさじんぐう)は 全国4万社余りの八幡社の総本宮です 豊前国一之宮でもあります 神亀2年(725)創建以来 皇室から「伊勢神宮」につぐ「第二の宗廟(sobyo)」としての崇敬を受けています 信仰の地となってから約1300年 境内に足を踏み入れれば 日本の息吹が伝わります
宇佐神宮(宇佐市南宇佐)
「宇佐八幡(Usahachiman) 行幸会(gyokoe)」について に戻る
行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています
「宇佐八幡(Usahachiman) 行幸会(gyokoe)」について