〈大和神社御旅所〉御旅所坐神社(おたびしょにますじんじゃ)〈大和稚宮神社〉&歯定神社(はじょうじんじゃ)は 第10代 崇神天皇が 地主神・倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の斎女として勅した 皇女 ゛淳名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)の御墓゛と伝える前方後円墳゛大塚山゛の南麗にある大和神社の御旅所に鎮座します
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
〈大和神社御旅所〉
・御旅所坐神社(Otabishonimasu shrine)
・齒定神社(Hajo shrine)
【通称名(Common name)】
・大和稚宮神社(やまとわかみやじんじゃ)〈御旅所坐神社〉
・歯定大権現(はじょうだいごんげん)〈齒定神社〉
【鎮座地 (Location) 】
奈良県天理市中山町493
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
・御旅所坐神社
《主》日本大国魂大神(やまとおほくにたまのおほかみ)
八千戈大神(やちほこのおほかみ)
御年大神(みとしのおほかみ)
・齒定神社
《主》大己貴神(おほなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・“歯の神”〈齒定神社〉
【格 式 (Rules of dignity) 】
・御旅所坐神社〈大和神社の境外摂社〉
・齒定神社〈大和神社の境外社〉
【創 建 (Beginning of history)】
大和稚宮神社 (中山町御旅所)
大和神社の境外末社で、本社と同じく大国魂大神、八千戈大神・御年大神を祀る。一説に大国魂神の御母、伊恕媛命が祭神で、例祭日には本社から母神の当社へ渡御するのだと説く。四月一日の大和神社のちやんちゃん祭には数百メー卜ルもの列をつくって神輿が渡御するが、当社をお旅所として長岳寺の僧も参列、「竜の舞・翁の舞」を奉納する。
社殿は、明治初年まで、大塚山の小高地にあり、その南麓である現社地に観音堂と庫裡があったが、神仏分離で廃されその跡に社殿がうつされた。大塚山は前方後円墳で、大和神社の斎女淳名城入姫命の御墓と伝える。
例祭は十月十八日。境内社の歯定神社は歯の神で、歯定権現とも呼び、一月十五日の小正月に祭典がとり行われ、付近の人々は早朝、小豆粥をビワの葉に盛って社頭に供える。『奈良県史』第5巻 神社〈奈良県史編集委員会編集〉平成元年(1989)発行より抜粋
【由 緒 (History)】
○御旅所坐神社
大和の春は「ちゃんちゃん祭」とともにやってくるといわれます
大和神社例祭(ちゃんちゃん祭)渡御は、氏子の頭屋・雅児を先頭に夫々の町内人供奉し行列順に各執物を捧持し、ちゃんちゃん鐘を合図に成願寺・岸田を経てこの大塚山の御旅所まで約2kmを往復渡御する。この御旅所では翁舞・龍の口舞の田楽舞が奉納される。
○中山町(歯定神社)
拝殿前に、石が3個据えられている。人の前歯や犬歯、臼歯を連想させる形の石である。
医療の神、少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀ることから“歯の神”と言われている。また、古くは、“葉状神社”と呼ばれ、農業・特に葉物野菜の種蒔きに際して、当社に豊作を祈願したともいう説もある。
大和神社HPより
http://ooyamatohp.net/maps1.html#%E5%A2%83%E5%86%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE3
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・御旅所坐神社は 大和神社の境外摂社
・大和神社(天理市新泉町)
大和神社(おほやまとじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)です 創建は 第十代崇神天皇の御代 宮中内に天皇と同殿共床で奉斎の二大神(天照大神・大地主大神)の神威を畏れた爲 大地主大神を皇女 淳名城入姫命に勅し 市磯邑に移されたのが始りと伝わります
大和神社(天理市新泉町)〈大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
大和神社の斎女゛淳名城入姫命の御墓゛と伝える前方後円墳゛大塚山゛
第10代 崇神天皇は 御祭神の御神威を畏み給い崇神天皇六年(紀元前後頃)地主神・倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を市磯邑〈大和神社〉に御遷座され 皇女 渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に勅して 斎主として祀らしめ給いました
大和神社の御旅所である この地にある前方後円墳゛大塚山゛は 大和神社の斎女゛淳名城入姫命の御墓゛と伝えられます
中山大塚古墳
(築造時期 古墳時代初頭)
中山大塚古墳は、萱生町と中山町の一帯に展開する大和(おおやまと)古墳群の南側に位置する前方後円墳です。標高約90メートルの尾根上に前方部を南西に向けて築かれており、前方部付近には大和神社のお旅所がおかれたために削平を受けています。古墳の規模は、全長130メートル、後円部径67メートル、後円部の高さ15メートルを測ります。
1985年以降、1994年までの学術調査の結果、墳丘表面が葺石で覆われ、後円部に2段、前方部に1段の段築による築成であることが知られています。
また、外部施設として西側くびれ部に作られた三角形の張り出し部と後円部北側の張り出し部があり、いずれも古墳への通路的な施設と考えられています。
埋葬施設は、後円部墳頂の中央に墳丘主軸に沿って築かれた竪穴式石室が見つかっており、長さ7.5メートル、天井までの高さ約2メートルの規模をもちます。なお、石室の南北両小口は隅に丸みをもつように石材が積まれています。石室の石材は大阪府羽曳野市と太子町の間に位置する春日山で採取された輝石安山岩が使用されています。
出土遺物では、銅鏡片2点、鉄器36点などが石室内より見つかりましたが盗掘が石室内全体におよんでいたため細片化したものがほとんどでした。銅鏡は二仙四禽鏡で、鉄器には鉄槍、鉄鏃などがあります。
ほかに、墳頂部からは土器のほか、特殊壺形埴輪、二重口縁壺系の埴輪、特殊円筒埴輪、特殊器台形土器、特殊壺形土器などが出土しており、埋葬主体部を囲うように樹立していたものと考えられています。
これまでの発掘調査の成果から、当古墳の墳丘は戦国時代の山城として再利用されていたために若干改変され、現状の墳丘形状が築造当初のものでないこともわかっています。しかしながら、石室や墳丘構造、あるいは埴輪などに認められるそれぞれの初源的な要素から、当古墳が前方後円墳の築かれ始めたころの古墳であると判断されています。
1999年8月 天理市教育委員会(2014年3月改訂)
現地案内板より
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
大和神社の例祭゛ちゃんちゃん祭り゛〈4月1日〉について
日時 毎年4月1日
場所 大和神社~御旅所・大和稚宮神社
大和国で最も早く行われる春祭りで「祭り初めはちゃんちゃん祭り 祭り納めはおん祭り」と並び称される大和神社のちゃんちゃん祭りは 神社の9つの郷(成願寺、兵庫、長柄、新泉、岸田、佐保庄、三昧田、萱生、中山)の氏子が頭屋制度で祭りを支えています
大祭当日は 午前中 神事の後 お渡りが始まります 猿田彦神と鉦鼓を先頭に200名ほどの大行列は 長さか数百メートル
神社を出ると各集落を抜け 上街道を南下し 山の辺の道にある中山の大和稚宮神社へ向かいます
到着後は 神事と休息があり
夕刻になると 再び 元の道をたどって還御する
御旅所の稚宮神社の祭神は 日本大国魂大神〈大和神社の祭神〉の母神を祀ると伝えられ ゛ちゃんちゃん祭り゛は 母神様のもとへ帰るものと云い それゆえ 御旅所へ向かうときは母に会いたい一心から早く歩き 帰りは名残を惜しみゆっくりと歩くという言い習わしがある
畏(おそ)れし神の勢い 大和の地主神・日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)
ちゃんちゃん祭り 御渡りは母神のもとへ
これより先、天の神・天照大神(あまてらすおおみかみ)と地主神・倭大国魂(やまとおおくにたま)を皇居の内に祀った。しかし、天皇は二神の神威の強さを畏れ、共に住むには不安があった。
そこで天照大神は豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して大和の笠縫邑に祀り堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造った。また、日本大国魂神を渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に祀らせた。・・・・
いま、天照大神は伊勢神宮内に、日本大国魂神は大和(おおやまと)神社に鎮座される。四月一日は、大和神社よりここ御旅所(大和稚宮(おおやまとわかみや)神社)まで神輿渡御が行われます。
「祭り始めは、ちゃんちゃん祭り、祭り納めはおん祭り」大和の里謡(りよう)に歌われる大和の代表的な祭りです。
「チャンチャン」と鉦鼓(しょうこ)の音が大和に春を告げます。現地案内板より
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
大和神社(天理市新泉町)から 東南方向へ約1.2km 徒歩20分程度
・大和神社(天理市新泉町)
大和神社(おほやまとじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)です 創建は 第十代崇神天皇の御代 宮中内に天皇と同殿共床で奉斎の二大神(天照大神・大地主大神)の神威を畏れた爲 大地主大神を皇女 淳名城入姫命に勅し 市磯邑に移されたのが始りと伝わります
大和神社(天理市新泉町)〈大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)〉
中山大塚古墳の西脇側から南の麓の御旅所に向かいます
突き当りに見えているのは゛中山観音寺゛〈明治初年 神仏分離〉
大和神社御旅所に参着
歯定神社の拝殿前に 人の前歯や犬歯、臼歯を連想させる形の石が3個据えられている
御旅所坐神社〈大和稚宮神社〉&齒定神社(天理市中山町)に参着
齒定神社 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 瑞垣に囲まれて 本殿が祀られています
齒定神社の隣には 御旅所坐神社〈大和稚宮神社〉が祀られています
御旅所坐神社〈大和稚宮神社〉 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
大和神社について(川畑 信雄)
大和神社が現在の地に移されるまで
その4
現在の御旅所である大和若宮神社(中山町の大塚山古墳前方部)とする説。大市長岡岬から神山(天理市岸田町小字神山?)に移り、永久6年(1118年)の大火災後現在の地に社殿が造営されたという説。
「山辺郡誌」の引く伝承によれば、もと中山町の高槻山に鎮座していたが、奉幣使の便宜をはかって現在の地に移り、永久6年の火災後一時、旧地に戻った。その他、天正11年(1583年)の兵火で焼失した後一時歯定神社に移ったとする説もあるとのことです。私は、大和神社創建時は、1か3の説に従いたい。つまり「大市」は「城上郡大市郷」のこととし、三輪山から穴師かけての岬に鎮座しておられた。そして、釜口長岳寺(天理市上長岡町。古代地名;城上郡下野郷か)が神宮寺として建立された天長元年(824年)の頃には中山町に、その後、現在の地に遷られたと考えています。
大和神社HPより
http://ooyamatohp.net/yurai.html
〈大和神社御旅所〉御旅所坐神社〈大和稚宮神社〉&齒定神社(天理市中山町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
・大和神社(天理市新泉町)
大和神社(おほやまとじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)です 創建は 第十代崇神天皇の御代 宮中内に天皇と同殿共床で奉斎の二大神(天照大神・大地主大神)の神威を畏れた爲 大地主大神を皇女 淳名城入姫命に勅し 市磯邑に移されたのが始りと伝わります
大和神社(天理市新泉町)〈大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)〉
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)