実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

男神社(泉南市)& 元宮「浜宮(hamamiya)」

男神社(おのじんじゃ)は 2000年以上も昔 「絶望の淵で おたけび をあげた皇子」初代天皇の兄「彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)」の御魂を祀る神社で「おたけびの宮(otakebi no miya)」と伝わります

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元宮である 浜宮(hamamiya)

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ご紹介(Introduction)

【神社名】(shrine name)

 男神社(ono shrine)
 (おのじんじゃ) 
 

【通称名】(Common name)

 おたけびの宮 otakebi no miya

【鎮座地】(location)

大阪府泉南市男里3-16-1

【地 図】(Google Map)

【延喜式神名帳】    「旧国名 郡 ・ 神社名」

(927年12月完成) The shrine record was completed in December 927 AD.
【engishiki jimmeicho】「old region name・shrine name」

 和泉國    日根郡   男神社 二座
 izuminokuni hinegun  ono no kaminoyashiro

【御祭神】(God's name to pray)

《主》 神日本磐余彦命(kamuyamato iwarehiko no mikoto)
    彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)

《配》 天児屋根命(amenokoyane no mikoto)
    熊野速玉神(kumano hayatama no kami)

【御神格】(God's great power)

・身体壮健 Physical health
・諸願成就 Realization of various wishes
・等 etc

【格式】(Rules of dignity)

・延喜式内社 engishikinaisha

【創建】(Beginning of history)

紀元前3年5月8日(太陽暦6月20日) 浜宮(hamamiya)(元の宮)創建
859年(貞観元年) 男神社(ono shrine) 現在の地に遷在する

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【由緒】(history)

※境内 由緒案内板 参照

『元府社 男神社は 大阪府泉南市男里 即ち古への呼唹郷の地である
 延喜式内神社で、本殿には彦五瀬命、神日本磐命彦命を祀り、相殿には天児屋根命、熊野速玉神を祀る。

境内一万五千平方メートル(五千坪余)老樹欝蒼として幽邃絶塵の神域をなしている。

その北方一キロ余の処に 攝社 浜宮がある。
本社の元宮で 境内九千平方メートル(3000坪)松樹茂って海風に鳴っている。聖蹟雄水門は即ち此の地である。

神武天皇 御東遷の砌 孔舎御坂で長髄彦と激戦した。

此時、皇兄彦五瀬命が 賊の流矢に中って肱脛に瘡を負はせられ
「吾は日神の御子として 日に向ひて戦ふこと良はず、故れ 賤奴が痛手をなも負ひつる、今よりはも行き廻りて 日を背負ひてこそ撃ちてめ」と仰せられた。

よって血沼の海 即ち今の大阪湾を南進し 紀伊に向わせられよとして、
紀元前3年5月8日(太陽暦6月20日)此の地に着き給ふたが、

彦五瀬の御瘡いよいよ重らせられた命は 劒の柄を堅く握られ「慨哉大丈夫にして被傷於虜手報いずして死なむや」と雄詰び給ふた。
よって此の地を雄水門といふ。 

即ち彦五瀬命、雄詰の遺蹟雄水門、
今の浜宮の地に、命と神武天皇の御神霊を祀ったのが 当地で社伝によれば 貞観元年3月、今の地に御遷座し奉ったという

毎年10月11日の例祭には 本社より聖蹟雄水門の地 神輿渡御の儀が行はれる。明治7年7月、畏き辺りより幣帛料を下賜せら給ふた。』

【境内社】(Other deities within the precincts)

・若宮神社 《主》事代主神

 (境外にある元宮 現在は 男神社の摂社)

・浜宮(hamamiya)《主》彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)

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【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)

「おたけびの宮(otakebi no miya)」は 元宮である浜宮(hamamiya)を考慮すると たいへん古く 紀元前まで遡る由緒を持ちます

初代の神武天皇(jimmu tenno)=(神日本磐余彦命(kamuyamato iwarehiko no mikoto)の4兄弟が 九州から東遷(東の国 大和を目指す)を始めた時代です

長兄は 彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)
次兄は 稲飯命(inai no mikoto)
三兄は 三毛入野命(mikeirino no mikoto)
四兄は 神日本磐余彦命(kamuyamato iwarehiko no mikoto)=神武天皇(jimmu tenno)

この東遷(東の国 大和を目指す)への進軍の中で
神武天皇(jimmu tenno)の長兄にあたる 彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)が敵の矢により負傷して 「賎しい奴から 手に負傷したのに 死んでしまうには残念である」と この地で「雄叫び(otakebi)」を残した
ゆえに別名「おたけびの宮(otakebi no miya)」とも言われています

この伝承により
彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)と神武天皇(jimmu tenno)の御霊(mitama)を「浜宮(hamamiya)の地」に祀ったことが 神社のはじまりとされています

その後 859年(貞観元年) 現在の男神社(ono shrine)の鎮座地に遷在されたと伝わります 
初代の神武天皇(jimmu tenno)とその長兄 彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)をお祀りする 男神社(ono shrine)は(927年)延喜式内社とされています

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

鎮座地 「男里(onosato)」について

男神社(ono shrine)鎮座地の一帯は 男里遺跡もあり 古代から 広範囲に人が居住していて 開かれた地域だったと考えられています
古代の地名は「呼唹郷(onosato)」現在は「男里(onosato)」(現住所 大阪府泉南市男里) 時が降積っても 同じ名で呼ばれ続けます

彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)の無念は 2000年の時を超えて 里人に語り継がれていることが窺い知れます

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「孔舎御坂(kusakae no saka)の戦い」について

彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)が 
敵の流れ矢により負傷した「孔舎御坂(kusakae no saka)の戦い」は 大阪湾から大和(奈良)を目指し 生駒越えに差し掛かった時
東進した神武天皇(jimmu tenno)と 大和の先住者 長髄彦(nagasunehiko)との両軍の激戦の地とされていて 

場所は 現在の 善根寺春日神社(大阪府東大阪市善根寺町6丁目)境内に「神武天皇 御東征 孔舎御坂 古戦場」と石碑があります

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その後 神武天皇(jimmu tenno)の軍は 大阪湾を南下したが 矢傷が悪化した彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)が 浜宮(hamamiya)で「おたけび」を上げた様子を 別の場所が 伝承として伝えます

「七塚」について

それは神社に 隣接する阪南市にある「七塚」という塚です

案内看板には 次のように書かれています


『神武天皇東征の砌、皇兄彦五瀬命の御軍が進路を熊野にとるため、大阪湾を南下の途中、彦五瀬命が孔舎衛の坂で長髄彦との戦いで負った矢傷が悪化したため、雄水門(現 天神の森)に上陸。
雄水門から和歌山の釜山神社へ向かう途上戦傷で息切れした家来たちを埋葬し祀った場所のひとつ。
 この地の他、阪南市「平野山」「山中新家」に同様の塚が祀られている。
七塚は、傷の手当てをした子孫の直系男子が継承する「男神社 右・左座」の両座でお参りを続けている。』

この文面にある「男神社 右・左座」の意味は 
「負傷したご祭神が 上陸され 山の井の水で傷口を洗ったとき 
 村人が傷の手当てをした この時より ご祭神の右側で手当てをした者の家名は「右座」 左側にいた者の家名は「左座」をそれぞれ名乗り 
 座の家は 子孫の直系男子が継承して 明治期以前まで神社の神職も務めた」と伝える

七塚は 彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)の御軍で ご祭神と ともに戦い傷ついて戦没した家来たちの無念の塚として 近年まで 七塚参りの習慣があった様です

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 その後 村人たちの手当の甲斐あってか 彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)は なんとか命をとり止め船出して行く 

別れを惜しんだ里人に 彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)は 御石を手渡して 言うには
 「これ わが御霊として祭れ されば末永く 汝らの子孫を守らん」
これが「雄たけびの地」男神社(ono shrine)の境外にあり 現在は摂社となっているが 元宮である 浜宮(hamamiya)の伝承とされています

だとすると この後 神武天皇(jimmu tenno)軍は 南下して紀伊に向かいますので おそらく この途中で 息を絶たれたのであろうか?

彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)の陵(misasagi)について

古事記・日本書紀の記述では 紀国の竃山(kamayama)とされていて
現在の竈山神社(kamayama  shrine)には 宮内庁管轄の「彦五瀬命の墓」があります

彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)の伝承は 負傷した家来の伝承も含め 真実味をもって 伝わってきます

宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年 国立国会図書館デジタルコレクション)

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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

関西空港からレンタカー 空港連絡橋を渡り りんくうJCTから府道63号を海岸沿いに西南方向へ走り14km程度 記紀神話にある「おたけびの地」へ到着します

最初に「浜宮(hamamiya)」 それから「男神社(ono shrine)」へ お詣りです

「浜宮(hamamiya)」に到着 朱塗りの鳥居が 立っています

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現在は 自然公園的な「天神の森」と呼ばれています かつては砂浜かな? と想える白地の砂地に松が生えていて ちょうど海岸線の松林を彷彿させます 

一礼後 鳥居をくぐり「天神の森」を右手奥 東方向へ歩いて行くと ステンレス製の鳥居が構えています
ブロック塀の御垣の中に 小さな神社(一間社流造 檜皮葺)が鎮座されていて 本殿の前 石灯籠の台座を見ると「男神社 摂社 浜宮」と彫刻がありますので 

ああここだ こちらに鎮座しているのが 浜宮(hamamiya)だと判ります

現在の御祭神は 彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)で 雄水門(ono minato)のいわれを承知しながら

礼をもって ご神威を畏れ敬い 2000年以上の長きにわたり この地に 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ 祈りを済ませます

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境内となっている「天神の森」には
『神武天皇聖蹟 雄水門顕彰碑(jimmutenno seiseki onominato kenshohi)』と神武天皇(jimmu tenno)の顕彰碑(kenshohi)が建てられています

すぐ傍の 案内板に 次のように書かれています


『雄水門(ono minato)

天神の森 一帯は、往昔における海面であり、当時は水深もあり、船舶の碇泊に適した地で山城水門と言われた。日本書紀に皇兄五瀬命が「敵に報いることなく手傷を負って死ぬとは残念極まりない」と雄々しく叫ばれたとあり、そのことから雄水門と呼ばれている。』(泉南市) 案内板より

とすると・・・・

かつて 御祭神一行は 男里川 河口付近で 矢傷を清水で洗った ここは昔 海で浅瀬であったから 軍船を停泊させて この地「天神の森」から 上陸したのだろうか それから時が積もり 建てられていた社は 859年(貞観元年)海岸線の波風を避けるように もしかしたら津波があったか? 現在の地 男神社(ono shrine)に遷宮したのだろうと 勝手に想像をめぐらしながら歩く

朱色の鳥居をくぐり 浜宮(hamamiya)を振り返り 一礼

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男神社(ono shrine)に到着

浜宮(hamamiya)から南へ2km程 道を進むと 雄信小学校の西側に北向きに建つ「一の鳥居」があります
駐車場は「二の鳥居」辺りにあり 下車し徒歩で 参道の横にある一般道を戻り「一の鳥居」から お詣りです

一礼後「一の鳥居」をくぐり 参道を進み 社叢(shaso)の案内板を読むと
無患子(mukuroji)云々とあり? 何のこと???? 全くわからない

説明に「種子は羽子板の羽子に使われる」 ああ そうなのかと 帰りに木があり またもや説明書き 
無患子(mukuroji)とは 子供が患うことがないようにとの意味がこめられて 果実は七五三の頃に 黄色に熟すとあり 当日は 地面に実は落ちていなかったので・・・かつては 子の健康を願い・・羽子板の羽子・・かと 木を見上げ探す

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続いて 「二の鳥居」があり 一礼してくぐり 鬱蒼とした社叢(shaso)の落ち着きの中 参道を歩むと 左手に「手水舎(temizusha)」があり 清めます
右手に男神社(ono shrine)の古事記伝承の石碑があり その先で 参道は ほぼ直角に近い角度で左に曲がります

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すると 正面に「拝殿」がある 南面に向かうように建ち 右手に「神馬の銅像」を添えた赤い神明造りの「三の鳥居」があります
鳥居と拝殿の中間あたりに 根元が一つで幹が二股になった「夫婦樟(meoto kusu)」(間をくぐるとよいことがあるといわれているらしい)が植わり 会釈しながら「拝殿」へむかう

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「拝殿」は 銅板葺きの入母屋造で 貫禄はあります 本殿は見えません
「おたけびの宮(otakebi no miya)」が この地に ご遷座されて1100年以上の間 鎮まる御祭神に畏れ敬い この国の繁栄に感謝したまい届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ 祈りを済ませます

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男神社拝殿の隣り 西側は なんとも神秘な祓い清めたご神域があり その放つ氣に思わず身を正して 一礼しました

男神社拝殿の隣 東側は 【境内社】若宮神社 事代主神(kotoshironushi no kami)があります

この本殿は 江戸時代中期(17世紀末~18世紀前期)の建築と伝わり 昭和初期頃まで 本殿のすぐとなりに鎮座していたらしく 現在の男神社拝殿を建設の際に今の場所へと移されたとのこと
江戸時代の古文書には たびたび登場するとのことで 男神社本殿とともに大切に守られてきたと伝わりますが 若宮と名があって 本殿の横に並んで 鎮座していたならば きっと深い関係や理由がありますね

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【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

「おたけびの宮(otakebi no miya)」の言い伝え 彦五瀬命(hikoitsuse no mikoto)について記されている

古事記『神武天皇』の伝承

古事記 原文
『於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。故爾詔「吾者爲日神之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」期而、自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。從其地廻幸、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。』

意訳
『ここに 登美毘古(tomibiko)と戦った時 五瀬命(itsuse no mikoto)は その御手に 登美毘古(tomibiko)から痛矢串(itayagushi=矢を受けた傷)を負いなされた 

五瀬命(itsuse no mikoto)が ここに話されるには
「私は日の神の御子(hinokami no miko)として 日(太陽)に向って戦ふことは良くなかった 故に 賎しい奴により痛手を負わされている 
我々が これから行く時には 廻り込むことにする 日(太陽)を背負って撃ちたおす」と誓います

南の方向から廻って おでましになられた時 血沼海(chinu no umi=今の大阪湾)に到り その負傷した御手の血を洗われました 故に 血沼海(chinu no umi)と呼ばれます

その地から さらに廻って ここに おでましになられました
紀国の男之水門(ono minato)に到り いわれるには「賎しい奴により 手に負傷されて 死でしまうには残念である」と男建び(otakebi)をして 崩れました 故に その水門(minato)を名付けて 男之水門(ono minato)と言う 陵(misasagi)は紀国の竃山(kamayama)にあります』

日本書紀『神武天皇』の伝承

日本書紀 原文
『五月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門。亦名山井水門。茅淳、此云智怒。時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰撫劒、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢「慨哉、大丈夫慨哉、此云宇黎多棄伽夜被傷於虜手、將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山。』

意訳
『五月丙寅朔癸酉日 神日本磐余彦命(kamuyamato iwarehiko no mikoto)の軍は 茅淳(chinu)の山城(yamaki)の水門(minato)に到りました 又の名を山井水門(yamanoi no minato)と言います

茅淳(chinu)は 智怒(chinu)とも言います

五瀬命(itsuse no mikoto)は 矢の傷跡が とても痛みましたその時 撫劒(剣の柄を握り)又剣の柄を握りながら 「雄たけび」をなさいました
撫劒は都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢(tsurugi no takami torishibaru)と言います

「なんということか 私は大丈夫か このように手に傷を負わされて やり返さずに死んでしまうのであろうか」
時の人々は そのことによって この場所を「雄水門(ono minato)」と呼びます

それから軍は進み 紀伊国の竃山(kamayama)に到った時 五瀬命(itsuse no mikoto)は崩御された それで竈山で葬られました』

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古事記・日本書紀に記載されている 神話として伝わる「おたけびの地」は 正にここにあります

「おたけびの宮(otakebi no miya)」
「浜宮(hamamiya)」と「男神社(ono shrine)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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和泉国 式内社 62座(大1座(月次新嘗)・小61座(並官幣))について に戻る   

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