実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

忍男神社・瞻男神社(香取市津宮)

忍男神社おしじんじゃ)・瞻男神社(まもりをじんじゃ) 香取神宮の摂社で 東の宮・西の宮とも呼ばれます 鎮座地の地名 津宮は 港の宮の意で これは往昔 香取海から香取神宮への参道口にあたる津〈港〉〈現在は根本川〉に浜手守護の神として 両宮が東西両岸に鎮座したからです

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

・忍男神社(Oshiwo shrine)

瞻男神社(Mamoriwo shrine)

 [通称名(Common name)]

東の宮(ひがしのみや)〈忍男神社
西の宮(にしのみや)〈瞻男神社
浜手守護(はまてしゅご)の神忍男神社〉〈瞻男神社

【鎮座地 (Location) 

忍男神社千葉県香取市津宮560

瞻男神社千葉県香取市津宮345

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

忍男神社《主》伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

瞻男神社《主》大己貴命(おほなむちのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

〈両宮ともに〉香取神宮の摂社

【創  (Beginning of history)】

忍男神社・瞻男神社の両社の勧請年月は 貞観元年(859年)

『香取郡誌』〈明治33年8月(1900)〉より

東の宮 ひがしのみや(忍男 おしお 神社)

香取神宮 表参道(おもてさんどう)沿いの津宮 (あざ)東宮に鎮座し、香取神宮の摂社(せっしゃ)で伊弉諾命(いざなぎのみこと)を祭る。創建(そうけん)は古く不詳(ふしょう)あるが、現在の社殿(しゃでん)は慶長(けいちょう)12年(1607年)に徳川幕府により造営(ぞうえい)されたものである。西の宮とともに浜手守護(はまてしゅご)の神といわれてい

津宮まちづくり協議会

現地案内板より

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西の宮 にしのみや(瞻男 まもりお 神社)

東の宮(ひがしのみや)の西方、根本川を挟(はさ)む津宮 字(あざ)西宮に鎮座し、香取神宮の摂社(せっしゃ)大己貴命(おおなむちのみこと)を祭るのが西の宮である。東の宮と同時に造営(ぞうえい)された。東西両宮とも浜手守護(はまてしゅご)の神といわれてい

津宮まちづくり協議会

現地案内板より

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【由  (History)】

◆忍男(おしお)神社(東ノ宮)

年代:慶長12年(1607)
規模・特徴:流造、銅板葺、2坪。

◆瞻男(まもりお)神社(西ノ宮)

年代:慶長12年(1607)
規模・特徴:流造、銅板葺、2坪。

忍男神社(祭神は伊弉諾 いざなぎのみこと)・謄男神社(祭神は大己貴命 おおなむちのみこと)の両社は

香取神宮の摂社で、浜手守護の神と言われる。香取神宮の表参道入口である津宮の地で、北面して一対となり鎮座している。

 慶長12年(1607)に徳川幕府により造営され、元禄13年(1700)の香取神宮社殿造営と同時に両社の修理が行われた。その後、幾度かの修理を経て、昭和56年(1981)に地元区民により両社の大修理が行われた。

 東西の両社の境内には、それぞれ1基ずつ、文政11年(1828)銘の石灯寵が奉納されている。いずれも、竿石(さおいし)に「御神燈」「文政十一年戊子三月吉日」との刻銘があり、一対となって両社に奉納されたものである。

 忍男神社では、かつては香取神宮の白状祭がここで執り行われていた。摂社の側高神社の神が、香取の神に命じられて、奥州から馬を連れ帰ってこの地に放した、との故事に因んだものであった。

香取市役所HP「香取神宮信仰と式年神幸祭に見る歴史的風致」より抜粋

【境内社 (Other deities within the precincts)】

忍男神社石祠と石碑

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

忍男神社・瞻男神社(香取市津宮)は 香取神宮の境外摂社です

・香取神宮(香取市)下総国一之宮

一緒に読む
香取神宮(香取市)下總國一之宮

香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

忍男神社・瞻男神社の両社の勧請年月は 貞観元年(859年)

『香取郡誌〈明治33年8月(1900)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

巻之二 神社誌

瞻男神社
津宮村字西宮に在り域内六拾坪 大已貴命を祀る 社伝に曰く 貞観元年()の勧請に係ると往古より 香取神宮の摂社にして一に濱手守の神と称す津宮の村名は乃ち本社に起因す

忍男神社
同村字東宮に在り域内百六拾坪 伊弉諾尊を祀る 其社伝は瞻男神社と同一なり

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『香取郡誌』著者 山田角次郎 著 出版者 山田角次郎 https://dl.ndl.go.jp/pid/763713

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

香取神宮の白状祭が行われていた 忍男神社おしじんじゃ

明治時代頃までは 香取神宮の白状祭が 忍男神社で執り行われていました
この白状祭は 香取神宮摂社の側高神社の神が 香取の神に命じられ 奥州から馬を連れ帰り この地に放した故事に因ちなんだものです

『香取郡誌〈明治33年8月(1900)〉』に記される伝承

側高神社に残る伝承として  側高神が香取神の命によって 陸奥の馬2,000疋を捕らえ帰り 霞ヶ浦の浮島まで達した所 敵神〈陸奥国のが馬取返しに追って来た そこで側高神は 霞ヶ浦に水を満たし敵神を防ぎ 下総の牧野に渡らせた 本州の各地の諸野に放った 各地に牧場があるのはこれが始まりである 敵神は 満潮渡れない為 この地に残った 側高神社の対岸にある追手明神(おってみょうじん)今 追島明神なるものは敵神を祀っているものとの伝承を記しています

白状祭について「其事を白状に書し祭詞と為すに由る」としています
この白状祭は 明治時代頃までは 津宮の忍男神社の神事として祭行されていたと伝わります

【抜粋意訳】

巻之二 神社誌

側高(ソバタカ)神社

大倉村字側高に在り縣道に沿ひし山頂に鎮座す域内五百四坪 往古或は脇鷹神社と称す 香取志 天日鷲命を祀る祭日一月十日社傅に曰く神武天皇 紀元十

八年戌寅の創建なりと
本社の祭神は往時神秘として其神名を知るものなく 或は曰く伊弉諾尊 天照大神 神功皇后を祀る 又曰く髙皇産霊尊を祀ると 香取志 後定めて今の祭神とす

香取御宮の摂社となり神宮と共に武家の改造を同ふし 慶長元禄両度 徳川氏の造営あり 明治の初郷社に列す 利根の古式に白状祭及び撫鬚祭と称するあり 社地は森然たる高丘にして北に利根の碧流れを瞰し秀霊の氣凛として人に迫るを覚ゆ 社麓に御手洗池及び社司石田氏裔蔵碑あり

 傅へ曰ふ 側高神(そばたかのかみ) 香取大神の命を奉じ睦奥に至り 荒野を巡り 牝牡馬二千疋を捉へ得て帰り 常陸國霞浦浮島に達す 彼国の神之れを追跡し至る 側高神急に水を濟(わた)り本郡の地に達す 其地を馬渡と称す 敵神亦濟らむとす側高神 満珠を出す潮水忽ち満ち渡るを得ず 其地を玉落と称す 尋て川を濟り岩崎に至り 其地を乗越洲い云 馬を香取の境 牧野の牧に繋き遂に之を本州の諸野に放つ 故に牧場の本州に多きは此時に初まる
敵神 遂に國に還るを得ずして此地に止まる 側高神社と相對するころの追手明神 今追島明神なるものは其神を祀れるものにして 今馬渡乗越洲 今新川と称す 牧野釜塚隠井玉落笠塚等の地名は之に基因すと
白状祭は 其事を白状に書し祭詞と為すに由る 祭は十一月七日なり 説必ずしも確信すべからざるも記して參證となす

 清宮秀堅曰く 此神は香取神宮に深き所以の神なるべきか香取の祠員大祭事に興れば一百日間此社を拝するを故實とす 朔望の参拝も怠るとなし白状祭は江家次第に見うる春日のことと同じさまなり 馬を陸奥より率き来るよしなれば 此神当時馬政を講せられしとありしを訛まり傳へしなるべし 常陸國行方郡小高村にも側高の影祀あり
常陸風土記に同郡男高社有 栗家池北有 香取神子社とあり 土人今呼んで側高と云へば 此 側高等並に香取神の御子にてありしならむ云々と
鹿鳥日記に 側高明神 年毎に髭撫いふあり 其は酒宴の席を設けて神酒を汲みかはし 若し口のあたりのなでし者あれば強ねて三杯のますならはしなりと云へりとぞ 説は伊藤泰歳の記事に詳悉し大八洲雑誌に掲げたり

一説に曰く 近江國日吉神社大行事と云へるは 此神を祀れるものなり 斯て我神官神楽新嘗祭の重き神事を掌り物せる年に當りては 神符を受けで慎んで斎き祀れり 其文に以 脇高天神為大行事可令糺定と云へるに 本づくなるべし此社前は山林相連なり後は香取浦にして 昔は此社の後岸に至るまで浪打寄せて水清かりし 故 祓除するものは皆此處に於てせり 然るに今は数里の間悉く水田となり 僅に小流を通じ 古昔の状に似ずと雖も古例に因り神官等尚此處に至りて祓除すること古の如しと

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『香取郡誌』著者 山田角次郎 著 出版者 山田角次郎 https://dl.ndl.go.jp/pid/763713

国立国会図書館デジタルコレクション『香取郡誌』著者 山田角次郎 著 出版者 山田角次郎 https://dl.ndl.go.jp/pid/763713

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

津宮の一の鳥居から香取神宮へと続く 往昔の表参道沿いに鎮座します

もしくは 津宮の一の鳥居は かつての香取神宮の海からの表参道と捉える方が判り易いと思います

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津宮の一の鳥居は 現在の津宮の利根川の河岸〈太古は 津宮の入江〉に建ちます ここ津宮へと流れ込む根本川を遡れば 香取神宮の社前へと通じています

かつて津宮の入江の東西の両岸に・東の宮・西の宮が鎮座していたと云う訳です 故に浜手守護(はまてしゅご)の神 と呼ばれています

Google MAP

香取神宮の御祭神である経津主大神は 海路から至り ここ上陸されたと伝わります

忍男神社(香取市津宮)〈東の宮〉に参着

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忍男神社の向かって左の道路をこのまま南へ〈直進〉進めば香取神宮へ至り 正面の道を西へ〈右折〉進めば 西の宮へと至ります

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社頭には「香取大神宮道」刻字された石碑と「忍男神社」の扁額が掲げられた鳥居が建ちます

一礼をして 鳥居をくぐります

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清掃された境内には 石碑・石祠が祀られています

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境内の中央に透塀に囲まれて本殿が祀られ 正面に鳥居が建てられています

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鳥居をくぐり

東の宮社殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内を戻り 社殿に一礼をします

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東の宮〉から〈西の宮〉へは 西へ約200m

瞻男神社(香取市津宮)〈西の宮〉に参着

扁額に「瞻男神社」と刻ざまれた鳥居を 一礼をしてくぐります

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東西の両社の境内に それぞれ1基ずつ 文政11年(1828)銘の石灯寵が奉納されいます
社殿も東の宮と同様に透塀に囲まれて本殿が祀られ 正面に鳥居が建てられています

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鳥居をくぐり

〈西の宮社殿にすすみます賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『香取神宮志』著者 香取神宮社務所〈昭和13年(1938)〉に記される伝承

【抜粋意訳】

忍男(おしを)神社
また東ノ宮とも云ふ。香取郡津宮村にあり。御祭神 伊邪那岐命、古くは此處にて名越ノ祓を行ひ神庭の傍に今年生の竹を柱とし薄を刈りて屋根を葺き祠を造り種々の物を供へ又薄の箸を作り備へて祭れり是を青屋(あおや)祭と称したり。

瞻男(まもりを)神社
また西ノ宮と云ふ、同じく津宮村にあり。御祭神大名持命なり。

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『香取神宮志』著者 香取神宮社務所 編 出版年月日 昭13 出版者 香取神宮社務所https://dl.ndl.go.jp/pid/1144805/1/11

国立国会図書館デジタルコレクション『香取神宮志』著者 香取神宮社務所 編 出版年月日 昭13 出版者 香取神宮社務所https://dl.ndl.go.jp/pid/1144805/1/11

忍男神社・瞻男神社(香取市津宮) (hai)」(90度のお辞儀)

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・香取神宮(香取市)の境内社・境外社

一緒に読む
香取神宮(香取市)の摂社(9社)・末社(21社)合計30社

香取神宮(かとりじんぐう)の 摂社(せっしゃ)9社・末社(まっしゃ)21社・合計30社と境内・境外の要所について

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・香取神宮(香取市)下総国一之宮

一緒に読む
香取神宮(香取市)下總國一之宮

香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です

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