大國神社(おおくにじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御宇 朝廷から派遣された百済車臨が 御手洗池で手を洗う大国主命の化身である白頭翁と出会い大干魃(かんばつ)から救われた伝説により創建された その後 丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷合祀して五護宮・五后宮・第五姫大明神とも称した 延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくにかみのやしろ)とされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大國神社(Okuni shrine)
【通称名(Common name)】
・第五姫宮(だいごひめのみや)
・五護之宮(ごごのみや)
【鎮座地 (Location) 】
群馬県伊勢崎市境下渕名2827
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大國主命(おほくにぬしのみこと)
《配》日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)〈 第11代垂仁天皇皇后〉
渟葉田瓊入媛命(すはたにいりひめのみこと)
真砥野媛命(まとのひめのみこと)
竹野媛命(たけぬひめのみこと)
薊瓊入媛命(あざみにいりひめのみこと)
※垂仁天皇15年 丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀
当社は 五護宮又は五后宮とも書き 第五姫大明神とも称した
《合》罔象女神(みつはのめのかみ)
〈旧 御手洗(ミタラセ)神社の祭神〉
《合》素盞嗚命・事代主命
〈旧 八坂〈ヤサカ〉神社の祭神〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
上野国式内十二社 大国神社 縁起
境町大字下渕名字明神鎮座
祭 神 大国主命
配祀神
渟葉田瓊入媛(スハダニイリヒメ)命、竹野媛(タケヌヒメ)命、日葉酢媛命、垂仁帝皇后、眞砥野(マトノ)媛命、筋瓊入(スニイリ)媛命外三柱
罔象女(ミスハヤメ) 旧御手洗(ミタラセ)神社祭神、
素盞嗚(スサノオ)命、事代(コトシロ)主命 旧八坂神社祭神延喜式神名帳に上野国大国神社あり上野国神社名帳に従一位大国神社とあるは即ちこの社である
縁記に曰く 人皇第十一代垂仁天皇の九年庚子四月より風雨順ならず、大旱打続いて蓄斃死するもの数を知らず 天皇深く之を憂ひ給い諸国の神明に奉幣せられ東国には百済車臨遣はされて 車臨この地に来り
老松の樹下に宿る之即ち御手洗の亀甲松であった 偶々明旦前池に白頭翁の手洗ふを見たので問ふに 叟は何人ぞと翁答いで曰く 吾は大国主の命である。汝は誰だと 車臨容を正して 吾は天皇の勅を奉じて風雨順時疫病平癒の奉幣使百済車臨である 願くは国家の為に大難を救助し給へ と翁唯々と答ふ
言下に雲霧咫尺を辨せず翁の姿は消えて影もなし
須叟にして風巽より起り、甘雨澎湃として至り 前地忽にして淵となった。因って この郷の名を渕名と呼ぶ様になり、これから草木は蘇生し悪疫悉く息み五穀豊饒土蒼生安穏となり 天皇深く車臨を賞して左臣の位を授け 大国神社を此の処に祀らしめ此の地を賜ったと 云ふ。
仝年十五年丙午の年九月 丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀した故に古より、当社を五護宮又は五后宮とも書き 第五姫大明神とも称した 此の時 第五媛の神輿に供奉した舎人に松宮内 大須賀左内 生形権真人 石井田右内の四人があり、松宮内の子孫代々当社の祀宮として明治に至ったと伝へられて居る。
後 称徳天皇の神護景雲元年従五位上佐位采女勅に奉して 上毛に下り社殿を修造し国造の神として、渕名荘三十六郷の總鎮守として尊崇殊に篤かった。
文化元年甲子現在の社殿を改築し、明治七年熊谷縣管下北方十六区佐位郡波両郡四十二ヶ村の郷社に列し 仝四十二年二月神饌幣帛料供進社に指定されたのである。世界大戦後は、祭典を止められ神社の財産も開放となったが由緒ある神社で、氏子を始め、四隣からの崇敬は目を追ふて古にかへりつゝある境内は貮千四百七十六坪地は天然の丘陵に位置し、近くは太田の金山、遠くは常陸の筑葉山と相対し 遥かに西南を望めば上武の連峯は雲烟模糊の間に縹沙として遠近の風光を収めて居る云之。社前は延徳二年庚戌四月十六日本願法名清本秀行刻せる石浄手鉢一基あり、元御手洗の社前より移したものといふ。祭日
大祭 秋祭 十月最後の日曜日
中祭 春祭 四月三日
小祭 夏祭 境町ふれあい祭の日大祭には古来獅子舞の神楽を演じ奉納する習あり
午時 昭和五十五年庚申年十月二十二日現地案内板より
【由 緒 (History)】
延喜式内 上野十二社 大國神社
主祭神 大国主命(おおくにぬしのみこと)
由緒
延喜式神名帳に「上野国大國神社」、上野国神名帳に「従一位大國神社」と記されるのが当社である。
縁起によれば、第十一代垂仁(すいにん)天皇の九年(約一千年程前)四月より天候不順で大干魃(かんばつ)が続いたために、疫病が流行(はや)り人蓄共に大半が死亡したという。
これを深く憂い給いた天皇は、諸国の名神に祈雨のため奉幣し、東国には奉幣使として百済の車臨を遣わした。
垂仁天皇十一年九月、その車臨が当地に来て老松の樹下に一夜の宿をとった。(これが御手洗亀甲松(みたらしきっこうまつ)である)翌朝、前の池で手を洗う白髪頭の翁を見つけ名を尋ねると、「吾は大国、主命なり。」と答えた。
それを聞いた車臨は、「私は疫病平癒と降雨祈願のために、天皇の勅を奉じて遣わされた奉幣使です。どうか国家の大難をお救いください。」と嘆願した。
翁は「よし、よし。」と答えるやいなや、その姿は立ち消え、しばらくすると巽(たつみ)(東南)の方角から風が吹き始め、雨が降り始めた。
この雨で池は変じて渕となり、以来、この地を渕名と言うようになった。また、この降雨のおかげで草木は蘇生して五穀豊饒となり、疫病もおさまった。
天皇は車臨を賞して左大臣の位を授けると共に、当地を下賜して大国主命を奉斎せしめた。
同十五年九月、丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して配祀神とした。
その後、称徳(しょうとく)天皇の御代の神護景雲(じんごけいうん)元年(767)、勅を奉じて当地に来た従五位上佐位采女(うねめ)が、大国主命を国の造神と號し、渕名荘三十六郷の総鎮守として当社の社殿を修造した。
光格天皇の文化元年(1804)現在の社殿に改築し、明治七年には熊谷県北第十六第区の佐位・那波両郡四十二ヶ村の郷社に列せられた。
さらに、同四十年三月二十五日、無格社御手洗(みたらし)神社、八坂神社を合祀して今日に至る。社頭の大掲示板より抜粋
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・浅間神社
浅間神社
主祭神 木花開耶姫命
浅問神社は、どのような経緯で遷宮し鎮座されたか明らかでないが、古老の話しによると無資格神社は、一村一神社に合併せよとの、ときの政府の命令によって御手洗神社が明治四十年に大国神社に合併されたため無神の社になったので、木花開耶姫命を祭神として遷宮し浅間神社と称することになったと云う。
社頭の大掲示板より抜粋
・渕名天満宮
渕名天満宮
主祭神 菅原道真公
菅原道真公は、十五才で元服し、朝廷に奉仕し、少内記民部少輔の要職を歴任し、文章博士となり学界に於て不動の地位を占め、仁和二年に讃岐守に任ぜられ四年の間讃岐の民政を掌り任期終って京に帰るや蔵人頭となり、やがて参議となり式部大輔を兼ね更らに進んで中納言となり民部卿を兼ね、なを昇進して右大臣に任ぜられる。
ときの左大臣藤原時平等は、菅原道真の空前の出世を嫉み天皇にざん言し、醍醐天皇はこれを信用し給い、廷喜元年正月菅原道真は大宰権師に左遷され九州に流された。
菅原道真は九州にあっても忠義の心は少しも変わることなく、無実の罪は必ずはれる時が来るに違い無いと確信しつつ廷喜三年二月死去した。
時に五十九才であった。間もなく無実の罪ということが明らかになり、
延長元年に右大臣にかえされ、ついで太政大臣を贈られ、そして神に祀られ天神様学問の神様として多くの信仰を仰いでいる。
渕名天満宮は昭和五十七年七月社殿を建設し遷宮鎮座した。
社頭の大掲示板より抜粋
・八坂神社
八坂神社
主祭神 素戔嗚尊
素戔嗚尊は伊非諾尊の子。天照皇大神の弟。区暴で、天の岩屋戸の事件を起こした結果、高天原(天上界)から追放された。
出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得、天照皇大神に献上した。
また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えた。
社頭の大掲示板より抜粋
・社殿の後方に多数の石祠
〈向かって 左から時計回りに〉
・八坂神社 その向かって右に・〈祭神不明〉石祠一宇
・諏訪神社・〈祭神不明〉石祠一宇・住吉神社
・稲荷神社
・多賀神社
・地神神社
・御祭神 大国主命〈本殿の奥〉
・午頭天皇宮
・八幡神社・摩利四天宮
・不明・少彦名神社
・猿田彦大神・猿田彦大神
・西宮神社が二宇・弥都波能女神社が三宇・金神
・疱瘡神社
・石憧(せきどう) 奥に・不明・石山大嶽神社・庚申塔二宇・浅間神社
伊勢崎市指定重要文化財
大国神社の石幢
昭和四十二年二月十日指定
村の人たちが「御手洗の后燈籠」と呼ぶこの石幢は、昔近くの御手洗池畔で出土したと伝えられ、長い間人々の信仰を集めてきた。
石幢は鎌倉時代に中国から伝えられ、日本では幢身にじかに笠を乗せた単制のものと、当石幢のような石燈籠ふうのものが発達した。石幢は仏教でいう「輪廻応報(りんねおうほう)」「罪業消滅(ざいごうしょうめつ)」という人々の願いをこめて建立されたものと考えられ、ガン部と称する部分を火袋(ひぶくろ)として点灯し浄火(じょうか)とした。
全体では、自然石の芝付の上に大きい角石の台座を置き、その上に竿塔(かんとう)・中座(ちゅうざ)・火袋(ひぶくろ)・屋蓋(おくがい)・相輪(そうりん)と積み重ねられ、台座からの総高は二.三八メートルもある立派なものである。特に中座と火袋がよく安定した感じを出し、屋根の流れと軒反りのはね方は室町時代の作風をよく表わしている。また輪廻車が当石幢にもあったらしく条孔(じょうこう)が残っている。
笠部には磨滅がひどく定かではないが、次の銘文が読みとれる。
本願主法名 清本秀行
延徳二年庚戌四月十六日願主の清本秀行なる人物については全く不明である。また火袋に日月(じつげつ)と梵字(ぼんじ)があったと考えられる。
昭和五十八年三月三十一日 伊勢崎市教育委員会
現地案内板より
・手水舎
・授与所・社務所
・社司 新井翁の碑
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・御手洗(みたらし)神社跡地(伊勢崎市境下渕名)〈下淵名東沼の北西〉
〈明治41年(1908)大国神社に合祀
大国神社の由緒にも 朝廷から派遣された百済車臨が 御手洗池で手を洗う大国主命の化身である白頭翁と出会ったと言う伝説の地
かつて湧水は 清く澄んで「方十坪の古池あり、水清く底深く、旱天未だ會て涸れしを聞かず、祭日此れに身潔をなす」と伝わります
「垂仁天皇十一年九月、その車臨が当地に来て老松の樹下に一夜の宿をとった。(これが御手洗亀甲松(みたらしきっこうまつ)である)翌朝、前の池で手を洗う白髪頭の翁を見つけ名を尋ねると、「吾は大国、主命なり。」と答えた。
それを聞いた車臨は、「私は疫病平癒と降雨祈願のために、天皇の勅を奉じて遣わされた奉幣使です。どうか国家の大難をお救いください。」と嘆願した。
翁は「よし、よし。」と答えるやいなや、その姿は立ち消え、しばらくすると巽(たつみ)(東南)の方角から風が吹き始め、雨が降り始めた。
この雨で池は変じて渕となり、以来、この地を渕名と言うようになった。また、この降雨のおかげで草木は蘇生して五穀豊饒となり、疫病もおさまった。
天皇は車臨を賞して左大臣の位を授けると共に、当地を下賜して大国主命を奉斎せしめた。」
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野国 12座(大3座・小9座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)佐位郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大國神社
[ふ り が な ](おほくにかみのやしろ)
[Old Shrine name](Uke no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
称徳天皇の勅を奉じ社殿を修造した゛佐位(さゐの)采女(うねめ)゛について
大国神社の社伝には
「その後、称徳(しょうとく)天皇の御代の神護景雲(じんごけいうん)元年(767)、勅を奉じて当地に来た従五位上佐位采女(うねめ)が、大国主命を国の造神と號し、渕名荘三十六郷の総鎮守として当社の社殿を修造した。」とあります
『延喜式神名帳』の゛上野国佐位郡 大国神社゛と記載される゛佐位郡゛この郡の由縁です
佐位郡(さゐのこおり)と采女(うねめ)制度について
八角形と檜前氏『史跡上野国佐位郡正倉跡』伊勢崎市教育委員会丈化財保護課より抜粋
「律令国家には地方豪族の姉妹を采女(うねめ)として都におくるという制度がありました。
采女は天皇の食事の世話などをする女官です。佐位郡には郡の長官になった檜前氏(ひのくまし)という豪族がおり、その一族の老刀自(おいとじ)という人物が采女として都にのぼったことがわかっています。
老刀自は女帝である称徳天皇(しょうとくてんのう)に仕え、非常に高い位を授かっています。佐位郡に特殊な八角形建物があるのは、このことと無関係ではないかもしれません。」
檜前部老刀自(ひのくまべのおいとじ)について
この称徳天皇の采女(うねめ)として仕えた女性 檜前氏(ひのくまうじ)老刀自(おいとじ)が 六国史の『続日本紀』延暦16年(797)に記されています
本国国造(上毛野国造)の称号を与えられ のちに 上毛野佐位朝臣(かみつけのさいのあそん)を賜姓 従五位下まで出世した と記されています
こうしたことから 上野国 の佐位郡を中心とした地方豪族゛檜前氏゛は利根川中流域にかなりの勢力を持ち 近畿の大和朝廷とも濃厚な関係を保っていたと推測が出来ます
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される老刀自(おいとじ)の伝承
称徳天皇の采女(うねめ)として仕えた女性 檜前氏(ひのくまうじ)老刀自(おいとじ)が 本国国造(上毛野国造)の称号を与えられ のちに 上毛野佐位朝臣(かみつけのさいのあそん)を賜姓 従五位下まで出世した と記されています
【抜粋意訳】
天平神護二年(七六六)十二月癸巳〈十二日〉の条
○癸巳
幸西大寺 無位清原王 気多王 梶嶋王 乙訓王 並授従五位下
従四位下 藤原朝臣田麻呂 従四位上
正五位下 大伴宿禰伯麻呂 正五位上
従五位上 豊野真人出雲 正五位下
従五位下 豊野真人奄智 従五位上
正六位上 豊野真人五十戸 従五位下
従五位下 多治比真人若日女 正五位下
外従五位 下檜前部老刀自 外従五位上
【原文参照】
【抜粋意訳】
神護景雲元年(七六七)三月乙卯〈六日〉の条
○乙卯
左京人 正六位上 上毛野坂本公男嶋 上野国 碓氷郡人外従八位下 上毛野坂本公黒益 賜姓上毛野坂本朝臣
同国 佐位郡人 外従五位上 檜前君老刀自 上毛野佐位朝臣
【原文参照】
【抜粋意訳】
神護景雲二年(七六八)六月戊寅〈六日〉の条
○戊寅
以 従四位上 外衛中将兼造西隆寺長官参河守 勲四等 伊勢朝臣老人
掌膳 常陸国 筑波采女 従五位下勲五等 壬生宿禰小家主 尚掃 従五位上美濃真玉虫
掌膳 上野国 佐位采女 外従五位下 上野佐位朝臣 老刀自 並為 本国国造
【原文参照】
【抜粋意訳】
宝亀二年(七七一)正月庚申〈二日〉の条
○庚申
授 正四位上 藤原朝臣家子 従三位
外従五位上 上毛野佐位朝臣老刀自 正六位下 国造浄成女 並従五位下
【原文参照】
采女(うねめ)制度について
大和朝廷で 天皇や皇后に近侍して 食事など身の回りの庶事を専門に行う女官のことで 平安時代初頭までの官職です
地方豪族の姉妹や娘が 中央に貢進されてその役職についたとされます
その中でも 容姿端麗で 高い教養力を持っていたと云われて 天皇のみ手を触れる事が許される存在であった為 古来より 男性の憧れの対象となっていました
『日本書紀』の雄略紀に「采女の面貌端麗 形容温雅」と表現されて
『百寮訓要集』には「采女は 国々よりしかるべき美女を撰びて 天子に参らする女房なり『古今集』などにも歌よみなどやさしきことども多し」
とあるように
天皇の妃とも成りえたので 当時は 采女への恋は命をもって償うべき禁忌とされていました
采女(うねめ)に関連する神社について
https://shrineheritager.com/tag/%e9%87%87%e5%a5%b3/
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東武伊勢崎線 新伊勢崎駅から西へ約5.6km 車15分程度
R17号〈バイパス〉上武道路沿いに面して 駐車場があり
案内板と鳥居が建っています
大國神社(伊勢崎市境下渕名)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 参道を進みます
当日は 鳥居の修理の為 土木作業が行われていました
以前(2011年)参拝の時には 土木作業がされている所に 朱色の両部鳥居がありました
という訳で 鳥居はくぐれませんでしたが 参道に戻ります
拝殿にすすみます
拝殿には 恵比寿大黒の奉納額
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が祀られています
社殿の周囲には 沢山の石祠が祀られています 時計回りに順番にお祈りをします
神仏習合時の石憧(せきどう)〈御手洗池の畔で出土したと伝わる〉
社殿に一礼をして 参道を戻りますが 土木工事を迂回します
参道を戻ります
駐車場に戻ると 参道脇の畑と参道の木々 鎮守の杜があり 神社らしくうれしい
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 大國神社について 所在は下淵名村〈現 大國神社(伊勢崎市境下渕名)〉と記しています
【抜粋意訳】
大國神社
大國は 於保久爾と訓べし
〇祭神 大國玉神
〇下淵名村に在す 地名記考証云、狭井者大神之荒御霊也、郡名 佐位興 狭井通
神位
国内神名帳云、従一位 大國玉大明神
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 大國神社について 所在は下淵名村〈現 大國神社(伊勢崎市境下渕名)〉で 大和國の城上郡 狭井大神荒魂神社に由縁があるであろうと 記しています
【抜粋意訳】
大國(オホクニノ)神社
今 下淵名村に在り、上野國志、巡拝舊祠記、神名帳考
大國玉大明神と云ふ、上野國神名帳蓋 大物主命の荒魂を祭る、延喜式大意、
〇按 延喜式、大和城上郡 狭井大神荒魂神社ありて、大物主一名大國玉神を祭る、本社の佐井郡に在りて、大國玉明神と云ふ、極めて由縁あり、姑附て考に備ふ、凡 其の祭 九月廿二日を用ふ、熊谷縣取調書
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 大國神社について 所在は下淵名村〈現 大國神社(伊勢崎市境下渕名)〉と記しています
【抜粋意訳】
大國神社
祭神 大國主命
祭日 九月二十二日
社格 郷社所在 下淵名村(佐波郡采女村大字下淵名)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
大國神社(伊勢崎市境下渕名)について 式内社 大國神社であるとし
伝承として
「本社は佐位采女を祭ると推定し、従ひて采女村の名を立つ」と記しています
【抜粋意訳】
〇群馬縣 上野國佐波郡采女村大字下淵名字明神
郷社 大國神社
祭神 大國主(オホクニヌシノ)命
創立年代詳ならず、但、当社縁起に云く、「垂仁天皇十五年丙午九月、遷ニ丹波国五姫宮於 上毛佐位郡淵名荘」と、
延喜の制式内の小社に列せられ、國帳従一位 大國玉明神と記せり、
俗に弟五姫宮と称し、又ゴロノ宮〇上野國志とも称し、五妃、五護等の文字を充つ、
当社縁起には、大國五護宮大明神と称奉れり、元と淵名荘三十六郷の鎮守にして、国内有数の神社たり、
明治五年十一月郷社に列す、
社殿は本殿、拝殿、其の他社務所あり、境内は二千四百七十六坪 地高にして社背森を負ひ、東南開眺望に富む、
社を距る東南五町、方十坪の古池あり、水清く底深く、旱天未だ會て涸れしを聞かず、祭日此れに身潔をなすと。後上野志云、「大國大明社、今は五姫大明社と称し奉る、土人はコゴの宮と云ふ。五姫と称するは老刀自、采女等の、五人御魂を合祀せしなるべし、但し額に第五姫とあれば、何れの神の五女にかますべき、續後記「神護景雲元年 上野国 佐位郡人 外従五位上 檜前君老刀自 賜姓佐位朝臣、同二年、以掌膳 上野国 佐位采女 外従五位下 上野佐位朝臣 老刀自 並為 本国国造」」
地名辞書云、「近時 本社は佐位采女を祭ると推定し、従ひて采女村の名を立つ。」
境内神社
疱瘡神社 八幡神社 少彦名神社 多賀神社 稲荷神社 住吉神社 八坂神社
【原文参照】
『上野國志(Kozukekokushi)』に記される伝承
大國神社(伊勢崎市境下渕名)について 式内社 大國神社であると記しています
【抜粋意訳】
佐位郡 〇神社 大國神社
延喜式に載する所なり、
下淵名村にあり、土人訛りて ごごの宮と云、
【原文参照】
下淵名の獅子舞について
伊勢崎市指定重要無形文化財
下淵名の獅子舞 Lion Dance at Shimo-Fuchina平成18年6月15日指定
下淵名大国神社の獅子舞は勇壮活発、かつ格調高い舞と評され、平佐々良・畏まり・橋がかり・雌獅子隠しの四種類が伝承されています。
流派は火挟流と言われ、栃木県の文挟村(現日光市)に起り、足尾を通り、銅街道沿いに下淵名に伝えられたものと考えられています。一人が一匹の獅子に扮し、法眼・雌獅子・雄獅子の3人1組が連れ舞います。かつて、夕方から盛んに獅子舞を披露したことから、この獅子舞を夕がかりと呼ぶことがあります。
毎年10月最終の日曜日の大祭には、村回りを行なった後神社に奉納されます。村回りでは所々でシャギリを上演し、神社に奉納する際には祭礼棒が先陣を清めます。
道具の収納箱には正徳元年(1711)と書かれていることから、この頃には諸道具類が整備されていたことが推測でき、獅子舞の起源はこれを遡るものと考えられます。
平成24年3月 伊勢崎市教育委員会現地案内板より
大國神社(伊勢崎市境下渕名)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
上野国 式内社 12座(大3座・小9座)について に戻る
上野国(かみつけのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 上野国には 12座(大3座・小9座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
上野國 式内社 12座(大3座・小9座)について