隠岐の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 隠岐國の16座(大4座・小12座)の神社のことです 現在の論社は 22神社となり 隠岐の固有の神々を祀る神社が多く貴重です
隠岐國(オキノクニ)について
隠岐国の名称について
「隠岐の国」は 文献での登場は古く
現存する日本最古の歴史書とされる『古事記』〈和銅5年(712)編纂〉の冒頭神話 伊邪那岐尊(イザナギノミコト)伊邪那美尊(イザナミノミコト)の夫婦神による”国生み神話”で語られます
この時に・淡路島〈淡道之穂之狭別島〉・四国〈伊予之二名島〉に次いで3番目に生んだ島が「隠伎之三子島(オキノミツゴノシマ)」です
三子島の解釈には様々な説がありますが 現在の隠岐諸島で 最大の島である島後を「親島」 島前の知夫里島・西ノ島・中ノ島を「子島」とし”親島に率いられた三つの子島という意味”だとも伝わります
隠岐の島の位置
現在の島根県にあり
隠岐の島は 島根・鳥取の県境から北方約60kmに位置します 約180の島と4つの有人島からなります
・島前(どうぜん)3島
①西ノ島町(西ノ島)②海士町(中ノ島)③知夫村(知夫里島)
・島後(どうご)1島
④隠岐の島町
隠岐の島の地形と島前カルデラ
島前は630~530万年前の火山活動で形成されました
その地形は活動の最中の陥没で作られた窪地(カルデラ)と焼火山(中央火口丘)を持ち 島前カルデラと呼ばれています
現在 この窪地は水没して内海になっています
隠岐の島の歴史
石器時代から使用された打製石器の原料である黒曜石(コクヨウセキ)を〈隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井と五箇村(同)久見など〉産出しています
裏付けるように石器製作跡と推測される紀元前5000年頃の縄文早期の遺跡があります
〈西郷町津井の近辺に宮尾(みやび)遺跡・久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡など〉
太古から文明の拠点でもあった訳で『古事記』に日本の歴史に欠かせない場所として登場するのも必然なことになります
万葉の時代から 隠岐に流刑された 天皇や公卿
聖武天皇の時代(724年)に遠流の地として定められます
流罪〈追放刑〉は「遠流」「中流」「近流」があって 刑の重さによって都からの距離が変わっています 日本では古くから行われています
流刑は 監禁では無く軟禁とされ 一定期間がたてば その後は そこで生活を営みます
・後鳥羽上皇・後醍醐天皇、 そして・小野篁・藤原千春・平の致頼・源義親等々沢山の流人 約3,000人余りの人が流され隠岐の文化形成に大きな影響を与えたと言われています
なぜ 天皇や公卿を極刑では無く流刑としたのか 極刑には身分が高すぎ畏れ多い罪人に対して 政治犯的な追放の意図が込められていました
海上の遙か彼方の離島に追放し 反対勢力からの隔離という意味もあり 隠岐は 水もあり 文化水準も高かった事から流刑地として適していたと考えられています
神々の島「隠岐」の式内社と名神大社について
小さな島の中に式内社が16社 名神大4社 もあります
さらに霊験あらたかな神社には「名神大」の格が与えられますが 現在の島根県(律令制国で・出雲国・石見国・隠岐国の3国)には名神大社が6社あり
そのうち隠岐には4社(・伊勢命神社・水若酢神社・宇受賀命神社・由良比女神社)があります
又 ある伝承によれば
この島に大木があって 天照大御神(アマテラスオオミカミ)がご覧になり「美しい御木」と言われたとか それで「御木国」に変わったとも伝わります
隠岐の延喜式内社の名神は この「御木」の番をするために高天原から下ってきたとも伝えられています
隠岐の固有の神々について
隠岐の式内社には 隠岐固有の神々が祀られる神社が多々あります
・由良比女神社《主》由良比女命(yurahime no mikoto)
・渡津神社《主》地触神(chiburi no kami)
・比奈麻治比賣命神社《主》比奈麻治比賣命(Hinamachihime no mikoto)
・眞氣命神社《主》眞氣命(Make no mikoto)
・天佐志比古命神社《主》天佐志比古命(Amasahiko no mikoto)
・奈伎良比賣神社《主》奈伎良比賣命(Nagirahime no mikoto)
・宇受賀命神社《主》宇受賀命(Utsuka no mikoto)
・水祖神社《主》水祖神(Mioya no kami)
・玉若酢命神社《主》玉若酢命 (tamawakasu no mikoto)
・和気能酢神社《主》和気能須命(Wakenosu no mikoto)
・水若酢神社《主》水若酢命(mizuwakasu no mikoto)
・伊勢命神社《主》伊勢命神(Isemikoto no kami)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載について
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
隠岐の式内社〈16座〉(大4座・小12座) 現在の論社 22神社について
隠岐國の郡は 4つに別れていました
式内社16座は 現在 論社〈参考も含む〉が 22神社あります
・知夫郡 7座(大1座・小6座)
・海部郡 2座(大1座・小1座)
・周吉郡 4座(並小)
・穏地郡 3座(大2座・小1座)
計 16座
現在の隠岐郡(おきぐん)
昭和44年(1969年)4月1日 旧4郡(・周吉郡・穏地郡・海士郡・知夫郡)を合併して発足(3町4村)
平成16年(2004年)10月1日 西郷町・布施村・五箇村・都万村が合併して隠岐の島町が発足
旧4郡 と 現在の町村の関係
旧・周吉郡(1町1村) - 西郷町、布施村(現・隠岐の島町)
旧・穏地郡(2村) - 都万村、五箇村(現・隠岐の島町)
旧・知夫郡(1町1村) - 西ノ島町(現存)、知夫村(現存)
旧・海士郡(1町) - 海士町(現存)
・知夫(チフリノ)郡 7座(大1座・小6座)の論社
由良比女神社(貞・名神大・元名和多須神)(ゆらひめの かみのやしろ)(みょうじんだい)
・由良比女神社(隠岐の島前 西ノ島)
由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)は 伝説では由良比女命が海を渡る時 海に手をひたすと 美しき姿を見て「いか」が噛みついた その非礼をわびて 毎年 由良の浜に「いか」が群れで押し寄せると伝わります 当社が〈西ノ島の由良の浜に神社が遷座後〉もとの鎮座地 知夫里島の「いか浜」には「いか」は寄らなくなったと伝えられます
由良比女神社(隠岐の島前 西ノ島)〈隠岐国一之宮〉
大山神社(おほやまの かみのやしろ)
・大山神社(隠岐 西ノ島町美田)
大山神社(おおやまじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社です 島前(とうぜん)の西ノ島の最高峰である焼火山(たくひやま)の北麓 美田に鎮座します 焼火山(たくひやま)は 隠岐の島前カルデラを生み出した火山島の中央火口丘の名残りです 約600万年前に現在の島の原型が造り出されました 隠岐を創り出した源を神体山として祀る神社です
大山神社(隠岐 西ノ島町美田)
・大山神社(隠岐 知夫村仁夫)〈参考〉
大山神社(おおやまじんじゃ)は 島前(とうぜん)の知夫里島(ちぶりじま)に鎮座します 島前内航船(いそかぜ)に西ノ島の別府港から 電動自転車を借りて乗り込みます 隠岐の島前カルデラを20分ほどで渡り 知夫里島(ちぶりじま)来居港に到着 観光地の名勝「赤壁」方面に向かう途中に 仁夫地区があって その中の民家の裏側に鎮座しています
大山神社(隠岐 知夫村仁夫)
・焼火神社(隠岐 西ノ島町美田 焼火山)〈参考〉
焼火神社(たくひじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社の参考論社ですが むしろ式外社と考えられています 島前(とうぜん)の西ノ島の最高峰である焼火山(たくひやま)は 隠岐の島前カルデラを生み出した火山島の中央火口丘の名残りです 約600万年前に現在の島の原型が造り出されました 隠岐を創り出した源を神体として祀る神社です
焼火神社(隠岐 西ノ島町美田)
海神社 二座(あまの かみのやしろ ふたくら)
・渡津神社(隠岐 知夫里村 島津島)
渡津神社(わたつじんじゃ)は かつては「地触神 ちぶり神」「道路(海路)の神様」すなわち「道触の神:ミチブルのカミ」が祀られていました 渡津神社が鎮座する「知夫里」は 隠岐諸島のうちで 最も本土に近く 隠岐に渡航する門戸にあたり 古来 日本海の航行の船舶が必ず寄港する所でありました この神と渡津の海の様子は「紀貫之(きのつらゆき)」の『土佐日記』にも詠われています
渡津神社(隠岐 知夫里村 島津島)
・海神社(隠岐 西ノ島)
海神社(かいじんじゃ or うみじんじゃ)は 本殿背後に古墳もあり 古くからの社地と思われますが 創立年などは不詳です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載社とされていて 近世になって江戸時代には 別府村の「六社大明神(rokusha daimyojin)」と称されていました
海神社(隠岐 西ノ島)
比奈麻治比売命神社(ひなまちひめの かみのやしろ)
・比奈麻治比売命神社(隠岐 西ノ島町宇賀)
比奈麻治比売命神社(ひなまちひめのみことじんじゃ)は 旧鎮座地の西ノ島町の北東端の『済』という地から昭和3年(1928)に現在地に遷座します 六国史の『日本後紀』延暦18年(799)5月の條に 渤海国から我国の遣渤海使(ケンボッカイシ)らが 海を渡り帰国の途 海中の夜闇の中で迷うと 遠くに火光が見え これを目指して嶋の浜に無事に着く 暗夜の航海を火光で助けた比奈麻治比売命の霊験であると官社にして頂きたいと上奏が記されています
比奈麻治比賣命神社(隠岐 西ノ島町宇賀)
・比奈麻治比売命神社 旧地(隠岐 西ノ島町宇賀)
旧鎮座地の「済(スミ)」へは 陸路は山道4kmとありますが不明 海路からも磯から崖を上がるようです 島の人も知る人は僅からしく 御参拝は諦めました
比奈麻治比賣神社 旧跡地は 西ノ島町の北東端の『済』という地で 古代に日本海を航海した船を救う火光を放つ神〈灯台のような〉とされています 六国史の延暦18年(799)に 遣渤海使(ケンボッカイシ)らが帰途の折 夜闇の海原で迷うと 遠くに火光が見え お陰で 嶋の浜に無事に着きます これは比奈麻治比売命の霊験であると上奏し官社になったと記されています 昭和3年(1928)に祭祀ともに現在の鎮座地に遷座します
比奈麻治比賣神社 旧跡地(隠岐 西ノ島 済)
真気命神社(貞)(まけのみことの かみのやしろ)
・眞氣命神社(隠岐 西ノ島町宇賀)
眞氣命神社(まけのみことじんじゃ)は 隠岐 西ノ島の物井地区に鎮座する『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社とされます 江戸時代には所在不明とされていましたが 明治初期の式内社調査で比定されています 祭神の眞氣命については おそらく地主神であろうとされています
眞氣命神社(隠岐 西ノ島町宇賀)
天佐志比古命神社(貞)(あまさしひこのみことの かみのやしろ)
・天佐志比古命神社(隠岐 知夫村知夫)
天佐志比古命神社(あまさしひこみことじんじゃ)は 島前(とうぜん)の知夫里島(ちぶりじま)に鎮座します 島前では第一の神社とされ『続日本後紀(869)』承和15年(848)に天佐自比古神(アマサシヒコノカミ)従5位下と神階奉授の記録があり『延喜式神名帳(927年12月編纂)』に所載される由緒ある古社です
天佐志比古命神社(隠岐 知夫村知夫)
海部(アマヘノ)郡 2座(大1座・小1座)
奈伎良比売命神社(なきらひめのみことの かみのやしろ)
・奈伎良比賣神社(隠岐 海士町豊田)
奈伎良比賣神社(なぎらひめじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社とされています 柳井姫神社(やないひめじんじゃ)とも称されたとしていて この姫神2柱〈奈伎良比賣命・柳井姫命〉の伝承がそれぞれあります しかし この2柱の女神は 同神ともされていて 謎めいた祭神となっています
奈伎良比賣神社(隠岐 海士町豊田)
宇受加命神社(貞・名神大)(うけかのみことの かみのやしろ)(みょうじんだい)
・宇受賀命神社(隠岐 海士町宇受賀)
宇受賀命神社(うつかみことじんじゃ)は 中ノ島〈海士町〉に鎮座する『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の名神大社です 島内の伝説によれば 御祭神の宇受賀命は 隣島の西ノ島の大山神社の御祭神と 姫神〈西ノ島・宇賀地区の比奈麻治比賣命神社の御祭神 比奈麻治比賣(ヒナマチヒメノ)命〉との結婚をめぐって争い これに勝利した神と伝わります
宇受賀命神社(隠岐 海士町宇受賀)
周吉(スキノ)郡 4座(並小)
賀茂那備神社(かもなひの かみのやしろ)
・賀茂那備神社(隠岐 隠岐の島町加茂)
賀茂那備神社(かもなびじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の隠岐国 周吉郡「賀茂那備神社(かもなひの かみのやしろ)」です 鎮座地の加茂は 隠岐の島〈島後〉南部の深い入り江の奥にあり かつて本土との表玄関として栄えた場所で 別雷神(わけいかづちのかみ)が到着された港と伝わります
賀茂那備神社(隠岐 隠岐の島町加茂)
水祖神社(みおやの かみのやしろ)
・水祖神社(隠岐 隠岐の島町港町)
水祖神社(みずそじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社です 大昔 八尾川上流沿いにあった小さな祠が洪水で流れ着き これが合祀されている天満宮とのこと 隠岐の島町に住んでいる人の大半は この神社を天神さんと呼び慣れ親しんでいるようです
水祖神社(隠岐 隠岐の島町港町)
・水祖神社(隠岐 隠岐の島町城北町)
水祖神社(みおやじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社の参考論社とされています 洪水で当神社が流れて祀られたのが 八尾川の河口近く天神原に鎮座する水祖神社との伝承があり 或いは 当神社が天神原からの分祀であるとの説もあるようです
水祖神社(隠岐 隠岐の島町城北町)
玉若酢命神社(貞)(たまわかすのみことの かみのやしろ)
・玉若酢命神社(隠岐 隠岐の島町下西)
玉若酢命神社(たまわかすのみことじんじゃ)は 隠岐の開拓神とされている「玉若酢命」を祀る神社です 本殿は「隠岐造り」で 随神門 旧拝殿 ともに国指定重要文化財に指定されています 境内には「八百杉」と呼ぶ樹齢千数百年の杉の巨木が存在しています 隣接するのは社家である「億岐家住宅・宝物殿」には 国指定重要文化財の「駅鈴2個」と「億伎倉印1個」が保管されています
玉若酢命神社(隠岐の島後 隠岐の島)
和気能須命神社(貞)(わけのすのみことの かみのやしろ)
・和気能酢神社(隠岐 隠岐の島町下西)
和気能酢神社(わけのすじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社です 酒造りに関連した神社のようで『隠州神名帳(Onshu Shinmeicho)』〈貞観5年(863)国内神名帳〉には 従1位 和氣能酒大明神とあり 松尾神社(まつのおさん)とも呼ばれていました
和気能酢神社(隠岐 隠岐の島町下西)
穏地(ヲチノ)郡 3座(大2座・小1座)
天健金草神社(あまたけかなくさの かみのやしろ)
・幣之池神社〈天健金草神社の元宮〉
幣之池神社(しでのいけじんじゃ) は 『延喜式神名帳』所載社の「天健金草神社(amatake kanakaya shrine)」の元宮とされています 御祭神の「抓津媛命(tsumatsuhime no mikoto)」は 佐山の湧泉「幣(shide)の池」のほとりに居を構えたと云われ 清冽な水源地に祠が鎮座する古社です
幣之池神社(隠岐の島町 都万)
・天健金草神社
天健金草神社(あまたけかなかやじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載されている古社です 伝説によれば 延喜6年(906年)には「台風をおこして新羅の船を退けた」と伝え また第96代 後醍醐天皇が 隠岐在島中に使いを立てて還幸を祈願したところ 脱出がかなったといわれる由緒ある神社です
天健金草神社(隠岐の島町 都万)
水若酢命神社(貞・名神大)(みなわかすのみことの かみのやしろ)(みょうじんだい)
・水若酢命神社の前宮
捧羽山神社(ぼうばさんじんじゃ) は 水若酢神社(隠岐の島後 一之宮)の元宮が鎮座していた所で 水若酢神社神社の由緒によれば「御祭神 水若酢命は 海中より伊後の磯島に上られ 山を越えてこの里に入られ・・」とあり
捧羽山神社 & 伊後神社(隠岐の島町伊後)
ここに記される 山(田畑の中の小丘)を捧羽山(hoba san)と呼び 現在ここに 捧羽山神社が鎮座します
・水若酢命神社
水若酢神社(みずわかすじんじゃ)は 創建は 第10代崇神天皇の時代と云われ 隠岐国の一之宮 隠岐の島町(島後)の五箇地区に鎮座し 老いた黒松の生える境内が美しい古社です 御祭神の水若酢命(mizuwakasu no mikoto)は 隠岐国の国土開発と日本海鎮護の神であったと伝承されています
水若酢神社(隠岐の島後 隠岐の島)
伊勢命神社(貞・名神大)(いせのみことの かみのやしろ)(みょうじんだい)
・伊勢命神社(隠岐 隠岐の島町久見)
伊勢命神社(いせみことじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の名神大社です 正史の『続日本後紀』嘉祥元年(846)の条には「伊勢命神 しばしば霊験あるにより 明神の列に預かる」と その御神威を記しています 鎮座地の久見(クミ)地区は 太古から栄えた地で 西日本最大の黒耀石の産地でもありました 本殿は隠岐造りの三間社です
伊勢命神社(隠岐 隠岐の島町久見)
隠岐の式内社〈16座〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
※隠岐には その他にも式外社もあり 神々の島とされるだけに沢山の神社があります
発行元 隠岐ユネスコ 世界ジオパーク推進協議会 発行の地図が参拝に役立つと思います
隠岐 島前 島後 神社_map
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『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂されました 当時の「全国の官社」(祈年祭(毎年2月)に神祇官から幣帛を受ける神社)の一覧表が所載されています このページは「山陰道」に鎮座する(560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523)神社の一覧表です
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