大国玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 近世には御薗神社と称し近郷の氏神として人々の崇敬を集めていました 明治以降 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)とする説が有力視され 明治16年(1883)社名を御薗神社より大國玉神社に変更しています
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大國玉神社(Ohokunitama shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県松阪市六根町879
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大國御魂神(おほくにみたまのかみ)
《配》大土御祖神(おほつちのみおやのかみ)
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)
早玉男命(はやたまのをのみこと)
須佐之男命(すさのをのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
大国玉神社
由 緒
近世には御薗神社と称し近郷の氏神として人々の崇敬を集めていた。御巫清直『伊勢式内神社検録』をはじめとする諸書に、伊勢国多気郡の式内大國玉神社を当社にあてる説があり、この説が次第に浸透してゆき明治維新以後、この考えが定着したようである。
また、当社鎮座地の六根村は、古くより神宮へ若菜を供する所と伝えられ、『神鳳鈔』に見える若菜御薗(御厨)の地に比定されており、古い時代より、この地に祀られていたことは想像に難くない。 明治16年(1883)には、社名を御薗神社より大國玉神社に変更した。
同42年(1909)井口中の須賀神社・中河原の仲神社、腹太の宇留布津神社、保津の天香山神社、新開の室垣不知元神社、魚見の魚見神社、川島の魚海神社、東久保の宇気比神社をそれぞれ合祀した。 その後、昭和10年(1935)先に合祀した須賀神社他八社を氏子崇敬者の熱意により旧社地に分祀した。昭和62年(1987)8月12日大國玉神社に合併し、境内神社(八社)創立を承認される。
2012 - 2022 三重県神社庁教化委員会公式HPより
http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/%E5%A4%A7%E5%9C%8B%E7%8E%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE/
【由 緒 (History)】
『飯南郡史』に記される内容
【抜粋意訳】
第五章 社寺遍 第二項 神祠
卅五、村社 大國玉神社
六根字宮ノ垣内八百七十九番地の鎭座なり、大國御魂神を祭る、延喜式内社なり、往古は今の東方清淨山大福寺の境内も共に本社の社地なりしを中世以降現今の地のみを城内とせり、明治六年社寺御改めに際し御園神社と改稱し同年七月村社に列せらる
明治十六年十二月延喜式内帳によりて大國玉神社と改稱せり、明治四十一年一月と翌年二月とに左の諸社を合祀の上同じく大國玉神社と稱せり
・大國玉神社境内社跡
御蘭神社 大土御祖神、市杵島神社 祭神 市杵島姫命、菅原神社 祭神 菅原道真の三神あり、明治四十年十月廿四日本殿へ合祀の許可を得て同四十一年一月廿七日合祀祭を執行せり
・神田神社跡
六根字大久保にあり、早玉男命を祭る、前項に同じく合祀
・須賀神社跡
六根字宮の内にあり、須佐之男命を祭る、同前
・須神社跡及須賀神社路(三)
須神社は井口中字井手里、須賀神社は保津字藪の下と魚見字一ノ堰と川島字古屋敷とにあり、共に須佐之男命を祭る、明治三十一年二月九日官許を得て川島魚見神社へ合祀せり
・魚見神社跡
川島字鹽角にあり、豊玉比古命、豊玉比賣命、月讀荒魂命を祭る、延喜式内神社なり、倭姫命世記曰、垂仁天皇二十二年櫛田定賜支從其處志天御船乘給天幸行其河後江爾到座于時魚自然集出天御船參來支爾時倭姫命見悅賜氏其處魚見社定賜云々とあり、之即ち當社なり、
明治三十一年二月前項の須賀神社を境内に合祀せしが延て同四十年十月大國玉神社へ合祀の許可を得て同四十二年二月二日合祀祭を執行せり
・仲神社跡
井口中字中ノ里にあり、豊城入彥命を祭る、明治四十二年二月前項の如く合祀さる
・宇留布津神社跡
腹太字里にあり、填安姫命を祭る、同前
・佐々木神社跡
同宮の西にあり、大綿津見命を祭る、同前
・天香山神社跡
保津籔の下にあり、元は八柱神のみを祀り宇氣比神社と稱せしを明治三十六年一月九日同字にある延喜式内神社、天香山神社 祭神 高崎比賣命を合祀の上 天香山神社と單稱する許可を得て同月廿四日合祀祭を執行したるが後 明治四十二年前項の如く再び合祀さる
・宇氣比神社跡
魚見字川原にあり、天忍穂耳命を祭る、前項の如く合祀さる
・不知元神社跡
川島字奥垣内にあり、以下如前
・室垣神社跡
魚見字下起にあり。以下如前
を執行せり
・秋葉神社跡
魚見字一ノ堰にあり、火之迦具土命を祭る、前項に同じく合祀さる、境内に八幡宮あり、本殿に同じ
・山神社跡(二)
井口中字中ノ里、魚見字上起にあり、共に大山祇命を祭る、前の如く合祀
【原文参照】
中林正三 編『飯南郡史』,飯南ト人材編纂会,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/955842
中林正三 編『飯南郡史』,飯南ト人材編纂会,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/955842
中林正三 編『飯南郡史』,飯南ト人材編纂会,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/955842
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・境内神社(八社)
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明治42年(1909)井口中の須賀神社・中河原の仲神社、腹太の宇留布津神社、保津の天香山神社、新開の室垣不知元神社、魚見の魚見神社、川島の魚海神社、東久保の宇気比神社をそれぞれ合祀した
その後 昭和10年(1935)先に合祀した須賀神社他八社を氏子崇敬者の熱意により旧社地に分祀した。
昭和62年(1987)8月12日大國玉神社に合併し、境内神社(八社)創立を承認される。
・須賀神社《主》須佐之男命,大山祇神
・仲神社《主》豊城入彦命,須佐之男命
・宇留布津神社《主》埴安姫命,大綿津見命
・天香山神社《主》八柱命,須佐之男命,伊邪那岐命,《配》高嵜姫
・室垣不知元神社《主》天之忍穂耳命
・魚見神社《主》天之忍穂耳命,《配》須佐之男命,火之迦具土命,応神天皇,大山津見命
・魚海神社《主》豊玉彦命,《配》豊玉姫命,月読荒魂命,天之忍穂耳命,須佐之男命
・宇氣比神社《主》天之忍穂耳命
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・合祀の後 旧社地に分祀された8社〈内5社は式内論社です〉
昭和10年(1935)合祀した須賀神社他八社を氏子崇敬者の熱意により旧社地に分祀されています
・須賀神社(松阪市井口中町)
・室垣不知元神社(松阪市新開町)
・宇氣比神社 (松阪市東久保町)
・仲神社(松阪市井口中町)
〈式内社〉仲神社(なかの かみのやしろ)の論社
・魚見神社(松阪市魚見町)
〈式内社〉魚海神社二座(いをうみの かみのやしろ ふたくら)の論社
魚見神社(うおみじんじゃ)は 『倭姫世記』によれば 倭姫命が天照大神を奉じ櫛田社を定めて 御船に乗り 櫛田川の河口に至った時 魚が自然に集り御船に飛びこんできたのを見て喜ばれので その所に魚見社を定められたと云う 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 魚海神社二座(いをうみの かみのやしろ ふたくら)とされます
魚見神社(松阪市魚見町)〈『延喜式』魚海神社 二座〉
・魚海神社(松阪市川島町)
〈式内社〉魚海神社二座(いをうみの かみのやしろ ふたくら)の論社
・宇留布津神社(松阪市腹太町)
〈式内社〉宇留布都神社(ふるふつの かみのやしろ)の論社
・天香山神社(松阪市保津町)
〈式内社〉天香山神社(あまのかぐやまの かみのやしろ)の論社
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大國玉神社
[ふ り が な ](おほくにたまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohokunitama no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
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゛國魂〈国玉〉神(くにたまのかみ)゛を祀ると想われる゛延喜式内社゛について
・國魂神・国靈神・国玉神とも書く
古代の日本人は 国土には それぞれ神威〈靈威〉が内在していて その神威〈靈威〉の盛衰が国の興亡をも左右する 國を治める神靈゛国魂(くにたま)゛であると考えており 国魂の霊威は 国土そのものの神霊を云う爲 国の支配権にも結び付いた信仰の形態となっていったと云う
延喜式内社 山城國 久世郡 水主神社十座(並 大 月次 新嘗・就中同 水主坐天照御魂神 水主坐山背大国魂命神 二座預相嘗祭)(みぬしの かみのやしろ)
・水主神社(城陽市水主宮馬場)
延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社 三座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(おほやまとにます おほくにたまの かみのやしろ みくら)
・大和神社(天理市新泉町)
大和神社(おほやまとじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)です 創建は 第十代崇神天皇の御代 宮中内に天皇と同殿共床で奉斎の二大神(天照大神・大地主大神)の神威を畏れた爲 大地主大神を皇女 淳名城入姫命に勅し 市磯邑に移されたのが始りと伝わります
大和神社(天理市新泉町)〈大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)〉
延喜式内社 和泉國 日根郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)
・國玉神社(泉南郡岬町深日)
延喜式内社 攝津國 東生郡 難破坐生國咲國魂神社二座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(なにはにいます いくくにさき くにたまの かみのやしろ ふたくら)
・生國魂神社(大阪市天王寺区生玉町)
延喜式内社 攝津國 莵原郡 河内國魂神社(寛大延・鍬靫)(かわちくたまの かみのやしろ)
・河内國魂神社(神戸市灘区国玉通)
・綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)
延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)
・堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
堅田神社(かただじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 垂仁天皇25年(BC5)二見の地に巡幸された倭姫命に 佐見都日女命(さみつひめのみこと〈地主神〉)は 黙して堅塩(かたしお)を奉った これを祝して倭姫命は当地に堅田神社を定めたと創建伝説に云う 二つの式内社〈①大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)②榎村神社(えむらの かみのやしろ)〉の論社となっています
堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
・宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
宇治山田神社(うじようだじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)の論社となっています 御同座に 那自賣神社(なじめじんじゃ)〈内宮 末社〉が祀られ 2社ともに 倭姫命が定めた神社であるとされています
宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 那自賣神社〈内宮 末社〉)
延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會國御神社(わたらひの くにみかみの やしろ)
・度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
度会国御神社(わたらい くにみ じんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)宮域内に鎮座する摂社です しかし かつての鎭座地は宮域外とされ『度會元長の内外宮諸社記』に 室町時代の文明(1469~1487)の頃までは 豊受大神宮の神域より堀を隔てた所〈現在の山田工作場の辺り〉と記載があり その後頽廃して社地を失い 正保二年(1645)に禰宜 常晨が その位置に再興したが 古今その旧社地には諸説があり定まっていません
度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會乃大國玉比賣神社(わたらひの をほくにたまひめの かみのやしろ)
・度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
度會大國玉比賣神社(わたらいおほくにたまひめじんじゃ)は 神武天皇の御代 伊勢国造の祖・天日別命(あめのひわけのみこと)が伊勢の國覓(くにまぎ)〈平定〉の時 地主神に梓弓を以て橋と為して出迎えられ 歓んで゛刀自に度り會ひぬ゛と云い度會の名を為したという故事を持つ古社で 中世時代にも頽廃せずに祭祀が継続されていた神社であったと伝わる 豊受大神宮(外宮)摂社です
度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
延喜式内社 伊勢國 多氣郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)
・大国玉神社(松阪市六根町)
大国玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 近世には御薗神社と称し近郷の氏神として人々の崇敬を集めていました 明治以降 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)とする説が有力視され 明治16年(1883)社名を御薗神社より大國玉神社に変更しています
大國玉神社(松阪市六根町)〈『延喜式』大國玉神社〉
延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)
・国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町大字万場字郷中)
・津島神社(津島市神明)〈全国天王総本社〉
・居森社(津島市神明)
〈津島神社の境内 弥五郎殿の旧鎮座地〉
・彌五郎社(津島市神明)
〈津島神社の境内〉
延喜式内社 尾張國 中嶋郡 尾張大國霊神社(貞)(をはりおほくにたまの かみのやしろ)
・尾張大國霊神社(国府宮)
尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)は 尾張地方の総鎮守神 農商業守護神 厄除神として広く信仰される神社です 奈良時代に国衛(こくが)に隣接して御鎮座していたので尾張国の総社と定められ 国司 自らが祭祀を執り行っていたので 一般には「国府宮神社」「国府宮」と呼ばれるようになり 通称「国府宮」として広く知られます
尾張大國霊神社(稲沢市国府宮)〈尾張国総社〉
延喜式内社 遠江國 磐田郡 淡海国玉神社(あはうみの くにたまの かみのやしろ)
・淡海國玉神社(磐田市見付)〈遠江總社〉
淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)は 延喜式内社 遠江國 磐田郡 淡海國玉神社(あはうみの くにたまの かみのやしろ)とされます 見附は國府であり 遠江国総社でした 一説には『三代實録』貞観七年五月八日の条にある゛淡海石井ノ神゛であると云い 見付の南に今浦と云う湖があった地から遷座したと伝わります
〈遠江国総社〉淡海國玉神社(磐田市見付)〈『延喜式』淡海國玉神社〉
延喜式内社 常陸國 眞壁郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)
・大國玉神社(桜川市大国玉)
大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝によれば養老年間(717~724年)の創立とされます 『続日本後紀』承和4年(837)3月の条に゛霊感甚だ大であるため 官社に預かる・同12年の条に゛従五位下を授く゛と記され 『延喜式』常陸國 眞壁郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)と載る由緒ある古社です
大國玉神社(桜川市大国玉)〈『續日本後紀』大國玉ノ神『延喜式』大國玉神社〉
延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくに かみのやしろ)
・大國神社(伊勢崎市境下渕名)
大國神社(おおくにじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御宇 朝廷から派遣された百済車臨が 御手洗池で手を洗う大国主命の化身である白頭翁と出会い大干魃(かんばつ)から救われた伝説により創建された その後 丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷合祀して五護宮・五后宮・第五姫大明神とも称した 延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくにかみのやしろ)とされます
大國神社(伊勢崎市境下渕名)
延喜式内社 陸奥國 磐城郡 大國魂神社(をほくにたま かみのやしろ)
・大國魂神社(いわき市平菅波宮前)
大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は 建許呂命(こたけころおのみこと)〈養老2年(718)石城国造に任命〉 の一族によって奉斎されたと云う 延曆年間(782~806)坂上田村磨の蝦夷征伐で 賊の平定にご神威があり 大社を築造して報賽したと伝わる 延喜式内社 陸奥國 磐城郡 大國魂神社(をほくにたまの かみのやしろ)です
大國魂神社(いわき市平菅波宮前)〈『延喜式』大國魂神社〉
延喜式内社 能登國 能登郡 能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこの かみのやしろ)
・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)
能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています
能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮
・能登生國玉比古神社(中能登町)
能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神 多気倉長命(タケクラナガノミコト)は 神代の昔 能登国に巡行された・大己貴命・ 少彦名命の2柱の神と協力して 国土を平定されたので「能登の国魂の神」と仰がれています 又 その姫神〈娘〉の伊豆目比売命(イズメヒメノミコト)は 少彦名命の妃(ヒ)となって 金丸村 村主の遠祖である菅根彦命を生み給わった伝えられていて 現在の神主家 梶井氏は その裔(エイ)とされます
能登生國玉比古神社(中能登町金丸)能登の国魂の神「多気倉長命」を祀ります
・能登部神社(中能登町)
能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります
能登部神社(中能登町能登部上)
延喜式内社 出雲國 出雲郡 杵築大社〈名神大〉(きつきの おおやしろ)
・出雲大社〈大国主神を祀る〉
出雲大社(いずも おおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(あまつかみ)」が 天日隅宮(あめのひすみのみや)を献上されたことに始まるとされています
出雲大社(出雲市)【前編】
延喜式内社 淡路国 三原郡 大和大國魂神社(貞・名神大)(やまとのおほくにたまの かみのやしろ)
・大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)
大和大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)は 文武天皇が慶雲元年(704)諸国印及諸社に下し賜われた゛銅印゛が今も存し『日本文徳天皇實録』仁寿元年(851)に官社に列したとあり 延喜式には淡路國 三原郡 大和大國魂神社(貞・名神大)(やまとの おほくにたまの かみのやしろ)゛と記される由緒ある古社です
大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)〈淡路國二之宮〉
延喜式内社 阿波國 美馬郡 倭大國玉神 大國敷神社二座(やまとおほくにたまのかみ おほくにしきかみの やしろ ふたくら)
・医家神社(三好市池田町)
医家神社(いけじんじゃ)は 兵火により 社伝・記録等を全て焼失の為 創建等不詳です 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 阿波國 美馬郡 倭大國玉神大國敷神社 二座(やまとおほくにたまのかみおほくにしきのかみのやしろ ふたくら)の論社となっています
醫家神社(三好市池田町マチ)〈式内社 倭大國玉神大國敷神社 二座の論社〉
・磐坂神社(三好市池田町シンヤマ)
〈医家神社 旧鎮座地〉
磐坂神社(いわさかじんじゃ)は 医家神社(三好市池田町)の旧鎮座地であると伝わります 従って『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 阿波國 美馬郡 倭大國玉神大國敷神社 二座(やまとおほくにたまのかみおほくにしきのかみのやしろ ふたくら)の旧鎮座地の論社となっています
磐坂神社〈医家神社 旧鎮座地〉(三好市池田町シンヤマ)
・倭大國魂神社(美馬市美馬町字東宮ノ上)
・倭大國敷神社(美馬市脇町拝原)
延喜式内社 壹岐嶋 石田郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)
・大國玉神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)
大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁二年(811)草創と伝わり 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉で 式内社 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)と比定されました それ以前は 田原天神(たいばるてんじん)と称されていました
大國玉神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)
・兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)
兵主神社(ひょうすじんじゃ)は 元々は日吉山王と称し奉っていましたが 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉によって 聖母神社〈現 聖母宮〉を日吉山王権現と査定し 現 兵主神社を聖母神社と査定して 式内社 壱岐郡 兵主神社 名神大と比定されました 其の後この処置が誤りであると藩も認め 聖母宮は元に戻りましたが 兵主神社はそのままと据え置かれています
兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)
延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 島大國魂神社(しまおおくにたまの かみのやしろ)
・嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります
嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
・島大國魂神社(対馬 豊)
島大國魂神社は かつて 上対馬 豊(豊漁港)の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していました〈旧 鎮座地〉 この白水山に続く海岸沿いは 不通浜(トオラズガハマ)と呼ばれて 神聖ゆえに近づくことすら許されず 禁足地としての掟が厳しく 立ち入ると大風が吹く 腹痛に見舞われる 災害が起きる さらに 白水山には老人が住んでおり そこで見聞きしたことを他言すると死んでしまう という伝承もあります 決して近づいてはならない神域です 下の写真は望遠にて撮影
島大國魂神社(対馬 豊 白水山)〈旧 鎮座地〉
・那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社(三社合祀)
那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉は もともとは 豊(トヨ)の村人たちが 豊漁港の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していた「島大国魂(シマオオクニタマ)神社の遥拝所」としていた処であったとされます ここに 旧 藩政時代 国主により「那祖師(ナソシ)神社」が建立されます やがて 島大国魂神社と 北東にあるナンガ浦〈豊と泉の中間辺り〉に鎮座する若宮(ワカミヤ)神社も合わせ 豊(トヨ)に鎮座する3社が合祀されて 現在に至ります
那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉
・島大國魂神社(対馬 御岳)
島大國魂神社(しまおおくにたま じんじゃ)は 御岳(ミタケ)の山頂に磐座(イワクラ)があり かつては禁足地でした 山岳信仰〈修験道〉の霊場とされ た対馬北部の上県町「御岳(ミタケ)」は ・雄岳・雌岳・平岳が連なり 御岳と呼ばれます 対馬南部の「白嶽(シラタケ)」と並んで古くから知られた修験道の聖地です
島大國魂神社(対馬 御岳)
延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 島大国魂神御子神社(貞)(しまおほくにたまのかみの みこの かみの やしろ)
・嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります
嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
・島御子神社(対馬 曽)
島御子神社(しまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳〈927年〉』所載の「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の論社ともなっています 六国史の記録としては『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に「嶋御子神(シマミコノカミ)従5位上」と 對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに記されていて 対馬でも有数の由緒を持つ古社です
島御子神社(対馬 曽)
・国本神社(対馬 瀬田)
国本神社(くにもとじんじゃ)は まさしく神社名に相応しい 対馬の国本の神を祀る古社です 六国史『日本三代実録』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条には「国本神(クニモトノカミ)」として記されています 御祭神は『古事記』によれば 日本創成を語る「国生みの段」に 6番目に津島〈対馬〉が生まれていて その別名を「天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)」であると記されています この神が対馬国の大本であるとわかります
國本神社(対馬 瀬田)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄山田線 漕代駅から北上約3.4km 車で6分程度
社号標には゛式内 大國玉神社゛と刻字されています
大國玉神社(松阪市六根町)に参着
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一礼をして3連の鳥居をくぐり抜けます
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すると 参道は直角に折れていて 社殿は西を向いて建ち 改めて西を向く鳥居が建ちます この鳥居をに再度一礼をしてから くぐり抜けます
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鳥居を抜けると 向かって左手には 境内神社(八社)が祀られていて お祈りをします
明治42年(1909)井口中の須賀神社・中河原の仲神社、腹太の宇留布津神社、保津の天香山神社、新開の室垣不知元神社、魚見の魚見神社、川島の魚海神社、東久保の宇気比神社をそれぞれ合祀されたものです
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拝殿にすすみます
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 大國玉神社について 所在は゛在所詳ならず゛〈不明〉と記しています
【抜粋意訳】
大國玉神社
大國玉は於保久爾多麻と訓べし
〇祭神 明か也
〇在所詳ならず
類社
常陸國眞壁郡、壹岐國石田郡 大國玉神社、(各一座)陸奥國磐城郡 大國魂神社、〔連胤〕按るに、此四社は其國名を冠らさねば、必大己貴命なるべし、猶大和國山邊郡大和坐大國魂神社の條見合すべし、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 大國玉神社について 所在は゛今 飯野郡 六根村にあり、゛〈現 大國玉神社(松阪市六根町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大國玉(オホクニタマノ)神社
今 飯野郡 六根村にあり、〔式内社検録引社預 森田氏所蔵 古社神名帳 〇按 検録に、六根は蓋國魂の訛音にやといへり、盖 國生神の兒、大國玉命を祭る、延喜式〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495
栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 大國玉神社について 所在は゛三重縣飯野郡(飯南郡機殿村大字六根村)゛〈現 大國玉神社(松阪市六根町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大國玉神社
祭神 大國玉神
祭日
社格 村社所在 三重縣飯野郡(飯南郡機殿村大字六根村)
今按 檢錄に社預 森田氏所藏 古社神名帳に六根村大國玉社と記せり 六根は國魂の訛音にや社束の寺を清淨山大福寺と云ふ 其山號は六根清淨祓により寺號は大國を大黑天に混して福神とする俗習に出たるも又一讃に備ふべしと云へり
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
大國玉神社(松阪市六根町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について